メレディス・ウルフ・シザー
<慎重に計画を立て、困難に直面してもユーモア精神を忘れるな。紛争地から生還し、現在は癌と戦うジャーナリストの危機対処法>
ロッド・ノードランドはフィラデルフィア・インクワイアラー紙、本誌、ニューヨーク・タイムズ紙の外国特派員として50年近く活動し、ピュリツァー賞にも輝いたジャーナリストだ。ニカラグア、カンボジア、ボスニアからアフガニスタンまで150を超える国で戦争や政変を追ってきた。
そんな彼が今年、回想録『モンスーンを待つ(Waiting for the Monsoon)』(マリナー・ブックス刊)を出版した。これまでの取材経験で培った世界を「観察する目」と、彼が現在戦っている自身の病について、本誌メレディス・ウルフ・シザーが聞いた。
◇ ◇ ◇
──世界有数の凶悪なテロ組織のリーダーたちを間近で見てきたあなたならではの観点から、私たちが過激主義について理解すべきことは?
過激主義だけを切り離して理解することはできない。現在起きている紛争との関連で考えるべきだ。だがそれが難しい場合もある。女性や子供への暴力の場合は特にそうだ。
──あなたがレバノンの首都ベイルートから現地の情勢を伝えていた1985年、AP通信のテリー・アンダーソン記者がパレスチナのイスラム教シーア派テロ組織イスラム聖戦機構に拉致され、その後7年近く人質になった。ウォール・ストリート・ジャーナル紙のエバン・ゲルシュコビッチ記者も昨年3月からロシアで拘束中だ。報道機関がスタッフの身の安全と真実の報道を両立させるには?
慎重に、スタッフの安全を最優先に考えるべきだ。テリーは当時私の近所に住んでいて、彼が拉致された数時間後、私はオフィス前で銃を持ったイスラム教シーア派の男たちに取り囲まれた。だが私は現地の経験豊富な同僚のアドバイスに従ってアリという男をボディーガードに雇っていた。アリは勇敢にも9ミリ拳銃を取り出して6人の敵に応戦し、私に逃げろとささやいた。
ボディーガードが本当に命懸けでクライアントを守るのか、私は日頃から懐疑的だった。私たちのオフィスはイスラム教ドルーズ派の管轄する地区にあり、当時シーア派とドルーズ派は不安定ながらも停戦状態だったので、私を拉致しようとした連中に応戦したのはとっさの英雄的行為ではなく計算ずくだった、とアリは説明した。こうした「ニアミス」から学んだのは、身の安全のためには慎重に行動しろということだ。
──現在、紛争地域を取材している報道陣に何かアドバイスは?
しっかり計画を立てること。私がイラクやアフガニスタンで取材していた頃は、あまりに危険なので各社がフルタイムの安全保障顧問を雇っていた。顧問は退役軍人だったが、彼らが持ち込んだのは銃火器ではなく軍事的経験だ。オフィスを出るときは、イスラム主義組織タリバンやIS(イスラム国)の道路封鎖や路肩爆弾に出くわしたらどうするか、考えられる状況について常に戦略を立てた。
常に車2台に分乗し、先行車には現地スタッフが乗った。トランシーバー2台をフロントシートの下に隠しておいた。外国人は2台目に乗り、1台目にはスマホやIDカードなど現地スタッフと私たち外国人をつなぐものは一切持ち込まなかった。この手順は業界標準となり、最善の慣行になりつつある。計画と現地の人々の専門的なアドバイスが全てだ。
脳腫瘍の宣告を受けた直後にパートナーのレイラと COURTESY OF THE AUTHOR
──特派員生活で特に印象的な出来事は?
2018年にニューヨーク・タイムズの特派員としてアフガニスタンのシーア派が大部分を占めるジャゴリ地区を取材したときのことだ。タリバンが同地区を完全に包囲し、ジャゴリへの道は危険すぎて誰も使えなかった。ジャゴリをタリバンの攻撃から守るべく、アフガニスタン政府は特殊部隊を派遣。私が支援団体をアフガニスタン各地に運ぶ小型機に同乗し何とか現地入りしたとき、最悪の攻撃が始まろうとしていた。
まさに報道カメラマンが自分たちの重要な心構えとして、(ピントがシャープな絞りの)F8(エフエイト)に掛けて言う「運命(フェイト)でそこにいる」状態だった。私たちは政府の地区司令部ビルにいた。戦況報告のために派遣されていた役人は「万事順調」の一点張りだった。死者は多少いるが大したことはなく、ジャゴリ陥落の噂は皆タリバンのプロパガンダだ、と。
私たちは階段の一番上にいて、正面の巨大なガラス窓から下の駐車場が見えた。駐車場には特殊部隊のピックアップトラックが次から次へとやって来て、その荷台には多くの遺体が積まれていた。戦争の流れを変えると信じる米軍の特殊訓練を受けたアフガン兵たちの遺体だった。
トラックに山積みになった遺体を降ろしながら、戦死した兵士たちの同僚や友人たちの多くはすすり泣いていた。結局トラックは4~5台やって来て、吐き出された遺体はほこりだらけの駐車場に並べられた。その間も役人はジャゴリでは犠牲者はほとんどおらず、特殊部隊は一人も死んでいないと言い続けていた。
ジャーナリストにとっては、めったにない状況だった。特殊部隊の兵士たちの遺体が駐車場に並んでいる光景は、役人の説明が嘘であることを物語っていた。
──あなたは脳腫瘍と勇敢に戦っている。困難に直面した際の対処法について何かアドバイスは?
勇敢なんかじゃない。とにかく楽観的に、何事にもユーモア精神を発揮し、人間の精神はどんな腫瘍が束になってもかなわないくらい強いと確信しているだけだ。気をしっかり持って、万一に備えることだ。
初めて癌宣告を受けた人への実践的なアドバイスは、味方を確保すること。治療はまさに戦場だから。私の味方はパートナーのレイラ・シーガルだ。私たちは2人共、自分たちが置かれた状況に意味を与えるプロジェクトに乗り出した。私はこの本を、レイラも私たちの闘病と愛情について回想録を書いた。
初診のときには、よろしければ私流の「医師適格審査」もどうぞ。決め手は、相手が次のジョークに笑うかどうかだ。「神と医者の違いは?」。答えは「神は自分が医者だとは思わない」。
ノードランドは戦場と癌との戦いの最前線を回想録で振り返る MARINER BOOKS
<慎重に計画を立て、困難に直面してもユーモア精神を忘れるな。紛争地から生還し、現在は癌と戦うジャーナリストの危機対処法>
ロッド・ノードランドはフィラデルフィア・インクワイアラー紙、本誌、ニューヨーク・タイムズ紙の外国特派員として50年近く活動し、ピュリツァー賞にも輝いたジャーナリストだ。ニカラグア、カンボジア、ボスニアからアフガニスタンまで150を超える国で戦争や政変を追ってきた。
そんな彼が今年、回想録『モンスーンを待つ(Waiting for the Monsoon)』(マリナー・ブックス刊)を出版した。これまでの取材経験で培った世界を「観察する目」と、彼が現在戦っている自身の病について、本誌メレディス・ウルフ・シザーが聞いた。
◇ ◇ ◇
──世界有数の凶悪なテロ組織のリーダーたちを間近で見てきたあなたならではの観点から、私たちが過激主義について理解すべきことは?
過激主義だけを切り離して理解することはできない。現在起きている紛争との関連で考えるべきだ。だがそれが難しい場合もある。女性や子供への暴力の場合は特にそうだ。
──あなたがレバノンの首都ベイルートから現地の情勢を伝えていた1985年、AP通信のテリー・アンダーソン記者がパレスチナのイスラム教シーア派テロ組織イスラム聖戦機構に拉致され、その後7年近く人質になった。ウォール・ストリート・ジャーナル紙のエバン・ゲルシュコビッチ記者も昨年3月からロシアで拘束中だ。報道機関がスタッフの身の安全と真実の報道を両立させるには?
慎重に、スタッフの安全を最優先に考えるべきだ。テリーは当時私の近所に住んでいて、彼が拉致された数時間後、私はオフィス前で銃を持ったイスラム教シーア派の男たちに取り囲まれた。だが私は現地の経験豊富な同僚のアドバイスに従ってアリという男をボディーガードに雇っていた。アリは勇敢にも9ミリ拳銃を取り出して6人の敵に応戦し、私に逃げろとささやいた。
ボディーガードが本当に命懸けでクライアントを守るのか、私は日頃から懐疑的だった。私たちのオフィスはイスラム教ドルーズ派の管轄する地区にあり、当時シーア派とドルーズ派は不安定ながらも停戦状態だったので、私を拉致しようとした連中に応戦したのはとっさの英雄的行為ではなく計算ずくだった、とアリは説明した。こうした「ニアミス」から学んだのは、身の安全のためには慎重に行動しろということだ。
──現在、紛争地域を取材している報道陣に何かアドバイスは?
しっかり計画を立てること。私がイラクやアフガニスタンで取材していた頃は、あまりに危険なので各社がフルタイムの安全保障顧問を雇っていた。顧問は退役軍人だったが、彼らが持ち込んだのは銃火器ではなく軍事的経験だ。オフィスを出るときは、イスラム主義組織タリバンやIS(イスラム国)の道路封鎖や路肩爆弾に出くわしたらどうするか、考えられる状況について常に戦略を立てた。
常に車2台に分乗し、先行車には現地スタッフが乗った。トランシーバー2台をフロントシートの下に隠しておいた。外国人は2台目に乗り、1台目にはスマホやIDカードなど現地スタッフと私たち外国人をつなぐものは一切持ち込まなかった。この手順は業界標準となり、最善の慣行になりつつある。計画と現地の人々の専門的なアドバイスが全てだ。
脳腫瘍の宣告を受けた直後にパートナーのレイラと COURTESY OF THE AUTHOR
──特派員生活で特に印象的な出来事は?
2018年にニューヨーク・タイムズの特派員としてアフガニスタンのシーア派が大部分を占めるジャゴリ地区を取材したときのことだ。タリバンが同地区を完全に包囲し、ジャゴリへの道は危険すぎて誰も使えなかった。ジャゴリをタリバンの攻撃から守るべく、アフガニスタン政府は特殊部隊を派遣。私が支援団体をアフガニスタン各地に運ぶ小型機に同乗し何とか現地入りしたとき、最悪の攻撃が始まろうとしていた。
まさに報道カメラマンが自分たちの重要な心構えとして、(ピントがシャープな絞りの)F8(エフエイト)に掛けて言う「運命(フェイト)でそこにいる」状態だった。私たちは政府の地区司令部ビルにいた。戦況報告のために派遣されていた役人は「万事順調」の一点張りだった。死者は多少いるが大したことはなく、ジャゴリ陥落の噂は皆タリバンのプロパガンダだ、と。
私たちは階段の一番上にいて、正面の巨大なガラス窓から下の駐車場が見えた。駐車場には特殊部隊のピックアップトラックが次から次へとやって来て、その荷台には多くの遺体が積まれていた。戦争の流れを変えると信じる米軍の特殊訓練を受けたアフガン兵たちの遺体だった。
トラックに山積みになった遺体を降ろしながら、戦死した兵士たちの同僚や友人たちの多くはすすり泣いていた。結局トラックは4~5台やって来て、吐き出された遺体はほこりだらけの駐車場に並べられた。その間も役人はジャゴリでは犠牲者はほとんどおらず、特殊部隊は一人も死んでいないと言い続けていた。
ジャーナリストにとっては、めったにない状況だった。特殊部隊の兵士たちの遺体が駐車場に並んでいる光景は、役人の説明が嘘であることを物語っていた。
──あなたは脳腫瘍と勇敢に戦っている。困難に直面した際の対処法について何かアドバイスは?
勇敢なんかじゃない。とにかく楽観的に、何事にもユーモア精神を発揮し、人間の精神はどんな腫瘍が束になってもかなわないくらい強いと確信しているだけだ。気をしっかり持って、万一に備えることだ。
初めて癌宣告を受けた人への実践的なアドバイスは、味方を確保すること。治療はまさに戦場だから。私の味方はパートナーのレイラ・シーガルだ。私たちは2人共、自分たちが置かれた状況に意味を与えるプロジェクトに乗り出した。私はこの本を、レイラも私たちの闘病と愛情について回想録を書いた。
初診のときには、よろしければ私流の「医師適格審査」もどうぞ。決め手は、相手が次のジョークに笑うかどうかだ。「神と医者の違いは?」。答えは「神は自分が医者だとは思わない」。
ノードランドは戦場と癌との戦いの最前線を回想録で振り返る MARINER BOOKS