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『シビル・ウォー』のテーマはアメリカの分断だと思っていたが......

ニューズウィーク日本版 2024年10月12日 19時20分

森達也
<『シビル・ウォー アメリカ最後の日』のアレックス・ガーランド監督は政治的な寓話よりも、エンタメ色を強調したかったようだ>

映画を映画館で観る。

などと書くと、「馬から落馬した」とか「頭痛が痛い」と同様の重言になるのだろうか。

でもこう書くしかない。映画は映画館で観るものと、ずっと思っている。20代後半にはビデオの時代が始まっていたけれど、レンタルビデオ屋に足を運んだことはほとんどない。

なぜ映画館にこだわるのか。理由の1つは、やはり巨大なスクリーンだ。あれは家では無理。昔に比べればテレビのサイズはずいぶん大きくなったけれど、映画館のスクリーンとは比べるまでもない。

2つ目の理由は周囲に大勢の人がいるという環境設定。みな見知らぬ人だ。年齢層もさまざま。でも1つだけ共通項がある。この映画を観ることを今日のこの日に選択した人たちだ。皆がじっとスクリーンを見つめる。

『スケアクロウ』でマックスがバーでストリップショーよろしく何枚も重ね着している服を脱ぎだしたときは、後列の誰かがくすくす笑っていた。『パピヨン』のラストでパピヨンが真っ青な海にダイブしたときは、前列の誰かが吐息をついていた。そして『ロッキー』で最後にロッキーがリングの上からエイドリアンの名前を何度も叫んだときは、両隣の誰かが必死に嗚咽(おえつ)をこらえていた。

つまり、場。これも映画の重要な一部だ。ただ観るだけではない。五感の全てが感応する。

だから音が重要なことは当然だ。

ということで『シビル・ウォー アメリカ最後の日』。配給会社からは音の映画と言われたけれど、観ながら「確かに」と実感する。

音そのものが重要な要素ということではなく、音の存在と不在の緩急が劇的なのだ。確かに効果は絶大。でもあえて苦言を呈せば、音楽の使い方には何度か首をひねる。単なるBGMではなくあえてミスマッチを狙う意図は分かるが、少し空回りを感じた。

観る前には、大統領選をめぐってあらわになったアメリカの分断がテーマなのだと思っていた。つまり共和党と民主党の内戦。ならば政治的な寓意やメッセージを込められる。僕が監督ならそうする。でもアレックス・ガーランド監督はその選択をしなかった。よりエンタメ色を強調したいと考えたのだろうか。

その代わりに本作には、メインの出演者たちに新聞社の記者やカメラマンという役割を与えることで、ジャーナリズムのジレンマをサブのテーマにしている。

ただしその描写は、直截な言葉を使えば安易だ。カメラマンは戦場では標的になりやすい。手持ちのカメラや担いだビデオカメラが遠目には武器に見えるのだ。フィクションとはいえ動きが大胆すぎる。あれでは命がいくつあっても足りない。

20世紀は戦争の世紀と呼ばれていた。そこから人類は進化したのか。少しはマシになったのか。

答えはもちろん否。分断はなぜ起きるのか。これを考察するならば、分断の前に必ず集団化が起きているというプロセスを考えることが重要だ。世界では今、テロへの恐怖や移民問題を契機に集団化が起きている。なぜ集団化は起きるのか。人は群れる生きものだから。観ながらそんなことを考えた。

『シビル・ウォー アメリカ最後の日』
©2023 Miller Avenue Rights LLC; IPR.VC Fund II KY. All Rights Reserved.
監督/アレックス・ガーランド
出演/キルスティン・ダンスト、ワグネル・モウラ
(日本公開中)

<本誌2024年10月15日号掲載>



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