グレン・カール(本誌コラムニスト、元CIA工作員)
<「人種のるつぼ」の寛容さが失われつつある時代に、大谷とジャッジが体現した文化と人種の真の多様性>
大谷翔平は私にとって、父と野球をめぐる記憶を呼び起こさせる存在だ。しかし今年のワールドシリーズでは、父と野球についてや、大谷とワールドシリーズについてと同じくらい、アメリカ社会に思いをはせた。アメリカはどうなろうとしているのか、アメリカの理想とは何だろうか。
父が死んでボストンの新聞に訃報が掲載されて間もなく、私の兄弟の元に電話がかかってきた。「私は70年前、12歳くらいのとき、あなたのお父さんを知っていました。彼は20歳くらいでした」と、その高齢の男性は話し始めた。
「1940年頃のことです。地元の公園で私たち近所の子供が野球のチーム分けをしていました。でも、ピッチャーが必要なのに、誰も私を選ぼうとしなかった。ほかの皆はアイルランド系カトリック教徒で、私はユダヤ人だったからです。私は自分が何者であるかという理由で仲間外れにされていました」
「ちょうどそのとき、お父さんが通りかかりました。彼は私たち近所の子供のことを知っていました。そして、立ち止まるとこう言いました。『私が両方のピッチャーをやろう。ただし、(ユダヤ人の)ブルースも一緒にやる。ここでは誰でも遊べる。誰でもみんな。そういうものだ』。あのときのことは今も覚えています。お父さんは立派な方でした」
異人種のバックグラウンドを持つア・リーグ本塁打王のジャッジも人間的な魅力と実力でアメリカを熱狂させている USA TODAY SPORTSーREUTERS
父とユダヤ人少年と黒人少年
ワールドシリーズで大谷自身は不調だったが、ロサンゼルス・ドジャースは「憎まれっ子」ニューヨーク・ヤンキースを4勝1敗で下した(ボストン出身の私としては、「憎きヤンキース」と言わないわけにいかないのだ)。
誰もが見たかったのは、ドジャースの大谷とヤンキースのアーロン・ジャッジの対決だ。大谷よりもさらに体格が良いジャッジは「現役最高の野球選手」の称号を争うライバルであり、大谷と同じくらい礼儀正しく、親しみやすく、慎み深い。そのジャッジも、ワールドシリーズはバットが空を切り続けた。
大谷は第2戦で左肩を負傷した後も出場したが、打席では迷っているように見えた。バットはボールの下を擦り抜け、動きはぎこちなく、三振を喫すると耐えるような表情を見せた。シリーズ打率は1割5厘、5三振、本塁打と打点はなし。第3戦以降、走塁の際は左肩をかばうようにユニフォームをつかんでいた。
ジャッジも苦しんでいた。力強く振ったバットは空を切り、スランプから抜け出そうと明らかに力んでいた。シリーズ打率は2割2分2厘、1本塁打、3打点、7三振。ヤンキースが1勝3敗と追い込まれた第5戦の守備では、少年野球のようなエラーでピンチを広げた。2人のヒーローは、それぞれけが人とスケープゴートになった。
ボストン・レッドソックス初の黒人選手ジョー・フォイ(右)(1967年) TOM LANDERSーTHE BOSTON GLOBE/GETTY IMAGES
今回は大谷のチームメイトでワールドシリーズのMVPに輝いたフレディ・フリーマンなど、ほかにもヒーローがいた。私は大谷とジャッジに同情する。彼らは全ての選手を圧倒しなければ、失敗したと見なされてしまうのだ。一方で、2人の苦闘に私は胸が痛みつつ胸が躍った。今日は誰がヒーローになるのだろう。夜空のあまたの星の中から、次はどんなヒーローが生まれるのだろう、と。
ヒトラーがヨーロッパでユダヤ人の大量虐殺を始めようとしていたとき、私の父は、ユダヤ人の子供にもほかの皆と同じチャンスがあるのだと子供たちを諭した。しかし、それからわずか1年足らずで、アメリカは「自由と民主主義」を守るために第2次大戦に参戦。米政府はアメリカで暮らす日本人と日系人12万人を、アメリカの市民権を持っている人さえ強制収容所に送った。
その1年後の1943年、米海兵隊の士官学校で訓練を受けていた父は、同じ士官候補生とたびたび激しい口論になった。父が、クワンティコの海兵隊兵舎の外で日曜日の朝に新聞を売っていた少年と親しくなったからだ。少年は黒人だった。米南部出身のその候補生は、黒人の、しかも子供を、父が白人と同等の存在として扱ったことに激怒したのだ。
私はボストン・レッドソックスの本拠地であるフェンウェイ・パークに歩いて行ける場所で育った。毎シーズン、おそらく10回はスタジアムに行き、1.5ドルで一般入場券(入場はできるが席はない)を買ったものだ。レッドソックスは、メジャーリーグで黒人選手を採用した最後のチームであり、チームの大ファンでラジオで全試合を聴いていた友人の母親が(当時はテレビ中継はほぼなかった)、三塁手のジョー・フォイが黒人だったために、試合を聴かなくなったのも驚きではなかった。
2020年の米大統領選でのトランプの敗北に憤慨して連邦議会議事堂を襲撃した支持者(21年1月6日) TAYFUN COSKUNーANADOLU AGENCY/GETTY IMAGES
スタジアムに入ると、ボストンの人種意識を個人的に調査するため、黒人の数をよく数えた。2万〜3万5000人の観衆の中で、私が見つけることができたのは、たいてい79人とか86人、71人という具合だった。父の時代のアメリカでも、私の育った35年後のアメリカでも、「誰もがプレーできる」わけではなかった。
しかし、アメリカは当時とは驚くほど変わり、今も変化し続けている。私が生まれた1956年当時、人口の89%は白人だった。私が高校生の頃、好きだった黒人の女の子をデートに誘う勇気はなかった。そんなことをしたら、当時の人種差別的な言い方をすれば「ニガー・ラバー」だった私は、毎日殴り合いのけんかをしなければならなかっただろう。今日では憎悪に満ちたその言葉を使う人はいない。それから20年後、私は最愛の女性と結婚した。彼女は中国人だ。今では「異人種間の」関係は当たり前になっている。今後10年ほどで、アメリカは少数派(マイノリティー)が多数派(マジョリティー)を構成する「マイノリティー・マジョリティー」の社会になり、白人は人口の半分以下になるだろう。
大谷と異人種のバックグラウンドを持つジャッジは、「国民的娯楽」である野球のスーパーヒーローとして全米で熱狂的に受け入れられている。ファンは2人を、チームをワールドシリーズに導いた史上最高の選手であり、ロールモデルとして見ている。「日本人」の大谷、「混血の」ジャッジとして見てはいない。
アメリカのヒーローはついに人種を超えたかと言えば、そうではない。全ての国民にとってはまだそうとは言えない。ドナルド・トランプが2016年に初めて大統領に当選した翌年、彼の怒りに満ちた白人男性支持者の集団が、バージニア州シャーロッツビルで夜間にデモ行進を行った。燃え盛るたいまつを手に持ち、ユニフォームのようなカーキ色のズボンとそろいのシャツを着た彼らは、明らかに1930年代のドイツのナチスを模倣していた。
以来、人種間の緊張、反ユダヤ主義、人種を動機とする暴力は増大している。今やトランプ現象全体が、共和党全体が、白人の不満、怒り、恨み、そして「黒人、ラテン系、女性化した男性やトランスセクシュアルがアメリカを乗っ取り、破壊している」という懸念を抱いている。
トランプ現象と、彼を支持する白人の若者たちは、自己防衛的な怒りからアメリカの民主主義を破壊さえするかもしれないが、この国の文化的・人種的多様化を止めることはできないだろう。アメリカの「人種のるつぼ」は、公の場における多様性に対する寛容さを認める限り、あらゆる人々と文化を融合させるはずだ。
だからこそ、アメリカのヒスパニックの遺産を想起させる西海岸の「ロサンゼルス」と、白人のイギリスの遺産を想起させる東海岸の「ニューヨーク」とが、歓喜に沸いて競い合った「大谷対ジャッジ」のワールドシリーズは、進化し続け、多様で、多文化でありながら結束したアメリカの理想を祝福する、きらびやかでカタルシスに満ちた瞬間だった。大谷とジャッジの三振は、試合の一場面にすぎなかった。重要だったのは、全てのアメリカ人が大谷、ジャッジ、そして全選手を、多様で、喜びに満ち、「包摂的」な姿勢で受け入れたことであり、夜の闇の中で鮮やかに照らされた試合が、白人至上主義のトランプ支持者のたいまつに対する勝利の反撃となったことだ。
数カ月前、父の生涯の友人だった元民主党大統領候補のマイケル・デュカキスに、昔の父と少年たちとの野球の話をした。すると彼は、「君のお父さんらしいな」と言った。
公平な機会を与え、結果は実力に基づき、個人の素性や出自は問わないことの重要性は、アメリカ社会の中で野球が示してきたことだ。ジャッジと大谷は、ワールドシリーズでそれを体現したのだ。
<「人種のるつぼ」の寛容さが失われつつある時代に、大谷とジャッジが体現した文化と人種の真の多様性>
大谷翔平は私にとって、父と野球をめぐる記憶を呼び起こさせる存在だ。しかし今年のワールドシリーズでは、父と野球についてや、大谷とワールドシリーズについてと同じくらい、アメリカ社会に思いをはせた。アメリカはどうなろうとしているのか、アメリカの理想とは何だろうか。
父が死んでボストンの新聞に訃報が掲載されて間もなく、私の兄弟の元に電話がかかってきた。「私は70年前、12歳くらいのとき、あなたのお父さんを知っていました。彼は20歳くらいでした」と、その高齢の男性は話し始めた。
「1940年頃のことです。地元の公園で私たち近所の子供が野球のチーム分けをしていました。でも、ピッチャーが必要なのに、誰も私を選ぼうとしなかった。ほかの皆はアイルランド系カトリック教徒で、私はユダヤ人だったからです。私は自分が何者であるかという理由で仲間外れにされていました」
「ちょうどそのとき、お父さんが通りかかりました。彼は私たち近所の子供のことを知っていました。そして、立ち止まるとこう言いました。『私が両方のピッチャーをやろう。ただし、(ユダヤ人の)ブルースも一緒にやる。ここでは誰でも遊べる。誰でもみんな。そういうものだ』。あのときのことは今も覚えています。お父さんは立派な方でした」
異人種のバックグラウンドを持つア・リーグ本塁打王のジャッジも人間的な魅力と実力でアメリカを熱狂させている USA TODAY SPORTSーREUTERS
父とユダヤ人少年と黒人少年
ワールドシリーズで大谷自身は不調だったが、ロサンゼルス・ドジャースは「憎まれっ子」ニューヨーク・ヤンキースを4勝1敗で下した(ボストン出身の私としては、「憎きヤンキース」と言わないわけにいかないのだ)。
誰もが見たかったのは、ドジャースの大谷とヤンキースのアーロン・ジャッジの対決だ。大谷よりもさらに体格が良いジャッジは「現役最高の野球選手」の称号を争うライバルであり、大谷と同じくらい礼儀正しく、親しみやすく、慎み深い。そのジャッジも、ワールドシリーズはバットが空を切り続けた。
大谷は第2戦で左肩を負傷した後も出場したが、打席では迷っているように見えた。バットはボールの下を擦り抜け、動きはぎこちなく、三振を喫すると耐えるような表情を見せた。シリーズ打率は1割5厘、5三振、本塁打と打点はなし。第3戦以降、走塁の際は左肩をかばうようにユニフォームをつかんでいた。
ジャッジも苦しんでいた。力強く振ったバットは空を切り、スランプから抜け出そうと明らかに力んでいた。シリーズ打率は2割2分2厘、1本塁打、3打点、7三振。ヤンキースが1勝3敗と追い込まれた第5戦の守備では、少年野球のようなエラーでピンチを広げた。2人のヒーローは、それぞれけが人とスケープゴートになった。
ボストン・レッドソックス初の黒人選手ジョー・フォイ(右)(1967年) TOM LANDERSーTHE BOSTON GLOBE/GETTY IMAGES
今回は大谷のチームメイトでワールドシリーズのMVPに輝いたフレディ・フリーマンなど、ほかにもヒーローがいた。私は大谷とジャッジに同情する。彼らは全ての選手を圧倒しなければ、失敗したと見なされてしまうのだ。一方で、2人の苦闘に私は胸が痛みつつ胸が躍った。今日は誰がヒーローになるのだろう。夜空のあまたの星の中から、次はどんなヒーローが生まれるのだろう、と。
ヒトラーがヨーロッパでユダヤ人の大量虐殺を始めようとしていたとき、私の父は、ユダヤ人の子供にもほかの皆と同じチャンスがあるのだと子供たちを諭した。しかし、それからわずか1年足らずで、アメリカは「自由と民主主義」を守るために第2次大戦に参戦。米政府はアメリカで暮らす日本人と日系人12万人を、アメリカの市民権を持っている人さえ強制収容所に送った。
その1年後の1943年、米海兵隊の士官学校で訓練を受けていた父は、同じ士官候補生とたびたび激しい口論になった。父が、クワンティコの海兵隊兵舎の外で日曜日の朝に新聞を売っていた少年と親しくなったからだ。少年は黒人だった。米南部出身のその候補生は、黒人の、しかも子供を、父が白人と同等の存在として扱ったことに激怒したのだ。
私はボストン・レッドソックスの本拠地であるフェンウェイ・パークに歩いて行ける場所で育った。毎シーズン、おそらく10回はスタジアムに行き、1.5ドルで一般入場券(入場はできるが席はない)を買ったものだ。レッドソックスは、メジャーリーグで黒人選手を採用した最後のチームであり、チームの大ファンでラジオで全試合を聴いていた友人の母親が(当時はテレビ中継はほぼなかった)、三塁手のジョー・フォイが黒人だったために、試合を聴かなくなったのも驚きではなかった。
2020年の米大統領選でのトランプの敗北に憤慨して連邦議会議事堂を襲撃した支持者(21年1月6日) TAYFUN COSKUNーANADOLU AGENCY/GETTY IMAGES
スタジアムに入ると、ボストンの人種意識を個人的に調査するため、黒人の数をよく数えた。2万〜3万5000人の観衆の中で、私が見つけることができたのは、たいてい79人とか86人、71人という具合だった。父の時代のアメリカでも、私の育った35年後のアメリカでも、「誰もがプレーできる」わけではなかった。
しかし、アメリカは当時とは驚くほど変わり、今も変化し続けている。私が生まれた1956年当時、人口の89%は白人だった。私が高校生の頃、好きだった黒人の女の子をデートに誘う勇気はなかった。そんなことをしたら、当時の人種差別的な言い方をすれば「ニガー・ラバー」だった私は、毎日殴り合いのけんかをしなければならなかっただろう。今日では憎悪に満ちたその言葉を使う人はいない。それから20年後、私は最愛の女性と結婚した。彼女は中国人だ。今では「異人種間の」関係は当たり前になっている。今後10年ほどで、アメリカは少数派(マイノリティー)が多数派(マジョリティー)を構成する「マイノリティー・マジョリティー」の社会になり、白人は人口の半分以下になるだろう。
大谷と異人種のバックグラウンドを持つジャッジは、「国民的娯楽」である野球のスーパーヒーローとして全米で熱狂的に受け入れられている。ファンは2人を、チームをワールドシリーズに導いた史上最高の選手であり、ロールモデルとして見ている。「日本人」の大谷、「混血の」ジャッジとして見てはいない。
アメリカのヒーローはついに人種を超えたかと言えば、そうではない。全ての国民にとってはまだそうとは言えない。ドナルド・トランプが2016年に初めて大統領に当選した翌年、彼の怒りに満ちた白人男性支持者の集団が、バージニア州シャーロッツビルで夜間にデモ行進を行った。燃え盛るたいまつを手に持ち、ユニフォームのようなカーキ色のズボンとそろいのシャツを着た彼らは、明らかに1930年代のドイツのナチスを模倣していた。
以来、人種間の緊張、反ユダヤ主義、人種を動機とする暴力は増大している。今やトランプ現象全体が、共和党全体が、白人の不満、怒り、恨み、そして「黒人、ラテン系、女性化した男性やトランスセクシュアルがアメリカを乗っ取り、破壊している」という懸念を抱いている。
トランプ現象と、彼を支持する白人の若者たちは、自己防衛的な怒りからアメリカの民主主義を破壊さえするかもしれないが、この国の文化的・人種的多様化を止めることはできないだろう。アメリカの「人種のるつぼ」は、公の場における多様性に対する寛容さを認める限り、あらゆる人々と文化を融合させるはずだ。
だからこそ、アメリカのヒスパニックの遺産を想起させる西海岸の「ロサンゼルス」と、白人のイギリスの遺産を想起させる東海岸の「ニューヨーク」とが、歓喜に沸いて競い合った「大谷対ジャッジ」のワールドシリーズは、進化し続け、多様で、多文化でありながら結束したアメリカの理想を祝福する、きらびやかでカタルシスに満ちた瞬間だった。大谷とジャッジの三振は、試合の一場面にすぎなかった。重要だったのは、全てのアメリカ人が大谷、ジャッジ、そして全選手を、多様で、喜びに満ち、「包摂的」な姿勢で受け入れたことであり、夜の闇の中で鮮やかに照らされた試合が、白人至上主義のトランプ支持者のたいまつに対する勝利の反撃となったことだ。
数カ月前、父の生涯の友人だった元民主党大統領候補のマイケル・デュカキスに、昔の父と少年たちとの野球の話をした。すると彼は、「君のお父さんらしいな」と言った。
公平な機会を与え、結果は実力に基づき、個人の素性や出自は問わないことの重要性は、アメリカ社会の中で野球が示してきたことだ。ジャッジと大谷は、ワールドシリーズでそれを体現したのだ。