小暮聡子、大橋 希(本誌記者)
<東日本大震災を地元仙台で経験した羽生に聞く「能登への思い」「自分の責任」「幸せとは何か」――独占インタビュー(※取材は能登半島豪雨の前に実施)>
震災は人からあまりに多くのものを奪う。それが本質的に何であるかは、究極的には実際に経験した者にしか分からない。
同時に、もしも震災から得たものがあるとしたら──? それを伝えることができるのも、経験した者でしかないだろう。
2014年ソチ冬季五輪、18年平昌冬季五輪の連覇などを経て、22年7月にプロ転向を表明したフィギュアスケーターの羽生結弦。宮城県仙台市出身の彼は、初の金メダル獲得の約3年前の11年3月11日、地元で東日本大震災を経験した。
被災後の数日を家族と共に避難所で過ごし、本拠地のスケートリンクが閉鎖され満足に練習のできない時期も経験した羽生は、この13年間、被災者に寄り添い、日本各地の被災地に対して支援活動を行ってきた。
9月14日には、石川県金沢市内で、能登半島地震で被災した石川県、富山県、福井県の小学生を招いたスケート教室に参加。翌15日には「能登半島復興支援チャリティー演技会」と題したアイスショーに鈴木明子、宮原知子、無良崇人と共に出演した。
演技会は無観客だったが、被災地の珠洲市、輪島市、七尾市、志賀町でパブリックビューイングを実施するとともに、一般向けに有料配信を実施。その収益は石川県に寄付される(配信はLeminoで9月30日まで)。
羽生は演技終了後の囲み取材で、配信であるにもかかわらず石川県で滑った理由を聞かれ、「つらかった方々、いま現在つらいと思っている方々、いろんなことで悩んでいる方々の近くで滑りたいと思いました」と語った。
羽生が被災者に心を寄せ、震災の記憶を伝え続けるのはなぜなのか。彼がいま能登の人々に伝えたい思いがあるとしたら、それは何なのか。
本誌は9月15日、金沢市内で羽生に単独インタビューを行った。演技会終了から1時間半後、羽生はチャリティーTシャツ姿で取材場所に現れた。生地と染色、縫製まで全てが「メイド・イン・北陸」のそのTシャツの胸には、演技会のテーマとなった「CHALLENGE(挑戦)」の文字がある。
羽生に能登への思いを聞くと、そこで語られたのは彼自身が震災の記憶と共に挑戦を続けてきた、その道のりだった。(聞き手は本誌編集部・小暮聡子、大橋希)
◇ ◇ ◇
TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
──羽生さんは今年6月、日本テレビの報道番組『news every.』の取材で輪島市を訪れました。今回のチャリティー演技会は、どんな思いで滑ったのでしょうか。
ちょっとでも笑顔になってもらいたいという思いが一番強かったです。能登を訪問したときにみなさんが「昔はこうだったんだよ」「こんなことがあって楽しかったんだよ」と話しているときの笑顔がどうしても忘れられなくて。
現在の話や未来の話をされているときにはその笑顔が少なくなっていくのを実感したので、この「今」という時に笑顔になったり、優しい気持ちや温かい気持ちになったり、そんな輪が広がったらいいなという思いで滑りました。
──演技会では照明などに凝らず制作費を抑えて、収益をできるだけチャリティーに回すことを考えたと聞きます。羽生さん自身、これまでにアイスリンクや被災地に対して行った寄付は3億円以上になるそうですが。
練習拠点にしていたリンクが東日本大震災で使えなくなったとき、荒川静香さん(フィギュアスケート五輪金メダリスト)が宮城県や仙台市に働きかけてくださったおかげでリンクが復活しました。
そうしたいろいろな支援の輪、いろいろな方々の思いが僕のオリンピックの金メダルにつながったと常に思っていて。だからこそ、自分が本当にお世話になったリンク(への寄付)もそうですし、たくさん応援してくださった被災地の方々の力になりたいという気持ちでいます。
──仙台市内で被災したとき、羽生さんは16歳。その経験は、羽生さんのその後のスケート人生にも大きな影響を与えたと想像します。被災当時の記憶について話していただけますか。
あの直前、震度5を含む地震が何度もあったのですが、リンクが壊れるほどではなかった。だから3月11日の地震が起きたときも最初は大丈夫だろうと思っていて、一般のお客さんもいる時間だったので、僕は「みなさん、大丈夫ですよ」と落ち着かせる立場でした。
でもだんだん地震が長く、大きくなっていき最終的に電気が消えて、ガラス戸がぶつかる大きな音がして、建物も倒壊するのではないかというほどひび割れて......。そういう轟音の中で地震を体験しました。
あのときは相当しんどかったですが、とにかくスケート靴は肌身離さず持っていました。避難所では電気がつかなかったので、空を見ながら「星、きれいだな」と思ったり、灯油のストーブにあたったりしたのを覚えています。
ライフラインは簡単に戻らないし、スケートのことを考えている余裕は全くなかった。でも多くの方々がチャリティー演技会を企画してくれて、それがきっかけでスケートの練習をしなくちゃ、と考えるようになりました。
さまざまなアイスショーでも被災地を応援しようという空気がありましたし、(ショーの前に)リンクに早く行って練習をさせてもらうなどの支援を受けながら、スケートを続けることができました。
TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
──実際に経験した当事者にしか語れないことがあると思います。今まで暮らしていた町が一瞬にして奪われる、というのはどういう気持ちなのでしょうか。
僕は何かを失ったわけでもなく、正直実感がないんです。親しんできたお店がリニューアルオープンするとか、移転するということってあるじゃないですか。それが一気に町全体で起きる感覚で、見たことのない世界が急に訪れる。「壊れちゃってる」とは思っても、それを悲しいと思う暇もありませんでした。
──被災から2週間後に仙台を離れて、神奈川県のリンクでスケート練習を再開されました。今も能登では、被災した故郷を離れる決断をせざるを得ない方たちがいます。地元を離れたときの羽生さんの思いは。
僕はやるべきことがあったので、そうした使命感から、とにかく地元を離れるしかないという気持ちでいました。家族を残すことにもなったし、自分だけ行っていいのかという葛藤もあった。「自分は被災地から逃げた」という思いはずっと持っていました。
(そんな思いを)持つ必要がないと今なら考えるかもしれないけれど、あの頃はそうした罪悪感にさいなまれながら、自分ができることを精いっぱいやるんだっていう使命感と共に(神奈川に)行きました。
──能登の被災地では、この夏までに希望者の多くが仮設住宅に入り、ようやく生活環境を取り戻しつつある段階です。復旧から復興に目を向けるのはなかなか難しい状況ですが、ご自身の体験として復興への道のりをどう記憶していますか。
僕は16歳だったので、復興に向けて何かしら運動をすることはできなかった。政府の方々や地元の方々が動いてくれるのを待つしかなかったんです。
そんななかで、自分としては被災地の方々のためにスケートを頑張るという、僕にしかできない役割を与えられたと思ってしまった。それは積極的にとか自主的にではなく、どちらかというと受動的な感覚でした。
どこに行っても、どんなスケートをしても、「被災地のスケーター」と言われてしまう。じゃあ被災地のスケーターとして滑ることの意義ってなんだろうと自分で考えるより先に、社会につくられてしまった感じでした。それに反発したわけではないけれど、いつの間にか自分の両肩にいろんなものが乗っかっていた感覚がありました。
輪島市で倒壊したままの「五島屋」の7階建てビル(9月13日) TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
──被災地出身ということが、ご自身のアイデンティティーに加わっていったということでしょうか。
それを受け入れるまでには、自分の中で紆余曲折ありました。ちょうど高校生になり、シニアに上がって2年目のシーズン(2011-12年)を迎えるに当たって、今まで頑張ってきたことで(試合の)結果が取れたり、日本代表になれたりということがあった。それなのに、とにかく被災地出身で頑張っている人間としか見られなくなったことが悔しかったし、苦しかった時期がありましたね。
でもいろんな方々の手紙や応援のメッセージを見て、「こんなにも応援してもらえる人間はいないだろうな」と思うようになり、(被災地出身であることが)だんだんと自分のアイデンティティーに変わっていきました。
──羽生さんは、被災した経験や被災地出身であるということを、自分の強さにしていったのだと思います。どうやったら被災経験をプラスに変えていけるのでしょう。
それは本当に難しいですよね。強制的に前を見ろとは言えないし、これまでのこともこれからのこともそれぞれの立場によって違うから。
でも、きっといつか何かが起きるときがやって来る。僕の場合、みなさんの応援メッセージだったり、結果だったり失敗だったりが震災というものを受け入れるきっかけを与えてくれました。
例えば能登でいえば、水が出るようになった、(地元を離れて)金沢の学校に行かなくても済むようになったという状況かもしれないし、違う場所で商売ができるようになったということかもしれない。いろんなきっかけが待っていると思うんです。その中で自分の生き方や、自分の命の価値みたいなものがちょっとずつ見えてくるのではないかと思います。
震災は「起きなければいいこと」だとは思います。絶対に。ただ、すごく悲しいけれど、起きてしまったことは元に戻せない。失ってしまったものは戻ってこない。でもいつかはそれを受け入れ、認めなきゃいけない。
それには何十年もかかるかもしれないけれど、笑えるようになるときがきっと来る。そう信じて、無理をせず、時に身を任せていいのかなと思います。
今すぐ笑顔になってほしいと僕は言えないし、僕自身も(宮城県)石巻市など津波の被害に遭った場所に足を運ぶことはなかなかできませんでした。そこで失われたものがあまりに多すぎたし、僕が行っていいのかと、躊躇する気持ちがありました。
でも、自分が金メダルを取ったことや二連覇したこと、金メダルを見せたり演技を見せたりすることによって、もしかしたらみなさんが「自分も頑張ってきた」とか、「自分が生きている意味がある」とか何かしら感じられる小さなきっかけになるかもしれない、そう思って、今やっと活動ができるようになってきました。
きっと何かしらのきっかけがみなさんを待っていると思うので、大丈夫だよ、とは言いたいですね。
9月14日のスケート教室の様子 ©TORU YAGUCHI
──羽生さん自身は、震災があって得たものがあるとすれば、それは何だったと考えますか。
やっぱり命についてすごく考えるようになりました。同じ時ってもう二度と来ない、今という時間は本当に一回きりだということを思うようにもなりました。
あとは、自分の責任みたいなものを常に考えながら生きるようになったと思います。
──責任とは?
僕の演技を見るために、その時間を僕にくれた方々に対する責任ですね。適当なものは見せられない、何の命も心も込めてないような時間は過ごせないと思っています。
あとは、震災を生き延びた人間として、この命をどう生きていくかという責任、そういうものは感じています。
──震災による生と死、悲しみや小さな喜びなどいろいろなものを見てきたと思いますが、それが自身の表現に幅を持たせたと感じることはありますか。
結果としては、という感じですね。震災は起きなければいいことなので。でも、起きてしまったからには何かしらの影響はある。悲しみが深ければ深いほど、本当にちょっとしたことに幸せを感じられる。震災の後、僕はずっと幸せだったら感じられないような幸せ、草の芽吹きみたいなものにも喜びを感じられるようになったんですよね。
そして、こうやっていろんな方とお話をしたり、考えを話す機会があるからこそ、感じられる幸せがあるとも思っています。きっとみなさんもそれぞれ、あのことがあったから今こう感じられるということがあるはずです。
──競技者だった頃の幸せと、今の幸せは、違うものでしょうか。
競技時代は利己的というか、自分が出した結果によって感じる幸せがもっともっと強かったです。
プロになった今は、僕の滑りを見に来てくださる方々が求めているのは、僕の演技でどんな体験ができたかとか、どんな表情が見られたかとか、きっとそういうことなんだろうと思っています。
そう考えると、周りのためにやっているというか......。僕がみなさんのために一生懸命費やしてきた時間やエネルギーが、みなさんの笑顔や感情に直結したときがやっぱり一番幸せだなって思えてくる。プロになって余計にこういう性格になりました。
でもそれも、もともと持っている性格なんだとは思います。すごく些細なことかもしれないけれど、子供の頃から僕がうれしいな、幸せだなって思えるのは誰かに褒められたときだったんですよね。
誰かが僕の姿を見て「良かった」って思ってくれることがうれしかった。それがたぶん僕にとっての根源的な幸せで、今はその規模が大きくなっただけなのかなっていう感じはします。
9月15日のチャリティー演技会では「春よ、来い」を披露した ©TORU YAGUCHI
──今日のソロ演技は「春よ、来い」でした。昨年3月、被災地から希望を発信したい、と宮城県で開催したアイスショー『ノッテステラータ(イタリア語で〔満天の星〕の意味)』でも披露していましたが、今回も迷わずこの曲を選びましたか。
そうですね、もうこれしかない、と。みなさんに優しい気持ちになってほしいっていうのが一番でした。僕がいま滑っている曲の中で、一番心に届きやすい、なじみ深いメロディーを持っているのは、「春よ、来い」だなって思っていましたし。
この曲は阪神・淡路大震災のあった年に、朝ドラで使われていたんです(94~95年のNHK連続テレビ小説『春よ、来い』の主題歌)。そして松任谷由美さんが東日本大震災からの復興を応援するチャリティー企画で歌われた曲でもあるので、そういう縁みたいなものを感じて選びました。
──今日の演技会のタイトルは『挑戦~チャレンジ』でした。羽生さんにとって今の挑戦とは。
もう日々挑戦だな、って。やっぱりいい演技をしたいとか、それを見て何かを感じてもらいたいって考えたときに、たとえ同じ演技をしたとしてもその中で進化がないと、「良かった」と思ってもらえることが少ないだろうから。
自分の中で完成したと思うところから進化し続けるのはとても大変なことで、それが自分にとっては挑戦ですね。
今こうやって生きていることや、日々過ごすということ自体も、ある意味では挑戦し続けている、自分の命を守ることに挑戦し続けていることなんだと思います。能登のことを考えたり、3.11のことを思い出したりすると、そういうことなのかなと。
──戦い続けることや、挑戦し続けることで、疲弊したり孤独を感じることはありませんか。
例えばみなさんの日常でも、仕事を終えて帰ってきて、「疲れた」と感じている時点ですごく頑張ったんじゃないかなって僕は思っちゃうんですけど(笑)。
僕はやっていることが派手だから、一挙手一投足が注目されたり、こんなことをやりましたと報道されることもあります。でも言ってみれば、僕にとってこれは生活の一部でしかないんですよね。
みんなそれぞれ、日常には大変なことばかりじゃないですか。褒められることなんてめったにないし。今日もご飯を作ってくれてありがとう!とか、今日もお仕事頑張ってきたね、偉い!なんて、そんなに簡単に言ってもらえるわけでもない。生活ってそういうものだと思います。
みんな一生懸命毎日を戦っている。僕の場合はそれがみなさんの目に見えているだけです。
チャリティー演技会の前日リハーサルから ©TORU YAGUCHI
──羽生さんは今年12月で30歳になります。40歳、50歳、60歳の自分はどんなことをしているイメージですか。
それはいま考える未来でしかないので、結局どうなるかは分からないんですけど、その時々の「今」を頑張っているんじゃないですかね。
先ほど言ったように、頑張るとか戦うというのは、どんなフィールドでも変わらないですし、たとえ仕事がないときでも、ゲームだけしている日でも、きっとめちゃくちゃ戦っている。
どんなに周りに人がいても孤独だなって思う日もあれば、その周りの人のあったかさや優しさを感じられる日もあるし、それはずっと根本的に変わらないんじゃないかなって思っています。
僕はやっていることの規模が大きいから、すごく大きな幸せも感じるし、すごく大きな悲しみも感じる。でもその幅自体はきっと、みなさんが持っているのと同じなのかなと思います。
40歳のときにスケートを滑っているのかは分かりません。60歳ではさすがに無理かもしれないけれど、それでも僕が持っている感情の幅みたいなものは変わらずに暮らしているんだろうと思います。
──今はどんな気持ちで日々過ごしていますか。幸せですか?
幸せですよ。みんなが喜んでくれるから。
──それが羽生さんにとっての幸せなのですね。
だって、日々生きるのって意外と大変じゃないですか。ご飯食べるの面倒くさいなとか......あ、これは僕に限ってかもしれないけど(笑)。
例えば、ずっと寝ていたいな、不摂生したいなって思ってもなかなかそんなことを許してくれるような社会ではない。世の中には何かしらのルールがあって、そのルールに従って生きていくしかない。みんなそのルール内で頑張っていると思うんです。
僕はスケートっていう場所で、スケートのルール内で一生懸命頑張っている。自分という一つの命で何万人もの方々に向き合わなくてはならなくて、「何万人分ものエネルギーないよー」って思うんですけど、でもそれでもなんとか努力をしている。
だから、観客全員がすごく良かったと思ってくれるわけでなくても、誰かが幸せだと思ってもらえるようなことがあったら、それだけで報われた、幸せだなって。だからたぶん今が一番幸せな自分だと思います。
──22年7月のプロ転向会見では、「僕にとって羽生結弦という存在は重たい」と言っていました。それはまだ変わらないですか?
正直、重たくないなって思ったことはないです。でもこの重さが、自分の命の意味をすごく考えさせてくれているとも思う。
もちろん分離してしまいそうなときというか、いわゆる世間一般で見られている羽生結弦と、それに追い付けなくてすごくネガティブな感情の自分がいた時期もありました。
でも、羽生結弦だから一生懸命生きていこうと思えているわけだし、僕の場合、演技をする場所があって期待していただける社会が存在する限り、頑張んなきゃいけない。
もしかすると、「頑張らなきゃいけない」は「生きなきゃいけない」っていう意味と似ているんじゃないかな。僕はそう思っています。
9月15日のチャリティー演技会後、金沢市内で本誌の取材と撮影に応じた羽生結弦 TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
9月14日のスケート教室の様子 ©TORU YAGUCHI
9月15日のチャリティー演技会では「春よ、来い」を披露した ©TORU YAGUCHI
チャリティー演技会の前日リハーサルから ©TORU YAGUCHI
<東日本大震災を地元仙台で経験した羽生に聞く「能登への思い」「自分の責任」「幸せとは何か」――独占インタビュー(※取材は能登半島豪雨の前に実施)>
震災は人からあまりに多くのものを奪う。それが本質的に何であるかは、究極的には実際に経験した者にしか分からない。
同時に、もしも震災から得たものがあるとしたら──? それを伝えることができるのも、経験した者でしかないだろう。
2014年ソチ冬季五輪、18年平昌冬季五輪の連覇などを経て、22年7月にプロ転向を表明したフィギュアスケーターの羽生結弦。宮城県仙台市出身の彼は、初の金メダル獲得の約3年前の11年3月11日、地元で東日本大震災を経験した。
被災後の数日を家族と共に避難所で過ごし、本拠地のスケートリンクが閉鎖され満足に練習のできない時期も経験した羽生は、この13年間、被災者に寄り添い、日本各地の被災地に対して支援活動を行ってきた。
9月14日には、石川県金沢市内で、能登半島地震で被災した石川県、富山県、福井県の小学生を招いたスケート教室に参加。翌15日には「能登半島復興支援チャリティー演技会」と題したアイスショーに鈴木明子、宮原知子、無良崇人と共に出演した。
演技会は無観客だったが、被災地の珠洲市、輪島市、七尾市、志賀町でパブリックビューイングを実施するとともに、一般向けに有料配信を実施。その収益は石川県に寄付される(配信はLeminoで9月30日まで)。
羽生は演技終了後の囲み取材で、配信であるにもかかわらず石川県で滑った理由を聞かれ、「つらかった方々、いま現在つらいと思っている方々、いろんなことで悩んでいる方々の近くで滑りたいと思いました」と語った。
羽生が被災者に心を寄せ、震災の記憶を伝え続けるのはなぜなのか。彼がいま能登の人々に伝えたい思いがあるとしたら、それは何なのか。
本誌は9月15日、金沢市内で羽生に単独インタビューを行った。演技会終了から1時間半後、羽生はチャリティーTシャツ姿で取材場所に現れた。生地と染色、縫製まで全てが「メイド・イン・北陸」のそのTシャツの胸には、演技会のテーマとなった「CHALLENGE(挑戦)」の文字がある。
羽生に能登への思いを聞くと、そこで語られたのは彼自身が震災の記憶と共に挑戦を続けてきた、その道のりだった。(聞き手は本誌編集部・小暮聡子、大橋希)
◇ ◇ ◇
TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
──羽生さんは今年6月、日本テレビの報道番組『news every.』の取材で輪島市を訪れました。今回のチャリティー演技会は、どんな思いで滑ったのでしょうか。
ちょっとでも笑顔になってもらいたいという思いが一番強かったです。能登を訪問したときにみなさんが「昔はこうだったんだよ」「こんなことがあって楽しかったんだよ」と話しているときの笑顔がどうしても忘れられなくて。
現在の話や未来の話をされているときにはその笑顔が少なくなっていくのを実感したので、この「今」という時に笑顔になったり、優しい気持ちや温かい気持ちになったり、そんな輪が広がったらいいなという思いで滑りました。
──演技会では照明などに凝らず制作費を抑えて、収益をできるだけチャリティーに回すことを考えたと聞きます。羽生さん自身、これまでにアイスリンクや被災地に対して行った寄付は3億円以上になるそうですが。
練習拠点にしていたリンクが東日本大震災で使えなくなったとき、荒川静香さん(フィギュアスケート五輪金メダリスト)が宮城県や仙台市に働きかけてくださったおかげでリンクが復活しました。
そうしたいろいろな支援の輪、いろいろな方々の思いが僕のオリンピックの金メダルにつながったと常に思っていて。だからこそ、自分が本当にお世話になったリンク(への寄付)もそうですし、たくさん応援してくださった被災地の方々の力になりたいという気持ちでいます。
──仙台市内で被災したとき、羽生さんは16歳。その経験は、羽生さんのその後のスケート人生にも大きな影響を与えたと想像します。被災当時の記憶について話していただけますか。
あの直前、震度5を含む地震が何度もあったのですが、リンクが壊れるほどではなかった。だから3月11日の地震が起きたときも最初は大丈夫だろうと思っていて、一般のお客さんもいる時間だったので、僕は「みなさん、大丈夫ですよ」と落ち着かせる立場でした。
でもだんだん地震が長く、大きくなっていき最終的に電気が消えて、ガラス戸がぶつかる大きな音がして、建物も倒壊するのではないかというほどひび割れて......。そういう轟音の中で地震を体験しました。
あのときは相当しんどかったですが、とにかくスケート靴は肌身離さず持っていました。避難所では電気がつかなかったので、空を見ながら「星、きれいだな」と思ったり、灯油のストーブにあたったりしたのを覚えています。
ライフラインは簡単に戻らないし、スケートのことを考えている余裕は全くなかった。でも多くの方々がチャリティー演技会を企画してくれて、それがきっかけでスケートの練習をしなくちゃ、と考えるようになりました。
さまざまなアイスショーでも被災地を応援しようという空気がありましたし、(ショーの前に)リンクに早く行って練習をさせてもらうなどの支援を受けながら、スケートを続けることができました。
TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
──実際に経験した当事者にしか語れないことがあると思います。今まで暮らしていた町が一瞬にして奪われる、というのはどういう気持ちなのでしょうか。
僕は何かを失ったわけでもなく、正直実感がないんです。親しんできたお店がリニューアルオープンするとか、移転するということってあるじゃないですか。それが一気に町全体で起きる感覚で、見たことのない世界が急に訪れる。「壊れちゃってる」とは思っても、それを悲しいと思う暇もありませんでした。
──被災から2週間後に仙台を離れて、神奈川県のリンクでスケート練習を再開されました。今も能登では、被災した故郷を離れる決断をせざるを得ない方たちがいます。地元を離れたときの羽生さんの思いは。
僕はやるべきことがあったので、そうした使命感から、とにかく地元を離れるしかないという気持ちでいました。家族を残すことにもなったし、自分だけ行っていいのかという葛藤もあった。「自分は被災地から逃げた」という思いはずっと持っていました。
(そんな思いを)持つ必要がないと今なら考えるかもしれないけれど、あの頃はそうした罪悪感にさいなまれながら、自分ができることを精いっぱいやるんだっていう使命感と共に(神奈川に)行きました。
──能登の被災地では、この夏までに希望者の多くが仮設住宅に入り、ようやく生活環境を取り戻しつつある段階です。復旧から復興に目を向けるのはなかなか難しい状況ですが、ご自身の体験として復興への道のりをどう記憶していますか。
僕は16歳だったので、復興に向けて何かしら運動をすることはできなかった。政府の方々や地元の方々が動いてくれるのを待つしかなかったんです。
そんななかで、自分としては被災地の方々のためにスケートを頑張るという、僕にしかできない役割を与えられたと思ってしまった。それは積極的にとか自主的にではなく、どちらかというと受動的な感覚でした。
どこに行っても、どんなスケートをしても、「被災地のスケーター」と言われてしまう。じゃあ被災地のスケーターとして滑ることの意義ってなんだろうと自分で考えるより先に、社会につくられてしまった感じでした。それに反発したわけではないけれど、いつの間にか自分の両肩にいろんなものが乗っかっていた感覚がありました。
輪島市で倒壊したままの「五島屋」の7階建てビル(9月13日) TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
──被災地出身ということが、ご自身のアイデンティティーに加わっていったということでしょうか。
それを受け入れるまでには、自分の中で紆余曲折ありました。ちょうど高校生になり、シニアに上がって2年目のシーズン(2011-12年)を迎えるに当たって、今まで頑張ってきたことで(試合の)結果が取れたり、日本代表になれたりということがあった。それなのに、とにかく被災地出身で頑張っている人間としか見られなくなったことが悔しかったし、苦しかった時期がありましたね。
でもいろんな方々の手紙や応援のメッセージを見て、「こんなにも応援してもらえる人間はいないだろうな」と思うようになり、(被災地出身であることが)だんだんと自分のアイデンティティーに変わっていきました。
──羽生さんは、被災した経験や被災地出身であるということを、自分の強さにしていったのだと思います。どうやったら被災経験をプラスに変えていけるのでしょう。
それは本当に難しいですよね。強制的に前を見ろとは言えないし、これまでのこともこれからのこともそれぞれの立場によって違うから。
でも、きっといつか何かが起きるときがやって来る。僕の場合、みなさんの応援メッセージだったり、結果だったり失敗だったりが震災というものを受け入れるきっかけを与えてくれました。
例えば能登でいえば、水が出るようになった、(地元を離れて)金沢の学校に行かなくても済むようになったという状況かもしれないし、違う場所で商売ができるようになったということかもしれない。いろんなきっかけが待っていると思うんです。その中で自分の生き方や、自分の命の価値みたいなものがちょっとずつ見えてくるのではないかと思います。
震災は「起きなければいいこと」だとは思います。絶対に。ただ、すごく悲しいけれど、起きてしまったことは元に戻せない。失ってしまったものは戻ってこない。でもいつかはそれを受け入れ、認めなきゃいけない。
それには何十年もかかるかもしれないけれど、笑えるようになるときがきっと来る。そう信じて、無理をせず、時に身を任せていいのかなと思います。
今すぐ笑顔になってほしいと僕は言えないし、僕自身も(宮城県)石巻市など津波の被害に遭った場所に足を運ぶことはなかなかできませんでした。そこで失われたものがあまりに多すぎたし、僕が行っていいのかと、躊躇する気持ちがありました。
でも、自分が金メダルを取ったことや二連覇したこと、金メダルを見せたり演技を見せたりすることによって、もしかしたらみなさんが「自分も頑張ってきた」とか、「自分が生きている意味がある」とか何かしら感じられる小さなきっかけになるかもしれない、そう思って、今やっと活動ができるようになってきました。
きっと何かしらのきっかけがみなさんを待っていると思うので、大丈夫だよ、とは言いたいですね。
9月14日のスケート教室の様子 ©TORU YAGUCHI
──羽生さん自身は、震災があって得たものがあるとすれば、それは何だったと考えますか。
やっぱり命についてすごく考えるようになりました。同じ時ってもう二度と来ない、今という時間は本当に一回きりだということを思うようにもなりました。
あとは、自分の責任みたいなものを常に考えながら生きるようになったと思います。
──責任とは?
僕の演技を見るために、その時間を僕にくれた方々に対する責任ですね。適当なものは見せられない、何の命も心も込めてないような時間は過ごせないと思っています。
あとは、震災を生き延びた人間として、この命をどう生きていくかという責任、そういうものは感じています。
──震災による生と死、悲しみや小さな喜びなどいろいろなものを見てきたと思いますが、それが自身の表現に幅を持たせたと感じることはありますか。
結果としては、という感じですね。震災は起きなければいいことなので。でも、起きてしまったからには何かしらの影響はある。悲しみが深ければ深いほど、本当にちょっとしたことに幸せを感じられる。震災の後、僕はずっと幸せだったら感じられないような幸せ、草の芽吹きみたいなものにも喜びを感じられるようになったんですよね。
そして、こうやっていろんな方とお話をしたり、考えを話す機会があるからこそ、感じられる幸せがあるとも思っています。きっとみなさんもそれぞれ、あのことがあったから今こう感じられるということがあるはずです。
──競技者だった頃の幸せと、今の幸せは、違うものでしょうか。
競技時代は利己的というか、自分が出した結果によって感じる幸せがもっともっと強かったです。
プロになった今は、僕の滑りを見に来てくださる方々が求めているのは、僕の演技でどんな体験ができたかとか、どんな表情が見られたかとか、きっとそういうことなんだろうと思っています。
そう考えると、周りのためにやっているというか......。僕がみなさんのために一生懸命費やしてきた時間やエネルギーが、みなさんの笑顔や感情に直結したときがやっぱり一番幸せだなって思えてくる。プロになって余計にこういう性格になりました。
でもそれも、もともと持っている性格なんだとは思います。すごく些細なことかもしれないけれど、子供の頃から僕がうれしいな、幸せだなって思えるのは誰かに褒められたときだったんですよね。
誰かが僕の姿を見て「良かった」って思ってくれることがうれしかった。それがたぶん僕にとっての根源的な幸せで、今はその規模が大きくなっただけなのかなっていう感じはします。
9月15日のチャリティー演技会では「春よ、来い」を披露した ©TORU YAGUCHI
──今日のソロ演技は「春よ、来い」でした。昨年3月、被災地から希望を発信したい、と宮城県で開催したアイスショー『ノッテステラータ(イタリア語で〔満天の星〕の意味)』でも披露していましたが、今回も迷わずこの曲を選びましたか。
そうですね、もうこれしかない、と。みなさんに優しい気持ちになってほしいっていうのが一番でした。僕がいま滑っている曲の中で、一番心に届きやすい、なじみ深いメロディーを持っているのは、「春よ、来い」だなって思っていましたし。
この曲は阪神・淡路大震災のあった年に、朝ドラで使われていたんです(94~95年のNHK連続テレビ小説『春よ、来い』の主題歌)。そして松任谷由美さんが東日本大震災からの復興を応援するチャリティー企画で歌われた曲でもあるので、そういう縁みたいなものを感じて選びました。
──今日の演技会のタイトルは『挑戦~チャレンジ』でした。羽生さんにとって今の挑戦とは。
もう日々挑戦だな、って。やっぱりいい演技をしたいとか、それを見て何かを感じてもらいたいって考えたときに、たとえ同じ演技をしたとしてもその中で進化がないと、「良かった」と思ってもらえることが少ないだろうから。
自分の中で完成したと思うところから進化し続けるのはとても大変なことで、それが自分にとっては挑戦ですね。
今こうやって生きていることや、日々過ごすということ自体も、ある意味では挑戦し続けている、自分の命を守ることに挑戦し続けていることなんだと思います。能登のことを考えたり、3.11のことを思い出したりすると、そういうことなのかなと。
──戦い続けることや、挑戦し続けることで、疲弊したり孤独を感じることはありませんか。
例えばみなさんの日常でも、仕事を終えて帰ってきて、「疲れた」と感じている時点ですごく頑張ったんじゃないかなって僕は思っちゃうんですけど(笑)。
僕はやっていることが派手だから、一挙手一投足が注目されたり、こんなことをやりましたと報道されることもあります。でも言ってみれば、僕にとってこれは生活の一部でしかないんですよね。
みんなそれぞれ、日常には大変なことばかりじゃないですか。褒められることなんてめったにないし。今日もご飯を作ってくれてありがとう!とか、今日もお仕事頑張ってきたね、偉い!なんて、そんなに簡単に言ってもらえるわけでもない。生活ってそういうものだと思います。
みんな一生懸命毎日を戦っている。僕の場合はそれがみなさんの目に見えているだけです。
チャリティー演技会の前日リハーサルから ©TORU YAGUCHI
──羽生さんは今年12月で30歳になります。40歳、50歳、60歳の自分はどんなことをしているイメージですか。
それはいま考える未来でしかないので、結局どうなるかは分からないんですけど、その時々の「今」を頑張っているんじゃないですかね。
先ほど言ったように、頑張るとか戦うというのは、どんなフィールドでも変わらないですし、たとえ仕事がないときでも、ゲームだけしている日でも、きっとめちゃくちゃ戦っている。
どんなに周りに人がいても孤独だなって思う日もあれば、その周りの人のあったかさや優しさを感じられる日もあるし、それはずっと根本的に変わらないんじゃないかなって思っています。
僕はやっていることの規模が大きいから、すごく大きな幸せも感じるし、すごく大きな悲しみも感じる。でもその幅自体はきっと、みなさんが持っているのと同じなのかなと思います。
40歳のときにスケートを滑っているのかは分かりません。60歳ではさすがに無理かもしれないけれど、それでも僕が持っている感情の幅みたいなものは変わらずに暮らしているんだろうと思います。
──今はどんな気持ちで日々過ごしていますか。幸せですか?
幸せですよ。みんなが喜んでくれるから。
──それが羽生さんにとっての幸せなのですね。
だって、日々生きるのって意外と大変じゃないですか。ご飯食べるの面倒くさいなとか......あ、これは僕に限ってかもしれないけど(笑)。
例えば、ずっと寝ていたいな、不摂生したいなって思ってもなかなかそんなことを許してくれるような社会ではない。世の中には何かしらのルールがあって、そのルールに従って生きていくしかない。みんなそのルール内で頑張っていると思うんです。
僕はスケートっていう場所で、スケートのルール内で一生懸命頑張っている。自分という一つの命で何万人もの方々に向き合わなくてはならなくて、「何万人分ものエネルギーないよー」って思うんですけど、でもそれでもなんとか努力をしている。
だから、観客全員がすごく良かったと思ってくれるわけでなくても、誰かが幸せだと思ってもらえるようなことがあったら、それだけで報われた、幸せだなって。だからたぶん今が一番幸せな自分だと思います。
──22年7月のプロ転向会見では、「僕にとって羽生結弦という存在は重たい」と言っていました。それはまだ変わらないですか?
正直、重たくないなって思ったことはないです。でもこの重さが、自分の命の意味をすごく考えさせてくれているとも思う。
もちろん分離してしまいそうなときというか、いわゆる世間一般で見られている羽生結弦と、それに追い付けなくてすごくネガティブな感情の自分がいた時期もありました。
でも、羽生結弦だから一生懸命生きていこうと思えているわけだし、僕の場合、演技をする場所があって期待していただける社会が存在する限り、頑張んなきゃいけない。
もしかすると、「頑張らなきゃいけない」は「生きなきゃいけない」っていう意味と似ているんじゃないかな。僕はそう思っています。
9月15日のチャリティー演技会後、金沢市内で本誌の取材と撮影に応じた羽生結弦 TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN
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9月14日のスケート教室の様子 ©TORU YAGUCHI
9月15日のチャリティー演技会では「春よ、来い」を披露した ©TORU YAGUCHI
チャリティー演技会の前日リハーサルから ©TORU YAGUCHI