福嶋亮大(立教大学文学部教授) アステイオン
<1980年代から続く、数少ない雑誌の「生き残り」として──『アステイオン』100号の特集「『言論のアリーナ』としての試み」より「夕方の庭のような雑誌」を転載>
あらゆる新雑誌は旧雑誌への批評である──少なくとも理念的には。
今までの媒体では書きたいことを書けない、届いてほしい読者に届かない、出版界の硬直している部分に風穴をあけたい。これらの不全感が複数の書き手たちに不可視の塊として蓄積してきたときにこそ、新しい雑誌が渇望されるのだ。
ということは、現状に不満をもつ執筆者や編集者がいなければ、雑誌を作ったりリニューアルしたりしても、さほどインパクトはない。
残念ながら、今の雑誌の状況を見ていると、空転を感じざるを得ない。新しさを標榜する雑誌を見ても、その執筆者はたいてい似たり寄ったりの面子であり、しかも彼らの書く内容はどの雑誌であったとしてもほとんど差異がないからだ。
「この媒体でなければ書けないことを書く」という強い意志がそこには欠けている。従来の「期待の地平」から逸れることのない、要は読むまでもなく内容があらかじめ分かってしまう単為生殖の雑誌群──それが読者に真の知的な驚きを生み出すことはないだろう。
文壇だろうと学術界だろうと、今やテクストの外の突発的なスキャンダルばかりが話題になるのは、すでに誌面が半ば生成AIの書いたテクストのようになっているからである。
それにしても、なぜこんなことになったのか。言うまでもなく、雑誌とは生者の世界である。存命の執筆者がいなければ、雑誌は成り立たない。死者の本が再刊されることはあっても、死者の雑誌が出ることはない。
雑誌とはさまざまな意味で、その時代の奏でる「ライブ」なのだ。
だが、身もふたもないことを言えば、今は生者よりも死者のほうが濃密に感じられる時代ではないか──私も生者の端くれとして、こんな情けないことは言いたくないが、後述する1980年代の雑誌のバックナンバーをめくっていると、どうしてもそう感じてしまう。
今、雑誌の活力を維持するのは難しそうだ。
加えて、インターネットがこれだけ浸透すると、書き手は紙の雑誌で書けないホンネも、ネットでは書けると錯覚してしまう。
かく言う私も、これまで出した書籍はたいてい書き下ろしかインターネットの連載がもとになっていて、紙の雑誌の連載を単行本にしたのは『ハロー、ユーラシア』だけだ。
私は結局、文壇にも論壇にも学会にも帰属感がないうえに、そもそも集団というものに不信感や嫌悪感がある。そういうタイプの人間には、雑誌よりも書籍やネットのほうが快適なようだ。
ならば、雑誌はなくてよいのかと言えば、そうではない。書くことは孤独な個人作業であり、ゆえにそれは環境からの支援がなければすぐに枯渇してしまう。
仮に古い時代について書いていたとしても──あるいはそれならばなおさら──、そのテクストには「ライブ」の汗と活気が不可欠なのである。単為生殖的な雑誌ではない、本当の意味でライブ感をもった雑誌だけが、孤独な書き手どうしをつなぐ実り豊かな連帯の場となり得るだろう。
さて、本題の『アステイオン』である。『アステイオン』は1986年に創刊された。
80年代の雑誌というと、私は『へるめす』(1984年創刊)、『GS たのしい知識』(1984年創刊)、『リュミエール』(1985年創刊)あたりのバックナンバーを何冊かもっていて、いずれも楽しく読んできたけれども、『アステイオン』の初期のバックナンバーを手に取ったのは今回が初めてである。
たいした差ではないが、これらの雑誌と比べると『アステイオン』は多少後発である。このちょっとした「遅れ」は、山崎正和をはじめ丸谷才一や司馬遼太郎を起用した雑誌のカラーにおいて拡大される。
初期の『アステイオン』は多元主義的でオープンな市民社会の建設という大きなテーマ──それは山崎の「柔らかい個人主義」という標語と直結する──を中心としつつ、本格的な国際社会の到来のなかで「日本は今後どうあるべきか」あるいは「日本とは何であったか」という問いをたえず誌面に響かせていた。
フランスのポストモダン思想が80年代の日本思想の前衛であり(むろん前衛の廃墟に続くポストモダンを前衛と呼ぶのはおかしいが、大雑把なイメージとして理解してほしい)、それが『GS』や『リュミエール』の酵母になったとしたら、《市民社会》と《日本》というオーソドックスな問題設定に戻った『アステイオン』はいわば後衛性を象徴している。
実際、ポスト産業社会や消費社会をテーマに取り上げる場合でも、山崎正和の対談相手はフランスのジャン・ボードリヤールではなく、アメリカのダニエル・ベルやダニエル・ブーアスティンであり、そこにもエクセントリックなポストモダン思想を退ける雑誌のカラーがよく示されていた。
それとも関わるが、日本の位置がしばしばアメリカを座標軸として測定されているのも、初期の『アステイオン』の特徴だろう。当時の論考を読んでいると、日米貿易摩擦が激化し、ジャパンバッシングが生じるなかで、アメリカとの関係が抜き差しならなくなっているという危機感がうかがえる。
今からすると隔世の感があるが、アメリカに追従してきた戦後日本が大きな分岐点を迎えているというのが、雑誌としての認識だろう。
このように、前衛から後衛までいろいろなカラーがあったとはいえ、80年代の雑誌において、硬直化した「論壇」や「文壇」から批評精神は出てこない、ということは当然の前提となっていたように思える。
お作法やイデオロギーに染まった「壇」では、言葉と現実が無邪気になれあい、言説がオートマティックに推進されてしまう。しかし、批評ないし批判とは、何よりもまず言葉と現実のあいだのギャップ(ずれ)の意識から始まるものである。
たとえば、『リュミエール』の責任編集を務めた蓮實重彦にとって、映画は言葉ではついに所有できない他者である。この光り輝くメディアを前にして「書くことの特権性」は崩れ去るしかない。言葉を超えたものを言葉で追跡するという不可能な営みこそが、『リュミエール』の「思想」なのだ。
かたや『へるめす』や『GS』の場合、社会のみならず文化・芸術まで含めてさまざまな領域の横断性こそが強調される。とても全体を見通せない複雑怪奇な現実を前にして、領域間の異種配合を積極的に推し進めることが、思想の言葉を生き残らせる鍵となった。
『アステイオン』ではアメリカとの対立が深まるなか、戦後日本の自己認識の輪郭が崩れつつあることが、ギャップの意識の源泉となった。
よく知っていたはずの《日本》のイメージが経済的繁栄と対外的危機のなかで、徐々に解体されてゆく──このアイデンティティの揺らぎや混乱をいわば逆用するようにして、特に山崎正和は、日本が多元的な市民社会に生まれ変わることを望んだ。
つまり、《日本》からその自明性が失われつつあったからこそ、むしろそこに豊かな多事争論の場を創造する、それが山崎流の「柔らかい個人主義」の実践であったと言えるだろう。
もとより、そのような多事争論の場が、お作法の固まった「論壇」の言説に舞い戻ってしまう危険性は常にある。とはいえ、雑誌の出発点に、日本の現実が旧来の言葉とずれつつあるというギャップがあったことは確かである。
山崎正和という批評家が雑誌の中心にいなければ、そのギャップが際立つことはなかっただろうし、冷戦と昭和の末期に生まれた『アステイオン』が令和まで続くこともなかっただろう。
◇ ◇ ◇
私から見ると、80年代は雑誌の時代であり、特に季刊の批評誌で面白いものが目立った時代である。
『アステイオン』、『へるめす』、『リュミエール』、『GS』。そのいずれもが季刊なのは偶然ではないだろう(ちなみに、出版史の素人としていいかげんなことを言えば、その前駆的形態は江藤淳・高階秀爾・遠山一行・古山高麗雄が編集メンバーの1960~70年代の『季刊藝術』にあったと思う)。
週刊誌が動きのすばやい動物のようなものだとしたら、季刊誌はいわば大地に根を張った《庭》のようなものである。そこには巨木のような言説もあれば、まだ生長途上の若々しい言説もあり、ジャーナリスティックな分析もあれば理論的な考察もある。
そして、ときにそれらがお互い交雑し、ときに外界からの強い風雨に翻弄される──しかも、このようなアクシデントがかえって雑誌=庭の植物たちを活気づけることも多いのだ。
さらに、《庭》の内部は一様ではなく、それぞれの言説のあいだに時差というギャップがある。すぐに手折られてしまいそうな若くて弱い植物でも、社会から隔離された庭のなかでは、その成長の時間が保証されるだろう。
ちょうど漫画『ピーナッツ』に出てくるライナスのセキュリティ・ブランケット(安心毛布)のように、雑誌=庭には言説の保護機能があるのだ。
ここで思い出されるのは、山崎正和が社交の時間を《夕方》に見出したことである。様式の固まった《昼》の仕事の時間でも、ホンネ丸出しの《夜》の居酒屋の時間でもない夕方──それは思想や批評の成立する時間でもあるだろう。
雑誌に置き換えれば、学会を意識しすぎて妙にかしこまった《昼》の言説でもなく、ネットに便乗して悪者を叩きすっきりしようとする単為生殖的な《夜》の言説でもない、フェアで風通しがよく、物事の輪郭をたえずゆらめかせる《夕方》の言説こそ、雑誌の生産性を保証するものではないか。
もとより、夕方は短くはかない。世界はどのみち昼と夜を中心に動くのであり、思想や批評は究極的には「夕方の庭」に棲息するしかない弱い言説である。
先述した雑誌も、『アステイオン』を除いてはいずれも80年代をピークとして終刊してしまったのは、夕方の短さを象徴している。ただ、逆に言えば、『アステイオン』は80年代の季刊誌の余韻を伝える、雑誌文化の数少ない生き残りということでもあるだろう。
私はそのような観点から、101号以降の新たな展開に期待している。
福嶋亮大(Ryota Fukushima)
立教大学文学部教授。1981年生まれ。京都大学文学部中国文学科卒業。同大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。文学博士。専門は中国文学、文芸批評。著書に『復興文化論──日本的創造の系譜』(青土社、サントリー学芸賞)、『辺境の思想──日本と香港から考える』(共著、文藝春秋)、『ハロー、ユーラシア──21世紀「中華」圏の政治思想』(講談社)、『感染症としての文学と哲学』(光文社)など多数。
『アステイオン』100号
特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
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<1980年代から続く、数少ない雑誌の「生き残り」として──『アステイオン』100号の特集「『言論のアリーナ』としての試み」より「夕方の庭のような雑誌」を転載>
あらゆる新雑誌は旧雑誌への批評である──少なくとも理念的には。
今までの媒体では書きたいことを書けない、届いてほしい読者に届かない、出版界の硬直している部分に風穴をあけたい。これらの不全感が複数の書き手たちに不可視の塊として蓄積してきたときにこそ、新しい雑誌が渇望されるのだ。
ということは、現状に不満をもつ執筆者や編集者がいなければ、雑誌を作ったりリニューアルしたりしても、さほどインパクトはない。
残念ながら、今の雑誌の状況を見ていると、空転を感じざるを得ない。新しさを標榜する雑誌を見ても、その執筆者はたいてい似たり寄ったりの面子であり、しかも彼らの書く内容はどの雑誌であったとしてもほとんど差異がないからだ。
「この媒体でなければ書けないことを書く」という強い意志がそこには欠けている。従来の「期待の地平」から逸れることのない、要は読むまでもなく内容があらかじめ分かってしまう単為生殖の雑誌群──それが読者に真の知的な驚きを生み出すことはないだろう。
文壇だろうと学術界だろうと、今やテクストの外の突発的なスキャンダルばかりが話題になるのは、すでに誌面が半ば生成AIの書いたテクストのようになっているからである。
それにしても、なぜこんなことになったのか。言うまでもなく、雑誌とは生者の世界である。存命の執筆者がいなければ、雑誌は成り立たない。死者の本が再刊されることはあっても、死者の雑誌が出ることはない。
雑誌とはさまざまな意味で、その時代の奏でる「ライブ」なのだ。
だが、身もふたもないことを言えば、今は生者よりも死者のほうが濃密に感じられる時代ではないか──私も生者の端くれとして、こんな情けないことは言いたくないが、後述する1980年代の雑誌のバックナンバーをめくっていると、どうしてもそう感じてしまう。
今、雑誌の活力を維持するのは難しそうだ。
加えて、インターネットがこれだけ浸透すると、書き手は紙の雑誌で書けないホンネも、ネットでは書けると錯覚してしまう。
かく言う私も、これまで出した書籍はたいてい書き下ろしかインターネットの連載がもとになっていて、紙の雑誌の連載を単行本にしたのは『ハロー、ユーラシア』だけだ。
私は結局、文壇にも論壇にも学会にも帰属感がないうえに、そもそも集団というものに不信感や嫌悪感がある。そういうタイプの人間には、雑誌よりも書籍やネットのほうが快適なようだ。
ならば、雑誌はなくてよいのかと言えば、そうではない。書くことは孤独な個人作業であり、ゆえにそれは環境からの支援がなければすぐに枯渇してしまう。
仮に古い時代について書いていたとしても──あるいはそれならばなおさら──、そのテクストには「ライブ」の汗と活気が不可欠なのである。単為生殖的な雑誌ではない、本当の意味でライブ感をもった雑誌だけが、孤独な書き手どうしをつなぐ実り豊かな連帯の場となり得るだろう。
さて、本題の『アステイオン』である。『アステイオン』は1986年に創刊された。
80年代の雑誌というと、私は『へるめす』(1984年創刊)、『GS たのしい知識』(1984年創刊)、『リュミエール』(1985年創刊)あたりのバックナンバーを何冊かもっていて、いずれも楽しく読んできたけれども、『アステイオン』の初期のバックナンバーを手に取ったのは今回が初めてである。
たいした差ではないが、これらの雑誌と比べると『アステイオン』は多少後発である。このちょっとした「遅れ」は、山崎正和をはじめ丸谷才一や司馬遼太郎を起用した雑誌のカラーにおいて拡大される。
初期の『アステイオン』は多元主義的でオープンな市民社会の建設という大きなテーマ──それは山崎の「柔らかい個人主義」という標語と直結する──を中心としつつ、本格的な国際社会の到来のなかで「日本は今後どうあるべきか」あるいは「日本とは何であったか」という問いをたえず誌面に響かせていた。
フランスのポストモダン思想が80年代の日本思想の前衛であり(むろん前衛の廃墟に続くポストモダンを前衛と呼ぶのはおかしいが、大雑把なイメージとして理解してほしい)、それが『GS』や『リュミエール』の酵母になったとしたら、《市民社会》と《日本》というオーソドックスな問題設定に戻った『アステイオン』はいわば後衛性を象徴している。
実際、ポスト産業社会や消費社会をテーマに取り上げる場合でも、山崎正和の対談相手はフランスのジャン・ボードリヤールではなく、アメリカのダニエル・ベルやダニエル・ブーアスティンであり、そこにもエクセントリックなポストモダン思想を退ける雑誌のカラーがよく示されていた。
それとも関わるが、日本の位置がしばしばアメリカを座標軸として測定されているのも、初期の『アステイオン』の特徴だろう。当時の論考を読んでいると、日米貿易摩擦が激化し、ジャパンバッシングが生じるなかで、アメリカとの関係が抜き差しならなくなっているという危機感がうかがえる。
今からすると隔世の感があるが、アメリカに追従してきた戦後日本が大きな分岐点を迎えているというのが、雑誌としての認識だろう。
このように、前衛から後衛までいろいろなカラーがあったとはいえ、80年代の雑誌において、硬直化した「論壇」や「文壇」から批評精神は出てこない、ということは当然の前提となっていたように思える。
お作法やイデオロギーに染まった「壇」では、言葉と現実が無邪気になれあい、言説がオートマティックに推進されてしまう。しかし、批評ないし批判とは、何よりもまず言葉と現実のあいだのギャップ(ずれ)の意識から始まるものである。
たとえば、『リュミエール』の責任編集を務めた蓮實重彦にとって、映画は言葉ではついに所有できない他者である。この光り輝くメディアを前にして「書くことの特権性」は崩れ去るしかない。言葉を超えたものを言葉で追跡するという不可能な営みこそが、『リュミエール』の「思想」なのだ。
かたや『へるめす』や『GS』の場合、社会のみならず文化・芸術まで含めてさまざまな領域の横断性こそが強調される。とても全体を見通せない複雑怪奇な現実を前にして、領域間の異種配合を積極的に推し進めることが、思想の言葉を生き残らせる鍵となった。
『アステイオン』ではアメリカとの対立が深まるなか、戦後日本の自己認識の輪郭が崩れつつあることが、ギャップの意識の源泉となった。
よく知っていたはずの《日本》のイメージが経済的繁栄と対外的危機のなかで、徐々に解体されてゆく──このアイデンティティの揺らぎや混乱をいわば逆用するようにして、特に山崎正和は、日本が多元的な市民社会に生まれ変わることを望んだ。
つまり、《日本》からその自明性が失われつつあったからこそ、むしろそこに豊かな多事争論の場を創造する、それが山崎流の「柔らかい個人主義」の実践であったと言えるだろう。
もとより、そのような多事争論の場が、お作法の固まった「論壇」の言説に舞い戻ってしまう危険性は常にある。とはいえ、雑誌の出発点に、日本の現実が旧来の言葉とずれつつあるというギャップがあったことは確かである。
山崎正和という批評家が雑誌の中心にいなければ、そのギャップが際立つことはなかっただろうし、冷戦と昭和の末期に生まれた『アステイオン』が令和まで続くこともなかっただろう。
◇ ◇ ◇
私から見ると、80年代は雑誌の時代であり、特に季刊の批評誌で面白いものが目立った時代である。
『アステイオン』、『へるめす』、『リュミエール』、『GS』。そのいずれもが季刊なのは偶然ではないだろう(ちなみに、出版史の素人としていいかげんなことを言えば、その前駆的形態は江藤淳・高階秀爾・遠山一行・古山高麗雄が編集メンバーの1960~70年代の『季刊藝術』にあったと思う)。
週刊誌が動きのすばやい動物のようなものだとしたら、季刊誌はいわば大地に根を張った《庭》のようなものである。そこには巨木のような言説もあれば、まだ生長途上の若々しい言説もあり、ジャーナリスティックな分析もあれば理論的な考察もある。
そして、ときにそれらがお互い交雑し、ときに外界からの強い風雨に翻弄される──しかも、このようなアクシデントがかえって雑誌=庭の植物たちを活気づけることも多いのだ。
さらに、《庭》の内部は一様ではなく、それぞれの言説のあいだに時差というギャップがある。すぐに手折られてしまいそうな若くて弱い植物でも、社会から隔離された庭のなかでは、その成長の時間が保証されるだろう。
ちょうど漫画『ピーナッツ』に出てくるライナスのセキュリティ・ブランケット(安心毛布)のように、雑誌=庭には言説の保護機能があるのだ。
ここで思い出されるのは、山崎正和が社交の時間を《夕方》に見出したことである。様式の固まった《昼》の仕事の時間でも、ホンネ丸出しの《夜》の居酒屋の時間でもない夕方──それは思想や批評の成立する時間でもあるだろう。
雑誌に置き換えれば、学会を意識しすぎて妙にかしこまった《昼》の言説でもなく、ネットに便乗して悪者を叩きすっきりしようとする単為生殖的な《夜》の言説でもない、フェアで風通しがよく、物事の輪郭をたえずゆらめかせる《夕方》の言説こそ、雑誌の生産性を保証するものではないか。
もとより、夕方は短くはかない。世界はどのみち昼と夜を中心に動くのであり、思想や批評は究極的には「夕方の庭」に棲息するしかない弱い言説である。
先述した雑誌も、『アステイオン』を除いてはいずれも80年代をピークとして終刊してしまったのは、夕方の短さを象徴している。ただ、逆に言えば、『アステイオン』は80年代の季刊誌の余韻を伝える、雑誌文化の数少ない生き残りということでもあるだろう。
私はそのような観点から、101号以降の新たな展開に期待している。
福嶋亮大(Ryota Fukushima)
立教大学文学部教授。1981年生まれ。京都大学文学部中国文学科卒業。同大学院文学研究科博士課程研究指導認定退学。文学博士。専門は中国文学、文芸批評。著書に『復興文化論──日本的創造の系譜』(青土社、サントリー学芸賞)、『辺境の思想──日本と香港から考える』(共著、文藝春秋)、『ハロー、ユーラシア──21世紀「中華」圏の政治思想』(講談社)、『感染症としての文学と哲学』(光文社)など多数。
『アステイオン』100号
特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
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