小峯弘四郎(フォトジャーナリスト)
<ウクライナ軍による越境攻撃という朗報の一方でロシア軍が攻勢強化、避難か残留かを迫られたウクライナ東部住民の決断の姿>
2024年のウクライナの夏は、アメリカ製F16戦闘機の供与や、北部でのロシア西部クルスク州への越境攻撃といったニュースに沸いていた。だが、東部戦線では依然として苦しい状況が続いていた。ロシア軍がウクライナ軍の越境攻撃に対応しつつ、東部で攻勢を強めていたからだ。
8月19日、ウクライナ政府はドネツク州ポクロフスク市周辺の地域から、子供とその家族の強制避難を指示した。
ポクロフスク市には、5万3000人(うち子供4000人)以上が残っていた。ポクロフスク市軍政当局のセルヒイ・ドブリアク長官は、「前進するロシア軍から逃れるために住民に残された時間はせいぜい2週間だ」と警告した。
翌20日からポクロフスク近郊で、大規模な避難活動が始まった。ここまでの規模の避難は、22年5月に南東部マリウポリで地下要塞が陥落して以来とも言われた。
ポクロフスク(次ページ地図参照)はドネツク州の交通の要衝であり、東部の輸送拠点だ。
東西南北に延びる幹線道路と、そこから分かれて各都市に向かう道路によってドネツク州の多くの街がつながっている。このポクロフスクをロシア軍に占領されると、ドネツク州は南北に分断される。そして、これが今後の東部戦線のターニングポイントになり得る。
筆者は8月19日にドネツク州に入り、20日からポクロフスクの避難民の救出活動を行うボランティア団体に同行取材を始めた。車のある人は自力で避難し、高齢者や病人・障害者の避難をボランティアが助けるという。ポクロフスクに入ると、人通りや交通量も多く、救出に来た車両や、軍用車でごった返していた。
その日は、ポクロフスクの南に位置する都市ウクラインスクの家族を迎えに行き、北部のクラマトルスクまで送り届けるという活動だった。ロシア軍がウクラインスクまであと約10キロの地点まで迫っていたが、ウクライナ軍が撃ち返す砲弾の音もかなり遠くに聞こえて安心感がある。
ポクロフスク中心部から現地に向かう前に、同行するボランティアたちが防弾ベストとヘルメットを着用しだした。大げさに思えたが、聞くと10キロという距離はロシア軍の全てのミサイル攻撃の射程内で、ドローンの飛行範囲内でもあるという。
その後の数日間で、いずれもロシア軍の前線から6〜10キロのミルノグラード、セリドベ、ヘルニャック、ゾリナなど周辺地域を回り、住民を安全な地域まで送り届けていく。少しずつだが、着実に避難は進んでいった。
市内各所に避難を呼びかける告知が設置され、避難のアナウンスを流し続けるパトカーが市内を循環する。
目立った混乱もなく比較的スムーズに進んでいるように思えたが、9月に入った時点でまだ半数近くの住民が残っているということだった。避難をする決断ができない人、避難を希望していない人など、多い地域では2000人近い人が残っているという。
ウクラインスクから逃げてきた高齢女性。地下の避難所にロシア兵が手榴弾を投げ込み、十数人が死んだという PHOTOGRAPHS BY KOSHIRO KOMINE
多くの住民は、北部クラマトルスクやスラビャンスク、西に隣接するドニプロペトロウシク州に避難をしていく。
親族を頼ったり、自ら部屋を借りたり、早めに避難施設に入れた人がいる一方で、多くの人が新しい場所で生活を立て直す資金がなく、移動先での不安も尽きず、避難の決断ができないでいる。
遭遇したロシア兵からの尋問
9月に入った。北部の越境作戦の影響で東部のロシア軍が移動しているという話が本当だったのか、ウクライナ軍の善戦のおかげか、最初に言われていた2週間のタイムリミットが過ぎても住民の避難は続いていたが、ポクロフスクを取り巻く状況はより厳しくなっていた。
9月3日、銀行などのサービスが停止。翌4日、ポクロフスクから西へ向かう鉄道の線路橋がロシアのミサイルによって破壊された。5日、中心部の変電所が攻撃を受け市内の広範囲が停電。6日、ポクロフスクから北西へ延びる幹線道路につながる橋が破壊された。
ガソリンスタンドやスーパーはほぼ閉店しており、一部の店舗だけが自家発電機を用意して営業している。午後3時から午前11時までは外出禁止で、通りに人の姿はほとんど見られなくなった、この2週間でポクロフスク市内でまともに生活できる地域はなくなった。
ボランティアのフェディール・シロバツキー PHOTOGRAPHS BY KOSHIRO KOMINE
その日から再び、ポクロフスク市近郊の避難活動が加速することになった。
ドネツク州は隣接するドニプロペトロウシク州やボランティア団体と協力して、避難民を各地域へとピストン輸送するための避難バスを急きょ運行し始めた。ポクロフスク市の各地域まで車で迎えに行き、中心部まで連れてくる、そして避難バスに乗せて各都市へと送り出す。
ウクラインスクなどポクロフスクより南部の地域では町の一部がロシア兵に占領され、偵察隊があちこちにいるという状況だという。
ポクロフスクでの救出・避難活動を行っているボランティア団体「チルドレン・ニュージェネレーション」に同行して市内各地を取材した。
この団体はポクロフスク市の西方約180キロにあるドニプロ市を拠点に、開戦直後の22年3月から活動し、住民の救出や避難、支援物資の配達など、特に低所得者層への支援を続けている。
ポクロフスク中心部でドニプロ行きのバスの周りに7~8人の避難者がいた。全員ウクラインスクから逃げてきた人たちだ。
救出に行ったボランティアが街中でロシア兵に遭遇し尋問を受けたが、「民間人のボランティアで住民を避難させている」と伝えると、何も言わずに立ち去ったという。
避難者たちもロシア兵に遭遇していた。実際、ロシア兵に多くの人が殺されたといい、生き残った人々は命からがら逃げてきた、と教えてくれた。
ヘルニャックから避難した高齢女性を支える PHOTOGRAPHS BY KOSHIRO KOMINE
避難をしてきた数人に声をかけたが、何も話すことはないと断られ、やっと一人の高齢女性が重い口を開いてくれた。
「ロシア兵の偵察隊が来て、私たちを地下の避難所に閉じ込めた。3歳と2歳の子供を含む21人がいた。入り口をマットレスで塞いで2日間閉じ込めた。民間人だと言って外に出してくれるよう頼んだが、彼らは機関銃を私たちに向け、ひざまずくように言った」
「その後ロシア兵が手榴弾を投げ込み、爆発してマットレスや薪が燃えた。私はどうやって外に出たのか分からない。そこにいた人のうち生き残ったのは6人だけ。皆、煙で窒息死した」
「私は家の玄関に座っていた。家は破壊されてしまい何もなかったから......。そのうちボランティアの人たちがやって来て、私の荷物を車に積んでここまで連れてきてくれた」
ウクラインスクは9月24日頃、ロシア軍に完全制圧された。
9月9日、さらに南部のヘルニャックへボランティアと共に向かった。ロシア軍が村の北部に侵入しているが救出活動が続いており、近くのクラコバという町を経由してポクロフスク市内へと避難させていた。
クラコバの町は前線から近い所で3キロ、遠い所で12キロ離れているが、ウクライナ軍が砲撃をしている場所で、その反撃を受け町中が破壊されていた。
取材時も、ウクライナ軍の砲撃音がひたすら続き、そのうちロシア軍の反撃があり、町のどこかに着弾をする、の繰り返しだった。へルニャックから救出された人々を待つ待機場所近くにも着弾し、大きな音と振動で建物に避難をする。
そんな状況で覚悟を決めているのか、あるいは慣れたのか、平然とした住民がいる。こちらもできる限り状況に慣れようと、平静を保つよう心がけた。
救出されてきた人が10人程度集まると、待機していた数台の車両に荷物を積み、身分証をチェックして写真を撮り、それぞれ乗り込んでバスが待機するポクロフスク中心部へと運ばれる。この日は25人前後がヘルニャックから避難してきた。
心動かされてシャッターを切る
救出団体チルドレン・ニュージェネレーションのメンバーで、ポクロフスク市セリドべ出身のフェディール・シロバツキーは言う。
「戦争が続いているので、国内の安全な場所に人々を避難させる必要がある。われわれのホットラインへ依頼があれば、ドニプロ市の一時避難場所に移動させる。その後、希望する全員に宿泊施設を提供する。避難を望んでいる人がいる限り、私たちはこの活動を続けるつもりだ」
9月11日も前日同様、クラコバでヘルニャックから救出されてくる人々の取材をしていた。この日、私はボランティアの1人に「ヘルニャックへ同行させてほしい」と頼んだが、即答で断られた。もしメディアや外国人を同行させて事故があった場合、同行させたウクライナ人が責任を問われる。無理強いはできない。
だがその日最後のヘルニャックへの車が出発しようとした時、ボランティアが「早く車に乗れ」と声をかけてくれた。
「危険すぎてもう村の中には入れないので、今回は村の外れで住民を乗せた車両と待ち合わせをしている」とのこと。そこまでなら大丈夫ということらしい。
クラコバから北東に20分程度でヘルニャックの西の端の待ち合わせ地点に到着した。車を止めて1分もしないうちに猛スピードで1台の白いバンが近づいてくる。こちらの車両を少し追い越したところで急停車。車のドアが開くと、数人が駆け降りてきて荷物を降ろし始めた。
そして車内から数人が降りてきた。西日を背に粛々と車へと乗り込む。その光景に見とれ、気付いた時にはもう出発だった。
救出活動の最前線ヘルニャックでの滞在時間はわずか2分。その間に撮影した写真は数カットだけだったが、本当に心動かされてシャッターを切った。
9月12日、ボランティアのフェディールが支援物資を持っていくというので、防弾ガラスを貼り装甲された車両に同乗して、ロシア軍があと2~3キロまで迫っているセリドベに向かった。
8月末に訪れた際は、危険とはいえ人通りもあり、営業中の店もあった。
だが改めて訪れた町は主要な建物が破壊され、道路にバリケードが張り巡らされていた。この日は特に砲撃音が激しく、どちらのものか不明なドローンが上空を絶えず行き交い、通り過ぎてしばらくするとドローンを狙う機関銃の音が響いてきた。
ポクロフスクに迫る砲撃音
このようにとても危険な状況の中、物資を届けるのはなぜなのか。フェディールは言う。
「2日に1度、朝のうちにパンや水を届けている。町には2000人くらいの人が残っていて、みんな何らかの理由があり避難をしようとはしないんだ。だから自分が必ず食料や水などを届けている。皆が私のことを待っている」
ウクライナ軍の善戦でポクロフスクは持ちこたえ、9月末の時点でも避難活動は続けられていた。
救出のボランティア活動に参加している日本人で、ウクライナの子供たちを直接支援する活動を続ける一般社団法人ウスミシュカ(ウクライナ語で笑顔の意味)の中條秀人氏によれば、ポクロフスクの中心部まで砲撃音がかなり近づいていた。
ドニプロへ向かうバスが待機している場所からも大きな黒煙が見えるような状況だった。
「ここにきて避難を決断する人たちもいて、依然救出活動は続けられていますが、ウクラインスクやセリドベにはもう行けなくなりました」と、中條氏は言う。
「今はドニプロでの受け入れ先の確保や準備も大変になっており、簡易的にベッドを廊下に並べて寝てもらっています。ドニプロまで避難をしてきても、決して安全とは言えません。どうやら電波塔が狙われているらしくミサイル攻撃を受けています」
ポクロフスクの避難活動が始まった8月20日から取材し、拠点のクラマトルスク〜ポクロフスク〜ドニプロ間の約250キロを車で何度も往復した。その間に多くの避難民を見たし、避難をせずに残り続ける人たちにも会った。
その傍らで前線地域に行き、救出や避難を助ける多くのボランティアの姿を目撃もした。
どの立場であれ、彼らの選択と行動は尊重されるべきだ。どこにいても、その身の安全を案じてやまない。
<ウクライナ軍による越境攻撃という朗報の一方でロシア軍が攻勢強化、避難か残留かを迫られたウクライナ東部住民の決断の姿>
2024年のウクライナの夏は、アメリカ製F16戦闘機の供与や、北部でのロシア西部クルスク州への越境攻撃といったニュースに沸いていた。だが、東部戦線では依然として苦しい状況が続いていた。ロシア軍がウクライナ軍の越境攻撃に対応しつつ、東部で攻勢を強めていたからだ。
8月19日、ウクライナ政府はドネツク州ポクロフスク市周辺の地域から、子供とその家族の強制避難を指示した。
ポクロフスク市には、5万3000人(うち子供4000人)以上が残っていた。ポクロフスク市軍政当局のセルヒイ・ドブリアク長官は、「前進するロシア軍から逃れるために住民に残された時間はせいぜい2週間だ」と警告した。
翌20日からポクロフスク近郊で、大規模な避難活動が始まった。ここまでの規模の避難は、22年5月に南東部マリウポリで地下要塞が陥落して以来とも言われた。
ポクロフスク(次ページ地図参照)はドネツク州の交通の要衝であり、東部の輸送拠点だ。
東西南北に延びる幹線道路と、そこから分かれて各都市に向かう道路によってドネツク州の多くの街がつながっている。このポクロフスクをロシア軍に占領されると、ドネツク州は南北に分断される。そして、これが今後の東部戦線のターニングポイントになり得る。
筆者は8月19日にドネツク州に入り、20日からポクロフスクの避難民の救出活動を行うボランティア団体に同行取材を始めた。車のある人は自力で避難し、高齢者や病人・障害者の避難をボランティアが助けるという。ポクロフスクに入ると、人通りや交通量も多く、救出に来た車両や、軍用車でごった返していた。
その日は、ポクロフスクの南に位置する都市ウクラインスクの家族を迎えに行き、北部のクラマトルスクまで送り届けるという活動だった。ロシア軍がウクラインスクまであと約10キロの地点まで迫っていたが、ウクライナ軍が撃ち返す砲弾の音もかなり遠くに聞こえて安心感がある。
ポクロフスク中心部から現地に向かう前に、同行するボランティアたちが防弾ベストとヘルメットを着用しだした。大げさに思えたが、聞くと10キロという距離はロシア軍の全てのミサイル攻撃の射程内で、ドローンの飛行範囲内でもあるという。
その後の数日間で、いずれもロシア軍の前線から6〜10キロのミルノグラード、セリドベ、ヘルニャック、ゾリナなど周辺地域を回り、住民を安全な地域まで送り届けていく。少しずつだが、着実に避難は進んでいった。
市内各所に避難を呼びかける告知が設置され、避難のアナウンスを流し続けるパトカーが市内を循環する。
目立った混乱もなく比較的スムーズに進んでいるように思えたが、9月に入った時点でまだ半数近くの住民が残っているということだった。避難をする決断ができない人、避難を希望していない人など、多い地域では2000人近い人が残っているという。
ウクラインスクから逃げてきた高齢女性。地下の避難所にロシア兵が手榴弾を投げ込み、十数人が死んだという PHOTOGRAPHS BY KOSHIRO KOMINE
多くの住民は、北部クラマトルスクやスラビャンスク、西に隣接するドニプロペトロウシク州に避難をしていく。
親族を頼ったり、自ら部屋を借りたり、早めに避難施設に入れた人がいる一方で、多くの人が新しい場所で生活を立て直す資金がなく、移動先での不安も尽きず、避難の決断ができないでいる。
遭遇したロシア兵からの尋問
9月に入った。北部の越境作戦の影響で東部のロシア軍が移動しているという話が本当だったのか、ウクライナ軍の善戦のおかげか、最初に言われていた2週間のタイムリミットが過ぎても住民の避難は続いていたが、ポクロフスクを取り巻く状況はより厳しくなっていた。
9月3日、銀行などのサービスが停止。翌4日、ポクロフスクから西へ向かう鉄道の線路橋がロシアのミサイルによって破壊された。5日、中心部の変電所が攻撃を受け市内の広範囲が停電。6日、ポクロフスクから北西へ延びる幹線道路につながる橋が破壊された。
ガソリンスタンドやスーパーはほぼ閉店しており、一部の店舗だけが自家発電機を用意して営業している。午後3時から午前11時までは外出禁止で、通りに人の姿はほとんど見られなくなった、この2週間でポクロフスク市内でまともに生活できる地域はなくなった。
ボランティアのフェディール・シロバツキー PHOTOGRAPHS BY KOSHIRO KOMINE
その日から再び、ポクロフスク市近郊の避難活動が加速することになった。
ドネツク州は隣接するドニプロペトロウシク州やボランティア団体と協力して、避難民を各地域へとピストン輸送するための避難バスを急きょ運行し始めた。ポクロフスク市の各地域まで車で迎えに行き、中心部まで連れてくる、そして避難バスに乗せて各都市へと送り出す。
ウクラインスクなどポクロフスクより南部の地域では町の一部がロシア兵に占領され、偵察隊があちこちにいるという状況だという。
ポクロフスクでの救出・避難活動を行っているボランティア団体「チルドレン・ニュージェネレーション」に同行して市内各地を取材した。
この団体はポクロフスク市の西方約180キロにあるドニプロ市を拠点に、開戦直後の22年3月から活動し、住民の救出や避難、支援物資の配達など、特に低所得者層への支援を続けている。
ポクロフスク中心部でドニプロ行きのバスの周りに7~8人の避難者がいた。全員ウクラインスクから逃げてきた人たちだ。
救出に行ったボランティアが街中でロシア兵に遭遇し尋問を受けたが、「民間人のボランティアで住民を避難させている」と伝えると、何も言わずに立ち去ったという。
避難者たちもロシア兵に遭遇していた。実際、ロシア兵に多くの人が殺されたといい、生き残った人々は命からがら逃げてきた、と教えてくれた。
ヘルニャックから避難した高齢女性を支える PHOTOGRAPHS BY KOSHIRO KOMINE
避難をしてきた数人に声をかけたが、何も話すことはないと断られ、やっと一人の高齢女性が重い口を開いてくれた。
「ロシア兵の偵察隊が来て、私たちを地下の避難所に閉じ込めた。3歳と2歳の子供を含む21人がいた。入り口をマットレスで塞いで2日間閉じ込めた。民間人だと言って外に出してくれるよう頼んだが、彼らは機関銃を私たちに向け、ひざまずくように言った」
「その後ロシア兵が手榴弾を投げ込み、爆発してマットレスや薪が燃えた。私はどうやって外に出たのか分からない。そこにいた人のうち生き残ったのは6人だけ。皆、煙で窒息死した」
「私は家の玄関に座っていた。家は破壊されてしまい何もなかったから......。そのうちボランティアの人たちがやって来て、私の荷物を車に積んでここまで連れてきてくれた」
ウクラインスクは9月24日頃、ロシア軍に完全制圧された。
9月9日、さらに南部のヘルニャックへボランティアと共に向かった。ロシア軍が村の北部に侵入しているが救出活動が続いており、近くのクラコバという町を経由してポクロフスク市内へと避難させていた。
クラコバの町は前線から近い所で3キロ、遠い所で12キロ離れているが、ウクライナ軍が砲撃をしている場所で、その反撃を受け町中が破壊されていた。
取材時も、ウクライナ軍の砲撃音がひたすら続き、そのうちロシア軍の反撃があり、町のどこかに着弾をする、の繰り返しだった。へルニャックから救出された人々を待つ待機場所近くにも着弾し、大きな音と振動で建物に避難をする。
そんな状況で覚悟を決めているのか、あるいは慣れたのか、平然とした住民がいる。こちらもできる限り状況に慣れようと、平静を保つよう心がけた。
救出されてきた人が10人程度集まると、待機していた数台の車両に荷物を積み、身分証をチェックして写真を撮り、それぞれ乗り込んでバスが待機するポクロフスク中心部へと運ばれる。この日は25人前後がヘルニャックから避難してきた。
心動かされてシャッターを切る
救出団体チルドレン・ニュージェネレーションのメンバーで、ポクロフスク市セリドべ出身のフェディール・シロバツキーは言う。
「戦争が続いているので、国内の安全な場所に人々を避難させる必要がある。われわれのホットラインへ依頼があれば、ドニプロ市の一時避難場所に移動させる。その後、希望する全員に宿泊施設を提供する。避難を望んでいる人がいる限り、私たちはこの活動を続けるつもりだ」
9月11日も前日同様、クラコバでヘルニャックから救出されてくる人々の取材をしていた。この日、私はボランティアの1人に「ヘルニャックへ同行させてほしい」と頼んだが、即答で断られた。もしメディアや外国人を同行させて事故があった場合、同行させたウクライナ人が責任を問われる。無理強いはできない。
だがその日最後のヘルニャックへの車が出発しようとした時、ボランティアが「早く車に乗れ」と声をかけてくれた。
「危険すぎてもう村の中には入れないので、今回は村の外れで住民を乗せた車両と待ち合わせをしている」とのこと。そこまでなら大丈夫ということらしい。
クラコバから北東に20分程度でヘルニャックの西の端の待ち合わせ地点に到着した。車を止めて1分もしないうちに猛スピードで1台の白いバンが近づいてくる。こちらの車両を少し追い越したところで急停車。車のドアが開くと、数人が駆け降りてきて荷物を降ろし始めた。
そして車内から数人が降りてきた。西日を背に粛々と車へと乗り込む。その光景に見とれ、気付いた時にはもう出発だった。
救出活動の最前線ヘルニャックでの滞在時間はわずか2分。その間に撮影した写真は数カットだけだったが、本当に心動かされてシャッターを切った。
9月12日、ボランティアのフェディールが支援物資を持っていくというので、防弾ガラスを貼り装甲された車両に同乗して、ロシア軍があと2~3キロまで迫っているセリドベに向かった。
8月末に訪れた際は、危険とはいえ人通りもあり、営業中の店もあった。
だが改めて訪れた町は主要な建物が破壊され、道路にバリケードが張り巡らされていた。この日は特に砲撃音が激しく、どちらのものか不明なドローンが上空を絶えず行き交い、通り過ぎてしばらくするとドローンを狙う機関銃の音が響いてきた。
ポクロフスクに迫る砲撃音
このようにとても危険な状況の中、物資を届けるのはなぜなのか。フェディールは言う。
「2日に1度、朝のうちにパンや水を届けている。町には2000人くらいの人が残っていて、みんな何らかの理由があり避難をしようとはしないんだ。だから自分が必ず食料や水などを届けている。皆が私のことを待っている」
ウクライナ軍の善戦でポクロフスクは持ちこたえ、9月末の時点でも避難活動は続けられていた。
救出のボランティア活動に参加している日本人で、ウクライナの子供たちを直接支援する活動を続ける一般社団法人ウスミシュカ(ウクライナ語で笑顔の意味)の中條秀人氏によれば、ポクロフスクの中心部まで砲撃音がかなり近づいていた。
ドニプロへ向かうバスが待機している場所からも大きな黒煙が見えるような状況だった。
「ここにきて避難を決断する人たちもいて、依然救出活動は続けられていますが、ウクラインスクやセリドベにはもう行けなくなりました」と、中條氏は言う。
「今はドニプロでの受け入れ先の確保や準備も大変になっており、簡易的にベッドを廊下に並べて寝てもらっています。ドニプロまで避難をしてきても、決して安全とは言えません。どうやら電波塔が狙われているらしくミサイル攻撃を受けています」
ポクロフスクの避難活動が始まった8月20日から取材し、拠点のクラマトルスク〜ポクロフスク〜ドニプロ間の約250キロを車で何度も往復した。その間に多くの避難民を見たし、避難をせずに残り続ける人たちにも会った。
その傍らで前線地域に行き、救出や避難を助ける多くのボランティアの姿を目撃もした。
どの立場であれ、彼らの選択と行動は尊重されるべきだ。どこにいても、その身の安全を案じてやまない。