片山杜秀 + 三浦雅士 + 田所昌幸(構成:置塩 文) アステイオン
<「内面の自由」が保証されて、ネットの世界で楽しければそれでいい、と考える人が増える中で論壇誌が果たすべき役割とは──>
中編:「日本人は100年後まで通用するものを作ってきた」...「失われた何十年」言説の不安がもたらした文化への影響とは? から続く
『アステイオン』創刊と同じ年に誕生したサントリーホール。1986年とはどのような時代背景だったのか。音楽評論家の片山杜秀・慶應義塾大学教授と舞踊研究者で文芸評論家の三浦雅士氏にアステイオン編集委員長の田所昌幸・国際大学特任教授が聞く。『アステイオン』100号より「1986年から振り返る──サントリーホールと『アステイオン』の時代」を転載。
◇ ◇ ◇
「個人の自由」と「"内面"の自由」
田所 「失われた何十年」のその次が立派な良い時代になるかどうかは分かりませんが、歴史がもう1つ展開し始めたというのが、われわれ国際政治学者の一般的な認識です。
問題は中国です。少し前に『幸福な監視国家・中国』(NHK出版)(1)という面白い本がありました。中国論のようでありつつも、人類全体が直面している問題を提起しています。
中国は、極めて抑圧的だけれども、デジタル全体主義を過去2、30年間、少なくとも現段階まではものすごくうまくやってしまった、と。私はいずれ破綻するとは思うのですが、あのような形で世界を合理化していく共産党の統治が成功するとオルタナティブな世界像が今の時代に再びワーッと出てきてしまう。
中国についてもう1つ言うと、今私が教鞭を執っている大学に来ている途上国からの学生は、中国が好きです。「中国みたいになれたらいい」と言います。
「どうやって自国が豊かになるか」「どうやって自国の軍隊をもっと強くするか」ということが何より大事なら、「欧米のように "民主主義だ、人権だ" とがたがたうるさいことを言うことなく、ポンといろいろなものをつくってくれて、それでGDPが増えるならいい」というのが、グローバルサウスのエリートたちの世界観です。
三浦 ある種、階級社会を自明とするような世界観ですね。
田所 彼らのルサンチマンは判る部分もありますが、フランシス・フクヤマではないけれど、イデオロギーが終焉してしまって、保守二党論が語られる一方で、共産党一党独裁の下で豊かさが実現された時代に、孤独な個人はどうやっていくのかという、別の課題が、今の中国の姿を見ていると強く問われているように、私には思えますね。
片山 米ソの冷戦時代とは違う選択の時代に「人間はこれからどうなっていくのか」というとき、文明観、人間観も含めて人間中心主義で考え、最大限の自由を尊重するという路線と、自由を我慢できる中での自己実現をよしとする路線とがありますね。
こういう路線を改めて見直すと、「内なる自由」を保てるなら、余計なことは言わず捕まらないようにすればいいじゃないか、捕まるやつはバカだ、みたいなことになって、中国的なものを許容することになる。なぜ香港でわざわざ面倒な運動をして亡命するようなことをするのだ。バカじゃないのかと。
新しい秩序優位における「内面の自由」をよしとする考えですが、「内面が自由だから何をしてもいい、政治的に社会的に発言してもいい」というかたちの自由ではなく、「内面の精神生活だけが自由だ」と翻訳するわけです。
「内も外も自由だ、政治も文化も経済活動も束縛なしだ」という自由主義と資本主義の組み合わせの中で、実際に経済的パイがどんどん増えて、みんなにお金が回れば、それは幸福でしょう。
でも福祉はもたない、税の再分配はうまくいかない、貧富の差が開くということでは、自由主義陣営の自由は噓っぽくなってくる。自由を我慢しても我慢しなくても結果として大差ないじゃないかと。経済的自由がなければ政治的にも自由がなくては回らず、複数政党制になるはずだという当たり前が通らない。
拠り所としての「身体性の擁護」
田所 中国が問題だと言いましたが、本当に重大な問題は中国以上にアメリカ、そしてヨーロッパかもしれません。いわゆる合理主義的なリベラルモデルが内在的な問題を抱えていて、ガバナンス上の非常に難しい問題が起こっているということです。
一番本質的な問題はどんな人生、どんな社会を望み、どんな生き方をしたいのかということで、それを扱うのが芸術であり、なかでも始原的なのが舞踊だ。そこを考えなければいけないという最初の三浦さんのお話につなげて考えてみたいと思います。
人間が人間であるのは、当たり前だけれど身体を持っているということに依拠します。
AIと違うのは身体を持っていて、いずれは皆平等に老いて死ぬし、物を食べたらおいしくて、音楽を聴いて一期一会の経験に感動する。やっぱりコンサートホールに来て聴かないとダメよね、というのはそれですよね。
そこにチャレンジするのが、人間の意識だけを切り離してサイバー空間で完結できてしまう、という発想の人たちです。そして、それを政治の世界まで展開すると、サイバーの世界で全部けりをつけてしまおうという中国的な発想になると思います。
片山 そこは「身体性の擁護」という話に着地するのかもしれませんが、本当に難しい。中国は、政党がたくさんあり、誰もが個人的な意見を持ち、議論も経済活動も自由という時代の経験をすっ飛ばして今に至っています。
辛亥革命後は混乱状態が続き、日本との戦争を挟んで国共内戦があり、国民党を追い出して中華人民共和国になったわけで、中国の歴史には西洋型近代も西洋型文明開化も日本ほど内面化しようとする時代は無かった。
ロシアも同じで、国民が自由に考え、行動し、たくさんの政党同士が議論をするという時代を全く経験していないまま、中華人民共和国も今のロシアも21世紀に至っている。だからエートスとしての個人という価値観は、あれだけ巨大なスラブ世界にも中国大陸にもない。
そこには今まで議論されているような、自由を我慢できるはずがないモデルで我慢してしまう人たちが相当数いる。そのくらい厳しめに見ておいてもいいと思っています。
田所 このたび、本号の特集で若い方々に創刊時の『アステイオン』を読んでレビューを書いてもらっています。私を指導してくださった高坂正堯先生は「粗野な正義観」が闊歩する嫌な時代になったと書いています(2)。「アメリカがあちこちに介入して世界中をアメリカ流の自由民主主義にしようとしているけれど、やめたほうがいい」と。
三浦 なるほど、86年の段階での話ですね。
田所 はい。高坂先生が言及しているのはジョン・スチュアート・ミルの『内政干渉について(The question of intervention)』です。外から介入しても自由は実現できない、介入者が帰ったらまた元どおりになるというわけです。
40年近くたって、結局そうだったと思っている人が多いのではないでしょうかね。ある意味で世界は昔見たような国家の合従連衡(がっしょうれんこう)の時代に逆戻り気味なのですが、メディアの世界はすっかり変わってしまっています。
そこで、片山さんが先ほどおっしゃった「身体性の擁護」について伺います。「ネットの世界、ユーチューブでいろいろできるのだし、楽しかったらそれでいい」という人たちに対して「身体性が擁護されないといけない」と訴えるとき、どういう論理があり得るのでしょうか。
2004年にバイオ技術によってサントリーが開発した「青いバラ」。小ホールは、多くのアーティストによる新たな挑戦の舞台としての活用を願って「ブルーローズ」と名付けられ、入口に木製のブルーローズが飾られている。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
片山 今「ロシアや中国は近代を知らない」みたいな話をしながら、チェーホフの『桜の園』の老僕フィールスの台詞を思い出していました。
フィールスが「やっぱりあのときに世界が崩壊したんだ。あの前がよかったんだ」と言って、「それはいつの話だ」と聞くと「農奴解放の日だ」と言うんです。「あのまま農奴として生きていさえすれば」と。彼の身体はまさに農奴的身体なわけです(3)。
身体は一人ひとり違う。声も違うし、テンポも違う。そういうものを生き生きとさせることに人生最大の目標があると考えれば、電脳空間のある類型の中で非常に情報量が少ないような音の悪い音楽を聴いて、「これが音楽だ」と思うのではなくて、たとえばサントリーホールに来て体を震わせる。好きな演奏家がいて好きな曲があって、一人ひとり好きなものが違うのは当たり前だというようなことから、個人性というものを常に認識することはできると思います。
三浦さんがおっしゃるように、舞踊が一番の根本。そこには体の動きがある。そこからスポーツが出てきたり、演劇が出てきたりする。また、詩の朗誦でも、歌うことでも、体が動いていて個人性が出てくる。そういうものを尊重することが「人間性の擁護」=「身体性の擁護」なのだと言いたい。
でも、身体性というものは同時に、集団性として、あるいは動物的に一緒になって動くのがいいというように働く場合もある。それはつまり、「私」が消滅する身体性です。事実、それでいいと思える人間はいるだろうし、日本人にもいるかもしれない。
それを文明の問題として考えたときに、受動的な身体であること、単にワン・オブ・ゼムになることの快感のようなものを感じたりすることに甘んじて、ある縄張りさえ維持されていれば拷問されるよりはいいという人間がいる世界がある。
まさにジョージ・オーウェルの『動物農場』に描かれる類型的な動物的なもの、家畜的身体で満足できる人間がいる世界がある。その現実の前では、「身体性を擁護する」と言ってもわからない人がいます。そういう人は勝手にやってくれという話になると、時代が戻ってしまって動物と人間のすみ分けが希薄になるようにも思います。
田所 「受動的な身体でいいや」という人も一定数いる現実があるわけですね。
片山 どういうふうに自分の個としての身体を保持していくのかということを問えば、多分愛とか性の問題も出てくる。そうなると、類型的な表現では満足しないし、ゲームでやっていても多分面白くもない。どうしても相手がいてほしい。
語らいがあって、演技があって、社交があって、喜んだり悲しんだりする。そういう一回性の自由が最大限担保される社会とは何かと考えれば、どういう社会がいいのかというのは世界人類に自ずと明らかだとは思うんです。
資本主義がいいとか共産主義がいいとかではなく、そういう一人ひとりの肉体に即した幸せに言及するしかないくらい、世の中はせっぱ詰まっているのかもしれないと思いますね。
洗練を守る社会装置として
田所 1986年からの文化や社会の変遷について考えてきました。最後になりますが、これから先『アステイオン』のようなメディアには何ができるでしょうか。
三浦 舞踊は自分の身体を躾けるという点では個人的ですが、まさにその躾によって集団行動を可能にさせもします。
つまり舞踊の本質は武術の本質、軍隊の本質に繫がっているわけですが、この連携にひとつ見逃せない事実があって、それは舞踊の洗練には宮廷が必要とされるらしいということです。宮廷があるところではどんな舞踊も洗練されていく。逆も真。インドネシアは小さな地域一つひとつに舞踊があるし、タイにもある。しかし、植民地時代の長かったフィリピンにはありません。
重要なのは、宮廷は権力ではなく権威の源でしかない、そしてその権威は身体のありようと密接に結び付いているらしいということです。優雅と洗練が価値の中心になる。たとえば沖縄には宮廷があったから、優雅と洗練が舞踊の価値の中心になった。
舞台に出て来る足の運び方一つで演者の力量がわかる。芸の洗練は宮廷を必要とするというのは、いわば不都合な真実のようですが、そうではない、むしろたとえば山崎正和のいう社交の本質、文明の本質はそういうところにこそ潜むのではないか、と考えることもできる。
先ほどの若い世代の生き方の問題を解く鍵のひとつではないか、と。これは考え始めると奥が深くて、中国では宋代、つまり北宋、南宋が手がかりになるのではと思っていますが、『アステイオン』ではそういうことも論じてほしい(笑)。
片山 雅びと洗練ですね。佐治敬三さんや堤清二さんが一言言えば、「この現代音楽にこれくらいお金が出る」とか「この人に演奏を頼んでもいい」という世界がかつてありました。そうやって個人の判断によって残されるべき文化芸術が担保されてきました。
それが、80年代後半になると顕著ですが、「近代の徹底」と称して、公益性や透明性のチェックが進みます。こうした「みんなの納得」が最大価値になると、どうしても大衆的な価値観と結びついていきます。公益財団法人となれば「事業でどれだけの実績をあげていますか」と結局は数字の問題になってしまってどんどん窮屈になり、こういうホールでやってほしいものがやりにくくなっている。
86年からこの何十年かで変化したことというと、そこが結構大きいと思うんです。でも、「旦那の文化」とか「あの人が言っているから」という世界を今さら復活させるわけにはいきませんよね。
三浦 その「旦那芸」こそ、洗練されたものを育む権威なのだから、佐治さんたちがやってきたことについてはもっと敬意を表すべきだと思います。とはいえ、確かに「みんなの納得」は優雅と洗練を潰しますよね。で、「分かるものには分かるであろう」という小林秀雄の言葉が揶揄の対象になる。だけど、ぼくは小林のほうに立つ(笑)。
大ホール正面に位置するオルガンは、パイプ総数5898本、ストップ数74を有するオーストリアの名門リーガー社製で世界最大級。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
片山 民主主義と資本主義とがセットになると、そういう洗練を保つための仕掛けをどうしても壊していくことになる。それがここ何十年かの1つの問題点ですね。
福澤諭吉の『帝室論』(4)には、皇室というのは豊かな財産を持ち、資本主義や民主主義的な世界では滅びてしまうような、皆が「値打ちがある」と言わないようなものにその財産を使うところに意味がある、と書いています。今の世の中でも変わらないはずです。
三浦 さすがに福澤ですね。最後に一言。僕は1990年前後、つまり世界の大転換のときに『アステイオン』の企画で、特派員として中東欧圏を取材させてもらいました。「座談会 涙の谷をこえて―東欧の『ヨーロッパ』への回帰」(23号、1992年)が結果の一部です。
これはサントリー文化財団と『アステイオン』がなかったらできなかったことで、大学などに所属していない僕のような批評家にはものすごく大きなプレゼントでした。深く感謝しています。
そういう体験をした書き手はほかにも大勢いると思いますよ。これは、劇場を建てることに匹敵する大きな社会的役割だと思う。その場所に行かなければわからないことはいっぱいありますから。こういったことは、これからもぜひ続けてもらえると有り難いですね。
田所 『アステイオン』がこれからもそういう洗練されたものを保つ仕掛け、社会装置になっていければいいと私も思っています。本日はありがとうございました。
[注]
(1) 梶谷懐、高口康太著、NHK出版新書、2019年
(2) 「粗野な正義観と力の時代」『アステイオン』創刊号、34頁、1986年
(3) 「フィールス あの不幸の前にも、やはりこんなことがありました。フクロウも啼(な)きたてたし、サモワールもひっきりなしに唸(うな)りましたっけ。
ガーエフ 不幸の前というと?
フィールス 解放令の前でございますよ。」
(『桜の園―喜劇 四幕』アントン・チェーホフ、神西清訳)
(4) 「人或は云く、前段に記したる諸藝術を保存せんが爲に、帝室に依頼するは則ち可なりと雖ども、其藝術の中には全く今日に無用なるものあるを如何せん、無用の藝術を保存するに有用の心思を勞して、又隨て多少の金を費す、全く無用の事なりとの説あれども、或人は誠に今日の人にして明日を知らざる者なり。人間の文明は、其日月永遠にして其の境界廣大なるものなり。文明一跳、千歳一日の如し。豈今日目下の無用を以て千歳文明の材料を棄ることを爲んや。」(『帝室論』福澤諭吉立案、中上川彦次郎 筆記)
片山杜秀(Morihide Katayama)
慶應義塾大学法学部教授、音楽評論家。1963年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。専門は近代政治思想史、政治文化論。主な著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(ともにアルテスパブリッシング、サントリー学芸賞)、『未完のファシズム─「持たざる国」日本の運命』(新潮選書)、『皇国史観』(文春新書)などがある。
三浦雅士(Masashi Miura)
文芸評論家。1946年生まれ。弘前高校卒業。1969年、青土社創立と同時に入社。『ユリイカ』、『現代思想』編集長などを務める。『メランコリーの水脈』(福武書店、サントリー学芸賞)、『身体の零度』(講談社、読売文学賞)など著書多数。
田所昌幸(Masayuki Tadokoro)
国際大学特任教授。1956年生まれ。京都大学法学部卒業。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス留学。京都大学大学院法学研究科博士課程中退。博士(法学)。姫路獨協大学法学部教授、防衛大学校教授、慶應義塾大学法学部教授を経て、現職。慶應義塾大学名誉教授。専門は国際政治学。主な著書に『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『越境の国際政治』(有斐閣)、『社会のなかのコモンズ』(共著、白水社)、『新しい地政学』(共著、東洋経済新報社)など。
『アステイオン』100号
特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)
<「内面の自由」が保証されて、ネットの世界で楽しければそれでいい、と考える人が増える中で論壇誌が果たすべき役割とは──>
中編:「日本人は100年後まで通用するものを作ってきた」...「失われた何十年」言説の不安がもたらした文化への影響とは? から続く
『アステイオン』創刊と同じ年に誕生したサントリーホール。1986年とはどのような時代背景だったのか。音楽評論家の片山杜秀・慶應義塾大学教授と舞踊研究者で文芸評論家の三浦雅士氏にアステイオン編集委員長の田所昌幸・国際大学特任教授が聞く。『アステイオン』100号より「1986年から振り返る──サントリーホールと『アステイオン』の時代」を転載。
◇ ◇ ◇
「個人の自由」と「"内面"の自由」
田所 「失われた何十年」のその次が立派な良い時代になるかどうかは分かりませんが、歴史がもう1つ展開し始めたというのが、われわれ国際政治学者の一般的な認識です。
問題は中国です。少し前に『幸福な監視国家・中国』(NHK出版)(1)という面白い本がありました。中国論のようでありつつも、人類全体が直面している問題を提起しています。
中国は、極めて抑圧的だけれども、デジタル全体主義を過去2、30年間、少なくとも現段階まではものすごくうまくやってしまった、と。私はいずれ破綻するとは思うのですが、あのような形で世界を合理化していく共産党の統治が成功するとオルタナティブな世界像が今の時代に再びワーッと出てきてしまう。
中国についてもう1つ言うと、今私が教鞭を執っている大学に来ている途上国からの学生は、中国が好きです。「中国みたいになれたらいい」と言います。
「どうやって自国が豊かになるか」「どうやって自国の軍隊をもっと強くするか」ということが何より大事なら、「欧米のように "民主主義だ、人権だ" とがたがたうるさいことを言うことなく、ポンといろいろなものをつくってくれて、それでGDPが増えるならいい」というのが、グローバルサウスのエリートたちの世界観です。
三浦 ある種、階級社会を自明とするような世界観ですね。
田所 彼らのルサンチマンは判る部分もありますが、フランシス・フクヤマではないけれど、イデオロギーが終焉してしまって、保守二党論が語られる一方で、共産党一党独裁の下で豊かさが実現された時代に、孤独な個人はどうやっていくのかという、別の課題が、今の中国の姿を見ていると強く問われているように、私には思えますね。
片山 米ソの冷戦時代とは違う選択の時代に「人間はこれからどうなっていくのか」というとき、文明観、人間観も含めて人間中心主義で考え、最大限の自由を尊重するという路線と、自由を我慢できる中での自己実現をよしとする路線とがありますね。
こういう路線を改めて見直すと、「内なる自由」を保てるなら、余計なことは言わず捕まらないようにすればいいじゃないか、捕まるやつはバカだ、みたいなことになって、中国的なものを許容することになる。なぜ香港でわざわざ面倒な運動をして亡命するようなことをするのだ。バカじゃないのかと。
新しい秩序優位における「内面の自由」をよしとする考えですが、「内面が自由だから何をしてもいい、政治的に社会的に発言してもいい」というかたちの自由ではなく、「内面の精神生活だけが自由だ」と翻訳するわけです。
「内も外も自由だ、政治も文化も経済活動も束縛なしだ」という自由主義と資本主義の組み合わせの中で、実際に経済的パイがどんどん増えて、みんなにお金が回れば、それは幸福でしょう。
でも福祉はもたない、税の再分配はうまくいかない、貧富の差が開くということでは、自由主義陣営の自由は噓っぽくなってくる。自由を我慢しても我慢しなくても結果として大差ないじゃないかと。経済的自由がなければ政治的にも自由がなくては回らず、複数政党制になるはずだという当たり前が通らない。
拠り所としての「身体性の擁護」
田所 中国が問題だと言いましたが、本当に重大な問題は中国以上にアメリカ、そしてヨーロッパかもしれません。いわゆる合理主義的なリベラルモデルが内在的な問題を抱えていて、ガバナンス上の非常に難しい問題が起こっているということです。
一番本質的な問題はどんな人生、どんな社会を望み、どんな生き方をしたいのかということで、それを扱うのが芸術であり、なかでも始原的なのが舞踊だ。そこを考えなければいけないという最初の三浦さんのお話につなげて考えてみたいと思います。
人間が人間であるのは、当たり前だけれど身体を持っているということに依拠します。
AIと違うのは身体を持っていて、いずれは皆平等に老いて死ぬし、物を食べたらおいしくて、音楽を聴いて一期一会の経験に感動する。やっぱりコンサートホールに来て聴かないとダメよね、というのはそれですよね。
そこにチャレンジするのが、人間の意識だけを切り離してサイバー空間で完結できてしまう、という発想の人たちです。そして、それを政治の世界まで展開すると、サイバーの世界で全部けりをつけてしまおうという中国的な発想になると思います。
片山 そこは「身体性の擁護」という話に着地するのかもしれませんが、本当に難しい。中国は、政党がたくさんあり、誰もが個人的な意見を持ち、議論も経済活動も自由という時代の経験をすっ飛ばして今に至っています。
辛亥革命後は混乱状態が続き、日本との戦争を挟んで国共内戦があり、国民党を追い出して中華人民共和国になったわけで、中国の歴史には西洋型近代も西洋型文明開化も日本ほど内面化しようとする時代は無かった。
ロシアも同じで、国民が自由に考え、行動し、たくさんの政党同士が議論をするという時代を全く経験していないまま、中華人民共和国も今のロシアも21世紀に至っている。だからエートスとしての個人という価値観は、あれだけ巨大なスラブ世界にも中国大陸にもない。
そこには今まで議論されているような、自由を我慢できるはずがないモデルで我慢してしまう人たちが相当数いる。そのくらい厳しめに見ておいてもいいと思っています。
田所 このたび、本号の特集で若い方々に創刊時の『アステイオン』を読んでレビューを書いてもらっています。私を指導してくださった高坂正堯先生は「粗野な正義観」が闊歩する嫌な時代になったと書いています(2)。「アメリカがあちこちに介入して世界中をアメリカ流の自由民主主義にしようとしているけれど、やめたほうがいい」と。
三浦 なるほど、86年の段階での話ですね。
田所 はい。高坂先生が言及しているのはジョン・スチュアート・ミルの『内政干渉について(The question of intervention)』です。外から介入しても自由は実現できない、介入者が帰ったらまた元どおりになるというわけです。
40年近くたって、結局そうだったと思っている人が多いのではないでしょうかね。ある意味で世界は昔見たような国家の合従連衡(がっしょうれんこう)の時代に逆戻り気味なのですが、メディアの世界はすっかり変わってしまっています。
そこで、片山さんが先ほどおっしゃった「身体性の擁護」について伺います。「ネットの世界、ユーチューブでいろいろできるのだし、楽しかったらそれでいい」という人たちに対して「身体性が擁護されないといけない」と訴えるとき、どういう論理があり得るのでしょうか。
2004年にバイオ技術によってサントリーが開発した「青いバラ」。小ホールは、多くのアーティストによる新たな挑戦の舞台としての活用を願って「ブルーローズ」と名付けられ、入口に木製のブルーローズが飾られている。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
片山 今「ロシアや中国は近代を知らない」みたいな話をしながら、チェーホフの『桜の園』の老僕フィールスの台詞を思い出していました。
フィールスが「やっぱりあのときに世界が崩壊したんだ。あの前がよかったんだ」と言って、「それはいつの話だ」と聞くと「農奴解放の日だ」と言うんです。「あのまま農奴として生きていさえすれば」と。彼の身体はまさに農奴的身体なわけです(3)。
身体は一人ひとり違う。声も違うし、テンポも違う。そういうものを生き生きとさせることに人生最大の目標があると考えれば、電脳空間のある類型の中で非常に情報量が少ないような音の悪い音楽を聴いて、「これが音楽だ」と思うのではなくて、たとえばサントリーホールに来て体を震わせる。好きな演奏家がいて好きな曲があって、一人ひとり好きなものが違うのは当たり前だというようなことから、個人性というものを常に認識することはできると思います。
三浦さんがおっしゃるように、舞踊が一番の根本。そこには体の動きがある。そこからスポーツが出てきたり、演劇が出てきたりする。また、詩の朗誦でも、歌うことでも、体が動いていて個人性が出てくる。そういうものを尊重することが「人間性の擁護」=「身体性の擁護」なのだと言いたい。
でも、身体性というものは同時に、集団性として、あるいは動物的に一緒になって動くのがいいというように働く場合もある。それはつまり、「私」が消滅する身体性です。事実、それでいいと思える人間はいるだろうし、日本人にもいるかもしれない。
それを文明の問題として考えたときに、受動的な身体であること、単にワン・オブ・ゼムになることの快感のようなものを感じたりすることに甘んじて、ある縄張りさえ維持されていれば拷問されるよりはいいという人間がいる世界がある。
まさにジョージ・オーウェルの『動物農場』に描かれる類型的な動物的なもの、家畜的身体で満足できる人間がいる世界がある。その現実の前では、「身体性を擁護する」と言ってもわからない人がいます。そういう人は勝手にやってくれという話になると、時代が戻ってしまって動物と人間のすみ分けが希薄になるようにも思います。
田所 「受動的な身体でいいや」という人も一定数いる現実があるわけですね。
片山 どういうふうに自分の個としての身体を保持していくのかということを問えば、多分愛とか性の問題も出てくる。そうなると、類型的な表現では満足しないし、ゲームでやっていても多分面白くもない。どうしても相手がいてほしい。
語らいがあって、演技があって、社交があって、喜んだり悲しんだりする。そういう一回性の自由が最大限担保される社会とは何かと考えれば、どういう社会がいいのかというのは世界人類に自ずと明らかだとは思うんです。
資本主義がいいとか共産主義がいいとかではなく、そういう一人ひとりの肉体に即した幸せに言及するしかないくらい、世の中はせっぱ詰まっているのかもしれないと思いますね。
洗練を守る社会装置として
田所 1986年からの文化や社会の変遷について考えてきました。最後になりますが、これから先『アステイオン』のようなメディアには何ができるでしょうか。
三浦 舞踊は自分の身体を躾けるという点では個人的ですが、まさにその躾によって集団行動を可能にさせもします。
つまり舞踊の本質は武術の本質、軍隊の本質に繫がっているわけですが、この連携にひとつ見逃せない事実があって、それは舞踊の洗練には宮廷が必要とされるらしいということです。宮廷があるところではどんな舞踊も洗練されていく。逆も真。インドネシアは小さな地域一つひとつに舞踊があるし、タイにもある。しかし、植民地時代の長かったフィリピンにはありません。
重要なのは、宮廷は権力ではなく権威の源でしかない、そしてその権威は身体のありようと密接に結び付いているらしいということです。優雅と洗練が価値の中心になる。たとえば沖縄には宮廷があったから、優雅と洗練が舞踊の価値の中心になった。
舞台に出て来る足の運び方一つで演者の力量がわかる。芸の洗練は宮廷を必要とするというのは、いわば不都合な真実のようですが、そうではない、むしろたとえば山崎正和のいう社交の本質、文明の本質はそういうところにこそ潜むのではないか、と考えることもできる。
先ほどの若い世代の生き方の問題を解く鍵のひとつではないか、と。これは考え始めると奥が深くて、中国では宋代、つまり北宋、南宋が手がかりになるのではと思っていますが、『アステイオン』ではそういうことも論じてほしい(笑)。
片山 雅びと洗練ですね。佐治敬三さんや堤清二さんが一言言えば、「この現代音楽にこれくらいお金が出る」とか「この人に演奏を頼んでもいい」という世界がかつてありました。そうやって個人の判断によって残されるべき文化芸術が担保されてきました。
それが、80年代後半になると顕著ですが、「近代の徹底」と称して、公益性や透明性のチェックが進みます。こうした「みんなの納得」が最大価値になると、どうしても大衆的な価値観と結びついていきます。公益財団法人となれば「事業でどれだけの実績をあげていますか」と結局は数字の問題になってしまってどんどん窮屈になり、こういうホールでやってほしいものがやりにくくなっている。
86年からこの何十年かで変化したことというと、そこが結構大きいと思うんです。でも、「旦那の文化」とか「あの人が言っているから」という世界を今さら復活させるわけにはいきませんよね。
三浦 その「旦那芸」こそ、洗練されたものを育む権威なのだから、佐治さんたちがやってきたことについてはもっと敬意を表すべきだと思います。とはいえ、確かに「みんなの納得」は優雅と洗練を潰しますよね。で、「分かるものには分かるであろう」という小林秀雄の言葉が揶揄の対象になる。だけど、ぼくは小林のほうに立つ(笑)。
大ホール正面に位置するオルガンは、パイプ総数5898本、ストップ数74を有するオーストリアの名門リーガー社製で世界最大級。撮影:池上直哉 協力:サントリーホール
片山 民主主義と資本主義とがセットになると、そういう洗練を保つための仕掛けをどうしても壊していくことになる。それがここ何十年かの1つの問題点ですね。
福澤諭吉の『帝室論』(4)には、皇室というのは豊かな財産を持ち、資本主義や民主主義的な世界では滅びてしまうような、皆が「値打ちがある」と言わないようなものにその財産を使うところに意味がある、と書いています。今の世の中でも変わらないはずです。
三浦 さすがに福澤ですね。最後に一言。僕は1990年前後、つまり世界の大転換のときに『アステイオン』の企画で、特派員として中東欧圏を取材させてもらいました。「座談会 涙の谷をこえて―東欧の『ヨーロッパ』への回帰」(23号、1992年)が結果の一部です。
これはサントリー文化財団と『アステイオン』がなかったらできなかったことで、大学などに所属していない僕のような批評家にはものすごく大きなプレゼントでした。深く感謝しています。
そういう体験をした書き手はほかにも大勢いると思いますよ。これは、劇場を建てることに匹敵する大きな社会的役割だと思う。その場所に行かなければわからないことはいっぱいありますから。こういったことは、これからもぜひ続けてもらえると有り難いですね。
田所 『アステイオン』がこれからもそういう洗練されたものを保つ仕掛け、社会装置になっていければいいと私も思っています。本日はありがとうございました。
[注]
(1) 梶谷懐、高口康太著、NHK出版新書、2019年
(2) 「粗野な正義観と力の時代」『アステイオン』創刊号、34頁、1986年
(3) 「フィールス あの不幸の前にも、やはりこんなことがありました。フクロウも啼(な)きたてたし、サモワールもひっきりなしに唸(うな)りましたっけ。
ガーエフ 不幸の前というと?
フィールス 解放令の前でございますよ。」
(『桜の園―喜劇 四幕』アントン・チェーホフ、神西清訳)
(4) 「人或は云く、前段に記したる諸藝術を保存せんが爲に、帝室に依頼するは則ち可なりと雖ども、其藝術の中には全く今日に無用なるものあるを如何せん、無用の藝術を保存するに有用の心思を勞して、又隨て多少の金を費す、全く無用の事なりとの説あれども、或人は誠に今日の人にして明日を知らざる者なり。人間の文明は、其日月永遠にして其の境界廣大なるものなり。文明一跳、千歳一日の如し。豈今日目下の無用を以て千歳文明の材料を棄ることを爲んや。」(『帝室論』福澤諭吉立案、中上川彦次郎 筆記)
片山杜秀(Morihide Katayama)
慶應義塾大学法学部教授、音楽評論家。1963年生まれ。慶應義塾大学大学院法学研究科博士課程単位取得退学。専門は近代政治思想史、政治文化論。主な著書に『音盤考現学』『音盤博物誌』(ともにアルテスパブリッシング、サントリー学芸賞)、『未完のファシズム─「持たざる国」日本の運命』(新潮選書)、『皇国史観』(文春新書)などがある。
三浦雅士(Masashi Miura)
文芸評論家。1946年生まれ。弘前高校卒業。1969年、青土社創立と同時に入社。『ユリイカ』、『現代思想』編集長などを務める。『メランコリーの水脈』(福武書店、サントリー学芸賞)、『身体の零度』(講談社、読売文学賞)など著書多数。
田所昌幸(Masayuki Tadokoro)
国際大学特任教授。1956年生まれ。京都大学法学部卒業。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス留学。京都大学大学院法学研究科博士課程中退。博士(法学)。姫路獨協大学法学部教授、防衛大学校教授、慶應義塾大学法学部教授を経て、現職。慶應義塾大学名誉教授。専門は国際政治学。主な著書に『「アメリカ」を超えたドル』(中央公論新社、サントリー学芸賞)、『越境の国際政治』(有斐閣)、『社会のなかのコモンズ』(共著、白水社)、『新しい地政学』(共著、東洋経済新報社)など。
『アステイオン』100号
特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
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