Infoseek 楽天

「輪島復興」に立ち上がる若者たちの声を聞け――過疎高齢化の奥能登で、人を動かし旗振り役を務める勇者たち

ニューズウィーク日本版 2024年10月5日 18時20分

小暮聡子(本誌記者)
<それでも歩みを止めない若手世代の生きざまは、自然災害が続く今の日本に何を教えるのか>

※本記事は本誌10月1日号掲載。取材は能登豪雨前ですが、記事末に現地の近況を追記しました。

今年元日の能登半島地震からもうすぐ9カ月。9月17日現在、石川県で、被災した建物の公費解体が完了したのは申請された2万9217棟のうち11%、今も474人が避難所生活を送る。復興への道のりは長い。

それでも、水も電気もなく人命が危機にさらされたあの日から、被災地で踏ん張り、一歩ずつ前を向こうとしてきた人たちがいる。

9月上旬、約3カ月ぶりに訪れた能登で、そうした若手世代に出会った。そのうち2人は、この地域ならではの魅力に引かれて移住した30代。東日本大震災の経験を能登につなごうとする10代の姿もあった。

震災があっても、その先に人生は続いていく──。今年8月、石川県輪島市の海沿いに「ゲストハウス黒島」をオープンさせた杉野智行(37)も、その生きざまを見せてくれた1人だ。

ゲストハウス黒島は、集落全体が国の「重要伝統的建造物群保存地区」に指定される輪島市門前町の黒島地区にある。黒瓦と板張り壁の伝統的な家屋が立ち並び、日本海に沈む夕日を一望できるこの集落では、建物約600棟のうち4割が全半壊した。

金沢出身で、石川県庁勤めだった杉野が輪島に移住したのは2021年4月。釣り好きの父親に連れられて幼い頃から毎週のように能登を訪れ、働き始めてからも釣りに通っていた杉野は移住を決意し、輪島にある県庁の出先機関に異動願いを出した。

風の音に包まれながら釣りをする贅沢と、能登の波長や空気感に魅了され、ゆくゆくはこの地にゲストハウスを造りたいと思ったからだ。しかし、今年3月の退職と夏のゲストハウス開業を目指していた矢先に被災し、こつこつと造り上げた夢の拠点が全壊した。

居住していなかったため被災者生活再建支援金は得られず、1月時点では開業前だったことから中小企業や小規模事業者を対象とする石川県なりわい再建支援補助金の対象からも外れて、倒壊した建物だけが残された。

だが杉野は歩みを止めなかった。まず地域を復旧・復興するため、発災から10日後の1月10日に「黒島復興応援隊」を立ち上げ、自らが事務局となって全国からボランティアを呼び込んだ。

倒壊家屋の解体や家財運び出しなどの作業を行うため、半年間に受け入れたボランティアの数は延べ1000人に上る。この間、役に立ったのは11年の東日本大震災直後に2週間被災地支援に入り、17~19年の2年間も、宮城県名取市で被災地支援職員として仕事をした体験だった。

この経験から杉野には、被災後のどの段階で何が起きて何が必要になるかを「だいたいつかめる感覚」と、「最後には必ず復興するという、その姿を見ているからこそ、自分たちもやれるという根拠のない自信」があった。

ゲストハウス黒島のベッドを見せる杉野智行(9月12日)TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN

人口260人で65歳以上が75%、30~50歳台がほぼいないというこの集落で、支援を受け身の姿勢で待つだけでは遅い。ボランティアの受け皿は自分でつくるしかない。そう考え、この9月間を走り続けてきた杉野は、住民たちの「雰囲気が変わってきたのは6月か7月頃」だと語る。

3末に水が復旧し一通りのインフラが整い始め、家の片付けをしたり仮設住宅に入ったりすると、住民たちの表情に変化が見られるようになった。「復興という雰囲気に変わっていくのは比較的早かったかもしれない」

一方で、彼自身も半年を過ぎたタイミングで別の心の変化を経験していた。最初は何の迷いもなく、ここに住む人たちが安心して暮らせる環境を取り戻したいと思って始めたはずのボランティア活動だが、杉野はこの頃から自分の中で少し苦しく感じ始めていた。

3月に退職して無収入で活動するなかで、7月頃から被災とは無関係かつ無報酬の作業依頼が来始め、心が疲弊していった。

しかし杉野が、お金の代わりに意図せず得たものもまた大きかった。それは人と人とのつながりだ。全壊したゲストハウス近くに別の建物を提供してくれる人が現れ、3カ月間はボランティアの宿泊場所として使いながら延べ300人以上が改修作業を手伝ってくれた。

その結果、被災前の目標だったゲストハウスの24年夏オープンを達成。今後は能登の復興を支えながら海と山の豊かな暮らしを探求する人々の、ハブになるような宿を目指していく。

思えば、人と人がつながるゲストハウスに憧れて能登移住を決めた理由の1つは、東北での復興支援で「人間対人間のものすごく濃い時間を過ごしたこと」だった。その杉野は今、能登半島地震を通じて志を共にする仲間を得て、画期的なプロジェクトを立案している。

地震で海底が隆起し船が出せなくなった港に桟橋を造り船を出す、海底隆起で出現したビーチでマリンアクティビティー、海藻が減る「磯焼け」の原因となるウニを駆除し商品化する......。

「復興をしなきゃとか、そういう義務感とか使命感で動き続けられるのには限界がある」と、杉野は言う。「東北では数年がかりで町づくりの話をしていた。自分たちがわくわく楽しめないと、復興までもたない」

町野町を盛り上げる山下祐介(9月13日、金蔵地区)TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN

限界集落に移住した30代

輪島市には、ほかにも「わくわく」を原動力に復興への道筋を描き始めている地域がある。輪島市中心部から車で30分ほど、日本海に面した棚田が国指定文化財名勝に指定されている「白米千枚田」の先にある、人口1805人の輪島市町野町。

この町を盛り上げようと精力的に動いているのが、町の集落の1つ、50世帯強が点在する金蔵地区で米作りに従事する山下祐介(38)だ。

金沢出身の山下は8年前の16年に金蔵に移住し、米農家に転身した。転機が訪れたのは今から10年前。山下は幼い頃から年に4回、金蔵に住む祖父母の元を訪れ田植えや稲刈りを手伝っていたが、祖父が14年に入院し稲作を続けられなくなった。

「超高齢化の地域なので、誰かに田んぼをお願いしてもきっと10年後には難しくなる。地元でもおいしいと評判の金蔵の米と、自分が好きなこの景観がなくなってしまうのはもったいない」。当時、金沢大学法科大学院を出て司法試験の勉強をしていた山下はそう思い、ならば自分がやればいいと覚悟を決めた。

金蔵地区は、能登の里海里山と言われる日本の原風景が広がる一方で、住民はほぼ60歳以上という過疎高齢化の限界集落でもある。山下は移住後、周りの先輩たちの助けを借りつつ手探りで米を作り、米粉100%のベーグル専門店を開業したところに被災。自宅は半壊した。

町野町は一時、道路が寸断され多くの集落が孤立した。しかし山下は、「まだ水道なんてどこも来ていない、俺んち電気ついたぞと言う人がようやく出てきた2月頭」に、地域では若手とされる50代以下の仲間数人で「町野復興プロジェクト実行委員会(通称:町プロ)」を立ち上げた。

住民たちに思っていることを何でも書いてほしいというアンケートを配ったところ、聞こえてきたのは過疎高齢化への不安だった。

「若い人がいなくなるというのは地震前からさんざん言われていたが、地震が起きた瞬間に、本当にいなくなった感覚に陥った。危機が一気に顕在化した」と山下は言う。

発災直後は何も楽しいことがなく、娯楽もないし笑顔もない。1日でもいいから笑える日がないと駄目だと考えた山下たちは、4月に花見をする「桜フェス」を企画する。

場所と時間だけ決めて、地元の飲食店にも協力してもらって開催したところ、住民たちが次々集まり、「あんた久しぶり、あんたも久しぶりって感じで、すごく盛り上がった」。

山下は言う。「これからの復興を考えるときに、机に座って『町の将来を考える会』をやってもたいてい人は集まらない。じゃあ若い人が来たくなる町って何だろうって考えたら、わくわく楽しい町だった」

復興は、やってみながら考える。そう思い至った山下たちは、その後も立て続けにイベントを開催した。

炊き出しをバーベキューに変えて「肉フェス」をやれば高齢者含め延べ800人が集まり、映画館が存在しない奥能登で土曜夜に野外映画上映会を開催したら、映画を真面目に見ている人と、走り回る子供たちと、酒を酌み交わす年配層がいる、映画館にはない面白い空間が生まれた。

山下に言わせれば、「復興計画を作ることは必須ではない」。それは目標ではなく過程であるはずだ。「いろんなことを仕掛けて、みんなが楽しかったことや、こうしたほうが良かったという理想の積み重ねの先に、住みたい町のイメージが出来上がっていく」。

そうした復興の先に、どんな未来が待っているのか。それを示した例が、東日本大震災の被災地にある。

気仙沼キャンプに参加した河原清二(9月12日、七尾高校前)TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN

3.11の経験を能登につなぐ

8月初め、宮城県気仙沼市で、地元の町づくり事業や子供たちの探究学習を支援する一般社団法人「まるオフィス」が能登の高校生たちを招いて2泊3日の「気仙沼キャンプ」を主催した。

まるオフィスは、13年前の東日本大震災を機に気仙沼に移住した若者と地元の若者が立ち上げたNPO。今回のキャンプを一緒に企画・運営したのは、復興に向かう気仙沼の町で生きてきた気仙沼出身の大学生たちだ。

石川県穴水町在住で、石川県立七尾高校に通う河原清二(17)も、このキャンプに参加した。その理由は「復興のために自分には何ができるんだろうって考えたときに、3.11で復興に携わった人たちに当時の経験を聞きたかったから」だ。

今年1月に家族と共に輪島で被災した河原は、避難所や関西の親戚宅を転々とした後、母と弟2人と穴水に引っ越した。父は輪島で働き、妹は大阪の中学に転校したので、今は家族が離れ離れだ。

13 年前に津波と火災で火の海と化し、その後復興した気仙沼で地元の人たちと交流した河原は、「13年たったらこういう感じになれるというイメージを持てた」と言う。

気仙沼出身の岩槻佳桜(19)は、東日本大震災後に自分が他者から受け取ってきたものを返したいという思いでキャンプを企画した。高校時代、地域と関わることの面白さを教えてくれたのが、まるオフィスの大人たちだった。

気仙沼出身の岩槻佳桜は輪島でボランティア(9月13日、旧輪島駅)TORU YAGUCHI FOR NEWSWEEK JAPAN

彼女が震災を経験したのは5歳のとき。自宅や家族は無事で、その後の復興の過程では「支援とか、何も分からないまま育ってしまった」。服や本や新しいおもちゃが、小学校の昇降口に段ボールで届く。「好きなものを持っていっていいよ」と言われるのが当たり前で、当時はそれが支援物資だと分からなかった。

岩槻は、そのときに「ありがとう」と言えなかった自分に「目を背けながら生きてきた」が、今なら何か人の役に立てるかもしれないと思って能登に来た。将来は気仙沼に戻って働きたいという彼女は今、東京の大学の夏休みを利用して輪島市で子供支援のボランティアをしている。

河原もまた、震災の経験を糧に変えようとしている。高校卒業後は「災害に強く、人がつながりやすい街づくり」を学ぶため、大学で建築を勉強したいと言う。

「それぞれの街にあるものを生かすべき。全部、東京と同じになったら面白くない」と、自分だけでなく、故郷である能登のあるべき未来も見据えている。

復興という言葉は、被災地を生きる能登の多くの人にとってはまだ絵空事に響くだろう。それでも若い彼らの生きざまは希望であり、1つの答えでもある。杉野は言った。「最後には必ず復興しますから」と。(了)

<10月5日追記>
9月21日~22日にかけて奥能登を襲った豪雨により、本記事で取材した輪島市には震災に追い打ちをかけるような被害が発生した。しかし、記事中で紹介した「ゲストハウス黒島」の杉野はすぐにゲストハウスを被災した方とボランティアに開放。「大雨の後、自分がどこを向いてがんばれば良いのかしばらく迷っていたが、ゲストハウスの本業を通して復興にも貢献していこうと決めた」と言う。

米農家に転身した山下が住む町野町は豪雨による被害が甚大で、彼が震災後に丹精込めて作り上げた田んぼも駄目になってしまった。しかし今、山下は町野復興プロジェクト実行委員会が運営する新たなボランティア拠点「まちなじボラセン」を立ち上げ、認定NPO法人カタリバのサポートの下でボランティアを募集し復旧活動に全力を挙げている。

豪雨の後も、彼らは歩みを止めていない。

●「ゲストハウス黒島」はボランティアの宿泊受付中。輪島市内で宿泊できる場所は貴重だ。ゲストハウス運営のためのクラウドファンディングはこちら。

●「まちなじボラセン」は、輪島市東部地区のを絶賛受け付け中。町野、南志見、鵠巣の東部地区ではまだまだ人手が足りない状況だという。
<町野復興プロジェクトの支援先>
興能信用金庫 柳田支店
普通 8038893
町野復興プロジェクト実行委員会委員長 山下祐介


この記事の関連ニュース