チャールズ・リアーセン(ジャーナリスト)
<卑劣漢かつ人種差別主義者と信じられてきた名選手の数々の悪評には、ほとんど根拠がなかった>
今は、悪人が相応の報いを受けにくい時代。だから先頃、MLB(米大リーグ)が伝説の強打者タイ・カッブの生涯打率記録を歴代1位から2位に修正したというニュースに、多くのスポーツファンが歓喜した。
カッブは1905~28年に、主にデトロイト・タイガースでプレー。通算打率3割6分7厘という驚異的な数字を残し、つい最近まで誰も超えられない選手とされていた。
カッブはあの時代の最もエキサイティングな選手だった。3球連続で二盗、三盗、本盗を決めたこともあれば、投手への当たり損ねのヒットをランニングホームランにしたこともある。
一方で、「ジョージア・ピーチ」の異名を取ったカッブは、卑劣な人間だったといわれてきた。スパイクの靴底の歯を研ぎ、スライディングの際に相手の内野手を目がけて足を高く上げたとされる。
何よりもカッブは、たちの悪い人種差別主義者だといわれていた。ホテルの黒人従業員の態度が気に入らず、ナイフで刺したという噂もあった。ある野球史家は、カッブが路上で「アフリカ系アメリカ人の男性たちをピストルで容赦なく殴った」と書いた。
カッブは89年のケビン・コスナー主演の映画『フィールド・オブ・ドリームス』で侮辱され(ある登場人物が「あのクソ野郎のことを誰が我慢できた?」と言う)、94年には伝記映画で性犯罪者として描かれ、ケン・バーンズ監督のテレビドキュメンタリー『ベースボール』でも「野球界の恥さらし」と呼ばれた。アメリカの国民的娯楽の長い歴史の中で、これほど悪口を言われた選手はいないだろう。
カッブの生涯打率が2位に修正されたことの「美しさ」は、その経緯にある。MLBはこのほど、かつて存在したニグロリーグ(黒人リーグ)の個人成績をMLBの記録に正式に組み込んだ。その結果、歴代首位打者にジョシュ・ギブソンが躍り出た。
ギブソンはカッブと同じジョージア州出身。16年間で3割7分2厘の生涯打率を残した黒人だ。白人至上主義者が奴隷の孫に負けるという甘美な正義に、人々は満足した。
しかしカッブの伝記を書くために3年以上にわたって彼を調べた者として、私はこの展開に1つだけささやかな問題があると考えている。あの伝説上のタイ・カッブは、そもそも存在しなかったのだ。
カッブが卑劣な人間だったという話は、61年の彼の死去後に流布された神話でしかなかった。これは、私にとっても大変な驚きだった。
1921年、デトロイト・タイガースのユニフォーム姿で BETTMANN/GETTY IMAGES
出版社に送った企画書で、私はカッブが「卑劣なレジェンド」だという証拠を見つけ出すと決意表明していた。ところが過去の記事や法的文書、書簡などを調べ、カッブの家族や彼を知る人々に取材するうちに、当初の企画意図に反する事実に遭遇し続けることになった。例えばカッブがそんなにも嫌われ者だったなら、なぜシカゴ・ホワイトソックスは本拠地がシカゴ以外のチームで最も人気のある選手としてカッブにトロフィーを贈ったのか。
シカゴを拠点とする著名なスポーツライターのリング・ラードナーは、タイガースが遠征してくる試合で観客席からカッブと話ができるよう、彼の守備位置に近い右翼席のチケットを取っていた。なぜか。ラードナーにとってカッブは、友人にもなれそうだと感じさせる珍しいアスリートだったからだ。
黒人の受け入れに賛成
カッブは相手選手にスパイクの歯を向けたといわれるが、そのような証言をした選手は1人しか見つからなかった。そうした中傷に嫌気が差したカッブは、1910年にMLBに手紙を書き、選手がスパイクの歯を鋭くするのを禁止するよう提案した。
人種差別主義者だという批判については、「黒人を銃でよく殴っていた」のように根拠のないものもあった。ファクトチェックで誤りと判明した情報もある。84年の伝記によると、カッブは夜警、精肉業者、ホテルの従業員とけんかをしたことがあり、相手の3人は全て黒人だったとされていた。ところが、私が公的記録を調べると、3人とも白人だったことが分かった。
1886年に南部のジョージア州で生まれた人間が、人種差別主義者でないことなどあり得るのか、という疑問を持つ人もいるかもしれない。
しかしカッブの曽祖父は教会の牧師で、奴隷制に反対して町を追放された人物だ。祖父は、奴隷制反対を理由に南北戦争で南軍の一員として戦うことを拒んだ。教育者で州の上院議員でもあった父は、政治の場で黒人の利害を代弁し、白人の暴徒が黒人をリンチする現場に割って入ったこともあった。
カッブ自身も、1952年に米中部・南部のマイナーリーグ「テキサスリーグ」が初めて黒人選手を受け入れた際、新聞の取材にこう語っている。「渋々ではなく、心から歓迎すべきだ。黒人たちには、プロの野球選手としてプレーする権利がある。その権利がないなんて誰にも言えない」
カッブはニグロリーグの試合にもよく足を運び、ウィリー・メイズをお金を払って見たい同時代で唯一の選手だと評するなど、多くの黒人選手を称賛していた。
36年に史上初の野球殿堂入り EZRA O. SHAWーALLSPORT/GETTY IMAGES
カッブには神経質すぎる面があり、高みを目指さない人をすぐに軽蔑するなど欠点も多かった。だが、そもそも完璧な人間などまずいない。
ほかの選手からは、好かれることもあれば嫌われることもあった。しかし、テッド・ウィリアムズやジョー・ディマジオのような偉大なプレーヤーでさえ(時には嫉妬心から)嫌う選手がいたことは見落とすべきでないだろう。
61年に74歳で死去したときには、敬意に満ちた追悼の言葉が多く寄せられた。36年にほかの4人と共に史上初の野球殿堂入りをしたときに最多得票だったことも強調された。
負の側面を語る人など、誰もいなかった。それなのになぜ『フィールド・オブ・ドリームス』で描かれたようなイメージが定着したのか。
独り歩きした暴露記事
発端となったのは、61年に出版されたカッブの自伝のゴーストライターを務めたアル・スタンプというスポーツ記者だった。カッブはこの自伝を激しく嫌い、死の直前に出版を差し止めようとした。名誉を損なう内容ではなかったが、スタンプが捏造したエピソードや事実関係の誤りが多数含まれていたためだ(自伝は死後に出版)。
この本が物議を醸すことはなかったが、スタンプが雑誌に寄稿した記事は大きな反響を呼んだ。カッブに関する不名誉な暴露話が面白おかしく書かれていたのだ。
そのおおむね事実無根の記事によれば、カッブは大酒飲みで、銃を振りかざしながら車を乗り回し、あるときは夜中に銀行の頭取の自宅に押しかけ、銃を突き付けて5ドルの小切手の決済を差し止めようとしたという。
野球界では誰もがカッブを嫌っていたと、スタンプは記事に書いた。葬儀に参列した野球関係者は3人だけだった、とのことだった。
記事は具体性を欠いていたし、コメントは匿名のものだけだった。それに、葬儀は家族だけで行うと遺族が発表したにもかかわらず、実際には何千人もが駆け付けた。
しかし、カッブを擁護しようとしたスポーツ記者たちの努力もむなしく、記事の内容は独り歩きし始め、やがてその人物像が真実と信じ込まれるようになった。
野球界でマッチョな人種差別主義者が野放しにされていたという物語は、あまりに魅力的だった。人々はカッブをたたくことにより、「自分は人種差別主義者ではない。この男を断罪しているのだから」と言えたのだ。
私が2015年に書いた伝記『タイ・カッブ──恐ろしい美(Ty Cobb: A Terrible Beauty)』は、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに入り、書評でも好意的な評価を得ている。少しずつでも、誤解を解くことができているのだろうか。
いや、カッブが生涯打率1位の座から陥落したというニュースが喝采を浴びたことを考えると、名誉回復はまだ十分でなさそうだ。
<卑劣漢かつ人種差別主義者と信じられてきた名選手の数々の悪評には、ほとんど根拠がなかった>
今は、悪人が相応の報いを受けにくい時代。だから先頃、MLB(米大リーグ)が伝説の強打者タイ・カッブの生涯打率記録を歴代1位から2位に修正したというニュースに、多くのスポーツファンが歓喜した。
カッブは1905~28年に、主にデトロイト・タイガースでプレー。通算打率3割6分7厘という驚異的な数字を残し、つい最近まで誰も超えられない選手とされていた。
カッブはあの時代の最もエキサイティングな選手だった。3球連続で二盗、三盗、本盗を決めたこともあれば、投手への当たり損ねのヒットをランニングホームランにしたこともある。
一方で、「ジョージア・ピーチ」の異名を取ったカッブは、卑劣な人間だったといわれてきた。スパイクの靴底の歯を研ぎ、スライディングの際に相手の内野手を目がけて足を高く上げたとされる。
何よりもカッブは、たちの悪い人種差別主義者だといわれていた。ホテルの黒人従業員の態度が気に入らず、ナイフで刺したという噂もあった。ある野球史家は、カッブが路上で「アフリカ系アメリカ人の男性たちをピストルで容赦なく殴った」と書いた。
カッブは89年のケビン・コスナー主演の映画『フィールド・オブ・ドリームス』で侮辱され(ある登場人物が「あのクソ野郎のことを誰が我慢できた?」と言う)、94年には伝記映画で性犯罪者として描かれ、ケン・バーンズ監督のテレビドキュメンタリー『ベースボール』でも「野球界の恥さらし」と呼ばれた。アメリカの国民的娯楽の長い歴史の中で、これほど悪口を言われた選手はいないだろう。
カッブの生涯打率が2位に修正されたことの「美しさ」は、その経緯にある。MLBはこのほど、かつて存在したニグロリーグ(黒人リーグ)の個人成績をMLBの記録に正式に組み込んだ。その結果、歴代首位打者にジョシュ・ギブソンが躍り出た。
ギブソンはカッブと同じジョージア州出身。16年間で3割7分2厘の生涯打率を残した黒人だ。白人至上主義者が奴隷の孫に負けるという甘美な正義に、人々は満足した。
しかしカッブの伝記を書くために3年以上にわたって彼を調べた者として、私はこの展開に1つだけささやかな問題があると考えている。あの伝説上のタイ・カッブは、そもそも存在しなかったのだ。
カッブが卑劣な人間だったという話は、61年の彼の死去後に流布された神話でしかなかった。これは、私にとっても大変な驚きだった。
1921年、デトロイト・タイガースのユニフォーム姿で BETTMANN/GETTY IMAGES
出版社に送った企画書で、私はカッブが「卑劣なレジェンド」だという証拠を見つけ出すと決意表明していた。ところが過去の記事や法的文書、書簡などを調べ、カッブの家族や彼を知る人々に取材するうちに、当初の企画意図に反する事実に遭遇し続けることになった。例えばカッブがそんなにも嫌われ者だったなら、なぜシカゴ・ホワイトソックスは本拠地がシカゴ以外のチームで最も人気のある選手としてカッブにトロフィーを贈ったのか。
シカゴを拠点とする著名なスポーツライターのリング・ラードナーは、タイガースが遠征してくる試合で観客席からカッブと話ができるよう、彼の守備位置に近い右翼席のチケットを取っていた。なぜか。ラードナーにとってカッブは、友人にもなれそうだと感じさせる珍しいアスリートだったからだ。
黒人の受け入れに賛成
カッブは相手選手にスパイクの歯を向けたといわれるが、そのような証言をした選手は1人しか見つからなかった。そうした中傷に嫌気が差したカッブは、1910年にMLBに手紙を書き、選手がスパイクの歯を鋭くするのを禁止するよう提案した。
人種差別主義者だという批判については、「黒人を銃でよく殴っていた」のように根拠のないものもあった。ファクトチェックで誤りと判明した情報もある。84年の伝記によると、カッブは夜警、精肉業者、ホテルの従業員とけんかをしたことがあり、相手の3人は全て黒人だったとされていた。ところが、私が公的記録を調べると、3人とも白人だったことが分かった。
1886年に南部のジョージア州で生まれた人間が、人種差別主義者でないことなどあり得るのか、という疑問を持つ人もいるかもしれない。
しかしカッブの曽祖父は教会の牧師で、奴隷制に反対して町を追放された人物だ。祖父は、奴隷制反対を理由に南北戦争で南軍の一員として戦うことを拒んだ。教育者で州の上院議員でもあった父は、政治の場で黒人の利害を代弁し、白人の暴徒が黒人をリンチする現場に割って入ったこともあった。
カッブ自身も、1952年に米中部・南部のマイナーリーグ「テキサスリーグ」が初めて黒人選手を受け入れた際、新聞の取材にこう語っている。「渋々ではなく、心から歓迎すべきだ。黒人たちには、プロの野球選手としてプレーする権利がある。その権利がないなんて誰にも言えない」
カッブはニグロリーグの試合にもよく足を運び、ウィリー・メイズをお金を払って見たい同時代で唯一の選手だと評するなど、多くの黒人選手を称賛していた。
36年に史上初の野球殿堂入り EZRA O. SHAWーALLSPORT/GETTY IMAGES
カッブには神経質すぎる面があり、高みを目指さない人をすぐに軽蔑するなど欠点も多かった。だが、そもそも完璧な人間などまずいない。
ほかの選手からは、好かれることもあれば嫌われることもあった。しかし、テッド・ウィリアムズやジョー・ディマジオのような偉大なプレーヤーでさえ(時には嫉妬心から)嫌う選手がいたことは見落とすべきでないだろう。
61年に74歳で死去したときには、敬意に満ちた追悼の言葉が多く寄せられた。36年にほかの4人と共に史上初の野球殿堂入りをしたときに最多得票だったことも強調された。
負の側面を語る人など、誰もいなかった。それなのになぜ『フィールド・オブ・ドリームス』で描かれたようなイメージが定着したのか。
独り歩きした暴露記事
発端となったのは、61年に出版されたカッブの自伝のゴーストライターを務めたアル・スタンプというスポーツ記者だった。カッブはこの自伝を激しく嫌い、死の直前に出版を差し止めようとした。名誉を損なう内容ではなかったが、スタンプが捏造したエピソードや事実関係の誤りが多数含まれていたためだ(自伝は死後に出版)。
この本が物議を醸すことはなかったが、スタンプが雑誌に寄稿した記事は大きな反響を呼んだ。カッブに関する不名誉な暴露話が面白おかしく書かれていたのだ。
そのおおむね事実無根の記事によれば、カッブは大酒飲みで、銃を振りかざしながら車を乗り回し、あるときは夜中に銀行の頭取の自宅に押しかけ、銃を突き付けて5ドルの小切手の決済を差し止めようとしたという。
野球界では誰もがカッブを嫌っていたと、スタンプは記事に書いた。葬儀に参列した野球関係者は3人だけだった、とのことだった。
記事は具体性を欠いていたし、コメントは匿名のものだけだった。それに、葬儀は家族だけで行うと遺族が発表したにもかかわらず、実際には何千人もが駆け付けた。
しかし、カッブを擁護しようとしたスポーツ記者たちの努力もむなしく、記事の内容は独り歩きし始め、やがてその人物像が真実と信じ込まれるようになった。
野球界でマッチョな人種差別主義者が野放しにされていたという物語は、あまりに魅力的だった。人々はカッブをたたくことにより、「自分は人種差別主義者ではない。この男を断罪しているのだから」と言えたのだ。
私が2015年に書いた伝記『タイ・カッブ──恐ろしい美(Ty Cobb: A Terrible Beauty)』は、ニューヨーク・タイムズ紙のベストセラーリストに入り、書評でも好意的な評価を得ている。少しずつでも、誤解を解くことができているのだろうか。
いや、カッブが生涯打率1位の座から陥落したというニュースが喝采を浴びたことを考えると、名誉回復はまだ十分でなさそうだ。