小宮信夫
<なぜヤンキースの投手コールは一塁ベースカバーへ走らなかったのか? ワールドシリーズの勝敗を分けたと言われるワンプレーに注目>
米国開催でありながら、野球のワールドシリーズは日本でも大いに盛り上がった。東のスター軍団であるヤンキースと、西のスター軍団であるドジャースが、43年ぶりに対決したのであるから、米国で盛り上がるのは当然だ。
加えて、日本でも多くの人が熱狂した。なぜなら、ドジャースにメジャー7年目の大谷翔平と、入団1年目の山本由伸がいるからだ。もちろん、それだけでなく、野茂英雄が活躍したドジャースと、松井秀喜が活躍したヤンキースという、日本人とっては、なじみのある球団同士の対決だったからだ。
それはともかく、筆者は、今回のワールドシリーズの勝敗を左右したワンプレーに注目したい。そのプレーとは、優勝決定試合で5点差を逆転したのは史上初という第5戦で起きた。
ヤンキース5点のリードで迎えた5回表のドジャースの攻撃。ヤンキースの投手コールは4回まで無失点だったが、5回に失策が重なり無死満塁のピンチ。それでもラックス、大谷を連続三振に抑えた。しかし、2死満塁からベッツの一塁へのゴロに、コールが一塁ベースカバーへ走らず、一塁は誰もいない状態に。そのため、打ったベッツはそのまま一塁を駆け抜けてセーフ。その間に、三塁走者のヘルナンデスが生還して1点。これで動揺したのか、さらにフリーマンとヘルナンデスに2点適時打を浴び、一気に5点を失い、同点に追いつかれてしまった。
問題としたいのは、このコールのプレーだ。マスコミは、こぞってコールを「怠慢」だと非難し、戦犯扱いした。確かに、一塁ベースカバーに走っていれば、この回は無得点だった。そして、そのまま第5戦はヤンキースが勝っただろう。そして、4戦、5戦と連勝したヤンキースが、その勢いで逆転優勝する可能性もあった。しかし、そうはならなかった。そのため、ヤンキース・ファンがコールを非難したい気持ちは分かる。しかし、科学的に見れば、コールのプレーは異常なものではなく、怠慢でもなかった。
このワンプレーは、プライミング効果で説明できる。それは、あらかじめ受けた刺激(プライマー)が、その後の行動(ターゲット)に影響を及ぼす現象を指す。「最初の」という意味の「プライム」に由来し、潜在的(無意識的)なレベルで発生するものだ。
これをコールのプレーに当てはめると、1回表のドジャースの攻撃で、ベッツが打った一塁ゴロがプライマーで、5回表のコールのプレーがターゲットである。
動画をご覧いただければ、一目瞭然だが、1回表のベッツの打球と、5回表のベッツの打球は、ほとんど同じである。
打った選手も、ボールが飛んだコースも、一塁手の守備位置も、打者の走りも、そして、コールの走り出しも、まったくと言っていいほど同じだ。
唯一の違いは、打撃後のボールのスピードである。
1回表は打球スピードが遅かった。そのため、容易に捕球でき、一塁手が一塁までの最短距離、つまり、対角線上を移動できた。ところが、5回表の打球スピードは速かった。そのため、捕球するために平行線上を移動せざるを得なかった。その結果、一塁までの移動により多くの時間を要したのだ。これは、直角三角形をイメージすれば分かりやすい。
出典:イラストAC
1回表は、斜辺を移動すればよかったが、5回表は、直角の両辺(対辺と隣辺)を移動しなければならかった。この長さのわずかな差が、アウトとセーフを分けたのだ。
さて、こうした違いを「意識すべし」と、コールに言えるだろうか。その要求は酷というものだ。
コールの対応を科学的に説明してみよう。1回表のベッツの打球をどう処理したか、その記憶がコールの潜在意識に入った。直前の記憶は、すぐに再利用される可能性が高いので、意識のすぐ下に保存されている。保存されているだけでなく、待機しているとみなすのが、プライミング効果だ。この記憶は、時間の経過とともに潜在意識の奥深くに沈んでいくのだが、まだそれは起きていない。そして5回表、まさにプライミング効果が発生した。
筆者は、このプライミング効果を学生に教えるときには、必ずクイズを出す。
先生「シカって、10回言ってみて」
学生「シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ」
先生「サンタクロースが乗っているのは?」
学生「トナカイ」
と、ほぼ100%、こういう会話になる。もちろん、正解は「そり」である。「シカ」と言わせず、いきなり質問したら、まず間違えないだろう。しかし、シカを10回唱えるうちに、関連する単語(この場合は、トナカイ、バンビ、奈良など)が意識のすぐ下に集まってくる。そのため、ちょっと潜在意識をつつけば、すぐに「トナカイ」が意識に上るのである。これがプライミング効果だ。
こうした効果が人に備わっているのは、脳のコストパフォーマンスのためである。コンピューター用語を借りるなら、キャッシュ、マルチタスク、バックグラウンドプロセスといった機能と同じだ。無意識の世界で、脳内の「小人さんたち」が、一生懸命働き、意識が効率よく働けるよう、下準備をしているのだ。
ケープタウン大学のマーク・ソームズは、『意識はどこから生まれてくるのか』(青土社)で、意識が立ち上がるのは、脳の自動化プログラムの予測に誤差が生じ、その不確実性がホメオスタシス(恒常性)にとって大きな問題になるときだとしている。
確かに、道を歩いているとき、いちいち「右足を出せ、次は左足だ」などと意識していない。無意識(自動的)に歩いているだけだ。しかし、石につまずけば、「右足に石が当たった」と、初めて意識する。意識の下の世界の「小人さん」が、「誤差が出たぞ、注意しろ」というメッセージを意識に上げるのだ。
さて、そろそろ結論を述べよう。コールは1回表、ベッツの一塁へのゴロを、一塁ベースカバーなしでアウトにした。その結果、その記憶が意識のすぐ下に保存された。5回表、まったく同じ光景がコールの目の前で展開される。最初、脳の自動化プログラムにより、コールは一塁目指して走り始める。しかし、プライミング効果が発生。潜在意識の「小人さん」が意識へ送ったメッセージは、「一塁ベースカバーは不要」だった。これが、脳の自動化プログラムが出した最終的な結論である。
もし1回表、ベッツが一塁ゴロを打っていなければ、シカを10回言わせなかった場合と同様、プライミング効果は発生せず、ヤンキースがワールドシリーズを制覇していたかもしれない。それはともかく、この問題が起きてから、筆者はコールを無性に応援したくなった。それがなぜなのかは謎である。
ワールドシリーズの勝敗を左右したワンプレー
<なぜヤンキースの投手コールは一塁ベースカバーへ走らなかったのか? ワールドシリーズの勝敗を分けたと言われるワンプレーに注目>
米国開催でありながら、野球のワールドシリーズは日本でも大いに盛り上がった。東のスター軍団であるヤンキースと、西のスター軍団であるドジャースが、43年ぶりに対決したのであるから、米国で盛り上がるのは当然だ。
加えて、日本でも多くの人が熱狂した。なぜなら、ドジャースにメジャー7年目の大谷翔平と、入団1年目の山本由伸がいるからだ。もちろん、それだけでなく、野茂英雄が活躍したドジャースと、松井秀喜が活躍したヤンキースという、日本人とっては、なじみのある球団同士の対決だったからだ。
それはともかく、筆者は、今回のワールドシリーズの勝敗を左右したワンプレーに注目したい。そのプレーとは、優勝決定試合で5点差を逆転したのは史上初という第5戦で起きた。
ヤンキース5点のリードで迎えた5回表のドジャースの攻撃。ヤンキースの投手コールは4回まで無失点だったが、5回に失策が重なり無死満塁のピンチ。それでもラックス、大谷を連続三振に抑えた。しかし、2死満塁からベッツの一塁へのゴロに、コールが一塁ベースカバーへ走らず、一塁は誰もいない状態に。そのため、打ったベッツはそのまま一塁を駆け抜けてセーフ。その間に、三塁走者のヘルナンデスが生還して1点。これで動揺したのか、さらにフリーマンとヘルナンデスに2点適時打を浴び、一気に5点を失い、同点に追いつかれてしまった。
問題としたいのは、このコールのプレーだ。マスコミは、こぞってコールを「怠慢」だと非難し、戦犯扱いした。確かに、一塁ベースカバーに走っていれば、この回は無得点だった。そして、そのまま第5戦はヤンキースが勝っただろう。そして、4戦、5戦と連勝したヤンキースが、その勢いで逆転優勝する可能性もあった。しかし、そうはならなかった。そのため、ヤンキース・ファンがコールを非難したい気持ちは分かる。しかし、科学的に見れば、コールのプレーは異常なものではなく、怠慢でもなかった。
このワンプレーは、プライミング効果で説明できる。それは、あらかじめ受けた刺激(プライマー)が、その後の行動(ターゲット)に影響を及ぼす現象を指す。「最初の」という意味の「プライム」に由来し、潜在的(無意識的)なレベルで発生するものだ。
これをコールのプレーに当てはめると、1回表のドジャースの攻撃で、ベッツが打った一塁ゴロがプライマーで、5回表のコールのプレーがターゲットである。
動画をご覧いただければ、一目瞭然だが、1回表のベッツの打球と、5回表のベッツの打球は、ほとんど同じである。
打った選手も、ボールが飛んだコースも、一塁手の守備位置も、打者の走りも、そして、コールの走り出しも、まったくと言っていいほど同じだ。
唯一の違いは、打撃後のボールのスピードである。
1回表は打球スピードが遅かった。そのため、容易に捕球でき、一塁手が一塁までの最短距離、つまり、対角線上を移動できた。ところが、5回表の打球スピードは速かった。そのため、捕球するために平行線上を移動せざるを得なかった。その結果、一塁までの移動により多くの時間を要したのだ。これは、直角三角形をイメージすれば分かりやすい。
出典:イラストAC
1回表は、斜辺を移動すればよかったが、5回表は、直角の両辺(対辺と隣辺)を移動しなければならかった。この長さのわずかな差が、アウトとセーフを分けたのだ。
さて、こうした違いを「意識すべし」と、コールに言えるだろうか。その要求は酷というものだ。
コールの対応を科学的に説明してみよう。1回表のベッツの打球をどう処理したか、その記憶がコールの潜在意識に入った。直前の記憶は、すぐに再利用される可能性が高いので、意識のすぐ下に保存されている。保存されているだけでなく、待機しているとみなすのが、プライミング効果だ。この記憶は、時間の経過とともに潜在意識の奥深くに沈んでいくのだが、まだそれは起きていない。そして5回表、まさにプライミング効果が発生した。
筆者は、このプライミング効果を学生に教えるときには、必ずクイズを出す。
先生「シカって、10回言ってみて」
学生「シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ、シカ」
先生「サンタクロースが乗っているのは?」
学生「トナカイ」
と、ほぼ100%、こういう会話になる。もちろん、正解は「そり」である。「シカ」と言わせず、いきなり質問したら、まず間違えないだろう。しかし、シカを10回唱えるうちに、関連する単語(この場合は、トナカイ、バンビ、奈良など)が意識のすぐ下に集まってくる。そのため、ちょっと潜在意識をつつけば、すぐに「トナカイ」が意識に上るのである。これがプライミング効果だ。
こうした効果が人に備わっているのは、脳のコストパフォーマンスのためである。コンピューター用語を借りるなら、キャッシュ、マルチタスク、バックグラウンドプロセスといった機能と同じだ。無意識の世界で、脳内の「小人さんたち」が、一生懸命働き、意識が効率よく働けるよう、下準備をしているのだ。
ケープタウン大学のマーク・ソームズは、『意識はどこから生まれてくるのか』(青土社)で、意識が立ち上がるのは、脳の自動化プログラムの予測に誤差が生じ、その不確実性がホメオスタシス(恒常性)にとって大きな問題になるときだとしている。
確かに、道を歩いているとき、いちいち「右足を出せ、次は左足だ」などと意識していない。無意識(自動的)に歩いているだけだ。しかし、石につまずけば、「右足に石が当たった」と、初めて意識する。意識の下の世界の「小人さん」が、「誤差が出たぞ、注意しろ」というメッセージを意識に上げるのだ。
さて、そろそろ結論を述べよう。コールは1回表、ベッツの一塁へのゴロを、一塁ベースカバーなしでアウトにした。その結果、その記憶が意識のすぐ下に保存された。5回表、まったく同じ光景がコールの目の前で展開される。最初、脳の自動化プログラムにより、コールは一塁目指して走り始める。しかし、プライミング効果が発生。潜在意識の「小人さん」が意識へ送ったメッセージは、「一塁ベースカバーは不要」だった。これが、脳の自動化プログラムが出した最終的な結論である。
もし1回表、ベッツが一塁ゴロを打っていなければ、シカを10回言わせなかった場合と同様、プライミング効果は発生せず、ヤンキースがワールドシリーズを制覇していたかもしれない。それはともかく、この問題が起きてから、筆者はコールを無性に応援したくなった。それがなぜなのかは謎である。
ワールドシリーズの勝敗を左右したワンプレー