ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<「頭のよさ」には3パターンしかない。賢くなるには3パターンを理解することからはじまる。ではその3パターンとは>
「頭がよい人」と言われると、どんな人を連想するだろうか? 「理解力がある人」「知識量がある人」「論理的な人」「頭の回転が速い人」「発想が豊かな人」とその定義はまちまちで、定義をいくら集めても「頭のよさ」を説明するには十分ではないことに気付く。では、頭がよいとは何だろう?
日本教育研究所の代表を務める谷川祐基氏は著書『賢さをつくる頭はよくなる。よくなりたければ。』(CCCメディアハウス)で、「頭のよさ」を簡潔に定義したうえで、頭をよくする方法を詳しく解説している。
いわく、思考とは「具体化と抽象化の往復運動である」。そして、頭のよい人とは「具体と抽象の往復運動が得意な人である」。しかも、往復運動はたった3種類しかないと言う。どういうことか?
◇ ◇ ◇
「具体」と「抽象」の距離が長い:「頭のよさ」の要素①
いわゆる頭のよい人とは、ときに常人が思いつかないようなアイデアをひねり出す。これは普通の人よりも《左右》の「移動距離」が長いせいだ[編集部注:本書では《左》に行くほど「具体」、《右》に行くほど「抽象」を表す。図参照]。普通の人が大阪から東京に行って帰って満足しているところを、東京を遥かに越えてサンフランシスコまで行ってくるので、より多くの知見を得られる。
具体的なことを《左》、抽象的なことを《右》に配置する。「具体」と「抽象」は上下関係ではなく、対等な関係だ
《左》の世界である目の前の小さな行動を決めるときも、できるだけ《右》の世界、つまり全体的で長期的なことを考えてから決めたほうが思慮深い人と呼ばれる。《左右》の距離があまりに長いとき、普通の人には意味不明の行動に見えることがある。
あの聖書のフレーズを「具体」と「抽象」で説明すると
キリスト教の聖書には「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出しなさい」という言葉がある。これはイエス・キリストが実際に言った言葉とされている。しかし、殴られたら反対の頰も差し出せというのだから、非常に不合理な行動に見える。
この言葉を実行しているキリスト教徒にも出会ったことがない。いままでのアメリカ大統領は全員キリスト教徒のはずだが、彼らの外交政策を見ていると、どちらかと言えば「やられたらやり返せ」ばかり行っている印象だ。
「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出しなさい」というキリストの教えは、現実的な日常や日々の感情、つまり《左(具体)》の世界では合理的でないし、実行している人もほとんどいない。
この教えは、抽象化して《右(抽象)》の世界で解釈すると多少の合理性が生まれる。日常生活やその場の感情といった《左》の視点ではなくて、「社会制度」や「道徳」といった大きな《右》の視点に移動することによってだ。道徳や社会制度の面から見ると、この教えはたとえば「暴力に対して暴力で対抗しても問題は解決しない」といった解釈ができる。
具体事例を抽象化することで理解が進む
これなら確かにその通りだと納得できる。殴られたからといって殴り返しているようでは、相手もまたさらに殴り返してくるだけである。暴力の連鎖を止めることは非常に重要である。このように解釈している人は多いだろう。
しかしそれでも、何か釈然としないものも残る。暴力に対して暴力で返すことはよくないが、かと言って、自分の左の頰を差し出してもやっぱり何も解決しないのではないだろうか?
「暴力に対しては言論で返す」とか、何かしら別の行動で対抗したほうが状況が前進しそうな感じがする。マハトマ・ガンディーだって、非暴力ではあったが、綿製品の不買運動をしたり、塩の専売に反対して行進したりすることで、イギリスの暴力的な支配に対抗した。黙って頰を差し出していたわけではない。
イエスの、「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出す」という行動について、《右》の世界で解釈してみると多少理解が進んだ。しかし、まだわからないことがある。だからここで、もっと《右》に進んでみよう。
遠い距離まで抽象化することで非凡な発想が生まれる
「社会制度」とか「道徳」、あるいは「国」とか「法律」というのはかなり抽象的な概念だが、所詮は人間どうしの取り決めである。人間が数千年の歴史でつくりあげたものでしかない。それよりももっと《右》方向に意識を向けて、人類の枠をも超え、「生命」とか「世界全体」「宇宙そのもの」という概念から考えるとどうなるだろうか?
ここまで《右》に行くとまさに神の領域であって、果たして人間にたどり着けるかどうか不明ではある。しかし、イエスは神の愛にふれ、その愛を世界に広めようとした人である。少なくとも彼の解釈において、「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出す」ことは、《右》のもっとも端に存在する神の愛を体現する自然な行動だったのだろう。
「頰を殴られた」という経験は、かなり現実的な《左》の世界のできごとだ。あなたは同じ現実的な抽象度に留まって、すぐに殴り返すこともできる。あるいは、もう少しだけ大きな《右》の世界で考えて、言論で抗議するとか、警察に仲裁を頼むといった他の行動を取ることもできる。さらに大きな《右》の世界まで考えれば、逆の頰を差し出すこともできる。
このうちどれが正解というわけではないが、《左右》の距離を長くとるほど、幅広く深い選択肢をたくさん考え出すことができる。それだけ頭がよいということだ。そして距離が人並み外れて長くなると、良くも悪くも、常人には理解できないアイデアも出てくるのだ。
「具体化」と「抽象化」のスピードが速い:「頭のよさ」の要素②
いわゆる「頭の回転が速い人」とは、反応が速くて言われたことにすぐ返答できる。このような人はつまり何が速いかというと、具体化と抽象化のスピードが速いのだ。《左》と《右》を、各駅停車で往復するのではなく新幹線で行き来する。
「何も考えていない人」も反応だけは速いが、違いは《左右》の移動をしているかどうかだ。「頭の回転が速い人」は、具体的な質問に対して、短い時間の中でも本質や全体を考えてから返答している。
テレビのコメンテーターなどには、この意味で「頭のよい」人が多い。意見を求められて、「では1時間ほど熟考しますね」と言っていたら番組が終わってしまう。聞かれて1秒後には、何かおもしろい意見を言わなくてはならないのだ。
コメンテーターをしている人と実際に会うと、頭の回転の速さに感心する。彼らとはプライベートで会話していても、気の利いた受け答えがすぐに返ってくるのだ。
「具体化」と「抽象化」の回数が多い:「頭のよさ」の要素③
「頭がよい人は、間違いを避けて正解にたどり着くのが上手だ」
もしかして、そう思っていないだろうか? だとしたらあなたは「頭が悪い」。......でも、そんなに気を悪くしないでほしい。世の中のほとんどの人はあなたと同じ誤解をしている。ところが、実際は逆なのだ。
◇ ◇ ◇
「頭がよい人は、たくさんの間違いにぶつかったから正解がわかる」
この本では「思考」ですべてが解決できるようなことを語ってきた。それなのに「体験」も必要だというのは一見主張をひっくり返したようだが、抽象的に考え具体的に考えたところで、思考の結果が常に正しいとは限らない。考えれば正解がわかるというのは幻想である。思考から出てきた理論は、ただの仮説に過ぎない。仮説を具体的な事実に付き合わせてようやく正解か間違いかがわかる。
トライ&エラーの精神は頭のよさと無縁ではない
トーマス・エジソンは、白熱電球を実用化する際に、6000種類の材料でフィラメントを作って実験した。「どうしたら長持ちするフィラメントが作れるのか?」という抽象的な理論はあったと思うが、それを証明するには実際に実験するしかなかった。6000回の実験と5999回の失敗の結果、優秀な白熱電球が発明され、世界は明るくなったのだ。
抽象的な理論は、何度も具体的に実践して確かめなければならない。もし間違っていたら理論を修正して改善していくのだ。何度も《左》の世界で検証することで《右》の世界は洗練されていく。
失敗を恐れず、何度も行動することも「頭のよさ」の一部と言える。頭の中で考えるだけなら、本当に何度間違えてもノーリスクだ。「頭のよさ」を考えるうえで、忘れられがちなのだが、距離、スピードとともに重要なのが「回数」なのだ。
◇ ◇ ◇
谷川祐基(たにかわ・ゆうき)
日本教育政策研究所代表取締役。1980年生まれ。愛知県立旭丘高校卒。東京大学農学部緑地環境学専修卒。小学校から独自の学習メソッドを構築し、塾には一切通わずに高校3年生の秋から受験勉強を始め、東京大学理科Ⅰ類に現役合格。大学卒業後、「自由な人生と十分な成果」の両立を手助けするための企業コンサルティング、学習塾のカリキュラム開発を行う。
著書に『仕事ができる 具体と抽象が、ビジネスを10割解決する。』『見えないときに、見る力。:視点が変わる打開の思考法』『賢者の勉強技術:短時間で成果を上げる「楽しく学ぶ子」の育て方 』(共にCCCメディアハウス)がある。
『賢さをつくる 頭はよくなる。よくなりたければ。』
谷川祐基[著]
CCCメディアハウス[刊]
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<「頭のよさ」には3パターンしかない。賢くなるには3パターンを理解することからはじまる。ではその3パターンとは>
「頭がよい人」と言われると、どんな人を連想するだろうか? 「理解力がある人」「知識量がある人」「論理的な人」「頭の回転が速い人」「発想が豊かな人」とその定義はまちまちで、定義をいくら集めても「頭のよさ」を説明するには十分ではないことに気付く。では、頭がよいとは何だろう?
日本教育研究所の代表を務める谷川祐基氏は著書『賢さをつくる頭はよくなる。よくなりたければ。』(CCCメディアハウス)で、「頭のよさ」を簡潔に定義したうえで、頭をよくする方法を詳しく解説している。
いわく、思考とは「具体化と抽象化の往復運動である」。そして、頭のよい人とは「具体と抽象の往復運動が得意な人である」。しかも、往復運動はたった3種類しかないと言う。どういうことか?
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「具体」と「抽象」の距離が長い:「頭のよさ」の要素①
いわゆる頭のよい人とは、ときに常人が思いつかないようなアイデアをひねり出す。これは普通の人よりも《左右》の「移動距離」が長いせいだ[編集部注:本書では《左》に行くほど「具体」、《右》に行くほど「抽象」を表す。図参照]。普通の人が大阪から東京に行って帰って満足しているところを、東京を遥かに越えてサンフランシスコまで行ってくるので、より多くの知見を得られる。
具体的なことを《左》、抽象的なことを《右》に配置する。「具体」と「抽象」は上下関係ではなく、対等な関係だ
《左》の世界である目の前の小さな行動を決めるときも、できるだけ《右》の世界、つまり全体的で長期的なことを考えてから決めたほうが思慮深い人と呼ばれる。《左右》の距離があまりに長いとき、普通の人には意味不明の行動に見えることがある。
あの聖書のフレーズを「具体」と「抽象」で説明すると
キリスト教の聖書には「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出しなさい」という言葉がある。これはイエス・キリストが実際に言った言葉とされている。しかし、殴られたら反対の頰も差し出せというのだから、非常に不合理な行動に見える。
この言葉を実行しているキリスト教徒にも出会ったことがない。いままでのアメリカ大統領は全員キリスト教徒のはずだが、彼らの外交政策を見ていると、どちらかと言えば「やられたらやり返せ」ばかり行っている印象だ。
「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出しなさい」というキリストの教えは、現実的な日常や日々の感情、つまり《左(具体)》の世界では合理的でないし、実行している人もほとんどいない。
この教えは、抽象化して《右(抽象)》の世界で解釈すると多少の合理性が生まれる。日常生活やその場の感情といった《左》の視点ではなくて、「社会制度」や「道徳」といった大きな《右》の視点に移動することによってだ。道徳や社会制度の面から見ると、この教えはたとえば「暴力に対して暴力で対抗しても問題は解決しない」といった解釈ができる。
具体事例を抽象化することで理解が進む
これなら確かにその通りだと納得できる。殴られたからといって殴り返しているようでは、相手もまたさらに殴り返してくるだけである。暴力の連鎖を止めることは非常に重要である。このように解釈している人は多いだろう。
しかしそれでも、何か釈然としないものも残る。暴力に対して暴力で返すことはよくないが、かと言って、自分の左の頰を差し出してもやっぱり何も解決しないのではないだろうか?
「暴力に対しては言論で返す」とか、何かしら別の行動で対抗したほうが状況が前進しそうな感じがする。マハトマ・ガンディーだって、非暴力ではあったが、綿製品の不買運動をしたり、塩の専売に反対して行進したりすることで、イギリスの暴力的な支配に対抗した。黙って頰を差し出していたわけではない。
イエスの、「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出す」という行動について、《右》の世界で解釈してみると多少理解が進んだ。しかし、まだわからないことがある。だからここで、もっと《右》に進んでみよう。
遠い距離まで抽象化することで非凡な発想が生まれる
「社会制度」とか「道徳」、あるいは「国」とか「法律」というのはかなり抽象的な概念だが、所詮は人間どうしの取り決めである。人間が数千年の歴史でつくりあげたものでしかない。それよりももっと《右》方向に意識を向けて、人類の枠をも超え、「生命」とか「世界全体」「宇宙そのもの」という概念から考えるとどうなるだろうか?
ここまで《右》に行くとまさに神の領域であって、果たして人間にたどり着けるかどうか不明ではある。しかし、イエスは神の愛にふれ、その愛を世界に広めようとした人である。少なくとも彼の解釈において、「右の頰を打たれたら、左の頰をも差し出す」ことは、《右》のもっとも端に存在する神の愛を体現する自然な行動だったのだろう。
「頰を殴られた」という経験は、かなり現実的な《左》の世界のできごとだ。あなたは同じ現実的な抽象度に留まって、すぐに殴り返すこともできる。あるいは、もう少しだけ大きな《右》の世界で考えて、言論で抗議するとか、警察に仲裁を頼むといった他の行動を取ることもできる。さらに大きな《右》の世界まで考えれば、逆の頰を差し出すこともできる。
このうちどれが正解というわけではないが、《左右》の距離を長くとるほど、幅広く深い選択肢をたくさん考え出すことができる。それだけ頭がよいということだ。そして距離が人並み外れて長くなると、良くも悪くも、常人には理解できないアイデアも出てくるのだ。
「具体化」と「抽象化」のスピードが速い:「頭のよさ」の要素②
いわゆる「頭の回転が速い人」とは、反応が速くて言われたことにすぐ返答できる。このような人はつまり何が速いかというと、具体化と抽象化のスピードが速いのだ。《左》と《右》を、各駅停車で往復するのではなく新幹線で行き来する。
「何も考えていない人」も反応だけは速いが、違いは《左右》の移動をしているかどうかだ。「頭の回転が速い人」は、具体的な質問に対して、短い時間の中でも本質や全体を考えてから返答している。
テレビのコメンテーターなどには、この意味で「頭のよい」人が多い。意見を求められて、「では1時間ほど熟考しますね」と言っていたら番組が終わってしまう。聞かれて1秒後には、何かおもしろい意見を言わなくてはならないのだ。
コメンテーターをしている人と実際に会うと、頭の回転の速さに感心する。彼らとはプライベートで会話していても、気の利いた受け答えがすぐに返ってくるのだ。
「具体化」と「抽象化」の回数が多い:「頭のよさ」の要素③
「頭がよい人は、間違いを避けて正解にたどり着くのが上手だ」
もしかして、そう思っていないだろうか? だとしたらあなたは「頭が悪い」。......でも、そんなに気を悪くしないでほしい。世の中のほとんどの人はあなたと同じ誤解をしている。ところが、実際は逆なのだ。
◇ ◇ ◇
「頭がよい人は、たくさんの間違いにぶつかったから正解がわかる」
この本では「思考」ですべてが解決できるようなことを語ってきた。それなのに「体験」も必要だというのは一見主張をひっくり返したようだが、抽象的に考え具体的に考えたところで、思考の結果が常に正しいとは限らない。考えれば正解がわかるというのは幻想である。思考から出てきた理論は、ただの仮説に過ぎない。仮説を具体的な事実に付き合わせてようやく正解か間違いかがわかる。
トライ&エラーの精神は頭のよさと無縁ではない
トーマス・エジソンは、白熱電球を実用化する際に、6000種類の材料でフィラメントを作って実験した。「どうしたら長持ちするフィラメントが作れるのか?」という抽象的な理論はあったと思うが、それを証明するには実際に実験するしかなかった。6000回の実験と5999回の失敗の結果、優秀な白熱電球が発明され、世界は明るくなったのだ。
抽象的な理論は、何度も具体的に実践して確かめなければならない。もし間違っていたら理論を修正して改善していくのだ。何度も《左》の世界で検証することで《右》の世界は洗練されていく。
失敗を恐れず、何度も行動することも「頭のよさ」の一部と言える。頭の中で考えるだけなら、本当に何度間違えてもノーリスクだ。「頭のよさ」を考えるうえで、忘れられがちなのだが、距離、スピードとともに重要なのが「回数」なのだ。
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谷川祐基(たにかわ・ゆうき)
日本教育政策研究所代表取締役。1980年生まれ。愛知県立旭丘高校卒。東京大学農学部緑地環境学専修卒。小学校から独自の学習メソッドを構築し、塾には一切通わずに高校3年生の秋から受験勉強を始め、東京大学理科Ⅰ類に現役合格。大学卒業後、「自由な人生と十分な成果」の両立を手助けするための企業コンサルティング、学習塾のカリキュラム開発を行う。
著書に『仕事ができる 具体と抽象が、ビジネスを10割解決する。』『見えないときに、見る力。:視点が変わる打開の思考法』『賢者の勉強技術:短時間で成果を上げる「楽しく学ぶ子」の育て方 』(共にCCCメディアハウス)がある。
『賢さをつくる 頭はよくなる。よくなりたければ。』
谷川祐基[著]
CCCメディアハウス[刊]
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