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「論破」と「マウンティング」から離れて...大学生との対話で得た気付き

ニューズウィーク日本版 2024年8月14日 13時0分

水島隆介(月刊誌『Voice』編集長) アステイオン
<雑誌を手に取る人が減り、「自分の感情を裏付けしてくれる記事を読みたい」人が増えるなかで、知的ジャーナリズムと論壇誌の未来を考える> 

先日、ある大学の授業に招かれ、雑誌編集の仕事について話す機会があった。

以前、やはり大学生と話していて「『ジャンプ』も買ったことありません」と言われ、「いよいよそんな時代か、自分たちのころは『SLUM DUNK』とかが連載されていて......」と心のなかで呟き、自分の年齢へと思いを馳せた。

そんな経験もあったから、授業はかなりのアウェーだろうと不安だった。しかも、私が編集している月刊誌『Voice』は、ジャンルで言えば「論壇誌」だ。

しかし、である。当日、学生の皆さんは私の拙い話に、じつに真剣に耳を傾けてくれた。とくに印象的だったのが、一つひとつの記事を「意外とすぐに読める」という声。『Voice』の論考は6,000字前後が多いが、その分量を読むのが苦ではないという反応には勇気をもらえた。

私は若者と日ごろから接しているわけではないから、いまの学生の実際の傾向はわからない。それでも、彼ら彼女らの真剣な眼差しを思い出すと、雑誌というメディアにはまださまざまな可能性が広がっていると再認識させられた。

◇ ◇ ◇

私の手元には『アステイオン』の創刊100号がある。同号の特集は、【「言論のアリーナ」としての試み】。読んで芽生えた気付きを書き連ねればキリがないが、とくに考えを深めたのが、やはりと言うべきか、知的ジャーナリズムの未来についてである。

苅部直氏は同特集に寄せた論考で、55年体制の成立以降、政党間競争は保守・革新の両陣営に分かれ、「それに呼応するようにして、新聞・雑誌に見える論説や、関連書籍の内容が、この両極のどちらかに寄った主張を展開するものになり、場合によっては版元と表題だけを見れば、内容が想像できてしまう」傾向が生まれ、現在にまで至ると指摘する。

雑誌名と執筆者、タイトルを並べれば、多くの記事は結論が読める。それでは、読者は「読まなければいけない」とは思わない――。2018年の夏、ある政治学者に言われた言葉を、いまでもよく覚えている。

当時の私は、現編集部に異動した直後だった。全国に足を運び、一人でも多くの識者などと会って話すことで、『Voice』の進むべき道を模索しようとしていた。いま思えば、論壇の世界に身を置く端くれとして、業界の硬直化を感じていたのかもしれない。

それから6年間、『Voice』でめざしてきたのは、抽象的に言えば「開く/拓く」ことだった。あるテーマに対して、その道の専門家のみならず、分野や主義主張の枠にとらわれず、さまざまな知見や視点から議論を展開する。そうして予定調和を打破することで、読者に多様な気付きを提供する。

私にとって、そのお手本となるメディアの一つが、ほかならぬ『アステイオン』であった。

ただし、ポピュリズムが言論界にも浸食する昨今、自分の感情を裏付けしてくれる記事を読みたいと考える読者も少なくない。もちろん、読書にどんな体験を求めるかは自由だ。

しかし、知的ジャーナリズムの側がその風潮に寄りかかれば、どうなるだろうか。

それは、マーケティングとしては正解なのかもしれない。それでも私の心の奥には、「学問も出版業界も市場を見るだけでは、知的ジャーナリズムは衰退してしまう」という河合香織氏の言葉が重く響く。

同特集で、論壇誌の「場」としての意義を考察したのが、共同通信文化部記者の米田亮太氏の論考である。

米田氏は「議論とは、互いに協力して、互いの変容をうながすような相互プロセスではないか」としたうえで、「そのように考えれば、論文を読むという行為は、自分自身が変容し、複雑に成熟していくプロセスに参入していくこととも捉えられる」と述べる。

政治の問題が直ちに経済にインパクトを与え、テクノロジーの進化が国際秩序に影響を及ぼすなど、いまや世界中の問題がきわめて複雑に絡み合っている。ならば私たち自身も、「複雑に成熟」していかなければならない。

そのために必要なのは、分野や立場が異なる人間同士が、「論破」や「マウンティング」とは距離を置きつつ、互いにリスペクトし合いながら、答えのない問題について話し合う態度ではないか。

これまで、そうした対話の「場」をもっとも提供してきたメディアが論壇誌であった。かつての森嶋通夫と関嘉彦、または岡崎久彦と永井陽之助の論争などは、その代表例だろう。

世間は彼らの論争を通じて、日本の論点を知るとともに、対話の可能性を実感したはずだ。本来的に言えば、ボーダレスの議論が求められるいまこそ、論壇誌が果たしうる役割は大きい。

他方で、知的ジャーナリズムが改めるべきなのが読者との距離感ではないだろうか。鷲田清一氏は、創刊時の編集委員である山崎正和が『アステイオン』を「言論の交差点」として開こうとしたのは、「『日付』のある思想」があったと書く。

山崎は「思想というものは、本質論という発想にかまけて『日付のない現象』ばかり扱うのではなく、自分が生きている時代と場所に課されている問題と取り組まねばならないと考えていた」というのだ。

私は『Voice』を編集するうえで、読者にとって「手触り感」のある記事を意識してきた。時代が変質するいま、大局的な議論が必要不可欠だ。一方、読者からすれば、まずは日々の自分の暮らしを大事に思うのは当然である。その感覚に応える努力をしなければ、「役に立たない」と思われかねない。

週刊誌も月刊誌も季刊誌も、表紙に「何年何月号」などと冠する。そして、執筆者も編集者もおのずから、その「日付」に世の中に発信することを意識する。同じ時代を生きる読者に向け、その瞬間にこそ議論すべきテーマを届ける。

当たり前のように聞こえるが、それが雑誌というメディアの存在意義であり続けていく。

もう一つだけ、今後の雑誌に求められる態度を考えると、私はユーモアや親しみやすさだと感じている。「論壇誌」や「知的ジャーナリズム」と聞けば、いかにも知性主義を身にまとった堅苦しい雰囲気を読みとり、直感的に敬遠する読者もいるだろう。

それでは互いにもったいない。敷居は低く、しかし奥行きがある。気軽に立ち寄ることができて、気づけば長居してしまう。論壇誌、そして知的ジャーナリズムは、そんな存在をめざすべきだと思うのである。

冒頭とは別の場で大学生の前で話をしたとき、驚かされたのが、「原稿を依頼する執筆者はどんな基準で選んでいるのか」「特集内の記事の並び順はどう決めているか」「タイトルを考えるときには何を意識しているのか」などの鋭い質問が相次いだことだ。

私自身、一編集者として心構えについてあらためて見直す機会となった。

ちょうどその直後に『アステイオン』の創刊100号を読んだからか、どうしても意識させられたのが、初代編集長である粕谷一希の存在感だった。

創刊号の編集後記で「今日のジャーナリズムの荒廃」への憂慮を記した粕谷は、「野心的新人」と「野心的テーマ」を発見しようとし続けたという。安定が好まれる現代社会にあって、「野心」とは何とも魅力的で、知的ジャーナリズムや論壇誌の未来を照らす言葉ではないだろうか。

水島隆介(Ryusuke Mizushima)
月刊誌『Voice』編集長。1985年、神奈川県生まれ。2008年、早稲田大学第一文学部卒業。同年、PHP研究所入社。「歴史街道」編集部を経て、2018年1月より『Voice』編集部。2020年1月より現職。

 『アステイオン』100号
  特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
  公益財団法人サントリー文化財団
  アステイオン編集委員会 編
  CCCメディアハウス

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