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「本のない家庭」で育った、ポール・オースター...ジャンルを超越し、人間を見つめた「文学の天才」の人生とは?

ニューズウィーク日本版 2024年6月7日 14時50分

ルシル・ハリソン(英ハル大学人文学部研究員)
<卓越した物語で読者を魅了した米現代文学の巨匠ポール・オースター。その知性と革新に満ちた、偉大な足跡を振り返る>

4月30日に77歳で死去したポール・オースターは、1950年代のニュージャージー州の「本のない家庭」で育った。人間の行動や変化する世界の複雑性にこだわるオースター流の視点を養ったのは、そんな世界だ。

文学に情熱を傾け、書くことに魅了されていた「ニューヨークのユダヤ人青年」時代には、コロンビア大学で英文学を学んだ。

「ニューヨーク三部作」を発表し、文学シーンに根を下ろしたのは80年代。実存主義や不安というレンズを通じて、ハードボイルド小説と力みのないポストモダン文学の形式を巧みに融合した超ジャンル的な作品群だ。

「三部作」を構成する『ガラスの街』(邦訳・新潮社)、『幽霊たち』(同)、『鍵のかかった部屋』(邦訳・白水社)は見事に入り組んだプロット、謎めいた登場人物、言語やアイデンティティーをめぐる哲学的思索によって読者の心を奪う。物語を紡ぐ卓越した才能で国際的評価を得た作家は、文学の天才と呼ばれた。

オースターと作品の登場人物との関係は特別だ。自らの創造物に対し、本人は父親のような愛情を語っている。

「小説家は人形使いではない。登場人物を操ることはしない。......小説を書く上で最も必要なのは、登場人物が語ることに耳を傾け、しないはずのことをさせようとはしないこと。決定権は彼らにある」

筆者が文学を志したのは、「ニューヨーク三部作」を初めて読んだときだ。偶然と巡り合わせ、事実とフィクションをめぐる前例のない探求、作者と語り手と登場人物の境目を曖昧にする革新的技法が刺激的だった。

並外れた洗練、ジャンルの革新、観察者として歩く「都会の彷徨者」の具現化──現実を疑問視しようという実存主義的な誘いを隠し、運命が形作る人生の在り方を反映する多層的なプロットには、その全てが織り込まれている。

監督作『ルル・オン・ザ・ブリッジ』の撮影現場 MOVIESTORE COLLECTION/AFLO

2人称の回想録の意味

多才ぶりと知性を示すように、小説だけでなく、数多くのエッセーや回想録も執筆した。詳細に描写された映画のような著作は、スクリーンでも豊かな物語として結実した。

映画監督になりたかった若い頃の夢をかなえる機会も得た。ニューヨーク・タイムズ紙に書き下ろしたクリスマス物語が原作になったウェイン・ワン監督の『スモーク』(95年)で脚本を担当し、続編『ブルー・イン・ザ・フェイス』(同)では共同監督を務めた。98年には、初の単独監督作『ルル・オン・ザ・ブリッジ』を手がけている。

一方で自伝的な作品では、悲しみや父親であることや年月の経過について、胸を打つ考察をしている。82年に刊行したオースター名義のデビュー小説『孤独の発明』、2012年と13年に発表した回想録『冬の日誌』と『内面からの報告書』(以上3作は邦訳・新潮社)がそうだ。

文学作品では珍しく、2人称で書かれた回想録のぎこちない視点は、違和感なく読むという体験を巧妙に拒絶する。これも「居心地悪く」生きる方法を説くオースター流の教えの実例だ。

鮮やかに表現された身ぶり、ウイットや知性、実存的不安を特徴とする独特の語り口は見事かつ普遍的に心に響き、読者をとりこにする。その魅力はポピュラー文化に浸透し、新たな世代の作家やアーティストを刺激し続けている。

素晴らしいグラフィックノベル版が登場した「ニューヨーク三部作」は、スウェーデン人作家イア・ゲンベリの小説『ディテールズ』でも触れられている。

今年の英ブッカー国際賞最終候補作に選ばれたこの小説は、オースター作品の読書体験を完璧に表現している。

「読むことと書くことの両方で、オースターは私の羅針盤になった。彼のことを忘れた後も......。ある種の本は、題名や詳細が記憶から消え去った後もずっと骨にとどまる」

『ニューヨーク三部作』は次世代にも大きな影響 FABER & FABER

言語の無限の可能性

オースターの小説『4321』がブッカー賞候補になったのは17年。それまでにも『幻影の書』や『インヴィジブル』『サンセット・パーク』(以上3作は邦訳・新潮社)など、優れたベストセラー小説を世に送り出していた。書き終えるのに3年以上をかけた『4321』は、7年ぶりに発表した作品だった。

オースターの晩年は悲劇的だった。孫を亡くし、44歳だった息子のダニエルも失った。

新型コロナのパンデミック中は、ブルックリンの自宅に籠もったが、執筆はやめなかった。東欧を旅した体験をつづる芸術的なエッセーでは、ウクライナの民間伝承「スタニスラウの狼」について探り、コロナウイルスを寓意的に語った。

23年3月、オースターが肺癌であることを、妻のシリ・ハストベットが発表した。最後の小説となった『バウムガートナー』(23年)を執筆中の出来事だった。

愛や老い、喪失を優しく見据える同書では、71歳の主人公が、亡くなったばかりの妻アンナ・ブルーム(87年刊行の小説『最後の物たちの国で』〔邦訳・白水社〕の語り手だった女性だ)の死と向き合うさまを描いている。

オースターが残したものは、小説のページの上や映画のフレームの中にとどまらない。現代文学に消えることのない足跡をしるした作家は、アートと文学の境界を乗り越え、ジャンルの枠組みに抵抗した。

偶然と運命が交差し、謎が解き明かされ、アイデンティティーが曖昧になる迷宮のような物語──。比類のない語りの才能を持ったオースターの文学的遺言は、想像の力、人間の体験を捉える特別な能力、言語の無限の可能性を後世に残した。

Lucyl Harrison, PhD Candidate, School of Humanities, University of Hull

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.

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