木村正人
<ボクシング女子で騒動となった「性別問題」。無責任なデマやうわさに振り回されず、正確な情報を基に考えるべきだ>
[ロンドン発]パリ五輪ボクシング女子66キロ級で8月1日、イマネ・ヘリフ選手(アルジェリア)と対戦したアンジェラ・カリニ選手(イタリア)は涙を浮かべ46秒で棄権した。「鼻に強い痛みを感じた。自分のために止めた。自分の命を守らなければならなかった」と話した。
ヘリフは国際ボクシング協会(IBA)が主催する昨年の世界選手権で性別適格検査により失格となった。国際オリンピック委員会(IOC)は「パスポート上、女性なら出場できる」との立場で、ヘリフは3年前の東京五輪に出場した。パリ五輪を取り仕切るのはIBAではなくIOCだ。
ごくまれに生殖器や性器が通常の性染色体とは異なって見える人がいる。ヘリフはDSD(性分化疾患)として知られるこの疾患で、出生時は女の子として登録された。パリ五輪前のインタビューで「イマネ・ヘリフが勇敢な女性であることを全世界に示したい」と意気込んでいる。
「トランスジェンダー女性」とは異なる
2日には57キロ級2回戦で、昨年の世界選手権でヘリフと同じように性別適格検査で失格となった林郁婷(りん・いくてい、台湾)選手がシトラ・ツルジベコワ選手(ウズベキスタン)に判定勝ちし、準々決勝に進んだ。林は2018年と22年に世界選手権を制している。
性分化疾患を抱えるヘリフも林も「トランスジェンダー女性」(男性の身体で生まれたものの性自認は女性)とは異なる。IBAは女子を「XX染色体を持つ個人」、男子を「XY染色体を持つ個人」と定めるが、世界選手権ではテストステロン値の検査は行っていないとの立場だ。
米国やロシアの大統領選、インドの総選挙と歴史上最大の選挙イヤーの今年、保守とリベラルの対立は先鋭化する。ネオファシストの流れを汲むイタリアのジョルジャ・メローニ首相は「男性の遺伝的特徴を持つアスリートは女子の競技に参加させるべきではない」と便乗した。
子どもの頃からいじめられたセメンヤ
生物学的な女性にこだわる魔法使い「ハリー・ポッター」シリーズの人気作家J・K・ローリング氏は「DSDを持つ人は生まれ方をどうすることもできないが、女性からメダルを奪わない、ケガをさせないという選択はできる」との極論をX(旧ツイッター)に投稿した。
IOC報道官は「女子のカテゴリーに出場する選手は全員、競技資格規定を順守している。彼女たちのパスポートには女性であることが記載されている」との立場を改めて強調。IBAの立場とは異なり、昨年の世界選手権で失格となったのはテストステロンの上昇によるものだと説明した。
性分化疾患を抱えるアスリートで有名なのは陸上女子800メートルでロンドン五輪、リオ五輪を連覇した南アフリカのキャスター・セメンヤ選手だ。男の子のように見えたことから子どもの頃からいじめられ、何度も性別を疑われた。IOCにとってこの問題は蒸し返しである。
父親「娘への攻撃は道徳に反している」
ヘリフは子どものころ、村からジムまで約10キロメートルのバス代を稼ぐため、母親がクスクスを売る傍らで金属くずを集めていた。ヘリフの父アマルさんは「娘のイマネに浴びせられる攻撃は道徳に反している。祖国のために金メダルを獲得してほしい」と励ます。
アマルさんは英大衆紙デーリー・メールに「彼女に対する攻撃はフェアではない。6歳のころからスポーツが大好きでサッカーをしていた。このような批判やウワサは娘を不安定にさせるのが目的で、彼女が金メダリストになることを望んでいないのだ」と訴えている。
一方、棄権したカリニは「この論争は私を悲しくさせる。対戦相手に申し訳ない。(IOCが)彼女が戦えると言ったのなら私はその決定を尊重する。試合後、握手をしなかったことを後悔している。彼女とみんなに謝りたい」と母国のスポーツ紙に語っている。
ロシア主導のIBAはガバナンス、ロシア国営エネルギー会社ガスプロムへの資金依存に懸念を示してきたIOCと対立、19年に資格を停止されている。このため東京五輪、パリ五輪と2大会連続でIOCがボクシング競技を運営している。
IBAのウマール・クレムレフ会長は「なぜ女子ボクシングを潰すのか理解できない」とIOCを批判し、カリニに五輪優勝報奨金(全部で10万ドル)と同じ金額を授与すると表明した。
SNS上で無責任なウソやウワサ、デマが駆け巡り、無知が偏見と差別を広げていく。今回、騒動が蒸し返された背景にはLGBTQ+(性的マイノリティー)を異端視するウラジーミル・プーチン大統領の「伝統的な家族観」が影を落としている気がしてならない。
<ボクシング女子で騒動となった「性別問題」。無責任なデマやうわさに振り回されず、正確な情報を基に考えるべきだ>
[ロンドン発]パリ五輪ボクシング女子66キロ級で8月1日、イマネ・ヘリフ選手(アルジェリア)と対戦したアンジェラ・カリニ選手(イタリア)は涙を浮かべ46秒で棄権した。「鼻に強い痛みを感じた。自分のために止めた。自分の命を守らなければならなかった」と話した。
ヘリフは国際ボクシング協会(IBA)が主催する昨年の世界選手権で性別適格検査により失格となった。国際オリンピック委員会(IOC)は「パスポート上、女性なら出場できる」との立場で、ヘリフは3年前の東京五輪に出場した。パリ五輪を取り仕切るのはIBAではなくIOCだ。
ごくまれに生殖器や性器が通常の性染色体とは異なって見える人がいる。ヘリフはDSD(性分化疾患)として知られるこの疾患で、出生時は女の子として登録された。パリ五輪前のインタビューで「イマネ・ヘリフが勇敢な女性であることを全世界に示したい」と意気込んでいる。
「トランスジェンダー女性」とは異なる
2日には57キロ級2回戦で、昨年の世界選手権でヘリフと同じように性別適格検査で失格となった林郁婷(りん・いくてい、台湾)選手がシトラ・ツルジベコワ選手(ウズベキスタン)に判定勝ちし、準々決勝に進んだ。林は2018年と22年に世界選手権を制している。
性分化疾患を抱えるヘリフも林も「トランスジェンダー女性」(男性の身体で生まれたものの性自認は女性)とは異なる。IBAは女子を「XX染色体を持つ個人」、男子を「XY染色体を持つ個人」と定めるが、世界選手権ではテストステロン値の検査は行っていないとの立場だ。
米国やロシアの大統領選、インドの総選挙と歴史上最大の選挙イヤーの今年、保守とリベラルの対立は先鋭化する。ネオファシストの流れを汲むイタリアのジョルジャ・メローニ首相は「男性の遺伝的特徴を持つアスリートは女子の競技に参加させるべきではない」と便乗した。
子どもの頃からいじめられたセメンヤ
生物学的な女性にこだわる魔法使い「ハリー・ポッター」シリーズの人気作家J・K・ローリング氏は「DSDを持つ人は生まれ方をどうすることもできないが、女性からメダルを奪わない、ケガをさせないという選択はできる」との極論をX(旧ツイッター)に投稿した。
IOC報道官は「女子のカテゴリーに出場する選手は全員、競技資格規定を順守している。彼女たちのパスポートには女性であることが記載されている」との立場を改めて強調。IBAの立場とは異なり、昨年の世界選手権で失格となったのはテストステロンの上昇によるものだと説明した。
性分化疾患を抱えるアスリートで有名なのは陸上女子800メートルでロンドン五輪、リオ五輪を連覇した南アフリカのキャスター・セメンヤ選手だ。男の子のように見えたことから子どもの頃からいじめられ、何度も性別を疑われた。IOCにとってこの問題は蒸し返しである。
父親「娘への攻撃は道徳に反している」
ヘリフは子どものころ、村からジムまで約10キロメートルのバス代を稼ぐため、母親がクスクスを売る傍らで金属くずを集めていた。ヘリフの父アマルさんは「娘のイマネに浴びせられる攻撃は道徳に反している。祖国のために金メダルを獲得してほしい」と励ます。
アマルさんは英大衆紙デーリー・メールに「彼女に対する攻撃はフェアではない。6歳のころからスポーツが大好きでサッカーをしていた。このような批判やウワサは娘を不安定にさせるのが目的で、彼女が金メダリストになることを望んでいないのだ」と訴えている。
一方、棄権したカリニは「この論争は私を悲しくさせる。対戦相手に申し訳ない。(IOCが)彼女が戦えると言ったのなら私はその決定を尊重する。試合後、握手をしなかったことを後悔している。彼女とみんなに謝りたい」と母国のスポーツ紙に語っている。
ロシア主導のIBAはガバナンス、ロシア国営エネルギー会社ガスプロムへの資金依存に懸念を示してきたIOCと対立、19年に資格を停止されている。このため東京五輪、パリ五輪と2大会連続でIOCがボクシング競技を運営している。
IBAのウマール・クレムレフ会長は「なぜ女子ボクシングを潰すのか理解できない」とIOCを批判し、カリニに五輪優勝報奨金(全部で10万ドル)と同じ金額を授与すると表明した。
SNS上で無責任なウソやウワサ、デマが駆け巡り、無知が偏見と差別を広げていく。今回、騒動が蒸し返された背景にはLGBTQ+(性的マイノリティー)を異端視するウラジーミル・プーチン大統領の「伝統的な家族観」が影を落としている気がしてならない。