<万葉仮名とは、漢字によって日本語を必死になって文字化したものなのだろうか。日本語の文字を再考する>
古代の中国から伝わった漢字は、日本語の話し言葉と書き言葉に影響を与え続けてきた...。
『万葉集』から近代まで、漢字に光をあてて歴史をたどり、日本語を再発見。今野真二著『日本語と漢字──正書法がないことばの歴史』(岩波新書)の第1章「すべては万葉集にあり」より一部抜粋。
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現在私たちは、漢字と仮名(場合によってはラテン文字)とによって日本語を文字化している。
それに慣れている現代日本語母語話者は、漢字だけで日本語を文字化するというと、「そんなことができるのか」とか「大変そうだな」と思う。しかしそれは、漢字と仮名とを使っているから、そう感じるにすぎない。
東海道本線が開通すれば、東海道を歩いて行き来していた頃は「大変だっただろうな」と思う。しかし東海道新幹線が開通すれば、東海道本線は「時間がかかる」ということになる。
新しいものを獲得した時点で、獲得していない時点を想像すれば、「大変そうだな」ということになる。それはいわば「感想」のようなものといってもよい。
『万葉集』をめぐって、日本語を漢字によって必死になって文字化しようとしていた、日本語を漢字によって文字化するために試行錯誤していた、というようなことが言われることが少なくない。
しかし、そうではなかったことは漢字で文字化された『万葉集』を、よみくだした「本文」と対照しながらよんでみれば、すぐにわかるのではないだろうか。
漢字から仮名がうみだされたのは、9世紀末頃と推測されている。それは『万葉集』が成った8世紀から250年ほど後にあたる。
漢字は朝鮮半島においても使われていた。というよりも、朝鮮半島を経由して「漢字文化」は日本にもたらされた。
朝鮮半島の言語も日本語も、最初に出会った文字は漢字であった。李氏朝鮮第4代国王の世宗(セジョン)が訓民正音、現在のハングルを公布したのが1443年、15世紀のことになる。
このことをもって、日本においては短期間に漢字から仮名をうみだした、とみるむきがある。
しかしおそらくそういうことではなく、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が成った8世紀の時点では、「漢字によって日本語を文字化する」ということが1つの到達をみていたために、そこから仮名の発生まであまり時間がかからなかったということではないだろうか。
仮名のようなものが必要であるという「日本語内部での圧力=内圧」がたかまっていた、といってもよいだろう。
漢字によって日本語を文字化することに関しての試行錯誤があったとすれば、それは『万葉集』が成る前の250年間がそうした時期なのであろう。その試行錯誤の跡を窺わせる文献は存在していない。
「元暦校本万葉集」出典:ColBase
また、漢字によって日本語を文字化するということを話題にするにあたって、「文字社会」の広狭が考慮にはいっていないことが少なくない。
現在は文字を読み書きできる人の数が多い。つまり「文字社会」が広い。しかし、8世紀頃、文字を読み書きできる人は相当に限定的であったと思われる。
中国語、漢字についての知識、理解がなければ漢字によって日本語を文字化することはできない。
中国語を母語として日本語が理解できる人、日本語を母語として中国語がかなり、あるいはある程度理解できる人が、漢字を使って日本語を文字化できる人であっただろう。
「日本語を文字化する」ということの中心(センター)に漢字があった。そして後に述べるように、漢文訓読が日本語の「かきことば」の発生に深くかかわっていた。
そうであるならば、漢字は日本語を文字化するための文字であることを超えて、日本語に深くかかわりをもった存在であったことになる。
そう考えると、仮名がうまれたからといって漢字を捨てなかったことは、むしろ当然といってよい。
8世紀の時点ですでに漢字は日本語とともにあり、その頃から漢字とともに日本語の歴史が動き出したといえるだろう。
今野真二(Shinji Konno)
1958年神奈川県生まれ。早稲田大学大学院博士課程後期退学。高知大学助教授を経て、現職。専門は日本語学。著書に『仮名表記論攷』(清文堂出版,第30回金田一京助博士記念賞受賞)『日本語の考古学』『『広辞苑』をよむ』(ともに岩波新書)、『辞書からみた日本語の歴史』(ちくまプリマー新書)、『辞書をよむ』(平凡社新書)、『日本語の教養100』(河出新書)など多数。
『日本語と漢字──正書法がないことばの歴史』
今野真二[著]
岩波新書[著]
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