豆原啓介(桃山学院大学経済学部准教授) アステイオン
<国際コンクールでも使用されているヤマハとカワイのピアノ。浜松発グローバル企業の切磋琢磨の歴史と戦略>
この夏の日本はパリ五輪のメダルラッシュに沸いたが、まもなく浜松で音楽関連の国際イベントが開催されるのをご存知だろうか? 浜松国際ピアノコンクールである。今年の応募者数は638名に上り、中には実績のあるピアニストもいるというから、コンクールとして一定の権威を持つ証左なのだろう。
浜松国際ピアノコンクールには、大きな特徴がある。出場者が選べるピアノのメーカーが3つに限られ、しかもそのうちの2つがヤマハとカワイ、つまり日本のメーカーという点である。
両社は世界的な楽器メーカーであるが、同時に浜松国際ピアノコンクールのスポンサーであることを考えれば、このラインナップはある意味で当然と言えよう。
ところでヤマハとカワイは著名なグローバル企業であるにもかかわらず、本格的な研究書は長い間、存在しなかった。
しかし3年前、ついに労作が出版された。ここでは『ピアノの日本史』(田中智晃著)に沿って、両社がいかにライバルとして競いながら成長を遂げ、国際コンクールで使用されるほど秀逸なピアノを製造するまでになったのか、紐解いていきたい。
カワイ誕生のきっかけは、ヤマハの労働争議
1888年、浜松に小さなオルガンメーカーが誕生した。山葉風琴製造所である。創業者の山葉寅楠は病院の修理技師であったが、オルガン(風琴)修理を契機にオルガン製作に取り組み、山葉風琴製造所を開設した。その後、寅楠は日本楽器製造株式会社を設立、これが現在のヤマハである。
一方、カワイの起源は1927年に河合小市が創業した河合楽器研究所である。小市は11歳で山葉寅楠に弟子入りした技術者であったが、ヤマハの労働争議を契機に独立した。ヤマハからすれば、手塩にかけて育てた人材が、最大のライバル企業となる会社を興したというわけだ。
後発企業であったカワイが当初採用した戦略は、低価格路線である。特に格安のオルガンでヤマハへの対抗を試みた。とはいえ戦前の日本の鍵盤楽器市場は学校を中心とした狭小なもので、ヤマハとカワイが大量生産を開始し、本格的な競合を繰り広げるのは、戦後になってからである。
ピアノの大量生産開始と「ヤマハ音楽教室」の戦略
戦後の日本は急速な経済成長を遂げたが、そこには生活の西洋化も伴った。食や被服の西洋化が進展し、ピアノも日本人の日常の中に浸透していった。とりわけ少女が習いたい、そして親が娘に習わせたい楽器として憧れの対象となった。
しかしピアノが庶民にアクセス可能な物品となるためには、製品価格の高さとレッスン料の高さという2つの「壁」を乗り越える必要があった。
1950年代後半、ヤマハはいよいよピアノの大量生産に着手した。驚くべきことに、このときモデルとされたのは、缶詰工場や自動車工場であった。要するにベルトコンベア生産を核とする、大量生産システムである。
他方でJIS規格に適合的な生産を行うなど、「質」の改善にも尽力、あくまで「工業製品」としてのピアノ、という観点から低コスト・高品質の生産を実現した。
こうしてヤマハは、欧米のピアノメーカーが成し遂げなかった「質」と「量」の両立に成功し、海外市場の獲得にもつなげていった。
加えて同時期、ヤマハは「ヤマハ音楽教室」を開設、特約店を通して全国に展開した。その特色は集団指導による低価格のレッスン料と、「ヤマハ・メソード」に基づくレッスン標準化である。つまりヤマハは音楽教育の「大量生産」と「標準化」も実現した。
生徒の多くは楽器を習い始めた子どもであったため、音楽教室の存在はピアノの販路確保にも貢献した。このようにして大量生産と顧客囲い込みの双方を成功させたヤマハは、他の追随を許さない世界的ピアノメーカーの座へと登りつめていくのであった。
カワイの巻返しと「原器工程」
さて、躍進するヤマハを前に、カワイはいかにして巻返しを図ったのだろうか?戦後の会社再建に出遅れ、販売網と知名度の劣位に悩むカワイの社長に、他業種の営業マンが囁いた。
「競合に勝ちたかったら、人より先に売ればよい」
この言葉をヒントとしてカワイが編み出したのが、1960年に開始した「予約販売」である。いつか子どもにピアノを習わせたいと願う親から契約を取り、毎月少額の積立金を支払わせ、満期にピアノを渡すという販売方式である。
通常の分割払いよりも月々の負担が軽かった「予約販売」は多くの親の心を捉え、カワイは巻返しに一定の成功を収めた。同時期に大量生産システムも導入、地歩を固めながら、海外市場へも進出していった。
この他、カワイの特徴的な点としては、大量生産システムとは相容れないはずのクラフト的工程を取り入れた点である。これは「原器工程」と呼ばれ、職人が良質なピアノづくりを目指し、試行を重ねる実験的工程である。
この工程があればこそ、カワイのコンサートグランドピアノが「ダミ声で周囲を圧する田舎娘」から、「なんとも典雅で独創的な美しい響きをかもしだす」(中村紘子『どこか古典派』)ピアノへと変貌を遂げたのだろう。
もっともハイエンド機種の開発に傾けた情熱という点では、ヤマハも負けてはいない。60年代半ばに巨匠、ミケランジェリお抱えの調律師に協力を要請、本格的な開発に着手する。
そして「貧血気味」と評されたヤマハのピアノは、やがて「どんな力演にもつぶれない透明感と輝かしい強さを獲得」(同書)し、内外のピアニストの信頼を得ることになる。今ではヤマハのピアノもカワイのピアノも、国際コンクールの「常連」だ。
フランス以上にピアノが浸透した日本
ところで、本稿の執筆にあたり、筆者が研究地域とするフランスのピアノ事情について調べてみたところ、興味深い事実が判明した。ピアノ経験者の割合が、日本は31.7%、フランスは14.4%と、日本の方が遥かに高いのである(クロス・マーケティング「楽器の演奏に関する調査」2024年8月、Ifop, Les Français, la musique et le piano , juin 2017)。
フランスがピアノの名曲を多く生み出した「ピアノの本場」であることや、公立の音楽院や公設の音楽教室で安価なレッスンを受講できる点を踏まえると、これは不思議な現象だ。
ヤマハやカワイのマーケティング戦略が奏功した結果とも言えるが、戦後、貧しい敗戦国として出発した日本では、一層、ピアノが優雅なイメージで彩られ―それは端的には、ルノワールの「ピアノを弾く少女たち」のイメージと言って良いだろう―、憧れのアイテムとして、多くの人々に欲しがられた、ということなのかもしれない。
いずれにしても、やはりピアノは「楽器の王様」、わずか一台でオーケストラにも匹敵する表現力を備えた実に魅力的な楽器だ。この秋、若きピアニストたちが、浜松で、ヤマハやカワイのピアノでどんな音色を奏でるのか、本当に楽しみだ。
豆原啓介(Keisuke Mamehara)
東京大学文学部スラヴ文学専修卒業。同大学大学院経済学研究科経済史専攻修士課程修了後、パリ第一大学(パンテオン=ソルボンヌ)歴史学部経済史専攻博士課程修了。博士(歴史学)。専門は現代フランス経済史。特に高度成長期におけるエネルギー政策を研究対象としている。2014年度「高度成長期フランスにおける電力エネルギー源選択の歴史的変容」のテーマで、サントリー財団「若手研究者のためのチャレンジ助成」に採択。
『ピアノの日本史』
田中智晃[著]
名古屋大学出版会[刊]
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<国際コンクールでも使用されているヤマハとカワイのピアノ。浜松発グローバル企業の切磋琢磨の歴史と戦略>
この夏の日本はパリ五輪のメダルラッシュに沸いたが、まもなく浜松で音楽関連の国際イベントが開催されるのをご存知だろうか? 浜松国際ピアノコンクールである。今年の応募者数は638名に上り、中には実績のあるピアニストもいるというから、コンクールとして一定の権威を持つ証左なのだろう。
浜松国際ピアノコンクールには、大きな特徴がある。出場者が選べるピアノのメーカーが3つに限られ、しかもそのうちの2つがヤマハとカワイ、つまり日本のメーカーという点である。
両社は世界的な楽器メーカーであるが、同時に浜松国際ピアノコンクールのスポンサーであることを考えれば、このラインナップはある意味で当然と言えよう。
ところでヤマハとカワイは著名なグローバル企業であるにもかかわらず、本格的な研究書は長い間、存在しなかった。
しかし3年前、ついに労作が出版された。ここでは『ピアノの日本史』(田中智晃著)に沿って、両社がいかにライバルとして競いながら成長を遂げ、国際コンクールで使用されるほど秀逸なピアノを製造するまでになったのか、紐解いていきたい。
カワイ誕生のきっかけは、ヤマハの労働争議
1888年、浜松に小さなオルガンメーカーが誕生した。山葉風琴製造所である。創業者の山葉寅楠は病院の修理技師であったが、オルガン(風琴)修理を契機にオルガン製作に取り組み、山葉風琴製造所を開設した。その後、寅楠は日本楽器製造株式会社を設立、これが現在のヤマハである。
一方、カワイの起源は1927年に河合小市が創業した河合楽器研究所である。小市は11歳で山葉寅楠に弟子入りした技術者であったが、ヤマハの労働争議を契機に独立した。ヤマハからすれば、手塩にかけて育てた人材が、最大のライバル企業となる会社を興したというわけだ。
後発企業であったカワイが当初採用した戦略は、低価格路線である。特に格安のオルガンでヤマハへの対抗を試みた。とはいえ戦前の日本の鍵盤楽器市場は学校を中心とした狭小なもので、ヤマハとカワイが大量生産を開始し、本格的な競合を繰り広げるのは、戦後になってからである。
ピアノの大量生産開始と「ヤマハ音楽教室」の戦略
戦後の日本は急速な経済成長を遂げたが、そこには生活の西洋化も伴った。食や被服の西洋化が進展し、ピアノも日本人の日常の中に浸透していった。とりわけ少女が習いたい、そして親が娘に習わせたい楽器として憧れの対象となった。
しかしピアノが庶民にアクセス可能な物品となるためには、製品価格の高さとレッスン料の高さという2つの「壁」を乗り越える必要があった。
1950年代後半、ヤマハはいよいよピアノの大量生産に着手した。驚くべきことに、このときモデルとされたのは、缶詰工場や自動車工場であった。要するにベルトコンベア生産を核とする、大量生産システムである。
他方でJIS規格に適合的な生産を行うなど、「質」の改善にも尽力、あくまで「工業製品」としてのピアノ、という観点から低コスト・高品質の生産を実現した。
こうしてヤマハは、欧米のピアノメーカーが成し遂げなかった「質」と「量」の両立に成功し、海外市場の獲得にもつなげていった。
加えて同時期、ヤマハは「ヤマハ音楽教室」を開設、特約店を通して全国に展開した。その特色は集団指導による低価格のレッスン料と、「ヤマハ・メソード」に基づくレッスン標準化である。つまりヤマハは音楽教育の「大量生産」と「標準化」も実現した。
生徒の多くは楽器を習い始めた子どもであったため、音楽教室の存在はピアノの販路確保にも貢献した。このようにして大量生産と顧客囲い込みの双方を成功させたヤマハは、他の追随を許さない世界的ピアノメーカーの座へと登りつめていくのであった。
カワイの巻返しと「原器工程」
さて、躍進するヤマハを前に、カワイはいかにして巻返しを図ったのだろうか?戦後の会社再建に出遅れ、販売網と知名度の劣位に悩むカワイの社長に、他業種の営業マンが囁いた。
「競合に勝ちたかったら、人より先に売ればよい」
この言葉をヒントとしてカワイが編み出したのが、1960年に開始した「予約販売」である。いつか子どもにピアノを習わせたいと願う親から契約を取り、毎月少額の積立金を支払わせ、満期にピアノを渡すという販売方式である。
通常の分割払いよりも月々の負担が軽かった「予約販売」は多くの親の心を捉え、カワイは巻返しに一定の成功を収めた。同時期に大量生産システムも導入、地歩を固めながら、海外市場へも進出していった。
この他、カワイの特徴的な点としては、大量生産システムとは相容れないはずのクラフト的工程を取り入れた点である。これは「原器工程」と呼ばれ、職人が良質なピアノづくりを目指し、試行を重ねる実験的工程である。
この工程があればこそ、カワイのコンサートグランドピアノが「ダミ声で周囲を圧する田舎娘」から、「なんとも典雅で独創的な美しい響きをかもしだす」(中村紘子『どこか古典派』)ピアノへと変貌を遂げたのだろう。
もっともハイエンド機種の開発に傾けた情熱という点では、ヤマハも負けてはいない。60年代半ばに巨匠、ミケランジェリお抱えの調律師に協力を要請、本格的な開発に着手する。
そして「貧血気味」と評されたヤマハのピアノは、やがて「どんな力演にもつぶれない透明感と輝かしい強さを獲得」(同書)し、内外のピアニストの信頼を得ることになる。今ではヤマハのピアノもカワイのピアノも、国際コンクールの「常連」だ。
フランス以上にピアノが浸透した日本
ところで、本稿の執筆にあたり、筆者が研究地域とするフランスのピアノ事情について調べてみたところ、興味深い事実が判明した。ピアノ経験者の割合が、日本は31.7%、フランスは14.4%と、日本の方が遥かに高いのである(クロス・マーケティング「楽器の演奏に関する調査」2024年8月、Ifop, Les Français, la musique et le piano , juin 2017)。
フランスがピアノの名曲を多く生み出した「ピアノの本場」であることや、公立の音楽院や公設の音楽教室で安価なレッスンを受講できる点を踏まえると、これは不思議な現象だ。
ヤマハやカワイのマーケティング戦略が奏功した結果とも言えるが、戦後、貧しい敗戦国として出発した日本では、一層、ピアノが優雅なイメージで彩られ―それは端的には、ルノワールの「ピアノを弾く少女たち」のイメージと言って良いだろう―、憧れのアイテムとして、多くの人々に欲しがられた、ということなのかもしれない。
いずれにしても、やはりピアノは「楽器の王様」、わずか一台でオーケストラにも匹敵する表現力を備えた実に魅力的な楽器だ。この秋、若きピアニストたちが、浜松で、ヤマハやカワイのピアノでどんな音色を奏でるのか、本当に楽しみだ。
豆原啓介(Keisuke Mamehara)
東京大学文学部スラヴ文学専修卒業。同大学大学院経済学研究科経済史専攻修士課程修了後、パリ第一大学(パンテオン=ソルボンヌ)歴史学部経済史専攻博士課程修了。博士(歴史学)。専門は現代フランス経済史。特に高度成長期におけるエネルギー政策を研究対象としている。2014年度「高度成長期フランスにおける電力エネルギー源選択の歴史的変容」のテーマで、サントリー財団「若手研究者のためのチャレンジ助成」に採択。
『ピアノの日本史』
田中智晃[著]
名古屋大学出版会[刊]
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