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売り上げ重視の出版業界と、作法が厳しい学問の世界は、どちらが「自由」なのか?

ニューズウィーク日本版 2024年6月19日 11時0分

河合香織 (ノンフィクション作家) アステイオン
<ノンフィクション作家としてジャーナリズムの世界からアカデミズムの世界に飛び込んで感じたこと。いまジャーナリズムとアカデミズムの融合を目指すべき理由について『アステイオン』100号より「自由な知的ジャーナリズムの探求」を転載> 

2020年からコロナに関する専門家の取材を続けてきた。その中で実感したのが、専門知の言葉を伝えることの難しさだ。

様々なデータと科学的意義を説明してきた専門家自身も、一部を切り取って伝えるメディアとの齟齬を感じることがあったようだ。専門知を多くの人にわかりやすく伝えるという意味におけるアカデミズムとジャーナリズムの融合の必要性を強く感じた。

だが一方でアカデミズムとジャーナリズムを架橋すべき理由としては、さらに深い使命もあるのではないか。その一つとして挙げられるのが、答えのない問いに対峙する柔らかさ、自由さ、伸びやかさを相互に取り戻すことではないかと私は考えている。

「アカデミックな世界はあなたには不自由だと感じられるでしょう」

40歳を過ぎて大学院に進学するかを悩んでいた時に、信頼する研究者からこのように助言された。それでも私はノンフィクションを書き続けるためには先人たちが積み重ねてきた知の蓄積を学ぶことがどうしても必要だと思った。自分の中に背骨となるディシプリンを求めていたからだ。

とはいえ、20代で学部を卒業後、アカデミアとはまったく関係なく過ごしてきた自分が、なぜ今さら学問を志すのか。その一つの理由とは、次のような問いに対する「答え」を求めていたからかもしれない。

今から10年ほど前、出生前診断の誤診に関する裁判の取材に取り組んでいた。

検査では陰性だと告げられていたのに、生まれた子はダウン症だった。しかもその子は重篤な合併症のため、一度も退院できないまま、母に抱かれることもないまま、3カ月あまりでその命を閉じることになる。

当初、訴状に原告は、もしも正しい検査結果がわかっていたら、「中絶していた」と記していた。だが、母はこの世に生まれ命を閉じた我が子を「中絶していた」とはどうしても言い切ることができずに、裁判上不利だと弁護士に説得されてもなお、「中絶していた蓋然性が高い」と訂正を求めた。

私はその訂正を知って、この母親に話を聞かねばならないと思った。

この裁判は日本初の「Wrongful life(ロングフルライフ)」訴訟と呼ばれた。Wrongful life訴訟は、障害などをもって生まれたことが損害だと子自身が訴えるというものである。

この裁判では、両親は誤診による自分たちの損害だけではなく、苦しんで亡くなった子自身の損害を請求していた。苦しむだけの生なら生まれなかった方がいいのか。それは損害と言えるのか。この裁判が投げかけた問いは、法律だけでは答えがでない。

ゲノムを使った検査は出生前診断からがんの治療まで広がっているが、急速な科学技術の発展にのみこまれ、葛藤に引き裂かれている人たちがいる。流されるだけではなく、足を踏ん張って、リスクを知ることとは何か、命を選ぶこととは何かを考えてみたいと感じていた。

そこで知ったのが、ELSI(Ethical, Legal and Social Issues)と呼ばれる科学技術の倫理的・法的・社会的課題についての研究だった。

科学はそれ単体で成り立っているのではない。法的な問題に加え、倫理的、社会的なアプローチから総合的に考えていくという理念は、まさに私が今学びたいと考えていた知であった。

そして、私がアカデミズムの世界に飛び込んだのにはもう1つの理由がある。

アステイオン編集委員である武田徹氏の『日本ノンフィクション史──ルポルタージュからアカデミック・ジャーナリズムまで』(中公新書)は、アカデミアとジャーナリズムの関係を考える上で、私が大きな影響を受けた1冊である。

武田氏は本書で、ノンフィクションは「確かさ」を作者の内面に帰属させ、外部から介入の余地をなくしてしまうため、反証可能性に向けて開かれていないと述べる。

確かに、ノンフィクションの世界では参考文献の記載がないものやどこで誰から聞いたか判然としないものもあり、科学的な命題となり得ないものも少なくない。

一方、アメリカでは1980年代にリテラリー・ジャーナリズムと呼ばれる作品が多く書かれたという。その特徴としては、「主題への没頭(Immersion)」、「記述の構造への配慮(Solicitude)」、「記述の正確さ(Accuracy)」、「語り口(Voice)」、「語り手の責任(Responsibility)」だといい、武田氏はその中でも「語り手の責任」に注目する。

なぜ日本ではこのような潮流が起こらなかったかといえば、ノンフィクションの語り手の社会的な位置付けを武田氏は指摘する。

アメリカではリテラリー・ジャーナリズムの語り手は執筆の一方で、大学で教鞭を執っており、そういった意味で「アカデミック・ジャーナリズム」でもあったという。経済的な基盤があるからこそ、商業的に売れるものにこだわる必要がなく、誠実な書き方にこだわることができた、というわけだ。

もちろん、武田氏も指摘するように、日本でもノンフィクションの書き手による「語り手の責任」を伴った作品がアカデミックに評価されることはある。

例えばサントリー学芸賞など多数の賞を受賞したノンフィクション作家の黒岩比佐子氏の仕事がそうだろう。

だが、黒岩氏は大学で教鞭を執っておらず、生活は保証されていなかった。象徴的だと感じるのは、黒岩氏が読売文学賞を受賞した作品が『パンとペン』(講談社)というタイトルだということだ。

本書は大逆事件が起きた弾圧の時代の社会主義者である堺利彦を主人公に、彼が編集プロダクションの先駆けである売文社を立ち上げ、文筆代理を請け負うことで、窮地に陥った仲間たちに仕事や居場所を与えた様を描く。

黒岩氏ががんの闘病をされている時期に、私はちょうど読売新聞読書委員で一緒であったが、一人暮らしで金銭的な保証もないフリーランスの書き手が、病身でこのような大作を書くのは精神的にも経済的にも苦労されたようだった。

そのような思いも本書には込められているように感じる。

他方、ノンフィクションの賞を受賞した研究者たちもいる。その作品はどれも素晴らしく、まさにアカデミック・ジャーナリズムと呼ぶべき仕事である。

その書籍には、調査は科研費(科学研究費)によって助成された旨が記されているものもある。

パンのためのペンではなく、知的な思想のためのペンとして、落ち着いて誠実に仕事をする環境を整えるうえでも、アカデミズムとジャーナリズムの枠組みを柔軟に考え、協働できることがあるはずだ。

自分自身のディシプリンを構築すると同時に、両者の相互乗り入れを可能にする手掛かりを掴めないだろうか。何かあれば現場に、というのは長年の習い性である。まずはアカデミアの世界を我が目で確かめたいと思った。

実際に学問の世界に飛び込んでみると、確かに予告されていたように学術には不自由があった。

手法も分析も発表も、厳密な手続きによって規定され、その作法の中で行わなければスタートラインにも立てない。倫理審査委員会の承認を得たり、当事者に同意書をもらったり、希望があれば反訳を確認してもらうなどの大変さもある。考察にも枠を超えた踏み込んだ記述は許されない。

しかし一方で、フリーランスの書き手である私には、アカデミアの方が自由だと感じることもあった。出版不況もあり、ジャーナリズムの雑誌媒体では市場の反応をダイレクトに考えなければならない。

編集者も出版業界全体の売り上げ低迷の中で、「売れること」に重きを置いた「マーケティングの専門家」になることが要請されていた。

だが、学問も出版業界も市場を見るだけでは、知的ジャーナリズムは衰退してしまう。

そこで今必要とされることの1つのヒントとして「出版の未来と総合雑誌の役割」というインタビューで『アステイオン』の初代編集長・粕谷一希氏が語っている「思想」に注目したい。

粕谷氏はアカデミズムとジャーナリズムの両方を担う総合雑誌に必要な思想として3つの大きな命題があると述べている。

1つ目は、人生をいかに生きるべきかを問うこと、2つ目は、社会がどうあるべきかを問うこと、そして3つ目は世界にはどういう意味があるかを問うことだと述べ、河合栄治郎の『学生叢書』に載っていた狩野亨吉の「観念論と唯物論」という論文を引き合いにこう話す。

〈宇宙は生成発展している。永遠に解けない謎ですが、その生成発展には何か目的があるはずだというのが観念論で、何もないというのが唯物論だと。実に雄大な宇宙論です。

地球もいずれ消滅するということですが、人間が生きていく限り、そういう問いを持ち続けながら歩くより仕方がない。それに文学も、学問も答える。

永遠に一つの答えはないのに、答えようと努力する。またそういう問いを発するところに総合雑誌の意義がある〉

私は「答え」を求めてアカデミアの世界に足を踏み入れたが、そこに答えはなかった。1つの答えはないが、それに答えようと努力する歩みが学問であると知った。

すぐに結論や要点を要求されるような伸びやかさのない空間では、知的な議論は醸成されないだろう。目の前の事象を追うだけではなく、また細分化しすぎた象牙の塔に閉じこもるだけではなく、生きることや社会、世界の意味という基本をもう一度問い直すときではないか。

そのためには、アカデミアとジャーナリズムは互いを縛るものから自由になり、柔らかく乗り入れしていきたい。『アステイオン』95号ではまさに「アカデミック・ジャーナリズム」特集が組まれ、かつては自由に行き来ができた両者の新たな地平を見せてくれている。

『アステイオン創刊30周年ベスト論文選』には、サントリー文化財団の設立に関わり、日本を代表する知性と呼ばれた山崎正和氏の心に残る文章が掲載されている。

「アステイオン(都市的)といえば、アゴラ(広場)とアカデメイア(学園)の共存が不可欠だろうが、両者の自然な交流がこれほどうまくいった雑誌も少ないのではないだろうか」

そして、「『野暮は言わない』のが参加者の不文律」だと続け、そのしなやかな強さは百年の風雪にも耐えるはずだと綴る。

今、知的ジャーナリズムに必要なのは、このようなアステイオン的な思想ではないか。人はいかに生きるべきか、社会はどうあるべきか、世界にはどんな意味があるかという根源的な問いを続け、答えを模索する場が100号も続いてきたことに希望を感じる。

そして、このような知的な交流ができる場、アゴラとアカデメイアが野暮を言わずに、自由に交流できるリアルな社交の場を私ももっと作っていきたいと願っている。

河合香織(Kaori Kawai)
1974年生まれ。神戸市外国語大学外国語学部ロシア学科卒業。東京大学大学院学際情報学府修士課程修了。主な著作に『ウスケボーイズ──日本ワインの革命児たち』(小学館、小学館ノンフィクション大賞)、『選べなかった命──出生前診断の誤診で生まれた子』(文藝春秋、大宅壮一ノンフィクション賞、新潮ドキュメント賞)、『分水嶺 ドキュメントコロナ対策専門家会議』(岩波書店)など。

 『アステイオン』100号
  特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
  公益財団法人サントリー文化財団
  アステイオン編集委員会 編
  CCCメディアハウス

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