高見典和(東京大学大学院総合文化研究科准教授) アステイオン
<世界的にも「死亡率」は低下の一途を辿っているはずだが...。白人低学歴層の寿命を縮める、アメリカ社会と「絶望死現象」について>
アメリカで「絶望死」、つまり自殺、薬物過剰摂取、アルコール性肝臓疾患による死亡数が1990年代末から顕著に増加している。それは、低学歴白人層の雇用や家庭生活の崩壊に起因する。
『絶望死のアメリカ:資本主義がめざすべきもの』(松本裕 訳、みすず書房、2021年、原題:Deaths of Despair and the Future of Capitalism, 2020, Princeton University Press)は、この深刻な社会問題を明らかにした非常に興味深い本である。
この議論は、2015年に消費に関する研究などの功績でノーベル経済学賞を受賞したアンガス・ディートンと、その配偶者であり、医療経済学の専門家のアン・ケースによる2015年の論文に端を発し、多くのメディアの注目を浴びてきた。
20世紀を通じて、乳幼児死亡率が大きく低下し、成人後の死亡率も低下するのが世界的な傾向であった。
先進国においてこの傾向が特に顕著であり、そこでは主要な死亡原因が感染症から生活習慣病に交代し、その生活習慣病での死亡率も減少していく。これは、栄養、衛生環境、疾病の治療方法、生活習慣の改善によるものだった。
しかし、著者たちは、このような長期的・世界的傾向に反する驚くべき事実を発見した。すなわち、アメリカの45〜54歳の白人の死亡率が1990年代末から上昇に転じていることである。
他の先進国では、同時期にも45〜54歳の人々の死亡率は減少しつづけていた。さらに、アメリカの白人高齢者層、ヒスパニックやアフリカ系の中年層においても死亡率は減少していた。
この現象の原因は何なのだろうか。
1990年代末以降、白人の間で顕著に上昇している死亡原因がある。それはまさに冒頭で触れた「絶望死」、すなわち過剰摂取による薬物中毒、自殺、アルコール性肝臓疾患であった。
これらの個別の死亡原因が上昇していることはすでに他の専門家によっても指摘されていた。しかし本書は、これら3つの原因による死亡が相互に関連した出来事だと主張し、これらの死の社会的原因を突き止めようとした。
絶望死の社会的原因を探るため、様々なデータ分析を行っている。まず、死亡率が増加しているのは大学を卒業していない低学歴層に限られることが発見された。
加えて、低学歴層に関して、若い世代ほど絶望死による死亡率が若い年齢のうちに増加していることも発見された。
実際のところ、絶望死は中年層に限られた問題ではなく、低学歴若年層のあいだでも蔓延している。その反対に大卒者に関しては、絶望死の死亡率は生まれた年による影響はなく、どの世代のどの年齢時点においても低い。
では、低学歴と絶望死をつなぐ要因は何なのだろうか。両著者は、継続的な雇用機会の喪失を指摘している。
地域別に見ると、絶望死は雇用率と相関を示している。雇用率は生産年齢人口に占める被雇用者の割合を示すもので、失業率とは違い、非求職者を分母に含む。このため、働く意志を失った人が増加した場合、失業率は悪化しないが、雇用率は悪化する。
低学歴の人々の雇用をめぐる環境は、確実に悪化している。従来は、製造業が低学歴の人々に安定的雇用を提供してきた。各地に大企業の工場があり、組合に保護された「ブルーカラー貴族」が安定的な雇用を享受していた。
しかし近年、そのような工場の多くが閉鎖され、低学歴層の雇用は不安定になっている。低学歴層の雇用劣化は、人生の見通しや意義付け、結婚し安定的な家庭を築く能力、地域のネットワークとの接点の喪失にもつながっているのだ。
雇用率の減少に対して、働かずに社会福祉に依存する人々を怠け者と非難する見方もある。
しかし本書は、まさにこのような人々の間で絶望死が広まっているのであり、その他の様々な指標を見ても、低学歴層が苦しい生活状況にあると指摘している。働くことを放棄した人々に道徳的な非難を浴びせるのは一面的にすぎると本書は強調する。
では何をすれば良いだろうか。
低学歴層の雇用を改善するための方策について真剣に議論されているが、その結論は必ずしも明確ではない。労働組合の強化、労働力外注への規制、最低賃金の大幅な引き上げなどは弊害も大きい。
その一方で、本書は医療制度改革には積極的である。低学歴層の雇用が不安定化しているのは先進国に共通しているにもかかわらず、アメリカでのみ絶望死が上昇しているのは、アメリカの医療制度の特殊性がある。より多くの人々がより安価に適切な医療を受けられるようにするべきだと本書は指摘する。
本書が指摘した絶望死という現象は、現代のアメリカ社会を理解する上で不可欠である。
トランプは悲観的レトリックを前面に押し出し、大統領に選出された。生活状況が著しく悪化した低学歴層は、トランプが自分たちの実情を理解してくれていると感じている。
穏健なはずのバイデン政権も保護貿易的な政策を進めている。これは、海外資本に反発する労働者に配慮がなされているためである。
現在、中毒性の高い薬物を不正に販売しつづけた製薬会社に対する訴訟が進んでおり、さらに薬物依存の治療法改良も進められている。
しかし、本書が指摘するように、この「絶望死」現象の問題の背景はより根深いものであり、低学歴層の生活状況については今後も議論しつづけることが必要である。日本を含む他の国も、学歴差による雇用や健康状態の格差について十分な注意を向ける必要がある。
高見典和(Norikazu Takami)
大阪大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。2009年博士(経済学)取得。学術振興会特別研究員、早稲田大学政治経済学部助教、一橋大学経済研究所専任講師、東京都立大学経済経営学部准教授を経て現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。専門は経済学史、特に20世紀イギリスとアメリカでの経済学と社会の関係を研究。サントリー文化財団において2009年度鳥井フェローを務め、2012年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」に採択。
『絶望死のアメリカ:資本主義がめざすべきもの』
アン・ケース、アンガス・ディートン[著]松本裕[訳]
みすず書房[刊]
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)
<世界的にも「死亡率」は低下の一途を辿っているはずだが...。白人低学歴層の寿命を縮める、アメリカ社会と「絶望死現象」について>
アメリカで「絶望死」、つまり自殺、薬物過剰摂取、アルコール性肝臓疾患による死亡数が1990年代末から顕著に増加している。それは、低学歴白人層の雇用や家庭生活の崩壊に起因する。
『絶望死のアメリカ:資本主義がめざすべきもの』(松本裕 訳、みすず書房、2021年、原題:Deaths of Despair and the Future of Capitalism, 2020, Princeton University Press)は、この深刻な社会問題を明らかにした非常に興味深い本である。
この議論は、2015年に消費に関する研究などの功績でノーベル経済学賞を受賞したアンガス・ディートンと、その配偶者であり、医療経済学の専門家のアン・ケースによる2015年の論文に端を発し、多くのメディアの注目を浴びてきた。
20世紀を通じて、乳幼児死亡率が大きく低下し、成人後の死亡率も低下するのが世界的な傾向であった。
先進国においてこの傾向が特に顕著であり、そこでは主要な死亡原因が感染症から生活習慣病に交代し、その生活習慣病での死亡率も減少していく。これは、栄養、衛生環境、疾病の治療方法、生活習慣の改善によるものだった。
しかし、著者たちは、このような長期的・世界的傾向に反する驚くべき事実を発見した。すなわち、アメリカの45〜54歳の白人の死亡率が1990年代末から上昇に転じていることである。
他の先進国では、同時期にも45〜54歳の人々の死亡率は減少しつづけていた。さらに、アメリカの白人高齢者層、ヒスパニックやアフリカ系の中年層においても死亡率は減少していた。
この現象の原因は何なのだろうか。
1990年代末以降、白人の間で顕著に上昇している死亡原因がある。それはまさに冒頭で触れた「絶望死」、すなわち過剰摂取による薬物中毒、自殺、アルコール性肝臓疾患であった。
これらの個別の死亡原因が上昇していることはすでに他の専門家によっても指摘されていた。しかし本書は、これら3つの原因による死亡が相互に関連した出来事だと主張し、これらの死の社会的原因を突き止めようとした。
絶望死の社会的原因を探るため、様々なデータ分析を行っている。まず、死亡率が増加しているのは大学を卒業していない低学歴層に限られることが発見された。
加えて、低学歴層に関して、若い世代ほど絶望死による死亡率が若い年齢のうちに増加していることも発見された。
実際のところ、絶望死は中年層に限られた問題ではなく、低学歴若年層のあいだでも蔓延している。その反対に大卒者に関しては、絶望死の死亡率は生まれた年による影響はなく、どの世代のどの年齢時点においても低い。
では、低学歴と絶望死をつなぐ要因は何なのだろうか。両著者は、継続的な雇用機会の喪失を指摘している。
地域別に見ると、絶望死は雇用率と相関を示している。雇用率は生産年齢人口に占める被雇用者の割合を示すもので、失業率とは違い、非求職者を分母に含む。このため、働く意志を失った人が増加した場合、失業率は悪化しないが、雇用率は悪化する。
低学歴の人々の雇用をめぐる環境は、確実に悪化している。従来は、製造業が低学歴の人々に安定的雇用を提供してきた。各地に大企業の工場があり、組合に保護された「ブルーカラー貴族」が安定的な雇用を享受していた。
しかし近年、そのような工場の多くが閉鎖され、低学歴層の雇用は不安定になっている。低学歴層の雇用劣化は、人生の見通しや意義付け、結婚し安定的な家庭を築く能力、地域のネットワークとの接点の喪失にもつながっているのだ。
雇用率の減少に対して、働かずに社会福祉に依存する人々を怠け者と非難する見方もある。
しかし本書は、まさにこのような人々の間で絶望死が広まっているのであり、その他の様々な指標を見ても、低学歴層が苦しい生活状況にあると指摘している。働くことを放棄した人々に道徳的な非難を浴びせるのは一面的にすぎると本書は強調する。
では何をすれば良いだろうか。
低学歴層の雇用を改善するための方策について真剣に議論されているが、その結論は必ずしも明確ではない。労働組合の強化、労働力外注への規制、最低賃金の大幅な引き上げなどは弊害も大きい。
その一方で、本書は医療制度改革には積極的である。低学歴層の雇用が不安定化しているのは先進国に共通しているにもかかわらず、アメリカでのみ絶望死が上昇しているのは、アメリカの医療制度の特殊性がある。より多くの人々がより安価に適切な医療を受けられるようにするべきだと本書は指摘する。
本書が指摘した絶望死という現象は、現代のアメリカ社会を理解する上で不可欠である。
トランプは悲観的レトリックを前面に押し出し、大統領に選出された。生活状況が著しく悪化した低学歴層は、トランプが自分たちの実情を理解してくれていると感じている。
穏健なはずのバイデン政権も保護貿易的な政策を進めている。これは、海外資本に反発する労働者に配慮がなされているためである。
現在、中毒性の高い薬物を不正に販売しつづけた製薬会社に対する訴訟が進んでおり、さらに薬物依存の治療法改良も進められている。
しかし、本書が指摘するように、この「絶望死」現象の問題の背景はより根深いものであり、低学歴層の生活状況については今後も議論しつづけることが必要である。日本を含む他の国も、学歴差による雇用や健康状態の格差について十分な注意を向ける必要がある。
高見典和(Norikazu Takami)
大阪大学大学院経済学研究科博士後期課程修了。2009年博士(経済学)取得。学術振興会特別研究員、早稲田大学政治経済学部助教、一橋大学経済研究所専任講師、東京都立大学経済経営学部准教授を経て現在、東京大学大学院総合文化研究科准教授。専門は経済学史、特に20世紀イギリスとアメリカでの経済学と社会の関係を研究。サントリー文化財団において2009年度鳥井フェローを務め、2012年度「若手研究者のためのチャレンジ研究助成」に採択。
『絶望死のアメリカ:資本主義がめざすべきもの』
アン・ケース、アンガス・ディートン[著]松本裕[訳]
みすず書房[刊]
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)