片山杜秀 + 三浦雅士 + 田所昌幸(構成:置塩 文) アステイオン
<「文化国家」を目指して、民間の経営者たちがホールを建てた1980~90年代。国立劇場の立て直しを控える現在との差は何なのか──>
『アステイオン』創刊と同じ年に誕生したサントリーホール。1986年とはどのような時代背景だったのか。音楽評論家の片山杜秀・慶應義塾大学教授と舞踊研究者で文芸評論家の三浦雅士氏にアステイオン編集委員長の田所昌幸・国際大学特任教授が聞く。『アステイオン』100号より「1986年から振り返る──サントリーホールと『アステイオン』の時代」を転載。
◇ ◇ ◇
1986年から始まった
田所 『アステイオン』が100号を迎えました。本誌が創刊された1986年は、政治的には、与党の中曽根自民党はあらゆる利害を集約するキャッチオールパーティー(包括政党)になったと言われる一方で、野党第一党は日本社会党でした。
バブル時代の始まりで、虚ろな繁栄とも言えるし、他方で戦後日本で一番元気の良かった時代と言えるのかもしれません。文化面でも、企業によるメセナ活動のさまざまな試みが始まります。朝日放送による大阪のザ・シンフォニーホール開館は82年、日本初のクラシック音楽専用コンサートホールの誕生です。
サントリー文化財団を佐治敬三が創設したのは79年、そして今日お集まりいただいたサントリーホールの開館は『アステイオン』創刊と同じ86年。また、セゾングループのセゾン文化財団設立、セゾン劇場オープンは87年です。
86年当時私は30歳で、まさか自分がその後『アステイオン』の編集に関わるようになるとはもちろん思ってもいませんでした。本日ご登壇の三浦雅士さんは10歳年長で団塊の世代、片山杜秀さんは60年代生まれで私よりは少し下ですね。
『アステイオン』出発の時代をご存じない世代の読者へのメッセージの意味も込めて、時代背景からお話を始めていただけますか。
三浦 86年初めまで2年近くニューヨークにいたので、実は僕には日本の80年代があまりピンときません。しかも、向こうで「人類には舞踊が決定的に重要だったのだ」と確信して帰国したら、なんと東京の真ん中にはオペラハウスがなく、上演する場所がない。
欧州を見れば、パリ、ロンドン、ウィーン、ベルリンなど、都市計画で都市の中心に必ずオペラハウスに類するものがつくられている。翻って日本は、明治から大正にかけては日比谷公会堂があり帝国劇場があったのに、そういうことを考える官僚や政治家がもはやいなくなってしまった。
些細なことに思えるかもしれませんが、とんでもない。劇場の座席は座標幾何学の身体化であり、1人1枚ずつのチケットは民主主義の身体化である。近代の本質に関わっている。舞台芸術において身体は舞台の上だけで問題になっているのではない、むしろ客席において問題になっているのだ。民主主義と劇場は双子なんだ。そういう奥行を捉える感性が失われてしまっているということです。
ですから、サントリーがサントリーホールをつくったことは画期的で立派なことだと思います。その影響を受けて自治体も本格的なコンサートホールという視点を持つようになり、これからもそれは続いていってほしいと思う。しかし、それがオペラハウスではないことが、僕にとっては一番大きな問題でした。バレエにはオペラハウスが不可欠なんです。
日本政府は劇場事業について大所高所から見ることをしません。見る機関もない。いや、東京文化会館があるからいいではないかということかもしれませんが、世界に誇るべき建築空間だけど、オペラハウスではない。それも補修工事のために近々閉めると聞きました。でも、誰も文句を言わない。
「1つの都市にはこの規模のオペラハウスが必要だ」と配慮する人が国のトップにいないことが、持続的な問題としてあると思います。本当の外交には劇場が必要なんです。
私が「舞踊が大事」というのは、それが最も始原的な芸術であり、直接的に人の生き死にに関わる表現であって、母子関係による人格主体のでき方と直接的に関わる芸術だからです。そういう舞踊が上演される機会、見る機会は多いほうがいいということです。こういった問題にどのように向き合うかを率先して考えていくのが雑誌の役割だとすれば、86年はその原点の年と言えるのではないかと思います。
『アステイオン』創刊号に掲載されたサントリーホールの広告
片山 私は、70年代から東京文化会館でバレエを観ていました。東京で踊りができるホールと言えば、新宿の東京厚生年金会館がありましたね。
70年代頃の東京には、芝、五反田という比較的便利なところにメルパルクホールやゆうぽうとホールという、千何百もの座席を持つ市民会館的な多目的ホールでテレビの公開番組からオーケストラのコンサート、バレエまで何にでも利用できる、いわゆる「ホール文化」が機能していました。
そこから日本が成熟していき、ザ・シンフォニーホールができ、サントリーホールができ、オーチャードホールや東京芸術劇場、そして新国立劇場も90年代に入ってできます。新しいホールは供給過剰なほどで、古いホールと相俟って、80年代、90年代でひととおり整いました。
三浦 音楽好きはコンサートホールのほうがオペラハウスより上だと思い込んでいるけれど、それはドイツ古典音楽が最高だというドイツの英仏コンプレクスから生まれた迷信にすぎない。その迷信のために似たようなコンサートホールをいっぱいつくってしまった。だから日本にはオペラハウスがほとんど存在しない。新国立劇場にしても民間にはできるだけ使わせないようにしている。
それに見合っているのが建築家で、日本の建築家は建てるだけで舞踊はもちろん音楽も鑑賞したことがない。音響効果ばかり研究していて、ホールに入ったときの雰囲気まで研究する建築家は非常に少ない。工学部的な発想ばかりなんです。
しかも、片山さんに匹敵するような、日本の伝統音楽に詳しい音楽評論家はいるのかという問題がある。国立劇場は主に歌舞伎を上演していたけれど、本当は日本舞踊向きです。逆に歌舞伎座は日本舞踊に集中した演し物はほとんどやっていない。
その国立劇場を2023年の秋に「ちょっと閉めます」ということですが、再開場まで10年と言われている。代わりに台東区立の浅草公会堂、中央区立の日本橋公会堂があるとは言うけれど、小さい。それで飢えを満たせるのか。そういうことを日本音楽及び日本舞踊の研究家たちもファンも何も言いません。お上にはひたすら弱い。
片山 確かにメルパルク、ゆうぽうと、厚生年金などの古いホールは閉めて建て替えられずに終わってしまった。国立劇場は建て直し。オーチャードホールのあるBunkamuraも長期間閉めているでしょう。神奈川県民ホールは閉館してしまう。東京文化会館も長く改修が入ると聞きます。
21世紀の首都圏はこれではがらんどうみたいなものです。
三浦 そう、がらんどう。それが火急の問題としてあります。
86年の段階でも満足ではなかったのに、いったいどうするつもりなのか、と。古いホールを潰して代わりを建てないのは経営が建前上、民間になったから。日本の官僚は志が低いし趣味も低俗すぎる。しかも、それを批判すべきジャーナリズムが機能していない。
ホワイエはマホガニーと大理石の質感を生かして落ち着いた雰囲気に。天井に「光のシンフォニー響」と題された石井幹子氏制作の巨大なシャンデリアが輝く。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
「文化国家」を目指した時代
田所 バブルの頃、地方にまでホールという箱物をたくさん建てたのはいいけれど、肝心の演奏家がいないと言われました。そうしてできた日本のホールで実際に音楽や舞踊の公演をしたり、関わってきた人たちについては、どのように評価しておられますか。
片山 ホールの発展史と中身の発展史は必ずしも並行しないものですが、「ホールがないと困る」という状況があってホールができていく事情はありますよね。日本のホール環境について言えば、80~90年代に、大小のクラシック音楽専用ホールと言えるものが大阪にも東京にも増えていきました。
これは、三浦さんが先ほどご指摘されたように国家が主導して大所高所から進めたことではありません。サントリーホールは佐治敬三、オーチャードホールは五島昇、ザ・シンフォニーホールは朝日放送で、紀尾井ホールは旧新日鉄。
「首都や大阪の周囲にサロンにいるような場所がないと文化人として恥ずかしい」ということで「文化国家」を目指して、教養の高い民間の経営者が頑張った。
外国人の演奏家を呼んででも、サントリーホールのようなところに誰でもいつでも足を運べることが文化国家であると信じる、旧制高校的教育の薫陶を受けた人たちの思いと、戦後の豊かさに憧れる人たちの思いとが結びついて実現していった夢の結晶です。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン期」から「バブル期」、そしてバブルが崩壊してもまだしばらく余裕の残っていた時代に、お金だけではなく大正から昭和の精神的な蓄えも使って実現したのだと思います。
オペラ座の話がありましたが、日本では「文化国家になるためにオペラ座が必要だ」と、片山哲内閣のもとで戦後の混乱期の1947から48年にかけて国立劇場構想が検討されています。
貧しいなかでもオペラやバレエの公演が日本じゅうで盛んに行われた時代で、当時の藤原歌劇団は、歌手が揃っているわけではないからダブルキャストが満足にはゆかないなかで、ワーグナーの歌劇やイタリアオペラを何日も連続公演した。お客さんもすごく入っていたそうですね。舞踊の方もその頃は「プロメテの火」などのモダンダンスや創作バレエの大作が生まれて、また東京バレエ団が帝国劇場で「白鳥の湖」の長期興行をやったでしょう。
三浦 舞踊でも音楽でも、どんな機会、どんな場所をも利用して創作しようという人たちは、いつの時代にもいます。自分たちで実現したい、新しい領域を切り開きたい、という熱はすごくて、そういう動きは必ず出てきます。
でも、日本人はどうなるのが一番幸福なのか、日本の文化を全体的に考える人がいない。問題は、政府がそれに呼応しないということだけではありません。
実際に東京23区が担ってみたら、小型の多目的ホールがぽこぽこできてしまう結果になってしまった。室内楽、オーケストラ、オペラ、バレエ、日本舞踊、モダンダンスその他、目的にある程度特化した多様な劇場があったほうがいいのだけれど、そうはならなかった。
左より片山杜秀・慶應義塾大学教授、文芸評論家の三浦雅士氏、アステイオン編集委員長の田所昌幸・国際大学特任教授。本座談会はサントリーホール「ブルーローズ」(小ホール)で2024年2月2日に収録した。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
文化継続を担うのは
片山 その次の世代になると、日本が戦争に負けてどん底になっても、クラシック音楽への憧れを持ち、「文化が大事」という情念を起動させた世代とは違ってきますよね。政治家で言えば戦後生まれの菅直人くらいの、子どもの頃からそこそこ豊かで、学生運動などをやり、音楽はフォークやロックで十分というジェネレーション。
80年代には、サントリーホールが建ち、オーチャードホールが建ち、官僚や政治家にもそういう "古風" な価値観に共鳴する実力者が世代的に居ましたから、東京都も東京芸術劇場を建てたし、彩の国さいたま芸術劇場とか川崎市のミューザとか、都市周辺にまで波及していきました。もちろん新国立劇場もできた。しかし、「もっと建てよう」というムードはその辺までだったのではないですか。
さらにその後は、「何でこんなものを建てたのか。金がかかるだけじゃないか」となり、さらに、先ほど言ったように古いホールなどは老朽化で取り壊しとなって、「後継ホールをつくるのはやめましょう」ということで、80年代、90年代に建って、その前からあったものと組み合わさって豊かだった環境が今日では続かなくなっています。
90年代以降、日本が経済的に調子が悪くなりましたが、世界の中でものすごく貧しい国に転落したわけじゃない。やる気があれば「新しいホールを建てましょう」とか、「もっと良いホールにしましょう」とか、そのくらいの資力はまだまだあると思いたい。
でも実際にはそういうふうには回っていない。国立劇場で歌舞伎や文楽、雅楽、民俗芸能公演をたくさん観てきた人間は「その国立劇場の建て直しに何年かかるか分からないなんて悪い冗談だ。伝統文化が滅びるぞ」と思う。けれどもその心配をする力がとても弱い。
田所 それが問題にもならないから、三浦さんは悲憤慷慨しておられるわけですね。
三浦 まさにその通り(笑)。文化的なものを持続しようという日本の民間パワーは非常に大きいと僕は思っています。例えば1960年代のアングラとか暗黒舞踏とか。寺山修司にしても、鈴木忠志、唐十郎、土方巽にしても、彼らに政府が金を出すなんていうことはあり得ない。
存在自体が最初から反政府的と思われるくらいのものですから。しかし、それでも出てくるし、劇場がなければ、体育館でも倉庫でもやるし、野外にテントも張るわけです。そのくらいのパワーは今も絶対にあると信じているから、その点は心配していません。
ただ、いくら何でも、ゆうぽうとがなくなり、メルパルクがなくなり、国立劇場がなくなり、全部なくなっても誰も何も言わないという状況はいびつであるということは言っておいたほうがいい。
そして、それを話題にする媒体がないということも問題です。新聞もテレビもジャーナリズムとして機能していない。
田所 その役割を雑誌がやらんといかんじゃないか、ということですね。
※中編:「日本人は100年後まで通用するものを作ってきた」...「失われた何十年」言説の不安がもたらした文化への影響とは? に続く。
片山杜秀(Morihide Katayama)
慶應義塾大学法学部教授、音楽評論家。1963年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。専門は近代政治思想史、政治文化論。主な著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(ともにアルテスパブリッシング、サントリー学芸賞)、『未完のファシズム─「持たざる国」日本の運命』(新潮選書)、『皇国史観』(文春新書)などがある。
三浦雅士(Masashi Miura)
文芸評論家。1946年生まれ。弘前高校卒業。1969年、青土社創立と同時に入社。『ユリイカ』、『現代思想』編集長などを務める。『メランコリーの水脈』(福武書店、サントリー学芸賞)、『身体の零度』(講談社、読売文学賞)など著書多数。
田所昌幸(Masayuki Tadokoro)
国際大学特任教授。1956年生まれ。京都大学法学部卒業。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス留学。京都大学大学院法学研究科博士課程中退。博士(法学)。姫路獨協大学法学部教授、防衛大学校教授、慶應義塾大学法学部教授を経て、現職。慶應義塾大学名誉教授。専門は国際政治学。主な著書に『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『越境の国際政治』(有斐閣)、『社会のなかのコモンズ』(共著、白水社)、『新しい地政学』(共著、東洋経済新報社)など。
『アステイオン』100号
特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
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<「文化国家」を目指して、民間の経営者たちがホールを建てた1980~90年代。国立劇場の立て直しを控える現在との差は何なのか──>
『アステイオン』創刊と同じ年に誕生したサントリーホール。1986年とはどのような時代背景だったのか。音楽評論家の片山杜秀・慶應義塾大学教授と舞踊研究者で文芸評論家の三浦雅士氏にアステイオン編集委員長の田所昌幸・国際大学特任教授が聞く。『アステイオン』100号より「1986年から振り返る──サントリーホールと『アステイオン』の時代」を転載。
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1986年から始まった
田所 『アステイオン』が100号を迎えました。本誌が創刊された1986年は、政治的には、与党の中曽根自民党はあらゆる利害を集約するキャッチオールパーティー(包括政党)になったと言われる一方で、野党第一党は日本社会党でした。
バブル時代の始まりで、虚ろな繁栄とも言えるし、他方で戦後日本で一番元気の良かった時代と言えるのかもしれません。文化面でも、企業によるメセナ活動のさまざまな試みが始まります。朝日放送による大阪のザ・シンフォニーホール開館は82年、日本初のクラシック音楽専用コンサートホールの誕生です。
サントリー文化財団を佐治敬三が創設したのは79年、そして今日お集まりいただいたサントリーホールの開館は『アステイオン』創刊と同じ86年。また、セゾングループのセゾン文化財団設立、セゾン劇場オープンは87年です。
86年当時私は30歳で、まさか自分がその後『アステイオン』の編集に関わるようになるとはもちろん思ってもいませんでした。本日ご登壇の三浦雅士さんは10歳年長で団塊の世代、片山杜秀さんは60年代生まれで私よりは少し下ですね。
『アステイオン』出発の時代をご存じない世代の読者へのメッセージの意味も込めて、時代背景からお話を始めていただけますか。
三浦 86年初めまで2年近くニューヨークにいたので、実は僕には日本の80年代があまりピンときません。しかも、向こうで「人類には舞踊が決定的に重要だったのだ」と確信して帰国したら、なんと東京の真ん中にはオペラハウスがなく、上演する場所がない。
欧州を見れば、パリ、ロンドン、ウィーン、ベルリンなど、都市計画で都市の中心に必ずオペラハウスに類するものがつくられている。翻って日本は、明治から大正にかけては日比谷公会堂があり帝国劇場があったのに、そういうことを考える官僚や政治家がもはやいなくなってしまった。
些細なことに思えるかもしれませんが、とんでもない。劇場の座席は座標幾何学の身体化であり、1人1枚ずつのチケットは民主主義の身体化である。近代の本質に関わっている。舞台芸術において身体は舞台の上だけで問題になっているのではない、むしろ客席において問題になっているのだ。民主主義と劇場は双子なんだ。そういう奥行を捉える感性が失われてしまっているということです。
ですから、サントリーがサントリーホールをつくったことは画期的で立派なことだと思います。その影響を受けて自治体も本格的なコンサートホールという視点を持つようになり、これからもそれは続いていってほしいと思う。しかし、それがオペラハウスではないことが、僕にとっては一番大きな問題でした。バレエにはオペラハウスが不可欠なんです。
日本政府は劇場事業について大所高所から見ることをしません。見る機関もない。いや、東京文化会館があるからいいではないかということかもしれませんが、世界に誇るべき建築空間だけど、オペラハウスではない。それも補修工事のために近々閉めると聞きました。でも、誰も文句を言わない。
「1つの都市にはこの規模のオペラハウスが必要だ」と配慮する人が国のトップにいないことが、持続的な問題としてあると思います。本当の外交には劇場が必要なんです。
私が「舞踊が大事」というのは、それが最も始原的な芸術であり、直接的に人の生き死にに関わる表現であって、母子関係による人格主体のでき方と直接的に関わる芸術だからです。そういう舞踊が上演される機会、見る機会は多いほうがいいということです。こういった問題にどのように向き合うかを率先して考えていくのが雑誌の役割だとすれば、86年はその原点の年と言えるのではないかと思います。
『アステイオン』創刊号に掲載されたサントリーホールの広告
片山 私は、70年代から東京文化会館でバレエを観ていました。東京で踊りができるホールと言えば、新宿の東京厚生年金会館がありましたね。
70年代頃の東京には、芝、五反田という比較的便利なところにメルパルクホールやゆうぽうとホールという、千何百もの座席を持つ市民会館的な多目的ホールでテレビの公開番組からオーケストラのコンサート、バレエまで何にでも利用できる、いわゆる「ホール文化」が機能していました。
そこから日本が成熟していき、ザ・シンフォニーホールができ、サントリーホールができ、オーチャードホールや東京芸術劇場、そして新国立劇場も90年代に入ってできます。新しいホールは供給過剰なほどで、古いホールと相俟って、80年代、90年代でひととおり整いました。
三浦 音楽好きはコンサートホールのほうがオペラハウスより上だと思い込んでいるけれど、それはドイツ古典音楽が最高だというドイツの英仏コンプレクスから生まれた迷信にすぎない。その迷信のために似たようなコンサートホールをいっぱいつくってしまった。だから日本にはオペラハウスがほとんど存在しない。新国立劇場にしても民間にはできるだけ使わせないようにしている。
それに見合っているのが建築家で、日本の建築家は建てるだけで舞踊はもちろん音楽も鑑賞したことがない。音響効果ばかり研究していて、ホールに入ったときの雰囲気まで研究する建築家は非常に少ない。工学部的な発想ばかりなんです。
しかも、片山さんに匹敵するような、日本の伝統音楽に詳しい音楽評論家はいるのかという問題がある。国立劇場は主に歌舞伎を上演していたけれど、本当は日本舞踊向きです。逆に歌舞伎座は日本舞踊に集中した演し物はほとんどやっていない。
その国立劇場を2023年の秋に「ちょっと閉めます」ということですが、再開場まで10年と言われている。代わりに台東区立の浅草公会堂、中央区立の日本橋公会堂があるとは言うけれど、小さい。それで飢えを満たせるのか。そういうことを日本音楽及び日本舞踊の研究家たちもファンも何も言いません。お上にはひたすら弱い。
片山 確かにメルパルク、ゆうぽうと、厚生年金などの古いホールは閉めて建て替えられずに終わってしまった。国立劇場は建て直し。オーチャードホールのあるBunkamuraも長期間閉めているでしょう。神奈川県民ホールは閉館してしまう。東京文化会館も長く改修が入ると聞きます。
21世紀の首都圏はこれではがらんどうみたいなものです。
三浦 そう、がらんどう。それが火急の問題としてあります。
86年の段階でも満足ではなかったのに、いったいどうするつもりなのか、と。古いホールを潰して代わりを建てないのは経営が建前上、民間になったから。日本の官僚は志が低いし趣味も低俗すぎる。しかも、それを批判すべきジャーナリズムが機能していない。
ホワイエはマホガニーと大理石の質感を生かして落ち着いた雰囲気に。天井に「光のシンフォニー響」と題された石井幹子氏制作の巨大なシャンデリアが輝く。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
「文化国家」を目指した時代
田所 バブルの頃、地方にまでホールという箱物をたくさん建てたのはいいけれど、肝心の演奏家がいないと言われました。そうしてできた日本のホールで実際に音楽や舞踊の公演をしたり、関わってきた人たちについては、どのように評価しておられますか。
片山 ホールの発展史と中身の発展史は必ずしも並行しないものですが、「ホールがないと困る」という状況があってホールができていく事情はありますよね。日本のホール環境について言えば、80~90年代に、大小のクラシック音楽専用ホールと言えるものが大阪にも東京にも増えていきました。
これは、三浦さんが先ほどご指摘されたように国家が主導して大所高所から進めたことではありません。サントリーホールは佐治敬三、オーチャードホールは五島昇、ザ・シンフォニーホールは朝日放送で、紀尾井ホールは旧新日鉄。
「首都や大阪の周囲にサロンにいるような場所がないと文化人として恥ずかしい」ということで「文化国家」を目指して、教養の高い民間の経営者が頑張った。
外国人の演奏家を呼んででも、サントリーホールのようなところに誰でもいつでも足を運べることが文化国家であると信じる、旧制高校的教育の薫陶を受けた人たちの思いと、戦後の豊かさに憧れる人たちの思いとが結びついて実現していった夢の結晶です。
「ジャパン・アズ・ナンバーワン期」から「バブル期」、そしてバブルが崩壊してもまだしばらく余裕の残っていた時代に、お金だけではなく大正から昭和の精神的な蓄えも使って実現したのだと思います。
オペラ座の話がありましたが、日本では「文化国家になるためにオペラ座が必要だ」と、片山哲内閣のもとで戦後の混乱期の1947から48年にかけて国立劇場構想が検討されています。
貧しいなかでもオペラやバレエの公演が日本じゅうで盛んに行われた時代で、当時の藤原歌劇団は、歌手が揃っているわけではないからダブルキャストが満足にはゆかないなかで、ワーグナーの歌劇やイタリアオペラを何日も連続公演した。お客さんもすごく入っていたそうですね。舞踊の方もその頃は「プロメテの火」などのモダンダンスや創作バレエの大作が生まれて、また東京バレエ団が帝国劇場で「白鳥の湖」の長期興行をやったでしょう。
三浦 舞踊でも音楽でも、どんな機会、どんな場所をも利用して創作しようという人たちは、いつの時代にもいます。自分たちで実現したい、新しい領域を切り開きたい、という熱はすごくて、そういう動きは必ず出てきます。
でも、日本人はどうなるのが一番幸福なのか、日本の文化を全体的に考える人がいない。問題は、政府がそれに呼応しないということだけではありません。
実際に東京23区が担ってみたら、小型の多目的ホールがぽこぽこできてしまう結果になってしまった。室内楽、オーケストラ、オペラ、バレエ、日本舞踊、モダンダンスその他、目的にある程度特化した多様な劇場があったほうがいいのだけれど、そうはならなかった。
左より片山杜秀・慶應義塾大学教授、文芸評論家の三浦雅士氏、アステイオン編集委員長の田所昌幸・国際大学特任教授。本座談会はサントリーホール「ブルーローズ」(小ホール)で2024年2月2日に収録した。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
文化継続を担うのは
片山 その次の世代になると、日本が戦争に負けてどん底になっても、クラシック音楽への憧れを持ち、「文化が大事」という情念を起動させた世代とは違ってきますよね。政治家で言えば戦後生まれの菅直人くらいの、子どもの頃からそこそこ豊かで、学生運動などをやり、音楽はフォークやロックで十分というジェネレーション。
80年代には、サントリーホールが建ち、オーチャードホールが建ち、官僚や政治家にもそういう "古風" な価値観に共鳴する実力者が世代的に居ましたから、東京都も東京芸術劇場を建てたし、彩の国さいたま芸術劇場とか川崎市のミューザとか、都市周辺にまで波及していきました。もちろん新国立劇場もできた。しかし、「もっと建てよう」というムードはその辺までだったのではないですか。
さらにその後は、「何でこんなものを建てたのか。金がかかるだけじゃないか」となり、さらに、先ほど言ったように古いホールなどは老朽化で取り壊しとなって、「後継ホールをつくるのはやめましょう」ということで、80年代、90年代に建って、その前からあったものと組み合わさって豊かだった環境が今日では続かなくなっています。
90年代以降、日本が経済的に調子が悪くなりましたが、世界の中でものすごく貧しい国に転落したわけじゃない。やる気があれば「新しいホールを建てましょう」とか、「もっと良いホールにしましょう」とか、そのくらいの資力はまだまだあると思いたい。
でも実際にはそういうふうには回っていない。国立劇場で歌舞伎や文楽、雅楽、民俗芸能公演をたくさん観てきた人間は「その国立劇場の建て直しに何年かかるか分からないなんて悪い冗談だ。伝統文化が滅びるぞ」と思う。けれどもその心配をする力がとても弱い。
田所 それが問題にもならないから、三浦さんは悲憤慷慨しておられるわけですね。
三浦 まさにその通り(笑)。文化的なものを持続しようという日本の民間パワーは非常に大きいと僕は思っています。例えば1960年代のアングラとか暗黒舞踏とか。寺山修司にしても、鈴木忠志、唐十郎、土方巽にしても、彼らに政府が金を出すなんていうことはあり得ない。
存在自体が最初から反政府的と思われるくらいのものですから。しかし、それでも出てくるし、劇場がなければ、体育館でも倉庫でもやるし、野外にテントも張るわけです。そのくらいのパワーは今も絶対にあると信じているから、その点は心配していません。
ただ、いくら何でも、ゆうぽうとがなくなり、メルパルクがなくなり、国立劇場がなくなり、全部なくなっても誰も何も言わないという状況はいびつであるということは言っておいたほうがいい。
そして、それを話題にする媒体がないということも問題です。新聞もテレビもジャーナリズムとして機能していない。
田所 その役割を雑誌がやらんといかんじゃないか、ということですね。
※中編:「日本人は100年後まで通用するものを作ってきた」...「失われた何十年」言説の不安がもたらした文化への影響とは? に続く。
片山杜秀(Morihide Katayama)
慶應義塾大学法学部教授、音楽評論家。1963年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。専門は近代政治思想史、政治文化論。主な著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(ともにアルテスパブリッシング、サントリー学芸賞)、『未完のファシズム─「持たざる国」日本の運命』(新潮選書)、『皇国史観』(文春新書)などがある。
三浦雅士(Masashi Miura)
文芸評論家。1946年生まれ。弘前高校卒業。1969年、青土社創立と同時に入社。『ユリイカ』、『現代思想』編集長などを務める。『メランコリーの水脈』(福武書店、サントリー学芸賞)、『身体の零度』(講談社、読売文学賞)など著書多数。
田所昌幸(Masayuki Tadokoro)
国際大学特任教授。1956年生まれ。京都大学法学部卒業。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス留学。京都大学大学院法学研究科博士課程中退。博士(法学)。姫路獨協大学法学部教授、防衛大学校教授、慶應義塾大学法学部教授を経て、現職。慶應義塾大学名誉教授。専門は国際政治学。主な著書に『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『越境の国際政治』(有斐閣)、『社会のなかのコモンズ』(共著、白水社)、『新しい地政学』(共著、東洋経済新報社)など。
『アステイオン』100号
特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
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