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朝日新聞名文記者が「いい文章」を書きたい新人に最初に必ず教えること【ベストセラー文章術】

ニューズウィーク日本版 2024年9月10日 12時5分

ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<独自の表現力を身に付けたいなら、常套句を書くな。ベテラン記者が新人に最初に伝える、文章の極意とは>

「抜けるように青い空」と書く人は、空を見て書いていない。どういうことか? 朝日新聞記者で作家の近藤康太郎氏のもとには、文章力を磨くために若い記者が集まる。いずれは「独自の視点」がある文章を書けるようになりたいと考える彼らに、基礎からその方法と勉強の仕方を教え、エース記者に育つ者も多い。

私にしか書けないものを、書く。プロに限ったことではない。誰もが文章でコミュニケーションをとる今日、「ちょっといい」と思われる文章を書くためにはどうするか。必ず最初に教えるのが「常套句をなくして書く」技術だという。

プロにも通用する25の文章技術を解説する『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)より取り上げる。

※本記事は前後編の前編 

◇ ◇ ◇

常套句は新聞の「エモ記事」化につながる

わが家に集まる塾生たちに、いちばん最初に教えるのは、「常套句をなくせ」ということです。

塾を卒業してデビューしていったフリーライターが述懐していたことですが、彼女はある日、いつものようにわたしに原稿を怒られ「常套句は親のかたきと、大きく紙に書いて、机の前に貼っておけ」と面罵(めんば)されたのだそうです。塾と言ってもほとんどは酒を飲みながらの宴会ですから、さては酔っていましたか。

常套句とは、定型、クリシェ、決まり文句です。たとえば、秋の青空を「抜けるように青い空」とは、だれもが一回くらいは書きそうになる表現です。「燃えるような紅葉」などと、ついやらかしてしまいますね。

新聞記者は一年目、二年目といった新人のころ、高校野球を担当させられるので、高校野球の記事は常套句の宝庫(?)です。

試合に負けた選手は「唇をかむ」し、全力を出し切って「胸を張り」、来年に向けて練習しようと「前を向く」ものです。一方、「目を輝かせた」勝利チームの選手は、「喜びを爆発」させ、その姿に「スタンドを埋めた」観客は「沸いた」。

常套句を使うとなぜいけないのか。あたりまえですが、文章が常套的になるからです。ありきたりな表現になるからです。

「抜けるような青い空」と書く人はまともに空を見ていない

しかし、それよりもよほど罪深いのは、常套句はものの見方を常套的にさせる。世界の切り取り方を、他人の頭に頼るようにすることなんです。どういうことでしょう。

たとえば先ほど書いたように、秋の晴天を、「抜けるような青空」と書いたとします。最初にこの表現を使った人は、ずいぶん苦労したのでしょうね。どこにも雲一つない、突き抜けていけそうな、まるで天蓋の底が抜けたような空。それを「抜けるような青空」と書くとは、なかなかな文章術だと思います。

しかしいったん書かれてしまうと、そしてその表現が〝流行〞していろんな人が書くようになると、もういけません。「抜けるように青い空」と書いた時点で、その人は、空を観察しなくなる。空なんか見ちゃいないんです。他人の目で空を見て、「こういうのを抜けるような青空と表現するんだろうな」と他人の頭で感じているだけなんです。

事実は、秋晴れの日に、ひとつとして同じ日はないのです。すべての青空が、違う青さをもっている。大きな仕事を終え、晴れ晴れとした気持ちで天を仰ぐときもある。恋人と別れ、死にたい気持ちに沈んでいるが、空はやはり青かった。そんな日もある。

空がどう青いのかを「自分」でよく見て、考え抜く

いずれの「青空」も、違うんです。そもそも、ふだんは気にもとめていなかった空を見て、なにかを感じている時点で、いつもと違う気分、特別な心持ちでいるはずなんです。そうでなければ、わざわざ空の色に言及するはずもない。

自分にとって空がどう「青い」のか、よく観察してください。自分の頭で考え抜くんです。

「美しい『花』がある、『花』の美しさといふ様なものはない」とは、有名な批評家が書いた有名な言葉です。この言葉を、ごくかいつまんで「常套句を書くな」と言い換えても、大きな間違いではないでしょう。

わたしたちはつい、「美しい花」「美しい海」と、言ったり、書いたりしてしまいます。日常会話ではそれでいいのかもしれません。しかし、ライター志望者が「美しい海」「美しいメロディー」「美しい人」と書いているようでは、未来はありません。

一輪一輪で異なる、美しい個々の花は、たしかにあります。しかし、花一般の美しさというようなものは、ありません。みな、違う。だからこそ逆に、「美しい花」と書いてはいけないんです。

書くとは「自分だけの」言葉で描き出そうとする試みだ

今日の、この海が、どう美しいのか。別の日、別の場所の海と、どう違うのか。そこを、自分だけの言葉で描き出すのが、文章を書くことの最初であり、最後です。

自分が感じた美しさを、読者にも分かってもらいたい。伝えたい。だから書く。ところが多くの場合、読者だけではなく、自分にもその「美しさ」は、分かっていないんです。見えていないんです。

「美しい」と、なんとなく感じているだけで、それを「鏡のように静かな海」とか「抜けるような青い空」「燃えるような紅葉」「甘いメロディー」「エッジの立ったギター」と常套句で、他人の表現・他人の頭で代用して書いているだけなんです。

なぜこの海が、この旋律だけが美しいのか。「このわたし」の胸に迫ってくるのか。慰め、励ますのか。その切実が、言葉に結晶していない。

「言葉にできない美しさ」とは、伝える努力の放棄、「逃げ」である

「言葉にできない美しさ」と、よく人はいいますが、それは言葉にできないのではない。考えていない。もっといえば、当の美しさを、ほんとうには感じてさえいないからなんです。

先人たちが紡いできた、それなりに豊かな言語世界でも、自分のいまの感じを十全に表現できない。ここではないどこかを目指す。そういう、ほとんど負けることがわかっている戦いに身を投じる必然性のある「困った人たち」に開かれた荒野が言葉であり、わざわざ文章を書くというのは、その荒れ野に、われとわが身とを差し出すということなんです。

ずいぶん大きな話になりましたが、さて、自分が塾生たちに酔ってわめいたらしいこの標語、「常套句は親のかたき」が、そもそも常套句なのではないでしょうか? 常套句を使って常套句を戒めるという、たいへんまぬけな話になっているのかも知れません。

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近藤康太郎(こんどう・こうたろう)

作家/評論家/百姓/猟師。1963年、東京・渋谷生まれ。1987年、朝日新聞社入社。川崎支局、学芸部、AERA編集部、ニューヨーク支局を経て、九州へ。新聞紙面では、コラム「多事奏論」、地方での米作りや狩猟体験を通じて資本主義や現代社会までを考察する連載「アロハで猟師してみました」を担当する。

著書に『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』、『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』、『百冊で耕す〈自由に、なる〉ための読書術』(CCCメディアハウス)、『アロハで田植え、はじめました』、『アロハで猟師、はじめました』(河出書房新社)、『朝日新聞記者が書けなかったアメリカの大汚点』、『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』、『アメリカが知らないアメリカ 世界帝国を動かす深奥部の力』(講談社)、『リアルロック 日本語ROCK小事典』(三一書房)、『成長のない社会で、わたしたちはいかに生きていくべきなのか』(水野和夫氏との共著、徳間書店)他がある。

『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』
 近藤康太郎[著]
 CCCメディアハウス[刊]

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