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「悪名は無名に勝る...」売名の祭典と化した都知事選の源流は11年前の「選挙フェス」にあった

ニューズウィーク日本版 2024年6月25日 18時47分

石戸 諭(ノンフィクションライター)
<7月7日の投開票を控え、史上最多の56人が立候補した都知事選。泡沫候補による電波・掲示板ジャック...宣伝と投資のためのフェスへと堕した選挙戦が「新しくない」理由とは>

さながら建前ばかり達者な「小ポピュリスト」たちの祭典である。東京都知事選が始まったが、悪い意味でついにここまできたかと思った有権者は決して少なくないだろう。

「選挙をフェスにする」──。かつて左派、リベラル系の候補者が前面に押し出したスローガンを臆面もなく使ってみせたのは政治団体「NHKから国民を守る党」の立花孝志だった。

史上最多、56人が立候補した今年の都知事選だが、実際に中身を見てみるとなんてことはない。NHK党が擁立した候補者24人のほか、今春の衆議院東京15区補選での選挙妨害行為が刑事事件に問われるまでになった「つばさの党」の関係者、常連の泡沫候補も含んでの人数だ。

首都のリーダーを決める都知事選は一首長選でありながら、メディア露出の機会は国政選挙並みに多い。当選を第1の目的としないような泡沫候補が集まるには合理的な理由があるが、取り巻く状況はより悪い方向に流れているとみるべきだろう。

立花は選挙ポスターの掲示板に貼る権利を販売すると言い、最大の狙いはNHKの政見放送の時間を供託金300万円で「買う」ことだと堂々と語ってみせた。権利の売買がうまくいけば、たとえ供託金が没収されても、元が取れるということだ。

結局のところ、彼らが取り組んでいるのは選挙ではなく、泡沫候補による電波ジャックあるいは選挙のビジネス化である。

こうした思考をより推し進めていった先に今回の都知事選がある、と読み解くと混乱がクリアに見えてくる。当選度外視の立候補を公言する政治団体にとって選挙は名前を売る手段にすぎない。

政見放送や選挙運動で奇抜な行動を繰り返し、SNSで話題になれば上出来という発想で「宣伝」と「投資」に振り切る。最終的な狙いは話題づくり一発で議席が狙える参院選、地方選での当選だ。

立花に触発されるように、泡沫候補たちもあの手この手で目立つ方策を考える。表現の自由すらも建前に、「悪名は無名に勝る」とばかりにほぼ全裸の女性のポスターまで掲示する輩(やから)も現れるに至った。

民主主義の根幹にある誰もが立候補できる権利を建前に使う選挙戦の極北は、つばさの党が暴れた先の衆院東京15区補選にあったと思っていたが......。

悪い方向に流れている根底にあるのは彼らの行為だけでなく、選挙が盛り上がることが重要であるという「選挙フェス」的な発想そのものに求められる。

大衆の隠された意思を言語化

「選挙フェス」の源流は、2013年参院選に立候補した三宅洋平だ。私も当時取材したが、選挙フェスと称してレゲエを演奏しながら脱原発などを語る三宅の選挙は確かに斬新ではあった。

いま振り返れば、彼の言葉は単に感情に訴えかけるだけのチープなもので具体的な政策もなかったが、左派・リベラル系著名人や知識人を中心に支持を獲得していた。

その後、演説会に「祭り」という言葉を多用したのは一時、三宅とも共闘したれいわ新選組の山本太郎だった。

「生活が苦しいのを、あなたのせいにされていませんか?」と「上」と「下」の対立構図をつくり上げながら、彼は国政選挙でも前回都知事選でも選挙という祭りの主役になろうとした。

一時の感情や共感をフックに選挙を音楽フェスのように盛り上げて逆転の可能性に賭ける、もしくは自分の名前や主張を世に知らしめる。こうした手法はポピュリズムと相性がいい。

イデオロギーを根幹に据える政治家が体系的な思想に基づいた「主義」で世界を捉えるのに対し、ポピュリストはしばしば世界の見方を単純化する。

既成政党や官僚、メディアを既得権益側と位置付け、「持たない者」との対立構造を争点に据える。こうした構図づくりは必ずしも悪ではない。ポピュリストは大衆の隠された意思、言語化されない思いを具現化する存在であり、既成政党や政治家に不満を突き付けるからだ。

「古典的な都知事選」が今回も

山本は理論的なブレーンをつけ、減税をフックにより広範にポピュラリティーを獲得しようとする意思は見せていた。だが、当選という目的や大義を欠いた「選挙フェス」は選挙を手段としたたちの悪い売名とも相性がよかった。

都知事選で「政治を盛り上げる」と口にする候補は少なくないが、盛り上げた先にどのような社会を構想しているかは見えてこない。広範なポピュラリティーの獲得というよりも、より小さな内輪受けレベルを超える主張がない候補者が乱立する。これが現状だ。

彼らが訴える建前は話半分で受け止めるくらいでちょうどいい。

「恥を知れ」「政治屋を一掃したい」という言葉が注目された前安芸高田市長の石丸伸二であっても、現状は小ポピュリストであるという評価が適切だろう。

市議会との対立構図をつくった先に注目されたメディアがYouTube、あるいはSNSということは新しいかもしれないが、既成政党への不信感に訴えかける言葉自体に新しさは何もない。

むしろ、60年ほど前の東京都知事選で確立されて以降繰り返されている「政党色、組織色を消す」「特徴的イメージをつくる」というクラシックなパターンを新しいメディアを使ってなぞっているにすぎない。

ちなみに前回の都知事選に立候補した山本は、今回の都知事選は距離を置いたようだ。静観すると公言し、熱心な地方行脚にいそしんでいる。

独自候補を立てたところで当選の見込みは薄く、特定候補の支援に回れば利用されるだけで終わる選挙に加わることなく足場固めにいそしむのは、ポピュリストというより、ごく普通の政治家の活動だ。私は彼の政策や主張に全面的に賛同することはないが、地道さは否定しない。

選挙には祭り的な要素はある。だが、イコールでは結ばれない。祭りは盛り上がった後に日常が戻ってくるが、政治には終わりがないからだ。

やはり、選挙は「フェス」ではない。そんな当たり前のことから言わなければいけないところにこそ、大きな問題があるのだが......。

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