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パリ五輪の開会式めぐる「お門違いの大炎上」は、なぜ起こったのか?...答えはキリスト教の歴史の中に

ニューズウィーク日本版 2024年9月3日 16時9分

ケイティ・ケライディス(英ケンブリッジ大学特別研究員)
<『最後の晩餐』のパロディーと非難を浴びたパリ五輪開会式の一幕は、多様性を重んじる『神々の饗宴』の再現だった。2つが混同された背景には歴史の中で「見落とされてきた」側面が──>

7月26日に行われたパリ五輪開会式は、恐らくかつてないほど議論を呼んだ。なかでも問題視されたのは、女装したドラァグクイーンたちが並ぶ場面だ。

ローマ教皇フランシスコやイランの最高指導者アリ・ハメネイ師を含む多くの人々が、これをレオナルド・ダビンチの名画『最後の晩餐』(1495年頃)のパロディーと捉えた。

キリスト教徒にとってキリストと使徒たちの最後の晩餐はぶどう酒とパン(キリストの血と肉)を分かち合うユーカリスト(「聖餐」「聖体拝領」)の起源であることから、キリストをも揶揄していると非難。開会式の芸術監督らに殺害脅迫まで届いた。

こうした反応は問題の場面を根本的に誤解している。芸術監督のトマ・ジョリーが着想を得たのは『最後の晩餐』ではなく、オランダの画家ヤン・ファン・ベイレルトの『神々の饗宴』(1635~1640年頃)だった。

問題の場面は『神々の饗宴』に着想を得たとの説も JAN VAN BIJLERT-OWN WORK, RMN/STÉPHANE MARÉCHALLE 2009

ギリシャ神話の海の女神テティスと英雄ペレウスの婚礼を描いたもので、前景で酒の神ディオニュソスと彼に従うサテュロス(牧神)たちが踊っている。『神々の饗宴』はフランスのマニャン美術館所蔵で、ミラノにある『最後の晩餐』よりこちらを参照したと考えるほうがよほど理にかなっている。

この2つを混同するのはネット上の怒りのサイクルだけが原因とは限らない。他の専門家がいみじくも指摘しているように、開会式を見たキリスト教徒(や非キリスト教徒)はキリスト教の図像がキリスト教以前の古代ギリシャ・ローマの表象をヒントにしていることを見落としている。

だがそれ以上に、彼らはキリストとディオニュソスの長年の結び付きを見落としている。

両者の結び付きと初期キリスト教に与えた影響を理解することが、パリ五輪の問題の場面だけでなくキリスト教の歴史を理解するためにも極めて重要だ。

分け隔てない饗宴の象徴

現在のキリスト教のルーツは古代ローマの密儀宗教──ローマの伝統的な宗教的慣習に対する不満から生まれた宗教的表現の一種だ。

ローマの「都市祭祀」は地域社会の儀礼中心で、個々の信者には精神的意味がほとんどなかった。一方「密儀宗教」は精神的意味を与え、個人が神と直接つながることを可能にした。これらの密儀宗教は信者に神と結び付いていると感じさせ、永遠の命を授かる希望を与えた。

キリスト教はユダヤ教の新たな一派から救世主像を取り入れた。他の密儀宗教は古代ギリシャのディオニュソスをヒントに救世主像をつくり上げた。

ディオニュソスはしばしば「ぶどう酒と演劇の神」と評される。ローマ神話のバッカスと共に放蕩、酩酊、放縦と結び付けられる。

その後、キリスト教は禁欲を奨励する道徳観を採用したため、キリストとディオニュソスを比較することにキリスト教徒が気分を害したりショックを受けたりするのもうなずける。だがディオニュソスに関する表面的な理解の下には、はるかに複雑な構図が隠れている。

The interpretation of the Greek God Dionysus makes us aware of the absurdity of violence between human beings. #Paris2024 #OpeningCeremony pic.twitter.com/FBlQNNUmvV— The Olympic Games (@Olympics) July 26, 2024

ディオニュソスはぶどう酒だけでなく、社会の片隅、そして重要なことに自然の片隅に身を置くことで得られる悟りとも結び付けられる。

人間の処女を母に、神を父に持つ(どこかで聞いたような話だ)ディオニュソスは、女神の怒りに触れて焼死した母親の胎内から嬰児の状態で取り出され、臨月を迎えるまで父親であるゼウスの両腿の間で育てられた。

誕生後は異郷で育ち、成人して小アジアから再びギリシャに戻った当初は神と認められなかった。

古代ギリシャの悲劇詩人エウリピデスの『バッコスの信女』(紀元前405年)では、テーバイ王ペンテウスはディオニュソスを拒むが、年老いたテーバイ市民たちはディオニュソスの儀式が行われている田園地帯に逃げる。

やがてディオニュソスは転生をつかさどり、不死を約束する神として知られるようになった。

その意味で、ディオニュソスの饗宴は結び付きと境界の撤廃をも象徴している。ディオニュソスとキリストの宗教と教会はどちらも信者が生と死、力と権力、人間と神の間の領域に意味を見いだすことを奨励した。

食事を共にすることが関係の強力なしるしだった文化において、あらゆる人々を分け隔てなくもてなす神を崇拝することも奨励した。

初期キリスト教のユーカリストも結局、ディオニュソスの饗宴と同じような含みがあった。どちらも社会的境界の崩壊、人間と神の境界の崩壊を象徴する。こうした意識はキリスト教が覇権を確立していった数世紀の間に大部分が失われ、ユーカリストへの参加は政治的武器として利用され、社会規範を確立し施行する方法と化した。

キリスト教以前の文化と中世キリスト教文化のより広範な融合の中で、ディオニュソスとキリスト教が結び付いていたのは紛れもない事実だ。だが両者の具体的な結び付きは今にこそ通じる。

結局のところ皮肉なことに、社会の片隅に追いやられた人々に手を差し伸べることと結び付けられる儀礼的な祝宴が、境界を強化し、それらの人々をさらに脇へ追いやるために利用されている。

パリ五輪の開会式に対する反応は、見過ごされてきたキリスト教と古代ギリシャ・ローマの宗教的表象の歴史的な結び付きを浮き彫りにした。同時に、ディオニュソスとキリストの深い結び付き、とりわけ聖なる犠牲、復活、境界打破という共通のテーマを認識するチャンスにもなった。

Katie Kelaidis, Research Fellow Institute of Orthodox Christian Studies, University of Cambridge

This article is republished from The Conversation under a Creative Commons license. Read the original article.



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