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なぜ、私たちはすぐに「正解」が分からないと満足できなくなってしまったのか...「デジタル化」と「紙媒体の弱体化」

ニューズウィーク日本版 2024年8月21日 11時35分

猪木武徳(大阪大学名誉教授) アステイオン
<すぐ分かるような問いには、重要なものは多くない...。『アステイオン』100号の特集「『言論のアリーナ』としての試み」より「紙媒体で生まれる言論の未来」を転載> 

38年も前、わたしは『アステイオン』創刊号に「奴隷・ソフィスト・民主主義」と題する比較的長い文章を執筆する機会を与えられた。

それは、現代産業社会の中に古代ギリシアのアテナイ社会との類似構造、同型性を読み取り、当時喧(かまびす)しく論じられていた「新しい産業社会」のいくつかの問題が、決して突如突き付けられた難問ではないと論ずる試みであった。

第一に、当時急速に進展しつつあったコンピュータ制御による機械のもたらす問題(過去200年ものあいだ繰り返し登場した機械化による失業の恐怖など)、第二に、肥大化した非効率な政府の経済活動を縮小すべきだというナイーブな「小さな政府論」の吟味、第三は、デモクラシーにおけるメディアと言論の自由が抱えもつ諸課題の三点を取り上げ、これらの難問は古代ギリシア、あるいはローマ帝国時代にも存在していたと指摘した。

つまり「新しい産業社会」についての当時の人々の夢想、不安、期待は、程度の差こそあれ歴史的に見ると目新しいものではないとする文章であった。

本稿ではこれらのうち第一点と第三点を、38年経った現在の視点からコメントを加えつつ、「これからの学知とジャーナリズムのイメージ」を模索してみたい。

第二点は、個人主義と物質主義に傾斜しがちなデモクラシーにおける国民相互の連携の必要性、公共精神の重要性に関わる問いである。関心をお持ちの読者は、わたしが『アステイオン』などにこれまで書いたいくつかの文章をお読みいただければ幸いである。

(Ⅰ)1970年代から数値制御による機械・機器が、製造業の現場やホワイトカラーの職場にも急速に導入されるようになった。

人間の労働が機械によって代替され続ければ、雇用はどうなるのか、その結果生まれる余暇時間をわれわれはどう過ごすのか、新技術は社会と文化をどのように変えるのか。

そうした問いに対して、現代の機械化と自動化を、「古代ギリシア時代の奴隷労働」と捉え直せば、古代と現代には構造的な類似点がある。

アテナイのデモクラシーを可能にしたのは、奴隷の存在が市民に十分な余暇を与え、政治に専念する余裕を与えたからだ。

しかし旧稿から40年近くの時を経て、現下の重要課題は新技術が経済活動の現場に及ぼす問題(その典型は雇用の喪失)以上に、新技術が消費者や一般国民の知力や感情に与える影響の方がより重要だと指摘されるようになった。

代表例は、AI関連の技術、例えばチャットGPTが、われわれの知力をどのように変えて(衰えさせて)いくのかという問題だ。

かつて、わが尊敬する社会評論家の大宅壮一はテレビが一般家庭に普及し始めた頃、テレビは日本国民の「一億総白痴化」を招くと論じた。確かに現今のテレビに映し出された映像を、ボンヤリと受動的に眺めていると、大宅の予言は当たらずとも遠からずと気づくことがある。

現代の問題としては、過剰で不適切なAIの使用によって知力と言語能力の衰弱を生む可能性があり、スマホなどデジタルな媒体による読書やニュース・情報の入手の影響が問われねばならない。

「デジタルで読むか、紙の本で読むか」というふたつの方法には根本的な相違があるようだ。この点については、2020年7月に読売新聞「あすへの考」(教育の中での読書)でも紹介された米国の神経科学者のメアリアン・ウルフ氏の見解が参考になる。

ウルフ氏はふたつの読書法を比較して、「デジタル媒体は速読向き。染まると、ヒトは短絡的になり得る」のに対して、紙の本は「深く読む脳」を育む、としている。

他者を理解することには時間がかかる。そこにデジタル媒体の読書法が主流になると、人はいよいよ短絡的になり、自分と同じ考えを持たない人に苛立ち、他者に対して寛容であることが一層難しくなる。

短絡的な思考に走らない粘り強い知力を養うには強い精神と体力が求められる。短絡的な精神は、意見を異にする人々(論敵)との共存というリベラル・デモクラシーの基本原則を脅かすからだ。

確かにスマホの普及で人々の会話のスタイルが変化してきた。何か分からないこと、思い出せないことが出てくると、誰かがスマホを取り出してたちまちのうちに「正解」を皆に知らせる。

言い換えれば、「分からないこと」「思い出せないこと」に耐え忍ぶ力が薄弱になりつつあるのではないか。人々は次第に短気になって、直ぐに「正解」が分からないと満足できないのだ。しかし直ぐ分かるような問いには重要なものは多くない。

この「理解できないことを耐え忍ぶ力」を消極的能力(negative capability)と呼んでその重要性に触れたのは、イギリスのロマン派詩人J・キーツだ。

それは「人が不確実さとか不可解さとか疑惑の中にあっても、事実や理由を求めていらいらすることが少しもなくていられる状態」を指す(『キーツ書簡集』1817年12月21〜27日(?))。

早い理解は浅い理解になりがちなことをわれわれは経験から知っている。よく理解するためには、分からないことに向かい合い、決して問題点を見失わないという強い意志が必要になる。

さもないと「生成AI」と呼ばれる新技術を無制約に使用し、われわれの思考は機械任せになってイライラし続ける恐れがある。

(Ⅱ)旧稿「奴隷・ソフィスト・民主主義」では、第三点としてメディアと言論の自由の問題について述べた。

米国における「言論の自由」の現状に関しては『アステイオン93』(2020年)に掲載された「正義と開かれた議論についての公開書簡」(田所昌幸訳)にも実情が示されている。言論の自由を活力として発展してきた自由社会の危機がいかに深刻かが分かる。

古代社会には現代のような、高度の複写技術と通信技術は存在しなかった。しかし知識と情報が経済的価値を持つことには変わりはなかった。

教育は政治的・経済的野心を成就させるための有力な手段であることを市民は知っていた。言論の自由は多種多様な知識を開発・散布し、知識の質の良否についての判断力が求められる。

ペルシャ戦争後のアテナイの民主制は、学問が公共生活の舞台の中央に登場し、学芸と弁論が新しい真理の発見に必要欠くべからざる能力を与えるだけでなく、人を説得させる技術としても重視されたのである。

そのために、謝金を払ってでも、学芸と弁論術を身につけたいと思う者、それを教授する「半分教師で半分ジャーナリスト」のような職業人が現れた。いわゆるソフィストである。

彼らの多くは決して詭弁や屁理屈の妙手ではなく、人々の意見や考えの相違、不一致、あるいは一致への強制がないことが、人間知性開発の最良の方法であることを知っていた人々である。

人間の重要な知識の中には種々さまざまな関心から世界を探究していた人々の、「意図せざる副産物」として生まれ出たものが多いことも知悉(ちしつ)していた。

政治選択においては多数の意見に従うのが大原則であるが、多数が常に正しいわけではない。人気や世評は移ろい易い。

みんなが直ぐに関心を持つ問題を追求するのは学芸でもなく、ジャーナリズムでもなく、芸術でもない。自分の内発的な関心から孤独な探究を続ける研究者がいてこそ、その国の学問や文化に厚みと強さが生まれる。

そうした例は、近年日本のメディアに登場する研究者の厚みにも現れている。2022年2月のロシアによるウクライナ侵略は国際政治の急激な変動をもたらした。その原因をどのように理解し、戦況を正確に知るにはどうすればよいのか。

わが国の地域研究は、専門家の層が薄いと言われていた。しかしこれまで一般の人々には知られていなかった研究者が、テレビや新聞で専門家として解説を加え、われわれの蒙を啓(ひら)いてくれたことは記憶に新しい。

また、世界を驚かせた2023年10月のハマスとイスラエルとの戦闘も、現在だけを観察していてはわれわれ日本人には十分には理解できないところがある。

パレスチナ自治区ガザ地区やヨルダン川西岸のような地域がどのような歴史で生まれたのかを理解した上で現況を誰がどう説明できるのか。

しかしこの場合も、ガザ地区の内部の政治的社会的構造、その生成の経緯と現況に解説を加える専門家が現れた。

生物学からの例も記しておこう。30年近く前、「特定外来生物」に指定されている「セアカゴケグモ」がはじめて大阪で発見されて大騒ぎになったことがあった。

オーストラリアに生息するこの毒グモがコンテナなどに紛れて日本に運ばれてきたのだろうか。その直後、「セアカゴケグモ」の研究者がテレビで、その毒性や生息場所(自販機の下、排水溝の蓋の裏など)、噛まれた場合の応急措置について解説を加えていたことを思い出す。

近年の日本の研究費配分政策は「稼げるか」「役に立つか」という視点からの経済支援が基本となっている。したがって平常時には表面化しない事柄について研究する「役に立たない」分野の研究の経済的基盤は強くはならない。

こうした現象はわれわれの安全保障感覚の鈍さと無関係ではない。短期的な視点から「稼げるか」「役に立つか」を考えるだけでは、不確実性に満ちたこの世の自然現象や偶発事などに適切に対応することは難しい。

火事は滅多に起きないから消防署は不要だと論ずる類の教育・研究の評価基準ほど国を過つものはない。

「紙媒体」による公論形成の場の活性化を期待しつつ、最後に2点指摘して結びとしたい。

(1)日本には、ウェブのニュース、テレビ報道、良質の日刊新聞はあっても、週単位で世界情勢や国内政治を振り返る「週刊新聞」はなきに等しい。瞬時瞬時の事件の報道はあっても、その出来事を少し長期的な視野から再検討して「公論」を形成するという姿勢は弱い。

ちなみに日本の一部「週刊誌」は、大新聞が報道しないような重要なニュースを読者に伝え、社会の不正や歪みを告発する浄化機能を持っている。

近年いわゆる大新聞が報道しなかった重要な社会問題を「週刊誌」が取り上げ、執拗に報道し、問題の深刻さに警鐘を鳴らす事例がいくつかあった。

これはいわゆる大新聞や公共放送の「メディアの沈黙」として問題視された。「メディアの沈黙」はthe elephant in the room(重要なのに誰も触れたがらない問題)にもたとえられた。

(2)「紙媒体」の持つ力を再認識すべきだろう。内政や外交、国際情勢について解説を加え、意見を公にする場所として、大新聞が一部スペースを割いているものの、不十分の感は拭えない。

これまで、その不十分さを月刊・季刊のいわゆる「論壇誌」がカバーしてきた。しかし近年はネット配信の短いニュース記事が従来の日刊紙の役割を一部代替してしまった。

紙媒体のメディア、論壇誌が弱体化することは、公論形成の弱体化を招く可能性が高い。

先に言及したウルフ氏が指摘するように、短絡的に素早く反応するだけではなく、常に「よく考えてみれば」という「第二思念(second thought)」として、反省的に物事を捉える精神を鍛えるメディアが今の日本に強く求められているように思う。

猪木武徳(Takenori Inoki)
1945年生まれ。京都大学経済学部卒業、マサチューセッツ工科大学大学院修了。大阪大学経済学部教授、国際日本文化研究センター所長、青山学院大学特任教授などを歴任。専門は労働経済学、経済思想、経済史。主な著書に『経済思想』(岩波書店、サントリー学芸賞)、『経済学に何ができるか』(中央公論新社)、『文芸にあらわれた日本の近代』(有斐閣)、『自由の思想史』(新潮社)など。

 『アステイオン』100号
  特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
  公益財団法人サントリー文化財団
  アステイオン編集委員会 編
  CCCメディアハウス

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