ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<ストリートには「見えない線」が引かれ、人種差別と暴力がはびこる不穏なエリアが形成されていった。20世紀初頭から始まる、ロサンゼルスのストリート・ギャングによる犯罪の歴史を紐解く(その1)>
日本のヤクザ、イタリアのマフィア、そしてアメリカのギャング。彼らは日常に溶け込みながらも、「見えない境界線」をめぐり、争いを繰り広げている。
外から見ればまったく分からない境界線も、そこに暮らす人々にとっては死の境界線とも言うべき厳格なもの。相手の陣地に一歩踏み込んでしまえば、暴力がはびこる恐怖の顔を見せる。
そもそもは自分たちの身を守るために張られた境界線が、今や街の負の遺産になってしまったのか。「アメリカのギャングの首都」たるロサンゼルスの歴史を紐解きながら、境界線の移り変わりをたどってみよう。
境界線によって、どのように分断されているのか、なぜ分断が必要なのか。
2つのウクライナ、ベルリンの壁、国際日付変更線、マラリア・ベルト、バイブル・ベルト......世界各地に存在する、国境とは異なる「見えない境界線」を探った『世界は「見えない境界線」でできている』(マキシム・サムソン著、かんき出版)から、「ロサンゼルスのストリート・ギャング」の項を抜粋し、3回に分けて紹介する。
本記事は第1回。
◇ ◇ ◇
ロサンゼルス、華やかな街の裏の顔「ギャングの首都」
「泥の都」(フロリダ州ベル・グレイド)や「失踪者の港」(ワシントン州アバディーン)ならまだしも、「アメリカのギャングの首都」は、米国で最も不吉な都市のニックネームだろう。
ロサンゼルスと言えば、すぐにハリウッドや料理、ビーチ、穏やかな気候を連想するが、ギャング同士が抗争を繰り返し、人種差別と暴力がはびこる裏の顔があることでも知られている。そうした邪悪な面は、音楽、ビデオゲーム、テレビなどで美化して描かれる。
いまは、このだだっぴろい大都会のあまり知られていない場所を探索する「ギャングツアー」にも参加できる。多くのギャングは、この街を訪れる観光客の鼻先で活動しているのだが。
昼間は人気のカップケーキ・ベーカリー、高級ブティック、流行りのコーヒーショップが立ち並び、のんびりした地域(ネイバーフッド)と思われている街の一部は、夜間は恐ろしい縄張り(フッド)に様変わりする。なかには運から見放されたような地区も存在する。そこは昼間でも「邪悪(ダーク)」でミステリアスな場所とされ、名は知られているが、実際に目にするのはニュースでだけだ。
ストリート・ギャングと縁の深い地域で暮らしている人は、地元の地理の込み入った事情を強く意識しており、「安全な場所」と「危険な場所」を分ける境界に敏感だ。その境界を見きわめるのはかなり難しいが、自分自身や所属するギャングの縄張りを主張する落書き、壁画が手がかりになる。
ロサンゼルスの街並み JohnNilsson-shutterstock
これは、暴力を伴う報復の引き金となり得る危険な行為であり、縄張り間の境界は特に緊張感に満ちている。一部の縄張りは、フリーウェイなどの主要道路、線路、ロサンゼルス川などの明らかな障壁によって区切られている。
だが、多くの場合、経験を通して学ぶしかない。たいていは大変不愉快な経験だが。だいたいの境界は住宅街の2車線道路の「こちら」と「あちら」くらい微妙だ。だから地元住民は、懸命に守られている見えない境界線を越えずに行ける場所と行けない場所の頭のなかの地図(メンタルマップ)を自分でつくらなければならない。
そのような不穏な場所では、住民は身の安全を保つために、日々慎重に過ごす必要がある。ブエノスアイレスのバリオで間違った色やスポーツウェアを着たときと同じく、命取りになりかねない。ギャングの一員であれば、近くの店が敵の縄張りにあったら、わざわざ遠くまで食料品やガソリンを買いに行く場合もある。
また、ギャングの境界線が移動するのに応じて、通る道も定期的に変更しなければならなくなる。そのために、ほんの短い散歩のはずが、目に見えない迷宮を通り抜ける複雑で遠まわりの道のりになる可能性がある。
ギャングとはまったく関係ない人が銃撃戦に巻きこまれることも十分考えられる。実際、最近発生した発砲事件の犠牲者のなかには9歳の子供がいた。住民の多くが、自分が口出ししたことをギャングに知られるのを恐れて、警察への通報に消極的であるのは言うまでもない。
こうしたリスクを考えれば、ロサンゼルスの象徴であるフリーウェイを走っているときでもないかぎり、そういう場所を目のあたりにする「部外者」がほとんどいないのもうなずける。彼らは別の惑星にいるようなものなのだ。
白人による人種差別から身を守るために始まった
ロサンゼルスにおけるギャングの犯罪史――言い換えれば、ロサンゼルスにおける社会的な絆と断絶の歴史――は、20世紀初頭にさかのぼる。〈白い柵(ホワイトフェンス)〉のような象徴的な名前を持つメキシコ系のストリート・ギャングが、白人の近隣住民による人種差別的な攻撃からヒスパニックのコミュニティを守るために誕生した。
もっとも、ギャングの活動が広く世間の関心を集めるようになったのは第二次世界大戦中だった。38番街ギャングのメンバーであるメキシコ系の5人が、ホセ・ガヤルド・ディアスという24歳の農場労働者を殺害したとして証拠不十分のまま有罪判決を受けた1942年のスリーピー・ラグーン殺人事件の裁判は、この件に関する偏見に満ちた言説に反感を持っていたメキシコ系のコミュニティを怒らせた。
翌年、彼らに対して続いていたネガティブなメディア報道にあおられて、暴徒化した白人兵士が当時流行っていたズートスーツというぶかぶかで派手な服を着たメキシコ系の若者を襲撃した。白人たちの目には、ズートスーツは配給服地の無駄使いで、愛国心の欠如の表れと映ったのだ。
たいていの場合、警察はメキシコ系のパチューコだけでなく、そうした不快な身なりをしていない黒人やフィリピン系が暴力を振るわれても傍観しているだけだった。なかには、暴行に加わったあげく、加害者ではなく被害者を逮捕する警官もいた。
こうしてロサンゼルスでは、保護と奉仕が役目であるはずの人々と、民族的および人種的にマイノリティの若者たちのあいだで、何十年にもわたって相互不信と暴力がぶつかり合うことになる。
今日でも、ズートスーツの着用は「公共の迷惑行為」に該当するとして、ロサンゼルスでは違法になっている。
黒人ギャング同士の抗争へと発展していった
第二次世界大戦が終わると、ストリート・ギャングの活動の中心は、イースト・ロサンゼルスからサウス・セントラル・ロサンゼルスへと拡大し、ヒスパニックだけでなく、黒人のギャングが次々と結成された。
ワッツなど低所得者の集まる地域は、すでに人口過密と失業が問題になっており、若い黒人男性は、彼らを排除しようとする近くのコンプトンの白人労働者からしばしば攻撃を受けていた。
黒人の若者が歓迎されていないことは、仲間意識や自分の帰属先を見つける機会の欠如からも明らかだった。ボーイスカウトの支部をはじめ、白人の若者には門戸を開くその他の組織から締め出され、労働市場や住宅市場、さらには教育制度における厳しい差別を肌で知った。スローソンズ、ビジネスメン、グラディエーターズといった初期の黒人ギャングは、その空白を埋めるために創設された。
当時、メキシコ系ギャングはすでに近隣地区の支配権をめぐって抗争を繰り広げていたが、黒人ギャングの縄張りはおもに地元の学校とその周辺にあり、黒人の学生は縄張り内で、悪質なレイシスト団体であるスプーク・ハンターズのような好戦的な白人の若者のギャングから身を守ろうとした。
ところが、白人が郊外に引っ越すにつれて(黒人家庭にはとうていできない選択だった)、一部の黒人ギャング同士で対立するようになった。特に、サウス・セントラル・ロサンゼルスのウエストサイド・ギャングは、普段からイーストサイドのライバルを見下しており、社会経済的な境界線をはさんで分断ができあがった。
縄張りとその境界の重要性はさらに高まった。それでも、現在ストリート・ギャングの悪名の原因となっている暴力は、この時期ほとんど見られなかった。戦いの大部分は殴り合いに限定されており、極端なケースでナイフなど金属製の道具が使われるぐらいで、殺人はごく稀だった。
1965年になると、かつての人種対立が再燃した。マーケット・フライという黒人男性とその母親、義理の兄弟が、白人警官と立ちまわりを演じたことが、ロサンゼルス市警(LAPD)と州兵がワッツの街に投入された6日間の暴動のきっかけになった。
その後、ギャングのメンバーの多くが、警察の嫌がらせと残虐行為に立ち向かう2つの黒人至上主義団体、ブラックパンサー党とUSオーガニゼーションに加入したこともあって、ギャング活動は一時的に休止した。
しかし、サウス・セントラル・ロサンゼルスにおける黒人同士の新しい連帯は長続きしなかった。FBIのプロパガンダに惑わされて道を誤った2つの団体は、新人勧誘と支配権をめぐってたがいを敵と見なした。
サウスイースト・ロサンゼルスを中心に、メンバー同士の撃ち合いが何度か行われたが、最も有名なのは、1969年1月17日にカリフォルニア大学ロサンゼルス校のキャンパスで起こった銃撃戦である。その際、ブラックパンサー党の2人の指導者アルプレンティス・「バンチー」・カーターとジョン・ハギンズが死亡した。黒人コミュニティ内で修復困難な分裂が生じ、暴力事件が路上で多発するようになった。
※第2回:クリップスとブラッズ、白人至上主義、ヒスパニック系...日本人が知らないギャング犯罪史 に続く
『世界は「見えない境界線」でできている』
マキシム・サムソン 著
染田屋 茂、杉田 真 訳
かんき出版
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)
■「危険な」サウス・セントラルはここ。ロサンゼルスの地図を見る
『世界は「見えない境界線」でできている』231ページより
<ストリートには「見えない線」が引かれ、人種差別と暴力がはびこる不穏なエリアが形成されていった。20世紀初頭から始まる、ロサンゼルスのストリート・ギャングによる犯罪の歴史を紐解く(その1)>
日本のヤクザ、イタリアのマフィア、そしてアメリカのギャング。彼らは日常に溶け込みながらも、「見えない境界線」をめぐり、争いを繰り広げている。
外から見ればまったく分からない境界線も、そこに暮らす人々にとっては死の境界線とも言うべき厳格なもの。相手の陣地に一歩踏み込んでしまえば、暴力がはびこる恐怖の顔を見せる。
そもそもは自分たちの身を守るために張られた境界線が、今や街の負の遺産になってしまったのか。「アメリカのギャングの首都」たるロサンゼルスの歴史を紐解きながら、境界線の移り変わりをたどってみよう。
境界線によって、どのように分断されているのか、なぜ分断が必要なのか。
2つのウクライナ、ベルリンの壁、国際日付変更線、マラリア・ベルト、バイブル・ベルト......世界各地に存在する、国境とは異なる「見えない境界線」を探った『世界は「見えない境界線」でできている』(マキシム・サムソン著、かんき出版)から、「ロサンゼルスのストリート・ギャング」の項を抜粋し、3回に分けて紹介する。
本記事は第1回。
◇ ◇ ◇
ロサンゼルス、華やかな街の裏の顔「ギャングの首都」
「泥の都」(フロリダ州ベル・グレイド)や「失踪者の港」(ワシントン州アバディーン)ならまだしも、「アメリカのギャングの首都」は、米国で最も不吉な都市のニックネームだろう。
ロサンゼルスと言えば、すぐにハリウッドや料理、ビーチ、穏やかな気候を連想するが、ギャング同士が抗争を繰り返し、人種差別と暴力がはびこる裏の顔があることでも知られている。そうした邪悪な面は、音楽、ビデオゲーム、テレビなどで美化して描かれる。
いまは、このだだっぴろい大都会のあまり知られていない場所を探索する「ギャングツアー」にも参加できる。多くのギャングは、この街を訪れる観光客の鼻先で活動しているのだが。
昼間は人気のカップケーキ・ベーカリー、高級ブティック、流行りのコーヒーショップが立ち並び、のんびりした地域(ネイバーフッド)と思われている街の一部は、夜間は恐ろしい縄張り(フッド)に様変わりする。なかには運から見放されたような地区も存在する。そこは昼間でも「邪悪(ダーク)」でミステリアスな場所とされ、名は知られているが、実際に目にするのはニュースでだけだ。
ストリート・ギャングと縁の深い地域で暮らしている人は、地元の地理の込み入った事情を強く意識しており、「安全な場所」と「危険な場所」を分ける境界に敏感だ。その境界を見きわめるのはかなり難しいが、自分自身や所属するギャングの縄張りを主張する落書き、壁画が手がかりになる。
ロサンゼルスの街並み JohnNilsson-shutterstock
これは、暴力を伴う報復の引き金となり得る危険な行為であり、縄張り間の境界は特に緊張感に満ちている。一部の縄張りは、フリーウェイなどの主要道路、線路、ロサンゼルス川などの明らかな障壁によって区切られている。
だが、多くの場合、経験を通して学ぶしかない。たいていは大変不愉快な経験だが。だいたいの境界は住宅街の2車線道路の「こちら」と「あちら」くらい微妙だ。だから地元住民は、懸命に守られている見えない境界線を越えずに行ける場所と行けない場所の頭のなかの地図(メンタルマップ)を自分でつくらなければならない。
そのような不穏な場所では、住民は身の安全を保つために、日々慎重に過ごす必要がある。ブエノスアイレスのバリオで間違った色やスポーツウェアを着たときと同じく、命取りになりかねない。ギャングの一員であれば、近くの店が敵の縄張りにあったら、わざわざ遠くまで食料品やガソリンを買いに行く場合もある。
また、ギャングの境界線が移動するのに応じて、通る道も定期的に変更しなければならなくなる。そのために、ほんの短い散歩のはずが、目に見えない迷宮を通り抜ける複雑で遠まわりの道のりになる可能性がある。
ギャングとはまったく関係ない人が銃撃戦に巻きこまれることも十分考えられる。実際、最近発生した発砲事件の犠牲者のなかには9歳の子供がいた。住民の多くが、自分が口出ししたことをギャングに知られるのを恐れて、警察への通報に消極的であるのは言うまでもない。
こうしたリスクを考えれば、ロサンゼルスの象徴であるフリーウェイを走っているときでもないかぎり、そういう場所を目のあたりにする「部外者」がほとんどいないのもうなずける。彼らは別の惑星にいるようなものなのだ。
白人による人種差別から身を守るために始まった
ロサンゼルスにおけるギャングの犯罪史――言い換えれば、ロサンゼルスにおける社会的な絆と断絶の歴史――は、20世紀初頭にさかのぼる。〈白い柵(ホワイトフェンス)〉のような象徴的な名前を持つメキシコ系のストリート・ギャングが、白人の近隣住民による人種差別的な攻撃からヒスパニックのコミュニティを守るために誕生した。
もっとも、ギャングの活動が広く世間の関心を集めるようになったのは第二次世界大戦中だった。38番街ギャングのメンバーであるメキシコ系の5人が、ホセ・ガヤルド・ディアスという24歳の農場労働者を殺害したとして証拠不十分のまま有罪判決を受けた1942年のスリーピー・ラグーン殺人事件の裁判は、この件に関する偏見に満ちた言説に反感を持っていたメキシコ系のコミュニティを怒らせた。
翌年、彼らに対して続いていたネガティブなメディア報道にあおられて、暴徒化した白人兵士が当時流行っていたズートスーツというぶかぶかで派手な服を着たメキシコ系の若者を襲撃した。白人たちの目には、ズートスーツは配給服地の無駄使いで、愛国心の欠如の表れと映ったのだ。
たいていの場合、警察はメキシコ系のパチューコだけでなく、そうした不快な身なりをしていない黒人やフィリピン系が暴力を振るわれても傍観しているだけだった。なかには、暴行に加わったあげく、加害者ではなく被害者を逮捕する警官もいた。
こうしてロサンゼルスでは、保護と奉仕が役目であるはずの人々と、民族的および人種的にマイノリティの若者たちのあいだで、何十年にもわたって相互不信と暴力がぶつかり合うことになる。
今日でも、ズートスーツの着用は「公共の迷惑行為」に該当するとして、ロサンゼルスでは違法になっている。
黒人ギャング同士の抗争へと発展していった
第二次世界大戦が終わると、ストリート・ギャングの活動の中心は、イースト・ロサンゼルスからサウス・セントラル・ロサンゼルスへと拡大し、ヒスパニックだけでなく、黒人のギャングが次々と結成された。
ワッツなど低所得者の集まる地域は、すでに人口過密と失業が問題になっており、若い黒人男性は、彼らを排除しようとする近くのコンプトンの白人労働者からしばしば攻撃を受けていた。
黒人の若者が歓迎されていないことは、仲間意識や自分の帰属先を見つける機会の欠如からも明らかだった。ボーイスカウトの支部をはじめ、白人の若者には門戸を開くその他の組織から締め出され、労働市場や住宅市場、さらには教育制度における厳しい差別を肌で知った。スローソンズ、ビジネスメン、グラディエーターズといった初期の黒人ギャングは、その空白を埋めるために創設された。
当時、メキシコ系ギャングはすでに近隣地区の支配権をめぐって抗争を繰り広げていたが、黒人ギャングの縄張りはおもに地元の学校とその周辺にあり、黒人の学生は縄張り内で、悪質なレイシスト団体であるスプーク・ハンターズのような好戦的な白人の若者のギャングから身を守ろうとした。
ところが、白人が郊外に引っ越すにつれて(黒人家庭にはとうていできない選択だった)、一部の黒人ギャング同士で対立するようになった。特に、サウス・セントラル・ロサンゼルスのウエストサイド・ギャングは、普段からイーストサイドのライバルを見下しており、社会経済的な境界線をはさんで分断ができあがった。
縄張りとその境界の重要性はさらに高まった。それでも、現在ストリート・ギャングの悪名の原因となっている暴力は、この時期ほとんど見られなかった。戦いの大部分は殴り合いに限定されており、極端なケースでナイフなど金属製の道具が使われるぐらいで、殺人はごく稀だった。
1965年になると、かつての人種対立が再燃した。マーケット・フライという黒人男性とその母親、義理の兄弟が、白人警官と立ちまわりを演じたことが、ロサンゼルス市警(LAPD)と州兵がワッツの街に投入された6日間の暴動のきっかけになった。
その後、ギャングのメンバーの多くが、警察の嫌がらせと残虐行為に立ち向かう2つの黒人至上主義団体、ブラックパンサー党とUSオーガニゼーションに加入したこともあって、ギャング活動は一時的に休止した。
しかし、サウス・セントラル・ロサンゼルスにおける黒人同士の新しい連帯は長続きしなかった。FBIのプロパガンダに惑わされて道を誤った2つの団体は、新人勧誘と支配権をめぐってたがいを敵と見なした。
サウスイースト・ロサンゼルスを中心に、メンバー同士の撃ち合いが何度か行われたが、最も有名なのは、1969年1月17日にカリフォルニア大学ロサンゼルス校のキャンパスで起こった銃撃戦である。その際、ブラックパンサー党の2人の指導者アルプレンティス・「バンチー」・カーターとジョン・ハギンズが死亡した。黒人コミュニティ内で修復困難な分裂が生じ、暴力事件が路上で多発するようになった。
※第2回:クリップスとブラッズ、白人至上主義、ヒスパニック系...日本人が知らないギャング犯罪史 に続く
『世界は「見えない境界線」でできている』
マキシム・サムソン 著
染田屋 茂、杉田 真 訳
かんき出版
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)
■「危険な」サウス・セントラルはここ。ロサンゼルスの地図を見る
『世界は「見えない境界線」でできている』231ページより