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植物で「より母乳に近い粉ミルク」の大量生産が可能に? 新たなHMO生産法が大人にも「朗報」なワケ

ニューズウィーク日本版 2024年6月21日 21時15分

茜 灯里
<現在の粉ミルクにはほぼ含まれていない母乳特有の栄養成分HMOを、遺伝子操作した植物を使って作成することに成功。その意義と今後の活用の可能性を、粉ミルクの歴史とともに概観する>

乳児は生後5~6カ月までは「お乳」のみで栄養を摂取します。その期間は、世界の乳児の約75%が粉ミルク(育児用調製粉乳)を多かれ少なかれ利用していると言います。日本でも、普段は母乳で育てていたとしても「体調が悪い時や災害などに備えてストックしている」というお母さんは多いでしょう。

「なるべく母乳と同じ成分の粉ミルクがほしい」という願いは世界中のお母さんに共通です。しかし、現在の粉ミルクには母乳特有の栄養成分HMO(Human Milk Oligosaccharide:ヒトミルクオリゴ糖)がほぼ含まれていません。HMOは約250種もあるうえ複雑な構造をしており、人工的に作って大量生産するのが難しいからです。

 

米カリフォルニア大学バークレー校、デービス校の研究者たちは、遺伝子操作したベンサミアナタバコ(学名:Nicotiana benthamiana)を使って、1度に11種ものHMOを作成することに成功しました。研究成果は、Nature姉妹誌で農業科学や食品科学を専門とする『Nature Food』に13日付で掲載されました。

乳児にとって母乳は完全栄養食です。母乳成分により近い粉ミルクを作れた場合、どのような優れた効果が期待できるのでしょうか。また、乳児以外にもHMOが活用される可能性はあるのでしょうか。概観してみましょう。

多くの企業が研究開発に参入

粉ミルクらしいものが、歴史上、初めて記述されたのは13世紀です。マルコ・ポーロの著作には、モンゴル軍が携帯食にしていた「日干ししたミルク」という記述があります。もともと遊牧民は、古くからウマやヤギの乳を乾燥させて粉末状にし、保存食として利用してきました。

その後、乳児用の粉ミルクが19世紀にロシアで生まれ、製造法が確立されてから約30年で商業化され製品として出回るようになりました。当時は母乳を飲めない赤ちゃんは命を失うしかなく、多くの命が救われたと言います。

日本では1917年、和光堂薬局(後の和光堂)が開発した「キノミール」が、最初の育児用粉ミルクとして登場します。キノミールは全脂粉乳に滋養糖を加えたものでしたが、現在の粉ミルクは砂糖類の添加はされていません。加工して無脂肪にした牛乳(脱脂粉乳)を原料とし、母乳に成分を近づけるために栄養分が調整されています。

粉ミルクは母乳の代替品ですから、当然、母乳に特有な成分であるHMOも再現できることが好ましいです。

HMOはヒトの母乳中では乳糖、脂質に次ぐ3番目に多い成分ですが、牛乳や他の哺乳動物の乳にはほとんど含まれません。そこで近年はHMOの人工合成と大量生産のために、欧米のスタートアップを中心に多くの企業が研究開発に参入しています。

とはいえ、HMO含有商品の歴史は浅く、HMOのうち母乳にもっとも多く含まれる2'-fucosyllactose(2'-FL)やLacto-N-neo-tetraose(LNnT)を添加した高級粉ミルクが2017年頃から欧米や一部のアジア諸国で販売されたのが最初のようです。

20年にキリングループ傘下の協和発酵バイオが行った調査では、世界の粉ミルクのうちHMOが含まれているものは19年時点で6%でした。しかし、22年から27年には年20~30%の平均成長率が見込まれると算出する研究者もいます。

国産のHMO含有粉ミルクはまだ大量生産されていませんが、2000年に世界初の発酵法を用いたHMO大量生産技術を開発した協和発酵バイオが22年11月にタイに生産工場を完成させたことから、今後を期待されています。

主要な3グループすべてを含む11種のHMOを同時生産

今回、カリフォルニア大グループが発表したHMO生産法は、これまでの化学合成法や発酵法とは異なり、植物を使って大量に製造するものです。

論文の責任筆者であるバークレー校・イノベーティブゲノミクス研究所のパトリック・シー博士は、「植物は、太陽光と二酸化炭素から糖を作れる驚異的な生物です。しかも、単純糖から複合糖まで多種多様な糖を生成できるので、この糖代謝の基礎システムを応用してHMOを生成してみようと考えました」と大学の研究広報ニュースで語っています。

研究チームは、遺伝子工学の実験によく用いられる植物「ベンサミアナタバコ」を使って、HMOの生成を試みました。

HMOに特徴的なのは、単純な糖を材料にして複雑な分子構造を作る時に使われる特別な結合様式(グリコシド結合)です。これまでの研究から、この特別な結合には特定の酵素(グリコシルトランスフェラーゼ)が関わっていることが分かっています。

そこで研究者たちは、ベンサミアナタバコを遺伝子操作して、HMOになるための結合を司る酵素が発現できるようにしました。

その結果、11種のHMOを同時に生産することに成功しました。しかも、これらにはHMOの主要な3グループ(中性HMO、フコシル化HMO、酸性HMO)すべてが含まれていました。

「私の知る限り、3 グループすべてのHMOを単一の生物で同時に作れることを実証した人はいません」と、筆頭筆者で研究当時は大学院生だったコリン・バーナム氏は話しています。

さらに研究チームが生産コストを計算したところ、工業規模の大量生産では、植物からHMOを作ると現在の主流である大腸菌を用いる方法よりも安価になる可能性が高いことが示唆されました。大腸菌の場合は、副産物を取り除く課程にコストがかかるからだそうです。

シー博士は「さらに研究が進み、すべてのHMO母乳オリゴ糖を 1 つの植物で作れるようになったら、植物を粉砕してすべてを同時に抽出し、それを直接、粉ミルクに加えることができます」と目標を語ります。

最近は、HMOは乳児の栄養分として大切なだけではなく、「プレバイオティクス」であることも注目を集めています。プレバイオティクスとは、ビフィズス菌などの有用菌(プロバイオティクス)のエサとなる物質で、食物繊維やオリゴ糖がこれにあたります。

腸内フローラ(細菌叢)は近年、腸内環境を整えるだけでなく、高血圧や糖尿病などの生活習慣病、免疫調節機能、脳の認知機能やうつ病の発症などにも関与していることが研究で示されています。つまり、HMOが大量生産できると、大人のための機能性食品やサプリとしても役立つ可能性があるということです。

今回はアメリカ発のHMO作成の新技術を紹介しましたが、日本は以前からHMOの製造や利用、応用に関する研究で世界をリードしています。赤ちゃんの成長や大人の健康のために、ぜひ、早期の製品化を目指してほしいですね。

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