バレリー・プレイム(元CIA工作員) for WOMAN
<工作員の身分を暴露され全てを失った元女性スパイが、CIA女性スパイの歴史を描く本を読んで思い出したこと>
私がCIAの工作員であることをホワイトハウス高官らが暴露したのは、2003年のことだ。
原因は当時の私の夫で在イラク米大使館などで勤務した外交官のジョー・ウィルソンが、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した論説だった。ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)が同年3月にイラクへの攻撃を決定するに当たり、イラクの脅威を誇張していたと主張するものだ。
その後約20年、私はそのときのトラウマと闘い続けた。心の傷は諜報活動のキャリアを終わらせ、家族を不安に陥れ、私の情報提供者を危険にさらした。当時、私は「嘘つき」「裏切り者」と呼ばれ続け、ある共和党下院議員には「買いかぶられた女秘書」などと言われた。
CIAの工作員だったバレリー・プレイム DANIEL ZUCHNIK/GETTY IMAGES
だが、ジャーナリストのライザ・マンディが昨年秋に出版した『シスターフッド──CIAの女性たちの知られざる歴史(The Sisterhood: The Secret History of Women at the CIA)』を読んだとき、今まで向き合わずにやり過ごしてきた嫌な記憶がよみがえった。
長いこと男性社会で働いてきたため、私は自分や同僚女性たちが味わった苦しみを抑え付けてきたことに気付いたのだ。
私がまだ幼かった1972年、米政府は「タイトルナイン」を制定し、連邦政府から資金を得ている学校での性差別を禁止した。その後、私が通ったフィラデルフィア郊外の高校では、男子と同じく女子向けにも多くのスポーツチームがあった。
両親は、私が追求したいことを性別によって決めるべきだとは言わなかった。大学生になっても、私は社会にはびこる性差別を知らずに過ごしていた。
そして私はCIAに入った。そこで知ったのは、世界は全く違う原則によって動いているということだ。
冷戦のただ中に私が入ったCIAは、まさに男の世界。女性を秘書などのサポート役ではなく、諜報活動に採用し始めたばかりだった。
私は作戦担当官になるための厳しい訓練を受けながら、CIAの先輩女性たちにも注目した。最もトップの層には女性が一人もおらず、上級職の女性は未婚で子供がなく、タフな人が多かった。自分がこの組織で成功できたなら、それは彼女たちが道を切り開いたおかげだと思った。
組織変革の恩恵を受けられた
一方で、彼女たちのようになりたくないとも考えていた。CIAで成功しつつ、同時に家庭を持つことはできないのか?
私たち女性工作員にとっては、「セクシュアルハラスメント」や「男女差別」はもちろん、「自覚なき差別」「無意識の偏見」といった言葉は意味を成さなかった。男性幹部からの日常的な女性差別を受け入れるしか選択肢はなかった。
ジャーナリストのライザ・マンディの新著『シスターフッド』 CROWN
時には露骨な差別があった。私の友人は、アフリカでの最初の赴任先で男性支局長に「仕事を辞めて、結婚して子供を産むべきだ」と言われた。そもそも女に工作員の仕事が務まると思っているのか、と。
見えにくい差別もあった。スパイの活用やリクルートに同じくらい成功していた女性に比べて、若い男性のほうが昇進は早かった。
入念な取材に基づくマンディの『シスターフッド』の焦点は、女性スパイのCIAに対する貢献と、彼女たちが直面した障壁だ。この本は、第2次大戦中に諜報機関に入った女性たちの回想から静かに始まる。
CIAの前身である戦略事務局(OSS)には、戦争がもたらした仕事のチャンスに女性たちが殺到した。応募者は首都ワシントンの地味な建物に集められた。
男性は面接の前に、社会階層や職業、軍の階級を分からなくするため、軍服に着替えるよう指示された。女性は別室に連れて行かれ、コートと帽子を脱ぐよう言われた。女性については「それ以上の平等化は必要ないと考えられていた」と、マンディは書いている。
40年代にOSSに採用された女性の多くは、高度な教育を受け、洗練されており、いくつもの外国語を操ることができた。女性の新規採用者のための試験では、書類を上手に整理できるかどうかが試された。
しかし採用されると、そのうち何人かは諜報活動に従事した。彼女たちは優れたスパイ組織を立ち上げ、ナチスドイツや他の枢軸国の高官から情報を入手し、重要な情報をワシントンに伝えるなど、あらゆる場面で勇気と知性を発揮した。
だが戦後、ワシントンは集団的健忘症にかかったようだった。戦時中に女性が重要な役割を果たしたことは忘れ去られ、彼女たちは再び補助的な仕事に追いやられた。
50〜60年代は、秘書がパンストと白い手袋を身に着け、男性の上司に付き従う時代だった。だが70〜80年代になると、CIAは男性と同等の知性と度胸を持つ女性を採用し始めた。私はこの大変革の恩恵を受けた。
ビンラディン捕捉に大貢献
マンディの筆致は、女性がCIAの中枢に受け入れられた時代を掘り下げるにつれ、勢いを増す。そんな女性たちのうちの何人かに、マンディはスポットライトを当てている。
国際色豊かな家庭に生まれ、名門ブラウン大学をトップクラスの成績で卒業したリサ・マンフルは、68年にCIAのキャリア訓練プログラムに参加し、男性より低い給料で採用された。上層部はマンフルを何年もデスクワークに専従させようとしたが、彼女は工作員として成功した。
CIAの女性たちはさまざまな任務をこなして実力を証明してきた LARRY DOWNINGーSYGMA/GETTY IMAGES
マンディはさらに、OSS創設者の秘書からスタートし、78年にCIA初の女性支局長となったエロイーズ・ペイジにもスポットを当てた。
バージニア州にあるCIAの訓練施設「ザ・ファーム」では、70年代に入っても女性は工作員研修の一部しか受けることができなかった。
それでも女性工作員たちは、その能力の高さを身をもって証明してみせた。ハイジャック犯と交渉したり、アポなしで接触してきて情報提供を申し出る人々に巧みに応対するなど、幅広い仕事を見事にこなした。
状況が変わるきっかけとなったのは、クラレンス・トーマス連邦最高裁判事の指名をめぐる91年の上院の公聴会だ。10年前にトーマスからセクハラを受けたという黒人女性アニタ・ヒルの証言を聴いていたのは、全員が白人男性の上院司法委員会のメンバーだった。
最終的にはトーマスの指名が承認され、ヒルはバッシングに遭ったが、この公聴会はワシントンの政官界が性差別の問題に改めて目を向けるきっかけとなった。翌92年の上院選では、女性の当選者数が過去最高となった。
CIAでも92年に女性職員の処遇に関する調査が行われ、その結果、男女間に大きな昇進格差があることが浮き彫りになった。女性はCIAの専門職の40%を占めていたが、幹部である「上級情報職」に占める割合は10%にすぎなかった。
それでもマンディによれば、女性たちはこの報告にほっとしていたという。男社会のCIAがやっと変わりそうな空気を感じ取ったのだろう。
94年には女性スタッフのジャニーン・ブルックナーが、性差別でCIAを訴えた。当時彼女は、職務中の行動に問題があったといういわれのない疑いをかけられており、降格や刑事告発の憂き目に遭う恐れまであった。
訴訟は金銭による和解に終わり、ブルックナーは退職。その後、彼女は政府機関における差別問題の訴訟を専門に扱う弁護士になった。
同じ頃、CIA内部で性差別が横行しているとする女性職員の集団訴訟が起きた。マンディによれば95年に和解した際、CIAは「長年にわたり女性の秘密工作員に対し、組織的な差別を行ってきた」と認めた。
マンディが特に生き生きと描いているのが、国際テロ組織アルカイダを追跡するチーム「アレック・ステーション」における女性たちの活躍だ。当時、ワシントンの政官界にアルカイダを脅威だと思っている人はほとんどいなかった。
軽視され、十分な活動資金も与えられなかったこのチームが、積極的に登用したのが女性だった。責任者だったマイケル・ショイアーはマンディの取材に「女性は細かい所に目が届く。(男性が見落としがちな)情報のかけらをつなぎ合わせることができる」と答えている。
CIA初の女性長官となる指名承認のため上院公聴会で宣誓するハスペル(2018年) AARON P. BERNSTEINーREUTERS
チームの女性たちはアルカイダとその創設者であるウサマ・ビンラディンに関する情報を辛抱強く拾い集めた。報告書の内容は時とともに不吉さを増していったが、ブッシュ政権は問題を先送りにしていたようだ。
2001年8月6日、CIAのアナリスト、バーバラ・スードは「ビンラディン、米本土攻撃を決断」と題する報告書を書いたが、閣僚たちが脅威について話し合うための会合を開いたのは9月4日。同時多発テロが起きたのは、その1週間後だった。
本書からは、攻撃が起きる危険性を以前から警告していた女性たちの嘆きが伝わってくる。
ある女性工作員はマンディに対し、「正しいことをしようと努めてきたのに、多くの人が死んで、それが自分のせいのように思えた。(事件は)私たちに大きな傷を残した」と語っている。怒りはビンラディン捜索への強い動機となり、その捕捉へとつながった。
猜疑心と不健全な競争は今も
本書の登場人物には、既に引退しているか亡くなっている人が少なくない。彼女たちは自らを犠牲にし、スパイという仕事に人生をささげた。この本を読みながら私は、その苦労に感情移入するとともに、自分の苦い経験を思い出していた。
初めての外国での任務の初日、私は現地の支局長に会うように言われた。彼は椅子に踏ん反り返って座り、両足をデスクの上に載せ、火の付いていない葉巻をくわえていた。
支局長は何も言わず、葉巻を指で挟んで小さく回した。私にその場でくるりと回れと指示したのだ。私は当惑しながら、そのとおりにした。彼は笑みを浮かべ、「悪くない」と言った。外見を値踏みされたのだと気付き、私はショックを受けた。
時を経て、さまざまな変化が起きたことは本書に書かれているとおりだ。今でも目に付きにくい差別や昇進の壁は残っているものの、女性職員の処遇は以前よりましになった。
マンディが触れたがらない女性たちもいる。例えば18年にCIA初の女性長官となったジーナ・ハスペル。同時多発テロ後の「高度尋問テクニック」──つまり拷問に深く関わっていた人物だ。
権力と責任の伴う地位に就いた女性たちが、男性と同様に問題を起こしたり誤った判断を下したことにも触れてほしかった。
『シスターフッド』という、女性の連帯を示す題名にも引っかかりを覚える。確かに女性たちは友情を育み、CIAという男社会で平等の実現に向けて支え合ってきた。一方で、職員同士が長年張り合ってきたのは女性も同じで、その代償は大きい。
猜疑心と不健全な競争という風土は、今もCIAに残っている。それが、アメリカの安全保障を弱体化させている。
From Foreign Policy Magazine
<工作員の身分を暴露され全てを失った元女性スパイが、CIA女性スパイの歴史を描く本を読んで思い出したこと>
私がCIAの工作員であることをホワイトハウス高官らが暴露したのは、2003年のことだ。
原因は当時の私の夫で在イラク米大使館などで勤務した外交官のジョー・ウィルソンが、ニューヨーク・タイムズ紙に寄稿した論説だった。ジョージ・W・ブッシュ大統領(当時)が同年3月にイラクへの攻撃を決定するに当たり、イラクの脅威を誇張していたと主張するものだ。
その後約20年、私はそのときのトラウマと闘い続けた。心の傷は諜報活動のキャリアを終わらせ、家族を不安に陥れ、私の情報提供者を危険にさらした。当時、私は「嘘つき」「裏切り者」と呼ばれ続け、ある共和党下院議員には「買いかぶられた女秘書」などと言われた。
CIAの工作員だったバレリー・プレイム DANIEL ZUCHNIK/GETTY IMAGES
だが、ジャーナリストのライザ・マンディが昨年秋に出版した『シスターフッド──CIAの女性たちの知られざる歴史(The Sisterhood: The Secret History of Women at the CIA)』を読んだとき、今まで向き合わずにやり過ごしてきた嫌な記憶がよみがえった。
長いこと男性社会で働いてきたため、私は自分や同僚女性たちが味わった苦しみを抑え付けてきたことに気付いたのだ。
私がまだ幼かった1972年、米政府は「タイトルナイン」を制定し、連邦政府から資金を得ている学校での性差別を禁止した。その後、私が通ったフィラデルフィア郊外の高校では、男子と同じく女子向けにも多くのスポーツチームがあった。
両親は、私が追求したいことを性別によって決めるべきだとは言わなかった。大学生になっても、私は社会にはびこる性差別を知らずに過ごしていた。
そして私はCIAに入った。そこで知ったのは、世界は全く違う原則によって動いているということだ。
冷戦のただ中に私が入ったCIAは、まさに男の世界。女性を秘書などのサポート役ではなく、諜報活動に採用し始めたばかりだった。
私は作戦担当官になるための厳しい訓練を受けながら、CIAの先輩女性たちにも注目した。最もトップの層には女性が一人もおらず、上級職の女性は未婚で子供がなく、タフな人が多かった。自分がこの組織で成功できたなら、それは彼女たちが道を切り開いたおかげだと思った。
組織変革の恩恵を受けられた
一方で、彼女たちのようになりたくないとも考えていた。CIAで成功しつつ、同時に家庭を持つことはできないのか?
私たち女性工作員にとっては、「セクシュアルハラスメント」や「男女差別」はもちろん、「自覚なき差別」「無意識の偏見」といった言葉は意味を成さなかった。男性幹部からの日常的な女性差別を受け入れるしか選択肢はなかった。
ジャーナリストのライザ・マンディの新著『シスターフッド』 CROWN
時には露骨な差別があった。私の友人は、アフリカでの最初の赴任先で男性支局長に「仕事を辞めて、結婚して子供を産むべきだ」と言われた。そもそも女に工作員の仕事が務まると思っているのか、と。
見えにくい差別もあった。スパイの活用やリクルートに同じくらい成功していた女性に比べて、若い男性のほうが昇進は早かった。
入念な取材に基づくマンディの『シスターフッド』の焦点は、女性スパイのCIAに対する貢献と、彼女たちが直面した障壁だ。この本は、第2次大戦中に諜報機関に入った女性たちの回想から静かに始まる。
CIAの前身である戦略事務局(OSS)には、戦争がもたらした仕事のチャンスに女性たちが殺到した。応募者は首都ワシントンの地味な建物に集められた。
男性は面接の前に、社会階層や職業、軍の階級を分からなくするため、軍服に着替えるよう指示された。女性は別室に連れて行かれ、コートと帽子を脱ぐよう言われた。女性については「それ以上の平等化は必要ないと考えられていた」と、マンディは書いている。
40年代にOSSに採用された女性の多くは、高度な教育を受け、洗練されており、いくつもの外国語を操ることができた。女性の新規採用者のための試験では、書類を上手に整理できるかどうかが試された。
しかし採用されると、そのうち何人かは諜報活動に従事した。彼女たちは優れたスパイ組織を立ち上げ、ナチスドイツや他の枢軸国の高官から情報を入手し、重要な情報をワシントンに伝えるなど、あらゆる場面で勇気と知性を発揮した。
だが戦後、ワシントンは集団的健忘症にかかったようだった。戦時中に女性が重要な役割を果たしたことは忘れ去られ、彼女たちは再び補助的な仕事に追いやられた。
50〜60年代は、秘書がパンストと白い手袋を身に着け、男性の上司に付き従う時代だった。だが70〜80年代になると、CIAは男性と同等の知性と度胸を持つ女性を採用し始めた。私はこの大変革の恩恵を受けた。
ビンラディン捕捉に大貢献
マンディの筆致は、女性がCIAの中枢に受け入れられた時代を掘り下げるにつれ、勢いを増す。そんな女性たちのうちの何人かに、マンディはスポットライトを当てている。
国際色豊かな家庭に生まれ、名門ブラウン大学をトップクラスの成績で卒業したリサ・マンフルは、68年にCIAのキャリア訓練プログラムに参加し、男性より低い給料で採用された。上層部はマンフルを何年もデスクワークに専従させようとしたが、彼女は工作員として成功した。
CIAの女性たちはさまざまな任務をこなして実力を証明してきた LARRY DOWNINGーSYGMA/GETTY IMAGES
マンディはさらに、OSS創設者の秘書からスタートし、78年にCIA初の女性支局長となったエロイーズ・ペイジにもスポットを当てた。
バージニア州にあるCIAの訓練施設「ザ・ファーム」では、70年代に入っても女性は工作員研修の一部しか受けることができなかった。
それでも女性工作員たちは、その能力の高さを身をもって証明してみせた。ハイジャック犯と交渉したり、アポなしで接触してきて情報提供を申し出る人々に巧みに応対するなど、幅広い仕事を見事にこなした。
状況が変わるきっかけとなったのは、クラレンス・トーマス連邦最高裁判事の指名をめぐる91年の上院の公聴会だ。10年前にトーマスからセクハラを受けたという黒人女性アニタ・ヒルの証言を聴いていたのは、全員が白人男性の上院司法委員会のメンバーだった。
最終的にはトーマスの指名が承認され、ヒルはバッシングに遭ったが、この公聴会はワシントンの政官界が性差別の問題に改めて目を向けるきっかけとなった。翌92年の上院選では、女性の当選者数が過去最高となった。
CIAでも92年に女性職員の処遇に関する調査が行われ、その結果、男女間に大きな昇進格差があることが浮き彫りになった。女性はCIAの専門職の40%を占めていたが、幹部である「上級情報職」に占める割合は10%にすぎなかった。
それでもマンディによれば、女性たちはこの報告にほっとしていたという。男社会のCIAがやっと変わりそうな空気を感じ取ったのだろう。
94年には女性スタッフのジャニーン・ブルックナーが、性差別でCIAを訴えた。当時彼女は、職務中の行動に問題があったといういわれのない疑いをかけられており、降格や刑事告発の憂き目に遭う恐れまであった。
訴訟は金銭による和解に終わり、ブルックナーは退職。その後、彼女は政府機関における差別問題の訴訟を専門に扱う弁護士になった。
同じ頃、CIA内部で性差別が横行しているとする女性職員の集団訴訟が起きた。マンディによれば95年に和解した際、CIAは「長年にわたり女性の秘密工作員に対し、組織的な差別を行ってきた」と認めた。
マンディが特に生き生きと描いているのが、国際テロ組織アルカイダを追跡するチーム「アレック・ステーション」における女性たちの活躍だ。当時、ワシントンの政官界にアルカイダを脅威だと思っている人はほとんどいなかった。
軽視され、十分な活動資金も与えられなかったこのチームが、積極的に登用したのが女性だった。責任者だったマイケル・ショイアーはマンディの取材に「女性は細かい所に目が届く。(男性が見落としがちな)情報のかけらをつなぎ合わせることができる」と答えている。
CIA初の女性長官となる指名承認のため上院公聴会で宣誓するハスペル(2018年) AARON P. BERNSTEINーREUTERS
チームの女性たちはアルカイダとその創設者であるウサマ・ビンラディンに関する情報を辛抱強く拾い集めた。報告書の内容は時とともに不吉さを増していったが、ブッシュ政権は問題を先送りにしていたようだ。
2001年8月6日、CIAのアナリスト、バーバラ・スードは「ビンラディン、米本土攻撃を決断」と題する報告書を書いたが、閣僚たちが脅威について話し合うための会合を開いたのは9月4日。同時多発テロが起きたのは、その1週間後だった。
本書からは、攻撃が起きる危険性を以前から警告していた女性たちの嘆きが伝わってくる。
ある女性工作員はマンディに対し、「正しいことをしようと努めてきたのに、多くの人が死んで、それが自分のせいのように思えた。(事件は)私たちに大きな傷を残した」と語っている。怒りはビンラディン捜索への強い動機となり、その捕捉へとつながった。
猜疑心と不健全な競争は今も
本書の登場人物には、既に引退しているか亡くなっている人が少なくない。彼女たちは自らを犠牲にし、スパイという仕事に人生をささげた。この本を読みながら私は、その苦労に感情移入するとともに、自分の苦い経験を思い出していた。
初めての外国での任務の初日、私は現地の支局長に会うように言われた。彼は椅子に踏ん反り返って座り、両足をデスクの上に載せ、火の付いていない葉巻をくわえていた。
支局長は何も言わず、葉巻を指で挟んで小さく回した。私にその場でくるりと回れと指示したのだ。私は当惑しながら、そのとおりにした。彼は笑みを浮かべ、「悪くない」と言った。外見を値踏みされたのだと気付き、私はショックを受けた。
時を経て、さまざまな変化が起きたことは本書に書かれているとおりだ。今でも目に付きにくい差別や昇進の壁は残っているものの、女性職員の処遇は以前よりましになった。
マンディが触れたがらない女性たちもいる。例えば18年にCIA初の女性長官となったジーナ・ハスペル。同時多発テロ後の「高度尋問テクニック」──つまり拷問に深く関わっていた人物だ。
権力と責任の伴う地位に就いた女性たちが、男性と同様に問題を起こしたり誤った判断を下したことにも触れてほしかった。
『シスターフッド』という、女性の連帯を示す題名にも引っかかりを覚える。確かに女性たちは友情を育み、CIAという男社会で平等の実現に向けて支え合ってきた。一方で、職員同士が長年張り合ってきたのは女性も同じで、その代償は大きい。
猜疑心と不健全な競争という風土は、今もCIAに残っている。それが、アメリカの安全保障を弱体化させている。
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