茜 灯里
<低体温療法と同じ効果を薬剤だけで作りたいと考えていたハーバード大の研究チームが、AIを駆使して「冬眠」と似た効果が得られる薬を調査。その結果、アルツハイマー型認知症の進行抑制剤として広く処方されている「ドネペジル」が候補に挙がった。一体どういうことなのか?>
重篤な外傷で大量出血または心肺停止を起こした患者は、迅速に治療できなければほとんど生き延びることができません。この場合、受傷から決定的治療(手術や本格的な止血術など)を開始するまでの時間が1時間を超えるか否かが、生死の分かれ目になると考えられています。この最初の1時間は「ゴールデンアワー」と呼ばれ、救急医療では重要視されています。
一方、負傷者の身体を低温にして代謝や酸素消費量を抑えると、組織や脳の保護作用が得られ、治療までの時間稼ぎができることも知られています。しかし、30℃以下になると心室細動や菌血症のリスクが高まること、高度な設備と技術を持つ医療機関は限られていることから、いつでもどこでもできる療法ではありません。
アメリカ国防総省の特別機関で軍用技術の開発と研究を担う国防高等研究計画局(DARPA)は、2018年から「バイオスタシス・プログラム」を実施しています。このプログラムでは、ゴールデンアワーを延長するための研究を推進し、外部機関に研究費を提供しています。医療機関への迅速な搬送や救急対応が難しい、前線で活動する軍人の生存率を向上させるためです。
初年度からこのプログラムに参加しているハーバード大ヴィース研究所(The Wyss Institute for Biologically Inspired Engineering)の研究チームは今回、AIを使って、代謝や呼吸数を低下させて「冬眠」と似たような効果が得られる薬を探しました。その結果、アルツハイマー型認知症で最も歴史のある薬「ドネペジル」が候補に挙がりました。研究成果は生体や環境に関するナノテクノロジーに関する学術誌『ACS Nano』に8月21日付で掲載されました。
ドネペジルは、どうして冬眠の代わりになり得るのでしょうか。戦場以外でもドネペジルの「第二の薬効」は使い道があるのでしょうか。概観してみましょう。
薬剤だけで低体温療法と同じ効果を
一部の動物は、極端な気温や食料不足などの厳しい環境条件に晒されても、冬眠や休眠によって生き延びることが可能です。このとき、動物の身体では、体温、酸素消費量、心拍数、代謝状態などが低下しており、エネルギー消費を節約したり、臓器へのダメージを軽減したりすることができています。
ヒトは冬眠や休眠はしませんが、不治の病に侵された人が未来の医療を期待して仮死状態になったり、長期の宇宙旅行に耐えるために「コールドスリープ」したりする設定は、SF作品では馴染み深いものです。
ところが、「バイオスタシス・プログラム」は、戦場、つまり医療機関からの遠隔地を想定しています。なので、低体温療法を使わないでも代謝を可逆的かつ制御可能な状態で減速させ、医療介入が可能になるまで機能能力を安定させて保護する、新しい化学生物学アプローチが求められます。
ハーバード大チームは以前から、低体温療法と同じ効果を薬剤だけで作りたいと考えていました。そのために、動物に冬眠や休眠のような作用を引き起こす薬を探すことにしました。
研究者たちは、冬眠していないアフリカツメガエルのオタマジャクシを使って、薬物を投与したときに冬眠状態になるかどうかを実験しました。
そもそも、冬眠や休眠のメカニズムは複雑で、「中枢神経系が重要な役割を果たしている」こと以外はほとんど解明されていません。近年は、「げっ歯類の視床下部に超音波を照射した後、24時間にわたって休眠のような状態が誘発された」という研究もありますが、ヒトへの応用や臨床試験の実施は未定です。
チームは過去にAIを使って薬を探索し、オピオイドδ受容体作動薬の「SNC80」を使うとアフリカツメガエルのオタマジャクシに冬眠のような状態を誘発することを解明しました。さらに哺乳類の組織を使った実験でも、ブタの心臓やヒトの臓器チップにこの薬を投与すると、酸素消費量が大きく低下し、著しく遅らせることができることが確認できました。
すでに医療現場でも使用、SNC80に「最も近い」ドネペジル
SNC80はマウスなどの実験で、不安や恐怖の記憶を適切に消去する働きを持つことが観察されています。けれど、SNC80はヒトでは痙攣を引き起こす可能性があるため、臨床使用は承認されていません。
そこで今回は、既存のFDA(アメリカ食品医薬品局)承認薬の中から探して、「冬眠薬」として再利用できるかどうかを確かめることにしました。
SNC80のときに使用したオタマジャクシのRNAシーケンスデータと、AIによる薬物探索ツールを用いると、197のFDA承認薬がSNC80のような生理学的減速状態を模倣すると予測されました。さらに、SNC80との構造類似性を探ると、最も近いものとしてドネペジルが特定されました。
ドネペジルは、アメリカでは1996年、日本では99年からアルツハイマー型認知症の進行抑制剤として承認されています。SNC80とは異なりすでに医療の現場で使用されている薬であるため、代謝を抑制する効能が認められれば、緊急時に病院に搬送される間に起こる臓器損傷を防ぐ目的で利用される日も遠くないかもしれません。
研究論文の筆頭著者であるマリア・プラザ・オリバー博士は、ハーバード大のプレスリリースの中で「興味深いことに、アルツハイマー病の患者におけるドネペジルの臨床的過剰摂取は、眠気や心拍数の低下、つまり無気力のような症状と関連しています。私たちの研究は、これらの効果を副作用としてではなく、主な臨床反応として活用することに焦点を当てた初の研究です」と説明しています。
さらに、研究チームは薬剤の毒性に配慮し、ドネペジルを脂質ナノ粒子のカプセルに入れることを提案しています。実験では、カプセルに入れたものと入れないものでは、双方とも運動性の低下、心拍数の低下、酸素消費量の減少が観察され、ドネペジルで「冬眠状態」になったことが確認できました。
しかし、カプセルに入れない場合は、投与後 2~3 時間以上経過すると毒性が現れ、死亡するものや形態学的変化が見られるものも現れました。さらに、カプセルに入れたドネペジルを使用したほうが、誘発する薬剤の能力が大幅に向上し、同時に毒性が大幅に低下することが分かりました。
論文の責任著者であるドナルド・E・イングバー博士は「ドネペジルは数十年にわたって世界中の患者に使用されてきたため、その特性と製造方法は十分に確立されています。私たちが使用したものと類似した脂質ナノキャリアも、現在では他の用途での臨床使用が承認されています。この研究は、カプセル化された薬剤が将来、患者が壊滅的な傷害や病気から生き延びるための重要な時間を稼ぐために使用される可能性があり、新薬よりもはるかに短い時間で簡単に処方および大量生産できることを示しています」と語っています。
宇宙開発で使われる未来は?
ドネペジル・カプセルが実用化したら、緊急医療の現場では搬送前にまず「治療の時間稼ぎ」のためにこの薬を投与することが当たり前になるかもしれません。さらに、非侵襲的なため訓練されてない人でも治療を施せることから、将来的には施設や学校にはAEDとともにドネペジル・カプセルも設置される可能性もあるかもしれません。
この薬は「冷やさずにコールドスリープを誘発する薬」とも言えます。SFのように宇宙開発で使われる未来は考えられるでしょうか。
現在、日本が関わっている有人宇宙探査は、月に再び人類を降り立たせようという「アルテミス計画」が進んでいます。月の次は火星と構想されていますが、現在の技術では地球から火星まで片道約250日かかります。人工的な冬眠で一部の日程だけでも宇宙飛行士たちの代謝や呼吸数を抑えることができれば、ロケットに積む食料や酸素を節約することができます。
もっとも、宇宙の微小重力下では、薬の効き方や代謝されるまでの時間が地球上とは異なってくる可能性があります。宇宙空間での動物実験や臨床試験が必要であることを考えれば、実現はそう簡単ではないでしょう。
とは言っても、一般に医薬品の開発には10年以上の時間と数100億~数1000億円規模の費用が必要とされます。今回の研究で示された「既存の承認薬が持つ他の薬効をAIに調べさせる」手法は、開発期間と費用を大幅に削減し、結果として薬価を抑えるための救世主になるかもしれません。
<低体温療法と同じ効果を薬剤だけで作りたいと考えていたハーバード大の研究チームが、AIを駆使して「冬眠」と似た効果が得られる薬を調査。その結果、アルツハイマー型認知症の進行抑制剤として広く処方されている「ドネペジル」が候補に挙がった。一体どういうことなのか?>
重篤な外傷で大量出血または心肺停止を起こした患者は、迅速に治療できなければほとんど生き延びることができません。この場合、受傷から決定的治療(手術や本格的な止血術など)を開始するまでの時間が1時間を超えるか否かが、生死の分かれ目になると考えられています。この最初の1時間は「ゴールデンアワー」と呼ばれ、救急医療では重要視されています。
一方、負傷者の身体を低温にして代謝や酸素消費量を抑えると、組織や脳の保護作用が得られ、治療までの時間稼ぎができることも知られています。しかし、30℃以下になると心室細動や菌血症のリスクが高まること、高度な設備と技術を持つ医療機関は限られていることから、いつでもどこでもできる療法ではありません。
アメリカ国防総省の特別機関で軍用技術の開発と研究を担う国防高等研究計画局(DARPA)は、2018年から「バイオスタシス・プログラム」を実施しています。このプログラムでは、ゴールデンアワーを延長するための研究を推進し、外部機関に研究費を提供しています。医療機関への迅速な搬送や救急対応が難しい、前線で活動する軍人の生存率を向上させるためです。
初年度からこのプログラムに参加しているハーバード大ヴィース研究所(The Wyss Institute for Biologically Inspired Engineering)の研究チームは今回、AIを使って、代謝や呼吸数を低下させて「冬眠」と似たような効果が得られる薬を探しました。その結果、アルツハイマー型認知症で最も歴史のある薬「ドネペジル」が候補に挙がりました。研究成果は生体や環境に関するナノテクノロジーに関する学術誌『ACS Nano』に8月21日付で掲載されました。
ドネペジルは、どうして冬眠の代わりになり得るのでしょうか。戦場以外でもドネペジルの「第二の薬効」は使い道があるのでしょうか。概観してみましょう。
薬剤だけで低体温療法と同じ効果を
一部の動物は、極端な気温や食料不足などの厳しい環境条件に晒されても、冬眠や休眠によって生き延びることが可能です。このとき、動物の身体では、体温、酸素消費量、心拍数、代謝状態などが低下しており、エネルギー消費を節約したり、臓器へのダメージを軽減したりすることができています。
ヒトは冬眠や休眠はしませんが、不治の病に侵された人が未来の医療を期待して仮死状態になったり、長期の宇宙旅行に耐えるために「コールドスリープ」したりする設定は、SF作品では馴染み深いものです。
ところが、「バイオスタシス・プログラム」は、戦場、つまり医療機関からの遠隔地を想定しています。なので、低体温療法を使わないでも代謝を可逆的かつ制御可能な状態で減速させ、医療介入が可能になるまで機能能力を安定させて保護する、新しい化学生物学アプローチが求められます。
ハーバード大チームは以前から、低体温療法と同じ効果を薬剤だけで作りたいと考えていました。そのために、動物に冬眠や休眠のような作用を引き起こす薬を探すことにしました。
研究者たちは、冬眠していないアフリカツメガエルのオタマジャクシを使って、薬物を投与したときに冬眠状態になるかどうかを実験しました。
そもそも、冬眠や休眠のメカニズムは複雑で、「中枢神経系が重要な役割を果たしている」こと以外はほとんど解明されていません。近年は、「げっ歯類の視床下部に超音波を照射した後、24時間にわたって休眠のような状態が誘発された」という研究もありますが、ヒトへの応用や臨床試験の実施は未定です。
チームは過去にAIを使って薬を探索し、オピオイドδ受容体作動薬の「SNC80」を使うとアフリカツメガエルのオタマジャクシに冬眠のような状態を誘発することを解明しました。さらに哺乳類の組織を使った実験でも、ブタの心臓やヒトの臓器チップにこの薬を投与すると、酸素消費量が大きく低下し、著しく遅らせることができることが確認できました。
すでに医療現場でも使用、SNC80に「最も近い」ドネペジル
SNC80はマウスなどの実験で、不安や恐怖の記憶を適切に消去する働きを持つことが観察されています。けれど、SNC80はヒトでは痙攣を引き起こす可能性があるため、臨床使用は承認されていません。
そこで今回は、既存のFDA(アメリカ食品医薬品局)承認薬の中から探して、「冬眠薬」として再利用できるかどうかを確かめることにしました。
SNC80のときに使用したオタマジャクシのRNAシーケンスデータと、AIによる薬物探索ツールを用いると、197のFDA承認薬がSNC80のような生理学的減速状態を模倣すると予測されました。さらに、SNC80との構造類似性を探ると、最も近いものとしてドネペジルが特定されました。
ドネペジルは、アメリカでは1996年、日本では99年からアルツハイマー型認知症の進行抑制剤として承認されています。SNC80とは異なりすでに医療の現場で使用されている薬であるため、代謝を抑制する効能が認められれば、緊急時に病院に搬送される間に起こる臓器損傷を防ぐ目的で利用される日も遠くないかもしれません。
研究論文の筆頭著者であるマリア・プラザ・オリバー博士は、ハーバード大のプレスリリースの中で「興味深いことに、アルツハイマー病の患者におけるドネペジルの臨床的過剰摂取は、眠気や心拍数の低下、つまり無気力のような症状と関連しています。私たちの研究は、これらの効果を副作用としてではなく、主な臨床反応として活用することに焦点を当てた初の研究です」と説明しています。
さらに、研究チームは薬剤の毒性に配慮し、ドネペジルを脂質ナノ粒子のカプセルに入れることを提案しています。実験では、カプセルに入れたものと入れないものでは、双方とも運動性の低下、心拍数の低下、酸素消費量の減少が観察され、ドネペジルで「冬眠状態」になったことが確認できました。
しかし、カプセルに入れない場合は、投与後 2~3 時間以上経過すると毒性が現れ、死亡するものや形態学的変化が見られるものも現れました。さらに、カプセルに入れたドネペジルを使用したほうが、誘発する薬剤の能力が大幅に向上し、同時に毒性が大幅に低下することが分かりました。
論文の責任著者であるドナルド・E・イングバー博士は「ドネペジルは数十年にわたって世界中の患者に使用されてきたため、その特性と製造方法は十分に確立されています。私たちが使用したものと類似した脂質ナノキャリアも、現在では他の用途での臨床使用が承認されています。この研究は、カプセル化された薬剤が将来、患者が壊滅的な傷害や病気から生き延びるための重要な時間を稼ぐために使用される可能性があり、新薬よりもはるかに短い時間で簡単に処方および大量生産できることを示しています」と語っています。
宇宙開発で使われる未来は?
ドネペジル・カプセルが実用化したら、緊急医療の現場では搬送前にまず「治療の時間稼ぎ」のためにこの薬を投与することが当たり前になるかもしれません。さらに、非侵襲的なため訓練されてない人でも治療を施せることから、将来的には施設や学校にはAEDとともにドネペジル・カプセルも設置される可能性もあるかもしれません。
この薬は「冷やさずにコールドスリープを誘発する薬」とも言えます。SFのように宇宙開発で使われる未来は考えられるでしょうか。
現在、日本が関わっている有人宇宙探査は、月に再び人類を降り立たせようという「アルテミス計画」が進んでいます。月の次は火星と構想されていますが、現在の技術では地球から火星まで片道約250日かかります。人工的な冬眠で一部の日程だけでも宇宙飛行士たちの代謝や呼吸数を抑えることができれば、ロケットに積む食料や酸素を節約することができます。
もっとも、宇宙の微小重力下では、薬の効き方や代謝されるまでの時間が地球上とは異なってくる可能性があります。宇宙空間での動物実験や臨床試験が必要であることを考えれば、実現はそう簡単ではないでしょう。
とは言っても、一般に医薬品の開発には10年以上の時間と数100億~数1000億円規模の費用が必要とされます。今回の研究で示された「既存の承認薬が持つ他の薬効をAIに調べさせる」手法は、開発期間と費用を大幅に削減し、結果として薬価を抑えるための救世主になるかもしれません。