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イタリア映画界で異彩を放つ女性監督の新作『墓泥棒と失われた女神』

ニューズウィーク日本版 2024年7月18日 18時14分

大場正明
<フェリーニ、ヴィスコンティなどイタリア映画史の遺伝子を確かに受け継ぎながら、革新的な作品を発表し続けているアリーチェ・ロルヴァケル監督の新作......>

イタリア映画界で異彩を放つ女性監督アリーチェ・ロルヴァケルの作品には、しばしば不思議な能力を持った人物が登場するが、新作『墓泥棒と失われた女神』も例外ではない。

1980年代、イタリア・トスカーナ地方の田舎町。考古学に魅了されながらも、道を踏み外したらしいイギリス人アーサー。彼は、その一帯で紀元前に栄えた古代エトルリア人の遺跡を発見する特殊な能力を持ち、墓泥棒の仲間たちと掘り出した埋葬品を売りさばいて日銭を稼いでいる。だがある日、希少な価値を持つ美しい女神像を発見したことで、闇のアート市場をも巻き込んだ騒動に発展していく。

トスカーナ、中部イタリアを舞台にした三部作

以前、前作の『幸福なラザロ』(2019)を取り上げたときに、筆者は、長編デビュー作『天空のからだ』(2011)、2作目『夏をゆく人々』(2014)、3作目『幸福なラザロ』を三部作と見ることもできると書いたが、どうやらその解釈は修正する必要がありそうだ。というのも、ロルヴァケルが様々なインタビューで、『夏をゆく人々』、『幸福なラザロ』、そして本作を、彼女が育ったトスカーナ、あるいは中部イタリアを舞台にした三部作と位置づける発言をしているからだ。

但し、ロルヴァケルが最初から三部作の構想を立てていたわけではない。作品を作るうちにそこに繋がりが見えてきて、最終的に三部作になったといことだ。そういう意味では、前作について筆者が注目したことも、三部作を理解するヒントになるように思える。

ここであらためて思いだしておきたいのは、ロルヴァケルの以下のような発言だ。

「私たちはしばしばイタリアを北と南に分け、縦軸の対立について話してきました。しかし今となっては北と南はほとんど変わらないと感じています。ところが山あいにある内陸部の村と海岸部の街や都市を比べると、その違いは明らかです。歴史上でも、人類は隔離された場所から開けた場所へ移動してきました。その動きはもう縦軸では語り切れなくなり、斜め、ジグザグ、横方向など、あらゆる方向へ人は動くようになり、より複雑な風景を作り出すことになったのです」(『幸福なラザロ』プレスより)

南イタリアのレッジョ・カラブリアを舞台にした『天空のからだ』を撮ったときには、ロルヴァケルもおそらく北と南の縦軸を意識していた。しかし、自伝的ではないものの、自身の生い立ちを設定に反映した『夏をゆく人々』、実話にインスパイアされた『幸福なラザロ』を作ったことで、地元を掘り下げるだけでも、広い視野を獲得できることを確信したのだろう。

エトルリア文明が重要な位置を占めている

そんな二作品と本作には、舞台だけではない深い繋がりがある。すぐに気づくのは、『夏をゆく人々』も本作と同じように、エトルリア文明が重要な位置を占めていることだが、その前に『幸福なラザロ』と本作の繋がりを確認しておくべきだろう。

『幸福なラザロ』で、公爵夫人に騙されて働かされていた農民たちは、詐欺が露見して解放される。後半では、街に出た彼らが、泥棒稼業で食いつないでいることがわかる。

では、本作に登場するアーサーの仲間たちは、なぜ墓泥棒になったのか。本作には、吟遊詩人が墓泥棒の物語の語り部となる場面が挿入されるが、その歌のなかに「墓を荒らすのは農夫たちの夢をかなえるため/それは貧困から抜け出す切符をみつけること」という詞がある。

さらにもうひとつ、見逃せない繋がりがある。『幸福なラザロ』で街に出た農民たちは、スペイン人の俳優セルジ・ロペスが演じるウルティモという男に頼って生き延びている。それは、アーサーという外国人に頼る墓泥棒たちに繋がり、吟遊詩人が歌う「カネになる仕事が欲しかっただけ/国は何もしてくれやしない/搾取できる者しか守らない」という詞に呼応する。

結局、貧困から抜け出そうとする墓泥棒たちは、ブラックマーケットを仕切るスパルタコなる人物に搾取されていく。

但し、アーサーはそんな墓泥棒たちと一心同体ではない。彼には異なる運命が待ち受ける。そこで確認したいのが、『夏をゆく人々』と本作の繋がりだ。二作品には、エトルリア文明という要素をめぐって似た構造がある。

イタリアを内側と外側の両方から見る

『夏をゆく人々』の主人公である少女ジェルソミーナの一家は、人里離れた土地で養蜂を営んでいる。ドイツ人の厳しい父親と仕事に縛られるジェルソミーナにとって、変化のきっかけになるのは、近くの遺跡で行われていた地方を紹介するテレビ番組の撮影に遭遇することだ。彼女には、エトルリア人に仮装した司会者が女神のように見え、魔法にかかる。そして番組の企画に応募し、島にあるネクロポリスで開かれるコンテストに一家で参加することになる。

そんな物語の展開に、ロルヴァケルならではといえる独自の視点が絡む。ドイツ人の父とイタリア人の母を持つロルヴァケルは、昔のインタビューで、単純にイタリア人とみなされることに違和感を覚えると語っていた。彼女は、イタリア人であると同時に異邦人でもあり、イタリアを内側と外側の両方から見ているところがある。彼女の作品で外国人の人物が際立つのは、そのことと無関係ではない。

『夏をゆく人々』でいえば、父親が預かることにする更生プログラムの対象になっているドイツ人の少年マルティンがそれに当てはまる。彼とジェルソミーナは、言葉を介することなく、関係を構築していく。マルティンは、口をきかず、触れられることを拒むが、鳥がさえずるように口笛を吹くことができる。ジェルソミーナも、生きたミツバチを口から出してみせるように、異能がある。

そして、テレビが生み出す魔法が解けたとき、ジェルソミーナとマルティンは、闇に包まれた遺跡のなかで、時間や社会から切り離されたような世界を共有する。

アーサーとエトルリア人の遺跡の間にあるもの

一方、本作におけるアーサーとエトルリア人の遺跡の間にあるものはもっと複雑だ。彼が遺跡を発見する能力を発揮するのは、失った婚約者ベニアミーナを探し求め、死者の世界に引き寄せられるからのようにも見える。あるいは、ベニアミーナが現れる夢や墓荒らしを通して、生者と死者の世界を行き来しているようにも見える。いずれにしても、埋葬品を見つけ出してしまえば、アーサーも仲間とそれを売りさばき、搾取の図式に取り込まれていく。

しかし、そんな彼の前に、『夏をゆく人々』のマルティンのように、イタリアという人物が現れる。彼女は、ロルヴァケルの独自の視点が反映されたような人物だといえる。

ベニアミーナの母親フローラの古びた屋敷に転がり込み、元歌手のフローラから歌のレッスンを受ける代わりに、彼女の身の周りの世話をし、彼女に内緒でふたりの子供をそこに住まわせている。イタリアという名前でありながら、ブラジル出身の女優カロル・ドゥアルテが演じ、子供たちとはポルトガル語で会話をする。

アーサーとイタリアという異邦人が出会い、ユーモラスな手話を編み出すなどして、接近していく。アーサーは、『夏をゆく人々』のジェルソミーナが仮装した女神を見て魔法にかかるように、自分が発見した美しい女神像に魅入られるが、そんなイタリアとの関係を通して像が持つ意味が大きく変わり、呪縛を解かれていくことになる。

『墓泥棒と失われた女神』
7月19日(金)Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、シネスイッチ銀座ほか全国順次公開
©2023 tempesta srl, Ad Vitam Production, Amka Films Productions, Arte France Cinéma


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