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日本に「パワハラ」や「クレイマー」がはびこる理由

ニューズウィーク日本版 2024年10月15日 21時10分

小宮信夫
<「パワハラ」や「クレイマー」は「甘え」に起因している? ストレスやフラストレーションを他者にぶつける行為がいつまでもまかり通るのはなぜか>

「パワハラ」や「クレイマー」は、なぜはびこるのか。どうすれば減らせるのか。現代日本の底流を探ってみたい。

学校教育では、社会には「法の支配」があり、その基礎は「権利と義務」だと教える。しかし、実際には、日常生活は「甘え(権利ではない)」と「義理(義務ではない)」に影響されている。

この法文化の二重構造の源流は、明治政府の近代化政策にまで遡る。

皮相的な近代化

明治政府は、欧米列強から日本を守るため、西洋に追い付くことを最優先事項とした。とりわけ、治外法権を撤廃し、西洋と対等の立場で経済成長を図るためには、西洋の法制度の早急な移植が不可欠であると思われた。

そこで、急遽日本の近代法が西洋の法を模して制定されたが、伝統的な道徳や慣習については手付かずのままで残った。それは、さながら、高速輸送を早期に実現する方法として、歩道橋の設置や駐車禁止区域の設定で交通渋滞を緩和するのではなく、在来の道路の上に高速道路を建設するようなものであった。

要するに、明治政府は日本の近代化を早急に実現するため、手間のかかる日常生活における行為規範の近代化には手を付けず、西洋の法制度の皮相的な採用という安易な道を選んだのだ。加えて、明治政府が、政治的正統性を脅かしかねない自由主義、平等主義、民主主義といった西洋法の精神の受容を拒否したことも、伝統的な行為規範を残存させる結果につながった。

このように、日本の近代的な法制度が、日本人の自発的エネルギーに基づく権利のための闘争の成果ではなく、西洋法の戦術的な模倣の産物であったため、法律と日常生活との間に乖離が生じた。つまり、一方では、法律が、政府から一方的に与えられた統治の道具として冷ややかに受け止められ、他方では、日常生活が、義理などの伝統的な規範によって従来通りに規律され続けたのだ。

その結果、日本の文化は二重性を呈するようになった。つまり、知っている人間(自己の所属集団)に対する規範と、知らない人間(社会一般)に対する規範という、二つの異なった行為規範から成る法文化が生成されたのだ。そして、現在に至るまで、二つの行為規範は、「うち」と「よそ」という言葉で表象される生活空間の区別に応じて使い分けられてきた。

要するに、「うち」世界では、相変わらず「甘えと義理」(タテ型・交換型ルール)がまかり通り、「よそ」世界でのみ、「権利と義務」(ヨコ型・調整型ルール)を扱っているのである。

ところが、権利と義務の関係だけでなく(それが均衡しているのは原理上当然)、「うち」世界(日常生活)でも、甘えと義理が均衡していたので、社会秩序はずっと保たれてきた。言い換えれば、これまで社会秩序が保たれてきたのは、「甘え」が暴発しなかったからである。

なぜ暴発しなかったかと言えば、「うち」世界では「同調圧力」が強いからだ。その正体は、聖徳太子の「以和為貴(わをもってとうとしとなす)」から、日本企業のQCサークル(小集団改善)活動まで、日本人に脈々と受け継がれてきた「みんな一緒」という意識である。ただし、同調圧力には革新を阻害するなど、マイナス面も多くある。しかし、秩序の維持に貢献してきたことは間違いないだろう。

「甘え」の掃きだめ

ところが、バーチャルな世界(インターネットやSNS)が拡大するにつれ、同調圧力が弱まってきた。バーチャルな世界は「匿名性の世界」であり、他人から名指しで非難されるリスクを回避できるからだ。その結果、ネットやSNSのコメントが、「甘え」の掃きだめになった。要するに「いいたい放題」だ。

バーチャルな世界を「実名制」にすれば同調圧力が効くだろうが、「匿名制」を撤廃するのは現実的ではない。

もっとも、「甘え」の暴発がバーチャルな世界に限定されていれば、問題はまだ小さい。しかし、バーチャルな世界とリアルな世界の境界が曖昧になった現在では、「甘え」がリアルな世界に侵攻してくる。それは、リアルの世界での「甘え」と「義理」のバランスの崩壊なので、「甘え」だけが突出する結果になる。

一方、「義理」については、「古臭い」「人権侵害」「老害」「忖度」などと、蔑視する傾向が強いので、「甘え」と「義理」のバランスは崩れる一方だ。

近時、問題にされる「パワハラ」や「クレイマー」も「甘え」に起因している。「ストレスやフラストレーションを解消するためなら、他人を攻撃してもいい」という発想は、「甘え」以外の何物でもない。

「バランス」は「正しさ」の処方箋

もっとも、実際には、この種の「甘え」は「正義」という形で発現することが多い。「社会の正義」「地域の正義」「会社の正義」などだ。しかし、それらの「正義」は、「甘え」をカムフラージュしているにすぎない。

言うまでもないが、「正義」は西洋人が大好きな言葉である。英語に由来する日本語の刑事司法(criminal justice)も、もともとは「刑事上の正義」の意味だ。そこで、イギリスの専門家に「正義とは何か?」と聞いてみた。答えは一言、「公平」だった。正義の中身は「バランス」ということだ。

どこでも「バランス」がキーワードになるらしい。「権利と義務」「甘えと義理」「ギブ・アンド・テイク」そして「正義」。とすれば、「バランス」は社会の正義だけでなく、個人の正義にとっても重要なはずだ。

偏った正義を振りかざす「甘え」を発現しないためには、ストレスやフラストレーションを「正しく」解消する必要がある。その「正しさ」の処方箋が「バランス」なのである。

この点で参考になるのが、アメリカの神学者ラインホルド・ニーバーの次の言葉である。

──神よ、変えられないものを受け入れる平静心と、変えられるものを変えていく勇気、そして、この二つを見分ける賢さを与えてください。

この言葉を筆者なりに言い換えると、「やすらぎ」と「ときめき」になる。困難をしなやかに受け止めるためには、変えられないことをそのまま受け入れる平静心、つまり「やすらぎ」が必要だ。さらに、困難をしたたかに乗り越えるためには、変えられることを見極め、それに立ち向かう挑戦心、つまり「ときめき」が必要だ。「やすらぎ」と「ときめき」の2つがあって、初めてストレスやフラストレーションを「正しく」解消できるのだ。

「やすらぎ」と「ときめき」の関係は、車の正しい運転に例えることができる。「やすらぎ」は、アクセルを踏まないことだが、ずっと踏まないでいると、後続車に追突されてしまう。逆に、「ときめき」はアクセルを踏むことだが、踏み続けていると、先行車に追突してしまう。

正しい運転の仕方が、適切な車間距離を保つことであるように、正しい心の持ち方も、「やすらぎ」と「ときめき」のバランスを保つことだ。それが個人の正義であり、やがては社会の正義につながっていくものなのである。

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