ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<「うまい」と「いい」は違う。読者が読みたいのは「いい文章」だ。朝日新聞名文記者が「善く生きる」ことを提案する理由>
「文章がうまくなりたい」と人は言う。じっさい、メールやチャットアプリを使う以上、文章でのコミュニケーションは生きるうえで欠かせない。SNSが一般化し、かつてプロのライターに限られた領域だった「文章での情報発信」に、誰もが参入できるようになった。
かつてのどの時代よりも皆が文章を書いている昨今、「あの人の文章はちょっといい」と思われることが人生に有利に働くことは間違いない。
うまい文章を書きたい。朝日新聞記者で作家の近藤康太郎氏のもとには、文章力を磨きたい後輩記者が集まるようになった。エース記者も育つ。35年の経験で培われた25の文章技術を解説した10刷のベストセラー『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)は、アマゾンレビュー600件超、星4.3。「実践できる思想書」として新たな読者を獲得し続けている。
では、「うまい文章」とはなにか? 同書より取り上げる。
※本記事は前後編の後編(前編:初心者も今すぐできる「伝わる文章」で心を撃つためのシンプルな3原則【名文記者の文章術】)
◇ ◇ ◇
「うま過ぎる」文章はよくない
朝日新聞に「アロハで田植えしてみました」という連載記事を書き始めたのは、二〇一四年のことだった。都会から田舎に流れてきたライターが、縁もゆかりもない土地で、早朝の一時間だけ田仕事をするという、そこだけとればなんということもない企画だった。しかし連載一回目から、驚くほど多くのファンレターや電話、メールが来た。テレビ番組になり、本になった。連載はシリーズ化され、二〇二〇年、シーズン7まで続いている。
その記念すべき第一回が紙面になったとき、九州地方の新聞社の編集幹部に、掲載紙を送ったことがある。別件の取材でお世話になった方で、ごあいさつという程度。とくに深い意味はなかった。
その編集幹部は、現役時代から名文記者として知られた人で、本を何冊も出版し、文化部長や編集局長を歴任した人物だった。返礼のはがきに、こうあった。
「記事は読んでいました。なにしろうまい文章です。うま過ぎると言ってもいい。しかし、なにごとにつけ、『過ぎる』というのは、よくないことかも知れませんよ」
この短いはがきには、しばらく考え込んでしまった。
よく切れる刀は、鞘に収めておくがいい
黒澤明監督の傑作に「椿三十郎」という映画がある。主人公(三船敏郎)は、頭が切れてべらぼうに腕の立つ素浪人で、世の中に怖いものなどない男。敵の侍を容赦なく切り伏せる。その三十郎に、いかにも気品のあるおっとりした、城代家老の奥方が、諭す場面が忘れがたい。
「あなたはなんだかギラギラし過ぎていますね。そう、抜き身みたいに。あなたは、鞘(さや)のない刀みたいな人。よく切れます。でも、本当にいい刀は、鞘に入っているもんですよ」
徒然草は「よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ」と書いている。「歌よみは下手こそよけれあめつちのうごき出(い)だしてたまるものかは」とは、江戸時代の狂歌だ。
歌よみは下手な方がいい。うまい歌など書かれて、天地が動いてしまっては危なくて仕方ない。古今集の序文に、「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし」とあることに対する、強烈な皮肉だ。
「うまい文章」は果たして「いい文章」なのか?
人は、うまい文章を書きたがる。切れる刀をもちたがる。敵(読者)をなぎ倒す。しかし、その「うまい文章」は、はたして、「いい文章」なのか。
文章が、主体の感情、判断、思想を乗せて走るクロネコヤマトだとすると、そして受け取り印は読者の心が揺れたという現象だとすると、うまい文章に、喜んで受け取り印が押されるわけではないのではないか。
うまい文章などいらない。「いい文章」を受け取りたい。お客さんは、そう、思っているのではないのか? ここで、ついに問いが変奏される。
いい文章とはなにか。文字どおり、人を、いい心持ちにさせる文章。落ち着かせる文章。世の中を、ほんの少しでも住みいいものにする文章。風通しのいい文章。ギラギラしていない、いい鞘に入っている、切れすぎない、つまりは、徳のある文章。
切れすぎる刀は、人を落ち着かなくさせる。余裕がほしい。ふくらみが、文章にはほしい。では「ふくらみ」とはなんなのか。
ここでは、「誤読の種を孕(はら)むこと」と言っておく。この本の最後の弾丸、第25発(痕跡 ――わたしは書き残す。あなたが読み解く。)で、リプライズされるはずだ。
◇ ◇ ◇
近藤康太郎(こんどう・こうたろう)
作家/評論家/百姓/猟師。1963年、東京・渋谷生まれ。1987年、朝日新聞社入社。川崎支局、学芸部、AERA編集部、ニューヨーク支局を経て、九州へ。新聞紙面では、コラム「多事奏論」、地方での米作りや狩猟体験を通じて資本主義や現代社会までを考察する連載「アロハで猟師してみました」を担当する。
著書に『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』、『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』、『百冊で耕す〈自由に、なる〉ための読書術』(CCCメディアハウス)、『アロハで田植え、はじめました』、『アロハで猟師、はじめました』(河出書房新社)、『朝日新聞記者が書けなかったアメリカの大汚点』、『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』、『アメリカが知らないアメリカ 世界帝国を動かす深奥部の力』(講談社)、『リアルロック 日本語ROCK小事典』(三一書房)、『成長のない社会で、わたしたちはいかに生きていくべきなのか』(水野和夫氏との共著、徳間書店)他がある。
『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』
近藤康太郎[著]
CCCメディアハウス[刊]
<「うまい」と「いい」は違う。読者が読みたいのは「いい文章」だ。朝日新聞名文記者が「善く生きる」ことを提案する理由>
「文章がうまくなりたい」と人は言う。じっさい、メールやチャットアプリを使う以上、文章でのコミュニケーションは生きるうえで欠かせない。SNSが一般化し、かつてプロのライターに限られた領域だった「文章での情報発信」に、誰もが参入できるようになった。
かつてのどの時代よりも皆が文章を書いている昨今、「あの人の文章はちょっといい」と思われることが人生に有利に働くことは間違いない。
うまい文章を書きたい。朝日新聞記者で作家の近藤康太郎氏のもとには、文章力を磨きたい後輩記者が集まるようになった。エース記者も育つ。35年の経験で培われた25の文章技術を解説した10刷のベストセラー『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』(CCCメディアハウス)は、アマゾンレビュー600件超、星4.3。「実践できる思想書」として新たな読者を獲得し続けている。
では、「うまい文章」とはなにか? 同書より取り上げる。
※本記事は前後編の後編(前編:初心者も今すぐできる「伝わる文章」で心を撃つためのシンプルな3原則【名文記者の文章術】)
◇ ◇ ◇
「うま過ぎる」文章はよくない
朝日新聞に「アロハで田植えしてみました」という連載記事を書き始めたのは、二〇一四年のことだった。都会から田舎に流れてきたライターが、縁もゆかりもない土地で、早朝の一時間だけ田仕事をするという、そこだけとればなんということもない企画だった。しかし連載一回目から、驚くほど多くのファンレターや電話、メールが来た。テレビ番組になり、本になった。連載はシリーズ化され、二〇二〇年、シーズン7まで続いている。
その記念すべき第一回が紙面になったとき、九州地方の新聞社の編集幹部に、掲載紙を送ったことがある。別件の取材でお世話になった方で、ごあいさつという程度。とくに深い意味はなかった。
その編集幹部は、現役時代から名文記者として知られた人で、本を何冊も出版し、文化部長や編集局長を歴任した人物だった。返礼のはがきに、こうあった。
「記事は読んでいました。なにしろうまい文章です。うま過ぎると言ってもいい。しかし、なにごとにつけ、『過ぎる』というのは、よくないことかも知れませんよ」
この短いはがきには、しばらく考え込んでしまった。
よく切れる刀は、鞘に収めておくがいい
黒澤明監督の傑作に「椿三十郎」という映画がある。主人公(三船敏郎)は、頭が切れてべらぼうに腕の立つ素浪人で、世の中に怖いものなどない男。敵の侍を容赦なく切り伏せる。その三十郎に、いかにも気品のあるおっとりした、城代家老の奥方が、諭す場面が忘れがたい。
「あなたはなんだかギラギラし過ぎていますね。そう、抜き身みたいに。あなたは、鞘(さや)のない刀みたいな人。よく切れます。でも、本当にいい刀は、鞘に入っているもんですよ」
徒然草は「よき細工は、少し鈍き刀を使ふといふ」と書いている。「歌よみは下手こそよけれあめつちのうごき出(い)だしてたまるものかは」とは、江戸時代の狂歌だ。
歌よみは下手な方がいい。うまい歌など書かれて、天地が動いてしまっては危なくて仕方ない。古今集の序文に、「力をも入れずして天地(あめつち)を動かし」とあることに対する、強烈な皮肉だ。
「うまい文章」は果たして「いい文章」なのか?
人は、うまい文章を書きたがる。切れる刀をもちたがる。敵(読者)をなぎ倒す。しかし、その「うまい文章」は、はたして、「いい文章」なのか。
文章が、主体の感情、判断、思想を乗せて走るクロネコヤマトだとすると、そして受け取り印は読者の心が揺れたという現象だとすると、うまい文章に、喜んで受け取り印が押されるわけではないのではないか。
うまい文章などいらない。「いい文章」を受け取りたい。お客さんは、そう、思っているのではないのか? ここで、ついに問いが変奏される。
いい文章とはなにか。文字どおり、人を、いい心持ちにさせる文章。落ち着かせる文章。世の中を、ほんの少しでも住みいいものにする文章。風通しのいい文章。ギラギラしていない、いい鞘に入っている、切れすぎない、つまりは、徳のある文章。
切れすぎる刀は、人を落ち着かなくさせる。余裕がほしい。ふくらみが、文章にはほしい。では「ふくらみ」とはなんなのか。
ここでは、「誤読の種を孕(はら)むこと」と言っておく。この本の最後の弾丸、第25発(痕跡 ――わたしは書き残す。あなたが読み解く。)で、リプライズされるはずだ。
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近藤康太郎(こんどう・こうたろう)
作家/評論家/百姓/猟師。1963年、東京・渋谷生まれ。1987年、朝日新聞社入社。川崎支局、学芸部、AERA編集部、ニューヨーク支局を経て、九州へ。新聞紙面では、コラム「多事奏論」、地方での米作りや狩猟体験を通じて資本主義や現代社会までを考察する連載「アロハで猟師してみました」を担当する。
著書に『ワーク・イズ・ライフ 宇宙一チャラい仕事論』、『三行で撃つ〈善く、生きる〉ための文章塾』、『百冊で耕す〈自由に、なる〉ための読書術』(CCCメディアハウス)、『アロハで田植え、はじめました』、『アロハで猟師、はじめました』(河出書房新社)、『朝日新聞記者が書けなかったアメリカの大汚点』、『朝日新聞記者が書いたアメリカ人「アホ・マヌケ」論』、『アメリカが知らないアメリカ 世界帝国を動かす深奥部の力』(講談社)、『リアルロック 日本語ROCK小事典』(三一書房)、『成長のない社会で、わたしたちはいかに生きていくべきなのか』(水野和夫氏との共著、徳間書店)他がある。
『三行で撃つ 〈善く、生きる〉ための文章塾』
近藤康太郎[著]
CCCメディアハウス[刊]