北島 純
<Mrs. GREEN APPLEのMV炎上事件は、「集合無知」のリスクと「どこに地雷が埋まっているかわからない」キャンセルカルチャー問題の難しさを改めて日本社会に突きつけた。しかし、回避する方法がないわけではない>
人気バンドMrs. GREEN APPLEのミュージックビデオ(MV)が「炎上」した。コロンブスとナポレオン、ベートーベンに扮したメンバーが海に浮かぶ小島の家で類人猿と戯れるという内容のMVだが、6月12日に公開されると「植民地主義的で差別的」という批判が殺到。配信停止に追い込まれた。
コカ・コーラのサマーキャンペーン「Coke STUDIO」のために書き下ろされた新曲のMVが、思わぬ形で「キャンセルカルチャー砲」を正面から浴びた形だ。「どこに地雷があるのか分からない」と頭を抱える広告クリエイティブ関係者も多いだろう。どうすれば回避できるのか。
MVを見ると、舞台となるのはカリブ海を思わせる洋上に浮かぶ小さな島。そこに建つ家を見つけたコロンブスらが中に入ると、中にはソファで寛ぐ類人猿がいる。たちまちパーティーが始まり、歌って踊って騒ぐ乱痴気の中でベートーベンはピアノを、ナポレオンは馬術を類人猿に教える。ベートーベンが乗る人力車を必死に引くのも猿だ。壁に飾られているのはバッファローの角。夜になると「MONKEY ATTACK」という映画を皆で観るが、倒れた白い鉢巻の猿を赤鉢巻の猿が抱きかかえ悲しむシーンに3人組と猿は涙ぐむ。コロンブスがテーブルの上で卵を直立させた後、3人組は「BABEL」という文字が刻まれたレンガの脇を歩いて家から去っていく。そういった内容だ。
確かに「批判もむべなるかな」と思わせる内容とも言える。コロンブスが「新大陸を発見した偉人」として無条件に称賛されるポジションから引きずり降ろされ、先住民虐殺と植民地支配、奴隷貿易の端緒を切り開いた「悪しき存在の象徴」として非難が加えられるようになったのは別に最近のことではない。1992年の「新大陸発見500周年」の前後には既に疑問の声は大きくなっていた。北米のBLM運動が激化した2020年にはコロンブスの銅像を破壊する動きも生じている。そのコロンブスがベートーベン、ナポレオンとともに先住民(猿)を教化し文明化する様を無邪気に描いたとしたら悪い冗談でしかない。
しかしMVは、猿が人力車を引くシーンの背景に、ナポレオンの遠征(侵略)先であるエジプトのピラミッドだけでなく、現代の風力発電のシーンを使用したり、エジソンの電球やコロンブスの卵といった様々なアイテムを引用したりしている。この超時空的な玉石混淆っぷりは、「潤んだ瞳の意味を生かすには まず1個宝箱を探すんだ」といった天才的ワーディングの歌詞、パステルカラーのセット、淡色の映像色調と相まって、軽快な音楽に「極上のポップ感」を与えてもいる。
Mrs. GREEN APPLEの大森元貴氏は13日に「差別的な内容にしたい、悲惨な歴史を肯定するものにしたいという意図」はなかったと釈明し「配慮不足」を謝罪した。所属するユニバーサルミュージック合同会社も「歴史や文化的な背景への理解に欠ける表現が含まれていた」として謝罪している。確かに今回のMVについては、クリエイティブに関わった人々の「集合知」ならぬ「集合無知」が意図せずに形成されてしまった側面がある。
しかし、コロンブスがキャンセルカルチャー(広義には「特定の人物・団体の言動を問題視し、集中的な批判を浴びせて表舞台から排除しようとする動き」を、狭義には「現代の基準から不適切だと思われる功績を過去にさかのぼって否定する」風潮をいう)の象徴的存在であることは、現代の日本で「衆知の事実」とまでは言えない。アーティストがコロンブスの位置付けの逆転や国際潮流としてのキャンセルカルチャーの視点を知らなかったとしても、それだけで非難するのは酷だろう。iPhoneやPCのOSと異なり、何かしらの創作物を作り出す土台となる「視野」は自動的にアップデートされることはない。大切なのは個々人のアップデート力と知的怠惰に問題を収斂させるのではなく、炎上を防ぐ仕組みを構築することではないだろうか。
創作を支えるサポート・助言体制を構築・強化せよ
筆者はかつて「カルチュラル・アプロプリエーション」(Cultural appropriation)つまり「何らかの表現活動を行うにあたって、多数派・支配的な立場にある者が、少数派・従属的な立場にある者の文化を、敬意を払うことなく「流用」したり、歴史的文脈を無視して「引用」したりすることへの非難」の問題を取り上げ、広告等の表現活動が「文化の盗用」の非難を浴びせられるリスクを回避するために必要な判断枠組みを考察したことがある(「伝統文化の「盗用」と文化デューデリジェンス −広告をはじめとする表現活動において「文化の盗用」非難が惹起される蓋然性を事前精査する基準定立の試み−」)。
今回の「キャンセル・カルチャー」の問題と「カルチュラル・アプロプリエーション」は同じではないが、炎上を防ぐ考え方として一つの参考になると思われるので、簡単に紹介しよう。
まず、非難を浴びるリスクを客観的に想定することが重要だ。「文化の盗用」という文脈では、アイヌの文化であったり和服の帯であったり、その維持に多大の努力が払われている少数文化や伝統文化に該当するか否かを、例えばユネスコの「無形文化遺産一覧表」を参照して把握する。2021年には和服の帯を踏んづけるヴァレンティノのCM 動画が炎上したが、そもそも「文化の盗用」という批判を避けるためにはその炎上可能性を客観的に把握することが必要となる。
キャンセル・カルチャーも同じで、社会的文脈の中で「キャンセル」される可能性があるようなセンシティブなテーマを扱う場合は、慎重にリスクを想定しなければならない。無形文化遺産の場合と違って「一覧表」のような便利なツールはないので、クリエイティブな想像力が肝となる。
たとえば「猿」(Ape)を扱うのであれば、映画『猿の惑星』(と『戦場にかける橋』)の原作者ピエール・ブールが第二次世界大戦中に日本軍の捕虜だったこと、あるいは日本軍捕虜が収容所で猿同然に扱われていたことを糾弾した会田雄次著『アーロン収容所』(中公新書)を想起したり、コロンブス後の「植民地支配」であれば、ラス・カサス著『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)からエドワード・サイード著『オリエンタリズム』(平凡社)に至る書物を踏まえた上で、北米での先住民とバッファローの虐殺を想起させるものが登場しないか、あえて登場させるとしたらそのコンテキストをどう構築するのかといったことを、例えば先住民(ネイティブ・アメリカン)と白人(プア・ホワイト)の関係を描いたマーティン・スコセッシ監督の映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を参考にしながら組み立てたりするのである。もちろんそういった作業をアーティスト自身が行うというより、創作を支えるサポート・助言体制を構築・強化するのだ。
その上で、実際のコンテンツで表現される内容の「強度性」を判断することも重要だ。今回のMVで言えば、最もインパクトのあるシーンは「猿に人力車を引かせている」場面だろう。この絵面は「奴隷労働」を想起させ得る程度の強度性がある(言うまでもないが、だからといって浅草等の人力車営業が奴隷労働という訳ではない。人間が猿を、先住民族のメタファー(隠喩)であるとしたらその先住民を酷使して引かせているというイメージの問題である)。もしそのようなイメージを喚起させてしまった場合、地球上に4030万人いる(国際労働機関[ILO]による)とされる「現代奴隷」の問題とリンクしかねず、「意識高い系」(Woke)から総スカンになる可能性もある。
「論争惹起性を緩和させ、邪推を遠ざける」周到な工夫
そこで「衝撃の緩和策」として、例えばそのシーンの直後に、現代の風力発電をバックに今度は逆にナポレオンが人力車を引き、猿が人力車の上でふんぞり返って悦に入っているといったシーンを挿入するのだ。時間軸の混合、主客の交代、価値の転倒がもたらすユーモアが高強度表現を包み込めば、インパクトを一定程度中和させることができるだろう。植民地に持ち込まれた「馬」、虐殺された「バッファロー」についても同様に、メタファーの解釈が生む論争惹起性を緩和させ、邪推を遠ざける周到な工夫があれば乗り切れる。
今回のMV問題が社会の注目を集めたのは、昨年の紅白歌合戦に初出場したMrs. GREEN APPLEというバンドが高い人気を持っているだけでなく、コカ・コーラというグローバル企業のオファーで楽曲を作成したという事情もあろう。つまり音楽をめぐる「ビジネスと人権」の問題でもあるのだ(なおコカ・コーラはMVの内容自体は関知していないとしている)。
価値観の多様化と視座の流動化は加速化している。そうした潮流の中で、広告表現への批判が突如噴出し炎上することはクリエイティブを萎縮させかねない。その対策として、アーティストや制作陣の属人的な知識や視座の足りなさを批判するだけではダメだ。制作プロセスにおける「仕組み」として、文化デューデリジェンス(事前の精査)をビルトインしたクリエイティブ支援体制を構築していく必要がある。
Mrs. GREEN APPLE 大森元貴氏の謝罪文
Mrs. GREEN APPLE 「コロンブス」ミュージックビデオについて
<Mrs. GREEN APPLEのMV炎上事件は、「集合無知」のリスクと「どこに地雷が埋まっているかわからない」キャンセルカルチャー問題の難しさを改めて日本社会に突きつけた。しかし、回避する方法がないわけではない>
人気バンドMrs. GREEN APPLEのミュージックビデオ(MV)が「炎上」した。コロンブスとナポレオン、ベートーベンに扮したメンバーが海に浮かぶ小島の家で類人猿と戯れるという内容のMVだが、6月12日に公開されると「植民地主義的で差別的」という批判が殺到。配信停止に追い込まれた。
コカ・コーラのサマーキャンペーン「Coke STUDIO」のために書き下ろされた新曲のMVが、思わぬ形で「キャンセルカルチャー砲」を正面から浴びた形だ。「どこに地雷があるのか分からない」と頭を抱える広告クリエイティブ関係者も多いだろう。どうすれば回避できるのか。
MVを見ると、舞台となるのはカリブ海を思わせる洋上に浮かぶ小さな島。そこに建つ家を見つけたコロンブスらが中に入ると、中にはソファで寛ぐ類人猿がいる。たちまちパーティーが始まり、歌って踊って騒ぐ乱痴気の中でベートーベンはピアノを、ナポレオンは馬術を類人猿に教える。ベートーベンが乗る人力車を必死に引くのも猿だ。壁に飾られているのはバッファローの角。夜になると「MONKEY ATTACK」という映画を皆で観るが、倒れた白い鉢巻の猿を赤鉢巻の猿が抱きかかえ悲しむシーンに3人組と猿は涙ぐむ。コロンブスがテーブルの上で卵を直立させた後、3人組は「BABEL」という文字が刻まれたレンガの脇を歩いて家から去っていく。そういった内容だ。
確かに「批判もむべなるかな」と思わせる内容とも言える。コロンブスが「新大陸を発見した偉人」として無条件に称賛されるポジションから引きずり降ろされ、先住民虐殺と植民地支配、奴隷貿易の端緒を切り開いた「悪しき存在の象徴」として非難が加えられるようになったのは別に最近のことではない。1992年の「新大陸発見500周年」の前後には既に疑問の声は大きくなっていた。北米のBLM運動が激化した2020年にはコロンブスの銅像を破壊する動きも生じている。そのコロンブスがベートーベン、ナポレオンとともに先住民(猿)を教化し文明化する様を無邪気に描いたとしたら悪い冗談でしかない。
しかしMVは、猿が人力車を引くシーンの背景に、ナポレオンの遠征(侵略)先であるエジプトのピラミッドだけでなく、現代の風力発電のシーンを使用したり、エジソンの電球やコロンブスの卵といった様々なアイテムを引用したりしている。この超時空的な玉石混淆っぷりは、「潤んだ瞳の意味を生かすには まず1個宝箱を探すんだ」といった天才的ワーディングの歌詞、パステルカラーのセット、淡色の映像色調と相まって、軽快な音楽に「極上のポップ感」を与えてもいる。
Mrs. GREEN APPLEの大森元貴氏は13日に「差別的な内容にしたい、悲惨な歴史を肯定するものにしたいという意図」はなかったと釈明し「配慮不足」を謝罪した。所属するユニバーサルミュージック合同会社も「歴史や文化的な背景への理解に欠ける表現が含まれていた」として謝罪している。確かに今回のMVについては、クリエイティブに関わった人々の「集合知」ならぬ「集合無知」が意図せずに形成されてしまった側面がある。
しかし、コロンブスがキャンセルカルチャー(広義には「特定の人物・団体の言動を問題視し、集中的な批判を浴びせて表舞台から排除しようとする動き」を、狭義には「現代の基準から不適切だと思われる功績を過去にさかのぼって否定する」風潮をいう)の象徴的存在であることは、現代の日本で「衆知の事実」とまでは言えない。アーティストがコロンブスの位置付けの逆転や国際潮流としてのキャンセルカルチャーの視点を知らなかったとしても、それだけで非難するのは酷だろう。iPhoneやPCのOSと異なり、何かしらの創作物を作り出す土台となる「視野」は自動的にアップデートされることはない。大切なのは個々人のアップデート力と知的怠惰に問題を収斂させるのではなく、炎上を防ぐ仕組みを構築することではないだろうか。
創作を支えるサポート・助言体制を構築・強化せよ
筆者はかつて「カルチュラル・アプロプリエーション」(Cultural appropriation)つまり「何らかの表現活動を行うにあたって、多数派・支配的な立場にある者が、少数派・従属的な立場にある者の文化を、敬意を払うことなく「流用」したり、歴史的文脈を無視して「引用」したりすることへの非難」の問題を取り上げ、広告等の表現活動が「文化の盗用」の非難を浴びせられるリスクを回避するために必要な判断枠組みを考察したことがある(「伝統文化の「盗用」と文化デューデリジェンス −広告をはじめとする表現活動において「文化の盗用」非難が惹起される蓋然性を事前精査する基準定立の試み−」)。
今回の「キャンセル・カルチャー」の問題と「カルチュラル・アプロプリエーション」は同じではないが、炎上を防ぐ考え方として一つの参考になると思われるので、簡単に紹介しよう。
まず、非難を浴びるリスクを客観的に想定することが重要だ。「文化の盗用」という文脈では、アイヌの文化であったり和服の帯であったり、その維持に多大の努力が払われている少数文化や伝統文化に該当するか否かを、例えばユネスコの「無形文化遺産一覧表」を参照して把握する。2021年には和服の帯を踏んづけるヴァレンティノのCM 動画が炎上したが、そもそも「文化の盗用」という批判を避けるためにはその炎上可能性を客観的に把握することが必要となる。
キャンセル・カルチャーも同じで、社会的文脈の中で「キャンセル」される可能性があるようなセンシティブなテーマを扱う場合は、慎重にリスクを想定しなければならない。無形文化遺産の場合と違って「一覧表」のような便利なツールはないので、クリエイティブな想像力が肝となる。
たとえば「猿」(Ape)を扱うのであれば、映画『猿の惑星』(と『戦場にかける橋』)の原作者ピエール・ブールが第二次世界大戦中に日本軍の捕虜だったこと、あるいは日本軍捕虜が収容所で猿同然に扱われていたことを糾弾した会田雄次著『アーロン収容所』(中公新書)を想起したり、コロンブス後の「植民地支配」であれば、ラス・カサス著『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)からエドワード・サイード著『オリエンタリズム』(平凡社)に至る書物を踏まえた上で、北米での先住民とバッファローの虐殺を想起させるものが登場しないか、あえて登場させるとしたらそのコンテキストをどう構築するのかといったことを、例えば先住民(ネイティブ・アメリカン)と白人(プア・ホワイト)の関係を描いたマーティン・スコセッシ監督の映画『キラーズ・オブ・ザ・フラワームーン』を参考にしながら組み立てたりするのである。もちろんそういった作業をアーティスト自身が行うというより、創作を支えるサポート・助言体制を構築・強化するのだ。
その上で、実際のコンテンツで表現される内容の「強度性」を判断することも重要だ。今回のMVで言えば、最もインパクトのあるシーンは「猿に人力車を引かせている」場面だろう。この絵面は「奴隷労働」を想起させ得る程度の強度性がある(言うまでもないが、だからといって浅草等の人力車営業が奴隷労働という訳ではない。人間が猿を、先住民族のメタファー(隠喩)であるとしたらその先住民を酷使して引かせているというイメージの問題である)。もしそのようなイメージを喚起させてしまった場合、地球上に4030万人いる(国際労働機関[ILO]による)とされる「現代奴隷」の問題とリンクしかねず、「意識高い系」(Woke)から総スカンになる可能性もある。
「論争惹起性を緩和させ、邪推を遠ざける」周到な工夫
そこで「衝撃の緩和策」として、例えばそのシーンの直後に、現代の風力発電をバックに今度は逆にナポレオンが人力車を引き、猿が人力車の上でふんぞり返って悦に入っているといったシーンを挿入するのだ。時間軸の混合、主客の交代、価値の転倒がもたらすユーモアが高強度表現を包み込めば、インパクトを一定程度中和させることができるだろう。植民地に持ち込まれた「馬」、虐殺された「バッファロー」についても同様に、メタファーの解釈が生む論争惹起性を緩和させ、邪推を遠ざける周到な工夫があれば乗り切れる。
今回のMV問題が社会の注目を集めたのは、昨年の紅白歌合戦に初出場したMrs. GREEN APPLEというバンドが高い人気を持っているだけでなく、コカ・コーラというグローバル企業のオファーで楽曲を作成したという事情もあろう。つまり音楽をめぐる「ビジネスと人権」の問題でもあるのだ(なおコカ・コーラはMVの内容自体は関知していないとしている)。
価値観の多様化と視座の流動化は加速化している。そうした潮流の中で、広告表現への批判が突如噴出し炎上することはクリエイティブを萎縮させかねない。その対策として、アーティストや制作陣の属人的な知識や視座の足りなさを批判するだけではダメだ。制作プロセスにおける「仕組み」として、文化デューデリジェンス(事前の精査)をビルトインしたクリエイティブ支援体制を構築していく必要がある。
Mrs. GREEN APPLE 大森元貴氏の謝罪文
Mrs. GREEN APPLE 「コロンブス」ミュージックビデオについて