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【写真特集】静かに朽ちゆく出羽島で生きる

ニューズウィーク日本版 2024年7月25日 16時54分

Picture Power
< 写真家・木村肇が写す歴史ある小さな島の集落が内包する時間の堆積。時代性を排したモノクロの島の肖像が問う、人口減少社会の未来>

徳島県南部の牟岐(むぎ)港から連絡船で15分の沖合に浮かぶ出羽島(てばじま)。かつて遠洋漁業で繁栄した島が、いま静かに朽ちようとしている。

江戸時代後期、対岸の牟岐町から入植が始まり、昭和の一時期には島民数は1000人ほどに膨れ上がった。漁師たちの生活様式に適応した「ミセ造り」と呼ばれる伝統的な建造物の町並みが残り、国の重要伝統的建造物群保存地区(重伝建)に選定されている。しかし、その貴重な遺産を継承する者は極めて少なく、島民数は現在50人を切った。その大半は70歳以上で、数年先の島の未来は描けない。

)島の北側にある船着き場から2007年に造られた津波避難施設の「タスカルタワー」を見る

写真家の木村肇は、編集者でジャーナリストの篠原匡と共に、出羽島の日常の暮らしと島民の声を拾い集め、島に残された歴史の記憶を写真集 『TEBAJIMA』(蛙企画)に収めた。初めて電気や水道が開通した時の感激や水産業最盛期の華やかな思い出、海水温の上昇が漁獲高を下げ、収入源のテングサを奪っている近年の窮状、集落振興のために長い間尽力したものの、思った成果が上がらぬうちに、自らの身に老いが訪れた諦念の境地──さまざまな証言と、昭和の趣を残す家々に暮らす島民たちの、時代性を排した白黒の肖像は、島の暮らしの始まりから限界集落となった現在までの多層的な長い時間の積み重ねを表す。

奥村⼋栄輝  昭和14年(1939年)生まれの漁師。マグロ船でインド洋やハワイ沖の漁場へ行った。その後は、しばらくタンカーや貨物船に乗り、島に戻ってからははえ縄漁に従事した。近年は海産物の値段が下がる一方で燃料が高騰し、はえ縄は商売にならなくなった。今は島の対岸の牟岐に住む息子のエビ漁を手伝う。島に住んでいた子供たちは、島外にある高校を卒業後、ここには戻らない。漁業で生計が立たないからだ。かつて港を満杯にしていた漁船は減り続ける

今年4月、民間の有識者でつくる「人口戦略会議」が、日本全国自治体の持続可能性について分析し、744に上る「消滅可能性自治体」を発表した。少産多死の社会では、人と同様に自治体も「亡くなる」運命を背負う。コミュニティーを道連れにこの世から去るのか、その運命を変える行動を起こして次世代に託すのか。災害や疫病、気候変動などが消滅への時計の針を加速させる場合もあり、立ち止まって考える時間は限られる。

木村が敢えて島民たちの顔を写さなかったのは、写真を見る人が自分自身と被写体を置き換えやすくするためだと 言う。出羽島に迫る「島じまい」か否かの選択は、人口減少社会に転じた日本に生きる全ての人に提起された正解のない命題だ。

片岡英子(本誌フォトエディター)

<写真集>
『TEBAJIMA』 (蛙企画)
写真: 木村肇
編集・執筆: 篠原匡
言語:日英併記

<写真展>
木村 肇 / 元吉 烈 作品展「Tebajima」
会期:2024年7月25日(木)〜8月4日(日)
時間:13:00-19:00(木金土日 最終日は18:00まで)
会場:OGU MAG+
詳細は上記リンク先をご覧ください。

 【連載20周年】 Newsweek日本版 写真で世界を伝える「Picture Power」
    2024年7月16,24日号 掲載

⽥中幸寿 出羽島の部落会長を40年以上務める集落の長で、牟岐町漁業組合の組合長。島に初めて水道と電気が通った時の感動は忘れられない。人口減少の始まりは昭和40年前後と回想する。田中の世代が分家をする時に、狭い島には土地が足りず、人が流出した。再興のためのイベントや移住促進も行った。移住者を詮索しないよう努めてはいるが、小さな集落では「言いたくないことも言わないかんことがある」。漁業も努力だけでは立ち行かず、観光業も簡単ではない

(右)マグロ漁師をしていた頃の坂本栄三の姿。娘の留美子は出羽島育ちで、実家の重伝建指定を機に、22年に島に戻った 
(左)島民が荷物の運搬手段として使う「ネコ車」。島が小さく車が通る道路がないため自動車やバイクはない

仲⼭丈⼆ 島に一時的に住んでいる大学生。出羽島からオンラインで大学の授業を受けている。インドネシアのバリ島生まれ。父が夏を過ごすための家を出羽島に購入し、子供の頃は定期的にここを訪れていた。 以前は朝4時頃になると多くの船が一斉にエンジンをかけて出航し、目覚まし時計代わりだった。2018年頃、12年ぶりに島に来た時には、様変わりしてとても静かになっていた。 漁が仕事だというのは理解しているが、楽しんでいるように見え、漁師に憧れる

原⽥素⼦ 出羽生まれの出羽育ちで、自らを「出羽の生え抜き」と呼ぶ。出羽漁協・夫人部の会長をしていた。中学校までは出羽島で過ごし、島外の高校で洋裁を習った。水道の開通前は、住民が井戸までバケツで水をくみに行き、運ぶうちに水量は半分になったという。 島のテングサの品質は高く、値段が高かったので、よく採集していたが、3年ほど前から全く採れなくなり、他の海藻も生えないのでアワビなども姿を消した。健康維持のための散歩が日課

新潟 潔  高校卒業後、神戸の銀行に勤めたが、当時漁師をしていた父親の体調が悪くなり、手伝いのために島に戻った。その後は漁業組合に勤めた。島の維持には、若い人に来てもらって力を借りないと、地域の活動ができないと言う。力仕事も困難。ここでは、72歳の自分が10番目くらいに若い。自宅が重伝建指定を受け、建物の修繕費の9割を国や自治体が負担するが、それは外観だけで内部は自腹。子供が住むなら修繕の価値はあるが、そうではないので難しい

(右)島には空き家が目立つ。朽ちた住居の撤去にも費用がかかるため、大部分はそのままになっている
(左)船着き場と神社の間にある松。神事の際にはこの木の周辺に大漁旗が飾られる



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