ジョシュア・レット・ミラー(本誌記者)
<民主党はなぜ敗れたのかー。経済指標は良好で、株式相場も絶好調とバイデン政権は自画自賛していたが、猛烈な物価上昇に苦しむ多くの庶民に実感はなかった>
ミネソタ州グランドラピッズで生活する5人家族の母親、クリスティン・マディ(44)は、少しでも出費を切り詰めるために安売り店で買い物をし、旅行に行くのも控えている。食品価格の上昇を乗り切るために、ニワトリやガチョウやカモも飼い始めた。
マディは看護師として「立派な給料」を受け取っていて、夫のライアンも重機操縦の職に就いているが、一家の暮らしはギリギリだという。ところが、相次ぐ利上げによりインフレが沈静化し、景気が冷え込むことなしにアメリカ経済がソフトランディング(軟着陸)に成功するという見通しを示す人たちもいる。
ジョー・バイデン米大統領もその1人だ。8月半ばには、新型コロナのパンデミックとロシアのウクライナ侵攻をきっかけに急速に進行したインフレを克服できたと思うかと尋ねられて、こう述べている──「ソフトランディングできそうだ。私の政策は効果を発揮しつつある。そう書いておいてくれよ」。
マディはこの主張に真っ向から異を唱える。「現実が全く見えていない。私たち夫婦の給料は合計で年間17万5000ドルくらい。出費はどうにか賄えるけれど、手元にお金は全く残らない」
インフレの影響はあまりに大きいと、マディは言い切る。「今まで買っていたものが2倍、3倍に値上がりしていて、危機感を覚える」
ペットショップを経営するジョン・オルセンは、バイデン政権の「明るい景気見通し」を全く実感できないという COURTESY OF JOHN OLSEN
コロナ禍以前は、中流であるマディ一家の経済状況は安定していて、よくデパートに買い物に行き、いちいち値札を確認せずに買い物をしていた。今は「買い物の仕方がすっかり変わってしまった」と、マディは言う。
「娘の誕生日のための買い物も1ドルショップで済ませている。昔は、こんなときは(大手スーパーの)ターゲットやパーティー用品のお店で買っていたけれど、それはもう無理になった」
食品も近所の食品スーパーでは買わなくなったという。安売り店でまとめ買いをするようになった。大手スーパーと比べると、価格が3割くらい違う場合もあるからだ。
「ストレスはとても大きい」と、マディは語る。「以前と同じようには買い物ができなくなったし、最近は旅行にも行けなくなった。生活のいろいろな局面で倹約と貯蓄を考えなくてはならない。クリスマスの過ごし方も様変わりしてしまった」
26歳の息子ジャックの暮らしも、ゆとりがあるとはとうてい言えない。海軍を除隊し、今は警察官として働くジャックは、出費を賄い、住宅ローンを返済するために、週に80時間働くこともあるという。
「いつも決まって中流層が一番損をする」と、マディは語る。
「政府による支援プログラムの受給対象には当てはまらず、そうかといって生活苦を感じずに済むほどの収入もない。日々の食料品を買えないという心配はないけれど、かなりあくせく働かなくてはならない」
DEB COHN-ORBACHーUCGーUNIVERSAL IMAGES GROUP/GETTY IMAGES
日々の生活の苦しさを訴える人たちがいる一方で、アメリカの株式相場は目下、絶好調と言っていいだろう。今年5月には、ニューヨーク株式市場でダウ平均株価が史上初めて4万ドルを突破した。
こうした株価の上昇を受けて、大企業のトップたちは、庶民には想像もつかないような巨額の報酬を受け取ることが可能になっている。
アメリカ労働総同盟・産業別組合会議(AFL-CIO)が8月に発表した調査によると、アメリカの代表的な株価指数「S&P500」を構成する企業のCEOが昨年1年間に受け取った報酬は、平均的な働き手が5回以上の勤労人生を送らなければ稼げない金額に達しているという。
例えば、スターバックスのCEOを退任したばかりのラクスマン・ナラシムハンは、1400万ドルを超す報酬を受け取っていた。これは、2023会計年度に平均的な働き手が受け取る給料の1028倍に上る。
しかし、後任のブライアン・ニコルはさらに上を行く。9月9日にスターバックスのCEOに就任したニコルは、1年目だけで1億ドル以上を受け取る可能性がある。成果に連動して報酬が決まる面が大きいためだ。
政府の楽観論に抱く違和感
インフレ脱却をめぐるバイデンの楽観的な発言に、こうした途方もない格差の存在が合わさって、多くの中流層は政府との間に大きな断絶を感じていると、マディは指摘する。
看護師のクリスティン・マディも、バイデン政権の「明るい景気見通し」は全く実感できなかった COURTESY OF CHRISTINE MADDY
「現政権から無視されているという思いを抱いている」と、マディは言う。
「経済は堅調だという政府の言葉を聞くと、突き放されたように感じる。そうした主張は、私たちが日々の生活の中で体感していることと全く違う」
楽観できる材料がないわけではない。7月には、インフレ率が2.9%まで下落した。これは21年3月以来最も低い値だ。7月には、小売業の売上高も市場の予想を大きく上回り、前月比で1%増加した。
しかし、食品や住宅、その他の必需品やサービスの価格が上昇し続けている状況が人々の心理に及ぼしている影響は極めて大きいと、エコノミストたちは指摘する。
投資会社ワーニック・スピアー・ウェルス・マネジャーズのファイナンシャルアドバイザー、ジョーダン・ロドリゲスによれば、同社の顧客である投資家たちの間では、インフレが最大の関心事であり続けている。中小企業のオーナーの場合、その傾向がとりわけ顕著だという。
「(中小企業のオーナーたちにとって)最大の不安材料は景気減退ではない。製造業やそれに類する業種では、受注はたいてい減っていない」と、ロドリゲスは言う。
「最大の不安材料は優れた人材の確保でもない。ほとんどの経営者は、インフレが最大の不安材料だと言っている」
物価上昇の影響に苦しむ10人家族のタイラー・アズアは生活費を複数のクレジットカードで支払いながら毎日を乗り切っている COURTESY OF TYLER AZURE
フロリダ州ケープコーラルに住むジョン・オルセン(53)も、そのような不安を痛感している。犬の誕生パーティー用品などを取りそろえたオンラインショップ「ポーティーエクスプレス・ドットコム」を経営するオルセンは、燃料費や食品価格の上昇などにより膨れ上がる事業経費に苦しめられている。
いまオルセンはクレジットカードの債務を抱えていて、会社が廃業に追い込まれるのではないかと恐れている。バイデンが言う「ソフトランディング」どころの話ではない。
「政府は私たちをだまそうとしているのではないか」と、オルセンは言う。「普通の人たちの感覚に比べて、信憑性の乏しいデータを基に発言しているように思う」
オルセンによれば、ビジネスオーナーとして最も手ごわく感じる問題はインフレだという。22年には、1981年以来最悪の9.1%までインフレ率が上昇したこともあった。
例えば、オーガニックチキンの仕入れ値は、ここ数年で2倍に跳ね上がった。これでは、ウォルマートや、ペット用品オンライン販売大手のチューイーといった大型チェーン店とは競争できない。
卵やガソリン、自動車保険といった基本的な生活用品やサービスの価格も、コロナ禍前と比べると大幅に上昇している。
独身のアディソン・ムーアも、生活費を複数のクレジットカードで支払いながら毎日を乗り切っているは同じ COURTESY OF ADDISON MOORE
クレカ債務という甘い誘惑
ピュー・リサーチセンターの調査によると、6月の時点で、シリアルや牛乳など朝食の定番品の価格は、20年1月と比べて約40%も高かった。食品全般で見ても、19〜23年の4年間で25%上昇と、住宅価格や娯楽費、医療費などの上昇を上回っている。
米農務省によると、同時期に輸送コストも27.1%上昇した。ただ、ガソリンの小売価格は乱高下が激しい。6月の小売価格は20年1月と比べると35.9%高かったが、7月下旬には1ガロン当たり3.598ドルと、22年半ばのピーク時と比べれば半額近くまで下がっている。8月半ば過ぎには3.382ドルと、1年前よりもわずかに安くなっている。
これに対して6月の自動車保険料は、20年1月と比べて47.3%も上昇した。その背景には、修理費の上昇(47.5%)がある。
「今は自宅のソファに寝転がっているしかない。ここ6〜7回企画したイベントは、利益がほとんど出なかったから」と、オルセンはため息をつく。「2年半前は年40〜50%のペースで売り上げが伸びていたのに、今はゼロに近い」
首都ワシントンに住むアディソン・ムーア(24)は、2つのアルバイトを掛け持ちしながら、職業訓練学校に通っている。月収600ドルでは贅沢をする余裕はほとんどなく、目先の数カ月を乗り切れるか考えるだけで精いっぱいだ。
「正直言って、生活はかなり苦しい」とムーアは言う。「クレジットカードのおかげで生き延びているようなものだ。カードなら毎月の返済額を抑えることができるから」
現在は友人の実家に居候しているが、フードスタンプ(低所得者向け食料クーポン)の受給資格は失ってしまったため、1週間の食費を100ドル以下に抑えるのに必死だ。定期的な貯蓄はほとんどできない。
アメリカンドリームなんて夢のまた夢だ。「夢見る以前に乗り越えなければならないハードルが多すぎる」と、ムーアは浮かない顔で言う。
インフレが収束し、雇用指標も良好だから、米経済は景気後退を回避できるという見方に、ムーアは同意できない。経済指標は、多くのアメリカ人の置かれた状況を反映していないというのだ。
「数字は良好でも、私たちはとうてい明るい気分にはなれない」とムーアは言う。「指標が物語ることは、経済の末端で起きていることとは全く違う気がする」
ムーアと同じように、多くのアメリカ人はクレジットカードで生活費の支払いをしている。ニューヨーク連邦準備銀行によると、今年4〜6月期のアメリカの家計のクレジットカード債務残高は過去最高の1兆1400億ドルに達した。前年と比べて5.8%もの増加だ。
クレジットカードは、「あとで返済できる収入だと思っている」と、ムーアは語る。「いつも限度額ぎりぎりまで使い切っているのは、とにかく生活費が高いから。贅沢をしているわけじゃない」
年収15万ドル以上でも不安
モンタナ州ハバーに住むタイラー・アズア(31)も、夫を含む10人家族の毎月の生活費はクレジットカードで支払っている。週600ドルほどになる食料品もカード払いだ。
「とんでもない状況だ」と、アズアは言う。「(カードの返済で)私と夫の給料はほとんど手元に残らない。でも、どこを切り詰めればいいか分からない。毎晩ラーメンで済ますわけにもいかないし」
アズアは事務部門の管理職だが、1月にも9人目の子を出産予定で、好況への期待感より、将来への不安のほうが大きい。「クレジットカードは3枚持っているけれど、全部限度額まで使い切っている」と彼女は言う。「そして毎月の返済額は最小限に抑えている」
一家は1月に6LDKの家に引っ越したばかりだが、将来のことは全くわからないと、アズアは言う。「子供を産み、充実した人生を送り、子供たちが親よりも良い人生を送れるようにする経済的な余裕、そういうものが今は全然ない」と、アズアは語る。
「そうなればいいなと思うけれど、現実味は乏しい」
生活に不安を抱いているのは、低所得層や中間層だけではない。6月に発表されたフィラデルフィア連邦準備銀行の調査では、年収15万ドル以上のアメリカ人の約32.5%が、向こう6カ月の家計が赤字に陥らないか心配だと答えている。1年前は21.7%だったから大幅な上昇だ。
ただ、この調査で「将来が不安だ」と答えた人の割合が最も大きかったのは、年収4万ドル以下の層で、40%に上った。全調査対象者の平均は34.9%だった。
「最近の経済指標は景気後退の可能性が低いことを示しているが、高金利、多額の債務、物価上昇の影響は家計に大きくのしかかっている」と、米調査会社ウォレットハブのアナリストであるチップ・ルポは語る。
「年初は家計のクレジットカード債務が5000億ドルほど減ったが、だんだんと雲行きが怪しくなってきた。今後はもっとひどくなるだろう。例年、クレジットカード債務が最も増えるのは秋以降だから」
FRBは9月、4年半ぶりに利下げに踏み切ったが、やりすぎればインフレの再燃につながる恐れがあると、ルポは警告する。
「多額の債務と物価上昇の根強い不安には、慎重な金融政策で対処する必要がある。確かにほとんどの人は今のところ仕事に就いているが、相当なやりくりをしなければ、その仕事では生活していけない」
それに経済指標は良好でも、多くの家庭にとって、猛烈な物価上昇の痛手は簡単には消えないと、職場文化の専門家であるジェシカ・クリーゲルは語る。「マクロ経済指標は、普通の人たちが肌身で感じる日常を反映していない」
そんななか、今後の波乱に備えるためにも、人々は自分の内面に目を向けるべきだと、クリーゲルは言う。
「こうなったのは誰のせいだと考えるのではなく、これから自分に起こる可能性があることをコントロールするために、いま自分にできることに意識を集中して、賢い選択をしていく必要がある」
<民主党はなぜ敗れたのかー。経済指標は良好で、株式相場も絶好調とバイデン政権は自画自賛していたが、猛烈な物価上昇に苦しむ多くの庶民に実感はなかった>
ミネソタ州グランドラピッズで生活する5人家族の母親、クリスティン・マディ(44)は、少しでも出費を切り詰めるために安売り店で買い物をし、旅行に行くのも控えている。食品価格の上昇を乗り切るために、ニワトリやガチョウやカモも飼い始めた。
マディは看護師として「立派な給料」を受け取っていて、夫のライアンも重機操縦の職に就いているが、一家の暮らしはギリギリだという。ところが、相次ぐ利上げによりインフレが沈静化し、景気が冷え込むことなしにアメリカ経済がソフトランディング(軟着陸)に成功するという見通しを示す人たちもいる。
ジョー・バイデン米大統領もその1人だ。8月半ばには、新型コロナのパンデミックとロシアのウクライナ侵攻をきっかけに急速に進行したインフレを克服できたと思うかと尋ねられて、こう述べている──「ソフトランディングできそうだ。私の政策は効果を発揮しつつある。そう書いておいてくれよ」。
マディはこの主張に真っ向から異を唱える。「現実が全く見えていない。私たち夫婦の給料は合計で年間17万5000ドルくらい。出費はどうにか賄えるけれど、手元にお金は全く残らない」
インフレの影響はあまりに大きいと、マディは言い切る。「今まで買っていたものが2倍、3倍に値上がりしていて、危機感を覚える」
ペットショップを経営するジョン・オルセンは、バイデン政権の「明るい景気見通し」を全く実感できないという COURTESY OF JOHN OLSEN
コロナ禍以前は、中流であるマディ一家の経済状況は安定していて、よくデパートに買い物に行き、いちいち値札を確認せずに買い物をしていた。今は「買い物の仕方がすっかり変わってしまった」と、マディは言う。
「娘の誕生日のための買い物も1ドルショップで済ませている。昔は、こんなときは(大手スーパーの)ターゲットやパーティー用品のお店で買っていたけれど、それはもう無理になった」
食品も近所の食品スーパーでは買わなくなったという。安売り店でまとめ買いをするようになった。大手スーパーと比べると、価格が3割くらい違う場合もあるからだ。
「ストレスはとても大きい」と、マディは語る。「以前と同じようには買い物ができなくなったし、最近は旅行にも行けなくなった。生活のいろいろな局面で倹約と貯蓄を考えなくてはならない。クリスマスの過ごし方も様変わりしてしまった」
26歳の息子ジャックの暮らしも、ゆとりがあるとはとうてい言えない。海軍を除隊し、今は警察官として働くジャックは、出費を賄い、住宅ローンを返済するために、週に80時間働くこともあるという。
「いつも決まって中流層が一番損をする」と、マディは語る。
「政府による支援プログラムの受給対象には当てはまらず、そうかといって生活苦を感じずに済むほどの収入もない。日々の食料品を買えないという心配はないけれど、かなりあくせく働かなくてはならない」
DEB COHN-ORBACHーUCGーUNIVERSAL IMAGES GROUP/GETTY IMAGES
日々の生活の苦しさを訴える人たちがいる一方で、アメリカの株式相場は目下、絶好調と言っていいだろう。今年5月には、ニューヨーク株式市場でダウ平均株価が史上初めて4万ドルを突破した。
こうした株価の上昇を受けて、大企業のトップたちは、庶民には想像もつかないような巨額の報酬を受け取ることが可能になっている。
アメリカ労働総同盟・産業別組合会議(AFL-CIO)が8月に発表した調査によると、アメリカの代表的な株価指数「S&P500」を構成する企業のCEOが昨年1年間に受け取った報酬は、平均的な働き手が5回以上の勤労人生を送らなければ稼げない金額に達しているという。
例えば、スターバックスのCEOを退任したばかりのラクスマン・ナラシムハンは、1400万ドルを超す報酬を受け取っていた。これは、2023会計年度に平均的な働き手が受け取る給料の1028倍に上る。
しかし、後任のブライアン・ニコルはさらに上を行く。9月9日にスターバックスのCEOに就任したニコルは、1年目だけで1億ドル以上を受け取る可能性がある。成果に連動して報酬が決まる面が大きいためだ。
政府の楽観論に抱く違和感
インフレ脱却をめぐるバイデンの楽観的な発言に、こうした途方もない格差の存在が合わさって、多くの中流層は政府との間に大きな断絶を感じていると、マディは指摘する。
看護師のクリスティン・マディも、バイデン政権の「明るい景気見通し」は全く実感できなかった COURTESY OF CHRISTINE MADDY
「現政権から無視されているという思いを抱いている」と、マディは言う。
「経済は堅調だという政府の言葉を聞くと、突き放されたように感じる。そうした主張は、私たちが日々の生活の中で体感していることと全く違う」
楽観できる材料がないわけではない。7月には、インフレ率が2.9%まで下落した。これは21年3月以来最も低い値だ。7月には、小売業の売上高も市場の予想を大きく上回り、前月比で1%増加した。
しかし、食品や住宅、その他の必需品やサービスの価格が上昇し続けている状況が人々の心理に及ぼしている影響は極めて大きいと、エコノミストたちは指摘する。
投資会社ワーニック・スピアー・ウェルス・マネジャーズのファイナンシャルアドバイザー、ジョーダン・ロドリゲスによれば、同社の顧客である投資家たちの間では、インフレが最大の関心事であり続けている。中小企業のオーナーの場合、その傾向がとりわけ顕著だという。
「(中小企業のオーナーたちにとって)最大の不安材料は景気減退ではない。製造業やそれに類する業種では、受注はたいてい減っていない」と、ロドリゲスは言う。
「最大の不安材料は優れた人材の確保でもない。ほとんどの経営者は、インフレが最大の不安材料だと言っている」
物価上昇の影響に苦しむ10人家族のタイラー・アズアは生活費を複数のクレジットカードで支払いながら毎日を乗り切っている COURTESY OF TYLER AZURE
フロリダ州ケープコーラルに住むジョン・オルセン(53)も、そのような不安を痛感している。犬の誕生パーティー用品などを取りそろえたオンラインショップ「ポーティーエクスプレス・ドットコム」を経営するオルセンは、燃料費や食品価格の上昇などにより膨れ上がる事業経費に苦しめられている。
いまオルセンはクレジットカードの債務を抱えていて、会社が廃業に追い込まれるのではないかと恐れている。バイデンが言う「ソフトランディング」どころの話ではない。
「政府は私たちをだまそうとしているのではないか」と、オルセンは言う。「普通の人たちの感覚に比べて、信憑性の乏しいデータを基に発言しているように思う」
オルセンによれば、ビジネスオーナーとして最も手ごわく感じる問題はインフレだという。22年には、1981年以来最悪の9.1%までインフレ率が上昇したこともあった。
例えば、オーガニックチキンの仕入れ値は、ここ数年で2倍に跳ね上がった。これでは、ウォルマートや、ペット用品オンライン販売大手のチューイーといった大型チェーン店とは競争できない。
卵やガソリン、自動車保険といった基本的な生活用品やサービスの価格も、コロナ禍前と比べると大幅に上昇している。
独身のアディソン・ムーアも、生活費を複数のクレジットカードで支払いながら毎日を乗り切っているは同じ COURTESY OF ADDISON MOORE
クレカ債務という甘い誘惑
ピュー・リサーチセンターの調査によると、6月の時点で、シリアルや牛乳など朝食の定番品の価格は、20年1月と比べて約40%も高かった。食品全般で見ても、19〜23年の4年間で25%上昇と、住宅価格や娯楽費、医療費などの上昇を上回っている。
米農務省によると、同時期に輸送コストも27.1%上昇した。ただ、ガソリンの小売価格は乱高下が激しい。6月の小売価格は20年1月と比べると35.9%高かったが、7月下旬には1ガロン当たり3.598ドルと、22年半ばのピーク時と比べれば半額近くまで下がっている。8月半ば過ぎには3.382ドルと、1年前よりもわずかに安くなっている。
これに対して6月の自動車保険料は、20年1月と比べて47.3%も上昇した。その背景には、修理費の上昇(47.5%)がある。
「今は自宅のソファに寝転がっているしかない。ここ6〜7回企画したイベントは、利益がほとんど出なかったから」と、オルセンはため息をつく。「2年半前は年40〜50%のペースで売り上げが伸びていたのに、今はゼロに近い」
首都ワシントンに住むアディソン・ムーア(24)は、2つのアルバイトを掛け持ちしながら、職業訓練学校に通っている。月収600ドルでは贅沢をする余裕はほとんどなく、目先の数カ月を乗り切れるか考えるだけで精いっぱいだ。
「正直言って、生活はかなり苦しい」とムーアは言う。「クレジットカードのおかげで生き延びているようなものだ。カードなら毎月の返済額を抑えることができるから」
現在は友人の実家に居候しているが、フードスタンプ(低所得者向け食料クーポン)の受給資格は失ってしまったため、1週間の食費を100ドル以下に抑えるのに必死だ。定期的な貯蓄はほとんどできない。
アメリカンドリームなんて夢のまた夢だ。「夢見る以前に乗り越えなければならないハードルが多すぎる」と、ムーアは浮かない顔で言う。
インフレが収束し、雇用指標も良好だから、米経済は景気後退を回避できるという見方に、ムーアは同意できない。経済指標は、多くのアメリカ人の置かれた状況を反映していないというのだ。
「数字は良好でも、私たちはとうてい明るい気分にはなれない」とムーアは言う。「指標が物語ることは、経済の末端で起きていることとは全く違う気がする」
ムーアと同じように、多くのアメリカ人はクレジットカードで生活費の支払いをしている。ニューヨーク連邦準備銀行によると、今年4〜6月期のアメリカの家計のクレジットカード債務残高は過去最高の1兆1400億ドルに達した。前年と比べて5.8%もの増加だ。
クレジットカードは、「あとで返済できる収入だと思っている」と、ムーアは語る。「いつも限度額ぎりぎりまで使い切っているのは、とにかく生活費が高いから。贅沢をしているわけじゃない」
年収15万ドル以上でも不安
モンタナ州ハバーに住むタイラー・アズア(31)も、夫を含む10人家族の毎月の生活費はクレジットカードで支払っている。週600ドルほどになる食料品もカード払いだ。
「とんでもない状況だ」と、アズアは言う。「(カードの返済で)私と夫の給料はほとんど手元に残らない。でも、どこを切り詰めればいいか分からない。毎晩ラーメンで済ますわけにもいかないし」
アズアは事務部門の管理職だが、1月にも9人目の子を出産予定で、好況への期待感より、将来への不安のほうが大きい。「クレジットカードは3枚持っているけれど、全部限度額まで使い切っている」と彼女は言う。「そして毎月の返済額は最小限に抑えている」
一家は1月に6LDKの家に引っ越したばかりだが、将来のことは全くわからないと、アズアは言う。「子供を産み、充実した人生を送り、子供たちが親よりも良い人生を送れるようにする経済的な余裕、そういうものが今は全然ない」と、アズアは語る。
「そうなればいいなと思うけれど、現実味は乏しい」
生活に不安を抱いているのは、低所得層や中間層だけではない。6月に発表されたフィラデルフィア連邦準備銀行の調査では、年収15万ドル以上のアメリカ人の約32.5%が、向こう6カ月の家計が赤字に陥らないか心配だと答えている。1年前は21.7%だったから大幅な上昇だ。
ただ、この調査で「将来が不安だ」と答えた人の割合が最も大きかったのは、年収4万ドル以下の層で、40%に上った。全調査対象者の平均は34.9%だった。
「最近の経済指標は景気後退の可能性が低いことを示しているが、高金利、多額の債務、物価上昇の影響は家計に大きくのしかかっている」と、米調査会社ウォレットハブのアナリストであるチップ・ルポは語る。
「年初は家計のクレジットカード債務が5000億ドルほど減ったが、だんだんと雲行きが怪しくなってきた。今後はもっとひどくなるだろう。例年、クレジットカード債務が最も増えるのは秋以降だから」
FRBは9月、4年半ぶりに利下げに踏み切ったが、やりすぎればインフレの再燃につながる恐れがあると、ルポは警告する。
「多額の債務と物価上昇の根強い不安には、慎重な金融政策で対処する必要がある。確かにほとんどの人は今のところ仕事に就いているが、相当なやりくりをしなければ、その仕事では生活していけない」
それに経済指標は良好でも、多くの家庭にとって、猛烈な物価上昇の痛手は簡単には消えないと、職場文化の専門家であるジェシカ・クリーゲルは語る。「マクロ経済指標は、普通の人たちが肌身で感じる日常を反映していない」
そんななか、今後の波乱に備えるためにも、人々は自分の内面に目を向けるべきだと、クリーゲルは言う。
「こうなったのは誰のせいだと考えるのではなく、これから自分に起こる可能性があることをコントロールするために、いま自分にできることに意識を集中して、賢い選択をしていく必要がある」