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「ベートーベン鉛中毒説」がより精密に根拠付けられる 「梅毒にかかっていた」疑惑についても進展あり?

ニューズウィーク日本版 2024年6月13日 22時20分

茜 灯里
<遺髪から通常の64~95倍という高濃度の鉛を検出。ハーバード大チームが最新の研究で解き明かした新事実とは?>

「楽聖」と呼ばれるベートーベン(1770~1827)が56歳で亡くなってから約200年が経ちますが、今もなお、死因や生前の疾患の研究が進められています。

ハーバード大の病理学者ネーダー・リファイ博士が率いる研究グループは、「遺伝子解析でベートーベンのものとされている遺髪を分析したら、通常の64~95倍という高濃度の鉛が検出された」と発表しました。研究成果は臨床医学誌「クリニカル・ケミストリー」に5月6日付で掲載されました。

実は、ベートーベンが鉛中毒だったことは以前からよく知られています。本研究で解き明かされた新事実は何でしょうか。鉛中毒は、ベートーベンの体調や性格にどのように影響したと考えられているのでしょうか。概観してみましょう。

形見として切り取られた毛髪が分析試料に

ベートーベンの家族は音楽一家で、宮廷歌手の父にスパルタとも言える英才教育を受けました。7歳の時にケルンの演奏会でデビューすると「第2のモーツァルト」ともてはやされたと言います。実はこのとき、父は神童として売り出すためにベートーベンのことを「6歳」と偽っており、本人も長らく自分は1772年生まれだと思っていたそうです。

その後、16歳で初めてウィーンを訪れ、モーツァルトとも対面します。最初にピアニストとして、後に作曲家として時代の寵児となり、ルイス・ロックウッド『ベートーヴェン 音楽と生涯』(春秋社)によると、1796年には同世代の中で最も評価される音楽家になりました。

しかし20代後半から徐々に聴覚を失い、30歳頃にはほぼ聞こえなかったと考えられています。ベートーベンは1802年、今日「ハイリゲンシュタットの遺書」として知られる手紙を弟のカールとヨハンに宛てて書き、「人々は自分を頑固で人間嫌いだと噂しているが、そう見えるのには秘密がある」「ここ6年ほど治る見込みのない病(難聴)に侵され、悪化するばかりである」と苦悩を告白しています。さらに、「死後は診断書を書いてもらい、この手紙に添えて周囲の人に見てもらって、多くの人と仲直りできるように」と願っています。

ベートーベンが亡くなったのは、ハイリゲンシュタットの遺書を執筆してから約25年後ですが、その頃は全聾で、胃腸炎や頭痛に悩まされ、重度のうつであったと伝えられています。検死は死亡翌日にヨハン・ヴァーグナー医師によって行われ、肝硬変と聴神経の障害および関連動脈の硬化が記載されます。

また、ベートーベンの死因の研究は、今日に至るまで数多くがなされています。というのも、ベートーベンは当時から偉人であったため、周囲の人の多くは死の直前や直後に記念品や形見として毛髪を欲しがりました。元々は長くてフサフサだったベートーベンの頭ですが、死後には毛髪が一本も残らないほどだったと言います。その毛髪が後世に伝わり、分析試料となりました。

これまでの研究では、ベートーベンの直接の死因は、重度のアルコール摂取説、感染性の肝疾患説、重金属汚染説などが唱えられてきました。

とくに重金属である鉛の中毒は、①当時の安物ワインは甘味を足すために酢酸鉛が添加されていたこと、②ベートーベンは大酒飲みであったこと、③重金属を生物濃縮する魚も好んで食べていたこと、③鉛は胃腸障害や頭痛、聴力低下、イライラした性格の原因になりうること、④当時の肝炎はほとんどがA型と考えられており、肝硬変を起こすB型やC型は稀であったことなどから、死因や生前の体調不良の原因として有力視されていました。

鉛中毒の根拠とされた毛髪は女性のもの

2000年に発表された研究では、ドイツの作曲家フェルディナント・ヒラーがベートーベンの死亡直後に切り取ったとされる毛髪から高濃度の鉛を検出し、鉛中毒説が裏付けられたと考えられました。

ところが23年、ケンブリッジ大を中心とした国際研究チームがヒラーの所有していた毛髪を含む8房の毛髪の束を遺伝子解析したところ、鉛中毒の根拠とされた毛髪はアシュケナージ系ユダヤ人の遺伝子を持つ女性のもの、つまりベートーベンのものではないことが判明しました。

ケンブリッジ大チームは、8房中5房の遺伝子が一致したことで、伝承されている状況からもこれらが本物のベートーベンの毛髪である可能性が高いと判定しました。それらを詳細に分析したところ、ベートーベンは少なくとも死の数カ月前にB型肝炎ウイルスに感染していたこと、遺伝的に肝臓病になりやすい体質であったことが分かりました。

そして、死因はB型肝炎と大量のアルコール摂取による肝疾患リスクが複合的に合わさった肝硬変である可能性が高いと結論付けました。もっとも、若くして難聴になった原因や胃腸障害については解明することはできませんでした。

サンプルが偽物だったことからすっかり分が悪くなった鉛中毒説ですが、今回のハーバード大の研究では、ケンブリッジ大チームが遺伝子解析でベートーベンのものと結論付けた2種の毛髪をサンプルとして用いました。

1つは「ハルムとセイヤーの房(0.0284グラム)」と呼ばれるもので、ベートーベン自身が1826年4月にピアニストのアントン・ハルムに手渡し、後に伝記作家のアレクサンダー・ウィーロック・セイヤーに渡ったものです。もう1つは「ベルマンの房(0.0413グラム)」で、1820年後半から27年3月の間に切られたと推定されます。

研究者たちは、2房の髪の外部汚染を取り除くため洗剤で洗い、乾燥させてから2種の誘導結合プラズマ質量分析を行いました。その結果、ハルムとセイヤーの房では1グラムあたり380マイクログラムと369マイクログラム、ベルマンの房では1グラムあたり258 マイクログラムと254マイクログラムの鉛が検出されました。これは、通常範囲の上限(1グラムあたり4マイクログラム以下)のそれぞれ約95倍と約64倍に当たりました。

高濃度の重金属が毛髪に蓄積された理由

また、アメリカ疾病予防管理センター(CDC)が提案する毛髪鉛濃度から血中鉛濃度への変換式を使用すると、ベートーベンの血中鉛濃度は1デシリットル当たり69~71マイクログラムと推定されました。研究チームによると、このレベルの血中鉛濃度は一般的に胃腸障害や腎疾患、聴力低下と関連しますが、死亡の唯一の原因となる程度ではないと言います。

さらに、ベートーベンには梅毒にかかっていた疑惑がありますが、これまでは根拠が見つかりませんでした。ところが今回の研究では、2組の毛髪の両方からヒ素と水銀も検出され、通常範囲 (1グラム当たり1マイクログラム以下) と比べて、ヒ素は約13倍、水銀は約4倍と高濃度でした。水銀は梅毒の治療に使われるため、今後の研究次第では証拠の1つになるかもしれません。

毛髪になぜ高濃度の重金属が蓄積されたかについて、リファイ博士は①ワインの味付けに用いられていた、②当時、ドナウ川には産業廃液が流れ込んでいたが、そこで捕れた魚が消費されていた、③医療行為(晩年のベートーベンは金属機器を使って腹水を頻繁に抜いてもらっていた)などが考えられると語っています。

難聴や人格変化に苦しみながら「遺書」を記し、死後に原因を解明してほしいと切に願いつつ、その後25年間も美しい音楽を作り続けたベートーベン。200年後の科学技術で検証され、後世の人々が真相を理解すれば、きっと魂が慰められるでしょう。

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