ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<2024年のノーベル物理学賞の受賞が決まったAIの生みの親、ジェフリー・ヒントン。2012年、彼と2人の学生による小さな会社が起こしたブレイクスルーが、今日のAI技術の基礎となった>
10月8日夜、カナダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン名誉教授とアメリカ・プリンストン大学のジョン・ホップフィールド教授のノーベル物理学賞受賞が発表された。受賞理由は「人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的発見と発明」である。
画像生成、音声認識、ChatGPT、自動運転車、ロボット工学...etc. 今や急速に生活に溶け込み、日常に欠かせないものになってきたAI技術の進化は、ヒントンのディープラーニング研究を礎としている。
書籍『ジーニアス・メーカーズ――Google、Facebook、そして世界にAIをもたらした信念と情熱の物語』(小金輝彦・訳、CCCメディアハウス)は、「AIの父」ジェフリー・ヒントンをはじめとした研究者や開発者、その研究に莫大な金を投資する事業家たちを描いたノンフィクションのAI近代史だ。
ニューヨークタイムズのテクノロジー担当記者ケイド・メッツが500人以上の関係者に取材して書き上げた本書には、ヒントンが持病の椎間板ヘルニアのため一切座ることのできない特異な体質であることや、グーグル・マイクロソフト・バイドゥの熾烈な人材争奪戦、ヒントン自身がAIの驚異的な進化に潜む負の側面に警鐘を鳴らしていることなど、AIの技術的な側面に隠れた人間ドラマが詳細に綴られている。
持病で7年間一度も座ったことがない男
その名は、ジェフリー・ヒントン。1970年代から活躍するAI技術者であり、たった3人の会社を率いる。そんな彼の会社を、バイドゥ、グーグル、マイクロソフト、そして世界でほとんど知られていない設立2年のスタートアップ企業が大金をかけて奪い合うオークションが2012年に行われていた。
「最後にまともに座ったのは、2005年だった」とヒントンは言う。椎間板ヘルニアを極度に悪化させて、座ることをやめた。
トロント大学の研究室では、立ったまま作業のできる机を使う。食事のときは、クッション材の入った小さなパッドを床に敷き、テーブルの前にひざまずいた。長距離を移動するには、列車を使う。
ヒントンとヒントンの研究室で学ぶ大学院生2人からなる「DNNリサーチ」は、その入札が始まる2カ月前に、コンピューターによる世界の見方を変えていた。ニューラルネットワークと呼ばれる、脳の神経回路網を数理モデルで表現したものを構築したのだ。
それによって、かつては不可能だと思われていた、花や犬や猫といったありふれた物体を正確に識別することが可能になった。
ニューラルネットワークは、膨大な量のデータを分析することによって、この非常に人間的な技術を習得することができた。ヒントンはこれを「ディープラーニング」と呼び、その潜在力は非常に高かった。
コンピューター・ビジョンだけでなく、音声デジタル・アシスタントから自動運転車や創薬まで、すべてを一変させるのは確実だとされる。
グーグルと中国のバイドゥが競り合った
ニューラルネットワークの概念が生まれたのは1950年に遡るが、初期の先駆者たちは期待していたような結果を一度も出すことができなかった。数学的なシステムが、なんらかの方法で人間の脳の働きを再現するという50年前の奇抜な思いつきを形にできるなど、誰も信じていなかったからだ。
そんな中で、ヒントンはニューラルネットワークがいつの日か期待した成果をあげると固く信じていた数少ない研究者のひとりだった。大学に研究の同士を雇ってほしいと要求しても、長年拒絶されてきたという。
「こんな研究を好んでするようないかれた人間は、ひとりで十分というわけだ」と、ヒントンは語っている。
誰にも期待されず、己の信念とともに研究に邁進していたヒントンと2人の学生がブレイクスルーをもたらしたのは、2012年の春と夏のこと。
ニューラルネットワークが、ほかのどんな技術をも凌駕する正確さで一般的な物体を認識できると証明することができたのだ。
その秋に発表したたった9ページの論文で、ヒントンが長いあいだ主張してきたように、この概念が強力なものであることを世界に知らしめることになった。
「DNNリサーチ」に対する破格の入札競争が始まると、先に紹介した4社が、1200万ドル、1500万ドル......とどんどん価格を釣り上げていった。
最終的に残ったのはバイドゥとグーグル。価格が4400万ドルに達すると、ヒントンはオークションの終了を告げた。
ヒントンは終了までに、価格をこれ以上つり上げずに、グーグルに会社を売却しようと決めていた。自分たちの研究によってふさわしい場であること、そしてヒントンの腰の状態からすると、中国へ行くのは到底無理であったことも決め手だったと、ヒントンはのちに語っている。
これをきっかけに、ヒントンたちは彼らのアイデアをテクノロジー業界の中心へと押し出すことができた。
音声認識アシスタント、自動運転車、ロボット工学、ヘルスケアの自動化、そして彼らの意図に反して戦争と監視の自動化も含めた人工知能が、急激に発達していったのは自明の通りだ。
AIがもたらす負の側面にも目を向ける
先の入札に参加していたスタートアップ企業は、「アルファ碁」の開発で知られるディープマインド社である。今ではグーグル傘下となり、この10年間で最も有名で影響力の大きいAI研究所へと成長した。
囲碁は人工知能にとって、最も難しいとされるゲームのひとつとして知られる。盤面がほかのゲームに比べて広く、コンピューターでも計算しきれないためだ。
その囲碁において、ディープマインド社が作りあげたAIが世界最高峰のプロ棋士に勝利したことが、2015年、世界中を震撼させた。ついにAIがディープラーニングによる自己学習で、人間を打ち負かしたのだ。
ジェフリー・ヒントンは、ディープマインドの創設者であるデミス・ハサビスを、第二次世界大戦中にマンハッタン計画で米英カナダの技術者や科学者を取りまとめ、最初の原子爆弾を作ったロバート・オッペンハイマーになぞらえている。
「オッペンハイマーがマンハッタン計画を主導したように、ハサビスはアルファ碁を主導した。もしほかの人間が主導していたら、アルファ碁があれほど早くあれほど見事に完成することはなかっただろう」と。
時期は前後するが、2014年にはイーロン・マスクが、ディープマインドのような研究所で人工知能が驚異的な速さで進歩していることに、懸念を表明している。
「ディープマインドのようなグループに直接かかわる機会でもないかぎり、それがどれだけ速いかはわからないだろう。指数関数的な速さで進歩しているのだ。5年以内には、何かひどく危険なことが起きる可能性がある。長くても10年以内には。私は自分の知らない何かについて、でたらめを言って脅かしているわけではない......」
AIがもたらす負の側面にも目を向けるべきだとするのは、もちろんマスクだけではない。この技術があれば、フェイクニュースをAIが勝手に生成し、広く拡散してしまうことだって十分に考えられる。
無邪気に科学の発展を喜ぶことができないのは、歴史が証明している。AIは果たして人類にとって最良のものなのか。それを考えるのは人間の、あなたの仕事である。
『ジーニアス・メーカーズ――Google、Facebook、そして世界にAIをもたらした信念と情熱の物語』
ケイド・メッツ [著]
小金輝彦 [訳]
CCCメディアハウス[刊]
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<2024年のノーベル物理学賞の受賞が決まったAIの生みの親、ジェフリー・ヒントン。2012年、彼と2人の学生による小さな会社が起こしたブレイクスルーが、今日のAI技術の基礎となった>
10月8日夜、カナダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン名誉教授とアメリカ・プリンストン大学のジョン・ホップフィールド教授のノーベル物理学賞受賞が発表された。受賞理由は「人工ニューラルネットワークによる機械学習を可能にする基礎的発見と発明」である。
画像生成、音声認識、ChatGPT、自動運転車、ロボット工学...etc. 今や急速に生活に溶け込み、日常に欠かせないものになってきたAI技術の進化は、ヒントンのディープラーニング研究を礎としている。
書籍『ジーニアス・メーカーズ――Google、Facebook、そして世界にAIをもたらした信念と情熱の物語』(小金輝彦・訳、CCCメディアハウス)は、「AIの父」ジェフリー・ヒントンをはじめとした研究者や開発者、その研究に莫大な金を投資する事業家たちを描いたノンフィクションのAI近代史だ。
ニューヨークタイムズのテクノロジー担当記者ケイド・メッツが500人以上の関係者に取材して書き上げた本書には、ヒントンが持病の椎間板ヘルニアのため一切座ることのできない特異な体質であることや、グーグル・マイクロソフト・バイドゥの熾烈な人材争奪戦、ヒントン自身がAIの驚異的な進化に潜む負の側面に警鐘を鳴らしていることなど、AIの技術的な側面に隠れた人間ドラマが詳細に綴られている。
持病で7年間一度も座ったことがない男
その名は、ジェフリー・ヒントン。1970年代から活躍するAI技術者であり、たった3人の会社を率いる。そんな彼の会社を、バイドゥ、グーグル、マイクロソフト、そして世界でほとんど知られていない設立2年のスタートアップ企業が大金をかけて奪い合うオークションが2012年に行われていた。
「最後にまともに座ったのは、2005年だった」とヒントンは言う。椎間板ヘルニアを極度に悪化させて、座ることをやめた。
トロント大学の研究室では、立ったまま作業のできる机を使う。食事のときは、クッション材の入った小さなパッドを床に敷き、テーブルの前にひざまずいた。長距離を移動するには、列車を使う。
ヒントンとヒントンの研究室で学ぶ大学院生2人からなる「DNNリサーチ」は、その入札が始まる2カ月前に、コンピューターによる世界の見方を変えていた。ニューラルネットワークと呼ばれる、脳の神経回路網を数理モデルで表現したものを構築したのだ。
それによって、かつては不可能だと思われていた、花や犬や猫といったありふれた物体を正確に識別することが可能になった。
ニューラルネットワークは、膨大な量のデータを分析することによって、この非常に人間的な技術を習得することができた。ヒントンはこれを「ディープラーニング」と呼び、その潜在力は非常に高かった。
コンピューター・ビジョンだけでなく、音声デジタル・アシスタントから自動運転車や創薬まで、すべてを一変させるのは確実だとされる。
グーグルと中国のバイドゥが競り合った
ニューラルネットワークの概念が生まれたのは1950年に遡るが、初期の先駆者たちは期待していたような結果を一度も出すことができなかった。数学的なシステムが、なんらかの方法で人間の脳の働きを再現するという50年前の奇抜な思いつきを形にできるなど、誰も信じていなかったからだ。
そんな中で、ヒントンはニューラルネットワークがいつの日か期待した成果をあげると固く信じていた数少ない研究者のひとりだった。大学に研究の同士を雇ってほしいと要求しても、長年拒絶されてきたという。
「こんな研究を好んでするようないかれた人間は、ひとりで十分というわけだ」と、ヒントンは語っている。
誰にも期待されず、己の信念とともに研究に邁進していたヒントンと2人の学生がブレイクスルーをもたらしたのは、2012年の春と夏のこと。
ニューラルネットワークが、ほかのどんな技術をも凌駕する正確さで一般的な物体を認識できると証明することができたのだ。
その秋に発表したたった9ページの論文で、ヒントンが長いあいだ主張してきたように、この概念が強力なものであることを世界に知らしめることになった。
「DNNリサーチ」に対する破格の入札競争が始まると、先に紹介した4社が、1200万ドル、1500万ドル......とどんどん価格を釣り上げていった。
最終的に残ったのはバイドゥとグーグル。価格が4400万ドルに達すると、ヒントンはオークションの終了を告げた。
ヒントンは終了までに、価格をこれ以上つり上げずに、グーグルに会社を売却しようと決めていた。自分たちの研究によってふさわしい場であること、そしてヒントンの腰の状態からすると、中国へ行くのは到底無理であったことも決め手だったと、ヒントンはのちに語っている。
これをきっかけに、ヒントンたちは彼らのアイデアをテクノロジー業界の中心へと押し出すことができた。
音声認識アシスタント、自動運転車、ロボット工学、ヘルスケアの自動化、そして彼らの意図に反して戦争と監視の自動化も含めた人工知能が、急激に発達していったのは自明の通りだ。
AIがもたらす負の側面にも目を向ける
先の入札に参加していたスタートアップ企業は、「アルファ碁」の開発で知られるディープマインド社である。今ではグーグル傘下となり、この10年間で最も有名で影響力の大きいAI研究所へと成長した。
囲碁は人工知能にとって、最も難しいとされるゲームのひとつとして知られる。盤面がほかのゲームに比べて広く、コンピューターでも計算しきれないためだ。
その囲碁において、ディープマインド社が作りあげたAIが世界最高峰のプロ棋士に勝利したことが、2015年、世界中を震撼させた。ついにAIがディープラーニングによる自己学習で、人間を打ち負かしたのだ。
ジェフリー・ヒントンは、ディープマインドの創設者であるデミス・ハサビスを、第二次世界大戦中にマンハッタン計画で米英カナダの技術者や科学者を取りまとめ、最初の原子爆弾を作ったロバート・オッペンハイマーになぞらえている。
「オッペンハイマーがマンハッタン計画を主導したように、ハサビスはアルファ碁を主導した。もしほかの人間が主導していたら、アルファ碁があれほど早くあれほど見事に完成することはなかっただろう」と。
時期は前後するが、2014年にはイーロン・マスクが、ディープマインドのような研究所で人工知能が驚異的な速さで進歩していることに、懸念を表明している。
「ディープマインドのようなグループに直接かかわる機会でもないかぎり、それがどれだけ速いかはわからないだろう。指数関数的な速さで進歩しているのだ。5年以内には、何かひどく危険なことが起きる可能性がある。長くても10年以内には。私は自分の知らない何かについて、でたらめを言って脅かしているわけではない......」
AIがもたらす負の側面にも目を向けるべきだとするのは、もちろんマスクだけではない。この技術があれば、フェイクニュースをAIが勝手に生成し、広く拡散してしまうことだって十分に考えられる。
無邪気に科学の発展を喜ぶことができないのは、歴史が証明している。AIは果たして人類にとって最良のものなのか。それを考えるのは人間の、あなたの仕事である。
『ジーニアス・メーカーズ――Google、Facebook、そして世界にAIをもたらした信念と情熱の物語』
ケイド・メッツ [著]
小金輝彦 [訳]
CCCメディアハウス[刊]
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