文・写真:趙海成
<荒川河川敷のホームレスを取材する在日中国人ジャーナリスト趙海成氏が出会ったのは、異例の経歴を持つ「兄貴」。一時はホームレスとなり、今はホームレスの支援をしているが、かつては優秀な自衛官だったという>
※ルポ第10話:「暴力を振るわれることもある」...「兄貴」が語ったホームレス福祉の現状とは? より続く
今日の物語の主人公「兄貴」は、日本の北海道に生まれ、7人兄弟の末っ子である。以下は兄貴自身が語った、家族と彼自身の波乱万丈の物語だ。
彼の父は戦前、北海道よりもっと北の島「樺太」の国境警備隊の軍人だった。
近世以前、樺太にはアイヌ、ウィルタ、ニヴフなどの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って、両国の多くの人が樺太へ移住するようになった。
明治38年(1905年)の「日露講和条約」により、北緯50度線を境に、樺太の南半分を「カラフト」として日本が、北半分を「サハリン」としてロシアが領有することになった。当時樺太に住んでいた日本人の数は最も多い時で約40万人に上ったという。
兄貴の父は国境警備隊の小隊長として樺太で駐在する間、そこの銀行家の娘と知り合って結婚した。
第二次世界大戦後、樺太全島はソ連軍に占領された(現在はロシア領)。
父が勤務している国境警備隊全員が、すべての武器や軍服を捨て、ソ連軍が入る直前に民間人と一緒に樺太から引き揚げるよう上司から命じられた。輸送中、3隻の船がソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け、1700人以上が犠牲となった。
兄貴の両親が乗っていた船だけが幸運にも難を逃れ、北海道に着いた。
その後は庶民として戦後の辛い日々を過ごした。夫婦の間には10年の間で息子2人、娘5人が生まれた。その末っ子が今日の主役「兄貴」である。
樺太から撤退した3隻の船がソ連軍の潜水艦から攻撃を受け、沈没したことを伝える当時の新聞記事 YouTubeチャンネル「シリーズ「樺太を語る」辻力さん(樺太の歴史、後編)」より
親の後を継いで自衛官に...一時は冬季五輪の選手候補にも
兄貴にこのような父親がいたことから、彼が小さい頃から自衛官になることを志していてもおかしくないことが分かる。
戦後の日本では、軍隊は自衛隊に改称された。兄貴にとっては、父の仕事を受け継ぐことができ、自分の夢を実現することもでき、官職を得ることにもなるので、喜んで志したのだろう。
家族と相談せず、中学卒業後間もなく自衛隊に志願して、18歳の時、自衛官になった。
彼のお父さんは彼に「中学卒業後、マグロ漁船の仕事をしたいか、それとも自衛隊に入りたいか」という質問をしたことがあるという。
その時、彼ははっきり「自衛隊に入りたい」と答えた。軍人だったお父さんは聞いて嬉しかった。実は、息子に自分の後継者になってほしかったのだ。
兄貴は幼い頃から父について格闘技(拳法)を学び、入隊すると特殊部隊に選ばれた。
本人によれば、在隊中、あらゆる面で優れていたという。
冬季五輪には「バイアスロン」という競技種目があるが、この種目は北欧人の軍事訓練に起源がある。選手が銃を担いで雪山に登り、クロスカントリースキーをしながら、射撃をする。選手の体力とスキーのテクニック、射撃能力を競り合うのだ。
この大会には現役軍人の参加が許可されている。兄貴は北海道出身で、3歳からスキーを習い始め、特殊部隊に入った後射撃の練習にも励んだために、両技能ともハイレベルだった。日本の自衛隊員として選抜を受け、80年代に開催された冬季五輪で「バイアスロン」の選手候補になったという。
しかし残念ながら、その冬季五輪の開幕前に彼はインフルエンザに感染して肺炎にかかり、その貴重な出場機会を失った。
一方、兄貴はソ連の来襲に備えた日米合同軍事演習に参加したこともある。
軍事演習の際、軍曹だった彼が率いたグループの成績がとても良かったという。「敵方戦闘員」(アメリカ軍の特殊部隊)を全員捕虜にしたのだ。
そのため、兄貴は米軍のトップから名誉勲章を受けた。そして、しばらくして米国での研修チャンスがあり、米陸軍特殊部隊のグリーンベレーに入って半年訓練を受けたらしい。
兄貴の自衛隊時代の帽子。内側に彼の名前と日付が書かれている
冷戦下、米軍グリーンベレーとして重要な任務に就いた
80年代は、米ソ間の冷戦が緊迫していた。ソ連は在日米軍の情報収集のためにスパイを派遣して日本に潜入し続けたといわれる。アメリカのCIAは、あるソ連のスパイが日本で活動していることをつかみ、その逮捕のため特殊部隊の隊員を派遣することにした。兄貴はグリーンベレー部隊の日本人隊員で、当然この任務の適任者になった。
兄貴は日本で、何度もこのような任務を達成したという。
初めてソ連のスパイを捕まえた場所は東京の六本木だった。そのソ連のスパイは大柄でたくましい巨漢だった、兄貴は、闘智闘勇(中国語の言葉で「知恵と勇気で闘う」という意味)、相手を押さえて捕まえた。
そのソ連スパイをCIAに引き渡す前、日本の公安警察に横取りされ、スパイはすぐさまソ連に送還された。アメリカ側はそれを知って怒ったが、仕方がなかった。兄貴は、日本政府内部にソ連の内通者がいるかもしれないと深く疑った。
兄貴の能力と年功を考えると、自衛隊に留まり、ステップアップすることができたに違いなかった。
しかし、7年間の軍生活を送った彼は、結局退役を選んだ。
理由は、故郷に帰って病気の重い父の世話をしたいことと、新しい仕事に挑戦して自分の能力を試してみたいことだったという。
自衛官を辞めた後にもボディーガードがつく生活
日本の自衛隊から退役するのは難しくないが、面倒なのは彼が所属していたグリーンベレー隊員の身分と、かつて実行した任務との関連だった。
彼はソ連のスパイを何度も逮捕したことがあるので、すでにソ連国家保安委員会(KGB)のブラックリストに入っている可能性が高かったし、日本赤軍(反米極左組織)が彼に恨みを抱いている可能性も否定できない。
そのため、米軍は日本の自衛隊が兄貴の退役後の身の安全を保証することを望んだ。自衛隊側も、これから何らかの特別な事件が発生したときに兄貴の力を生かせるかもしれないと考えた。
彼は表向き、軍隊を離れたと言っても、実質的には自衛隊に席がまだ残っていたのだ。
どこへ行っても、後ろにはいつも私服を着た自衛隊員2人がつくことになった。1人は、兄貴のボディーガードとして彼の安全を守るため、もう1人は、自衛隊(警察を含む)が彼とのコミュニケーションを維持するためのチャンネルとして配置された。
彼女とのデートの時もボディーガードがついていったし、夜にバーでお酒を飲むときもボディーガードがそばに座って一緒に飲んだそうである。恐ろしいことに、この気まずい不自由な日々が5年も続いたという。
建設業へ...「先見の明」と勤勉さのおかげで事業は成功
兄貴はその時期、主に東京都内の警察や建設関係の仕事をやっていた。例えば、都内の道路標識を古いものから新しいものに交替する作業などを多くしたという。
完全に「自由の身」になってからは他のいろいろな仕事もやった。80年代の日本経済は躍進し、建築業は先行きが明るいと思ってそれを選んだ。
まず建築現場の労働者から始まり、頑張って多くの建築業界の免許を獲得した。その後、兄貴は請負業者になり、自分の会社を設立し、建設省(現・国土交通省)から受けた建築と道路舗装などの仕事が多かった。
直接に依頼される工事もあれば、間接的な依頼の工事もある。有名な大手建築会社からも多くの仕事をもらったことがあるという。
彼の話によると、当時は昼夜を問わずに仕事をしていた。昼は工事現場の監督をし、夜はオフィスで各種書類を作り、寝る時間はほとんどなかった。
仕事はとても大変だったが、勤勉で、稼いだ金はたっぷりあった。当時、彼が自分で決めた月給は330万円だったらしい。雇っていた労働者に対しても、決してけちをつけず、彼らに他の派遣会社よりも高い給料を払ったそうだ。
贅沢三昧の日々...それも束の間、波乱の展開に
兄貴はこのように大金を稼いだ後、贅沢三昧で放蕩な生活を始めた。
釣りが好きで、釣りの腕はプロ並みだ。彼はニュージーランドで開催されたある釣り大会に出場した。参加費用が30万円かかり、いろんな無人島を回って釣りをやるという、金持ちしかできないゲームだった。
運良く大会で優勝し、2800万円の賞金を獲得したのだという。兄貴はそのお金でニュージーランドの浜辺に別荘と20人乗りの中古のクルーザーを買い、一緒に参加した友人たちと浜辺で数日間思う存分遊んだ。参加者の中には芸能人もいたという。
日本に帰るときに、兄貴は別荘と船の管理を地元の弁護士に任せた。
しかし間もなく、ニュージーランドで大地震があった。そのせいで弁護士は自分のヘリコプターの会社をやむなくたたみ、その負債の穴埋めをするために兄貴の別荘と船を他人に売ってしまったという。新しい購入者が登記しに行ったときにその問題に気づいた。
兄貴も購入者もその弁護士に騙された。本当に思いもよらないことだった。
現在、3000万円を超えるその家はニュージーランドの地元政府の手に握られており、兄貴本人が自ら引き取り手続きをしに行かなければならず、誰も代理ができないようになっている。そのためには旅費と手数料などを合わせて約200万円かかる。
兄貴のその後の境遇は、そんな大金を集めることができなかったので、この案は今日まで解決されていないままだという。
成功していたのに、貧乏になってしまった3つの理由
兄貴は事業が成功し、たくさんのお金を持っているのではないか、どうして急に貧乏になったのか、と疑問に思う読者もいるだろう。
原因は3つある。1つ目は彼が大きい交通事故に遭遇し、車にぶつかられて全身に重傷を負ったことだ。兄貴によれば、治療にかかったお金は1億3000万円。相手の保険会社に負担してもらった。
しかし、問題はお金ではなく、身体への影響だ。30数年経った今でも後遺症が残っている。痛みがたまに出るだけでなく、年に1回その痛みは30分ぐらい続き、意識が突然なくなり頭が真っ白になる時もあるのだという。
2つ目は、親族の事業参加によって損失がもたらされたことだ。兄貴の事業の最盛期に、彼の兄とその息子が入社した。彼らは能力が足りないのに、社長が自分の親族であることで偉そうになった。結局、現場労働者の機嫌を損ねて、取引先の感情を害してしまったことがあった。
3つ目は、工事中の事件や事故が頻繫に発生したという問題だ。兄貴のような請負業者の場合、会社に所属している労働者がいるほか、日雇い労働者を雇うこともよくあるが、彼らを見つける最も簡単な方法はホームレスの中から募集することだという。
これについては、また注意しなければならないことがある。ホームレスの中には悪い人間が混ざっているので、下手をすると何か事件が起こるかもしれない。
兄貴には痛ましい教訓があった。
台東区の北千住、南千住には、今でも多くのホームレスがいる。荒川の千住新橋下の河川敷には、彼らが住みやすい環境が揃っているようだ
雇った日雇い労働者が殺人事件を起こした
ある時、兄貴は山谷からホームレス2人を雇った。山谷は台東区北東部の出稼ぎ労働者の集まる場所であり、以前は犯罪が多い地域でもあった。
結局、仕事をしている間に2人は口論になり、そのうちの1人がナイフでもう1人を刺し殺してしまった。彼は知らせを聞いて現場に駆けつけると、殺人をした男を捉えて警察に通報した。その後、兄貴は殺人容疑者の雇い主として、警察に呼び出され、10日間尋問を受けることになった。
また、別の悩みごともあった。彼が請け負った工事を、別の請負業者に請け負わせたことがある。その業者は規則に違反し、休日にも労働者を働かせ、ある労働者が高所から落ちて死んだ。結局、兄貴は警察に呼ばれ、またも10日間取り調べられ、「注意処分」を受けた。
これらの事件と事故は、会社の業務に影響を与えたに違いない。
要するに、こういったさまざまな原因があり兄貴の事業はだんだん下り坂になっていった。
もちろん、彼の贅沢な生活も何年か経つと終わってしまった。
その後、さらにある突発的な事件が発生し、兄貴の人生はとことん苦難な深淵に落ちていくことになる。
詳しい話は次回に持ち越すことにする。
※ルポ第12話(11月20日公開予定)に続く
(編集協力:中川弘子)
[筆者]
趙海成(チャオ・ハイチェン)
1982年に北京対外貿易学院(現在の対外経済貿易大学)日本語学科を卒業。1985年に来日し、日本大学芸術学部でテレビ理論を専攻。1988年には日本初の在日中国人向け中国語新聞「留学生新聞」の創刊に携わり、初代編集長を10年間務めた。現在はフリーのライター/カメラマンとして活躍している。著書に『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)、『私たちはこうしてゼロから挑戦した──在日中国人14人の成功物語』(アルファベータブックス)などがある。
【動画】樺太から撤退した船がソ連軍から攻撃を受けて沈没
YouTubeチャンネル「シリーズ「樺太を語る」辻力さん(樺太の歴史、後編)」より
<荒川河川敷のホームレスを取材する在日中国人ジャーナリスト趙海成氏が出会ったのは、異例の経歴を持つ「兄貴」。一時はホームレスとなり、今はホームレスの支援をしているが、かつては優秀な自衛官だったという>
※ルポ第10話:「暴力を振るわれることもある」...「兄貴」が語ったホームレス福祉の現状とは? より続く
今日の物語の主人公「兄貴」は、日本の北海道に生まれ、7人兄弟の末っ子である。以下は兄貴自身が語った、家族と彼自身の波乱万丈の物語だ。
彼の父は戦前、北海道よりもっと北の島「樺太」の国境警備隊の軍人だった。
近世以前、樺太にはアイヌ、ウィルタ、ニヴフなどの先住民が居住しており、主権国家の支配は及んでいなかった。近代以降、樺太の南に隣接する日本と、北西に隣接するロシアとが競って、両国の多くの人が樺太へ移住するようになった。
明治38年(1905年)の「日露講和条約」により、北緯50度線を境に、樺太の南半分を「カラフト」として日本が、北半分を「サハリン」としてロシアが領有することになった。当時樺太に住んでいた日本人の数は最も多い時で約40万人に上ったという。
兄貴の父は国境警備隊の小隊長として樺太で駐在する間、そこの銀行家の娘と知り合って結婚した。
第二次世界大戦後、樺太全島はソ連軍に占領された(現在はロシア領)。
父が勤務している国境警備隊全員が、すべての武器や軍服を捨て、ソ連軍が入る直前に民間人と一緒に樺太から引き揚げるよう上司から命じられた。輸送中、3隻の船がソ連軍の潜水艦からの攻撃を受け、1700人以上が犠牲となった。
兄貴の両親が乗っていた船だけが幸運にも難を逃れ、北海道に着いた。
その後は庶民として戦後の辛い日々を過ごした。夫婦の間には10年の間で息子2人、娘5人が生まれた。その末っ子が今日の主役「兄貴」である。
樺太から撤退した3隻の船がソ連軍の潜水艦から攻撃を受け、沈没したことを伝える当時の新聞記事 YouTubeチャンネル「シリーズ「樺太を語る」辻力さん(樺太の歴史、後編)」より
親の後を継いで自衛官に...一時は冬季五輪の選手候補にも
兄貴にこのような父親がいたことから、彼が小さい頃から自衛官になることを志していてもおかしくないことが分かる。
戦後の日本では、軍隊は自衛隊に改称された。兄貴にとっては、父の仕事を受け継ぐことができ、自分の夢を実現することもでき、官職を得ることにもなるので、喜んで志したのだろう。
家族と相談せず、中学卒業後間もなく自衛隊に志願して、18歳の時、自衛官になった。
彼のお父さんは彼に「中学卒業後、マグロ漁船の仕事をしたいか、それとも自衛隊に入りたいか」という質問をしたことがあるという。
その時、彼ははっきり「自衛隊に入りたい」と答えた。軍人だったお父さんは聞いて嬉しかった。実は、息子に自分の後継者になってほしかったのだ。
兄貴は幼い頃から父について格闘技(拳法)を学び、入隊すると特殊部隊に選ばれた。
本人によれば、在隊中、あらゆる面で優れていたという。
冬季五輪には「バイアスロン」という競技種目があるが、この種目は北欧人の軍事訓練に起源がある。選手が銃を担いで雪山に登り、クロスカントリースキーをしながら、射撃をする。選手の体力とスキーのテクニック、射撃能力を競り合うのだ。
この大会には現役軍人の参加が許可されている。兄貴は北海道出身で、3歳からスキーを習い始め、特殊部隊に入った後射撃の練習にも励んだために、両技能ともハイレベルだった。日本の自衛隊員として選抜を受け、80年代に開催された冬季五輪で「バイアスロン」の選手候補になったという。
しかし残念ながら、その冬季五輪の開幕前に彼はインフルエンザに感染して肺炎にかかり、その貴重な出場機会を失った。
一方、兄貴はソ連の来襲に備えた日米合同軍事演習に参加したこともある。
軍事演習の際、軍曹だった彼が率いたグループの成績がとても良かったという。「敵方戦闘員」(アメリカ軍の特殊部隊)を全員捕虜にしたのだ。
そのため、兄貴は米軍のトップから名誉勲章を受けた。そして、しばらくして米国での研修チャンスがあり、米陸軍特殊部隊のグリーンベレーに入って半年訓練を受けたらしい。
兄貴の自衛隊時代の帽子。内側に彼の名前と日付が書かれている
冷戦下、米軍グリーンベレーとして重要な任務に就いた
80年代は、米ソ間の冷戦が緊迫していた。ソ連は在日米軍の情報収集のためにスパイを派遣して日本に潜入し続けたといわれる。アメリカのCIAは、あるソ連のスパイが日本で活動していることをつかみ、その逮捕のため特殊部隊の隊員を派遣することにした。兄貴はグリーンベレー部隊の日本人隊員で、当然この任務の適任者になった。
兄貴は日本で、何度もこのような任務を達成したという。
初めてソ連のスパイを捕まえた場所は東京の六本木だった。そのソ連のスパイは大柄でたくましい巨漢だった、兄貴は、闘智闘勇(中国語の言葉で「知恵と勇気で闘う」という意味)、相手を押さえて捕まえた。
そのソ連スパイをCIAに引き渡す前、日本の公安警察に横取りされ、スパイはすぐさまソ連に送還された。アメリカ側はそれを知って怒ったが、仕方がなかった。兄貴は、日本政府内部にソ連の内通者がいるかもしれないと深く疑った。
兄貴の能力と年功を考えると、自衛隊に留まり、ステップアップすることができたに違いなかった。
しかし、7年間の軍生活を送った彼は、結局退役を選んだ。
理由は、故郷に帰って病気の重い父の世話をしたいことと、新しい仕事に挑戦して自分の能力を試してみたいことだったという。
自衛官を辞めた後にもボディーガードがつく生活
日本の自衛隊から退役するのは難しくないが、面倒なのは彼が所属していたグリーンベレー隊員の身分と、かつて実行した任務との関連だった。
彼はソ連のスパイを何度も逮捕したことがあるので、すでにソ連国家保安委員会(KGB)のブラックリストに入っている可能性が高かったし、日本赤軍(反米極左組織)が彼に恨みを抱いている可能性も否定できない。
そのため、米軍は日本の自衛隊が兄貴の退役後の身の安全を保証することを望んだ。自衛隊側も、これから何らかの特別な事件が発生したときに兄貴の力を生かせるかもしれないと考えた。
彼は表向き、軍隊を離れたと言っても、実質的には自衛隊に席がまだ残っていたのだ。
どこへ行っても、後ろにはいつも私服を着た自衛隊員2人がつくことになった。1人は、兄貴のボディーガードとして彼の安全を守るため、もう1人は、自衛隊(警察を含む)が彼とのコミュニケーションを維持するためのチャンネルとして配置された。
彼女とのデートの時もボディーガードがついていったし、夜にバーでお酒を飲むときもボディーガードがそばに座って一緒に飲んだそうである。恐ろしいことに、この気まずい不自由な日々が5年も続いたという。
建設業へ...「先見の明」と勤勉さのおかげで事業は成功
兄貴はその時期、主に東京都内の警察や建設関係の仕事をやっていた。例えば、都内の道路標識を古いものから新しいものに交替する作業などを多くしたという。
完全に「自由の身」になってからは他のいろいろな仕事もやった。80年代の日本経済は躍進し、建築業は先行きが明るいと思ってそれを選んだ。
まず建築現場の労働者から始まり、頑張って多くの建築業界の免許を獲得した。その後、兄貴は請負業者になり、自分の会社を設立し、建設省(現・国土交通省)から受けた建築と道路舗装などの仕事が多かった。
直接に依頼される工事もあれば、間接的な依頼の工事もある。有名な大手建築会社からも多くの仕事をもらったことがあるという。
彼の話によると、当時は昼夜を問わずに仕事をしていた。昼は工事現場の監督をし、夜はオフィスで各種書類を作り、寝る時間はほとんどなかった。
仕事はとても大変だったが、勤勉で、稼いだ金はたっぷりあった。当時、彼が自分で決めた月給は330万円だったらしい。雇っていた労働者に対しても、決してけちをつけず、彼らに他の派遣会社よりも高い給料を払ったそうだ。
贅沢三昧の日々...それも束の間、波乱の展開に
兄貴はこのように大金を稼いだ後、贅沢三昧で放蕩な生活を始めた。
釣りが好きで、釣りの腕はプロ並みだ。彼はニュージーランドで開催されたある釣り大会に出場した。参加費用が30万円かかり、いろんな無人島を回って釣りをやるという、金持ちしかできないゲームだった。
運良く大会で優勝し、2800万円の賞金を獲得したのだという。兄貴はそのお金でニュージーランドの浜辺に別荘と20人乗りの中古のクルーザーを買い、一緒に参加した友人たちと浜辺で数日間思う存分遊んだ。参加者の中には芸能人もいたという。
日本に帰るときに、兄貴は別荘と船の管理を地元の弁護士に任せた。
しかし間もなく、ニュージーランドで大地震があった。そのせいで弁護士は自分のヘリコプターの会社をやむなくたたみ、その負債の穴埋めをするために兄貴の別荘と船を他人に売ってしまったという。新しい購入者が登記しに行ったときにその問題に気づいた。
兄貴も購入者もその弁護士に騙された。本当に思いもよらないことだった。
現在、3000万円を超えるその家はニュージーランドの地元政府の手に握られており、兄貴本人が自ら引き取り手続きをしに行かなければならず、誰も代理ができないようになっている。そのためには旅費と手数料などを合わせて約200万円かかる。
兄貴のその後の境遇は、そんな大金を集めることができなかったので、この案は今日まで解決されていないままだという。
成功していたのに、貧乏になってしまった3つの理由
兄貴は事業が成功し、たくさんのお金を持っているのではないか、どうして急に貧乏になったのか、と疑問に思う読者もいるだろう。
原因は3つある。1つ目は彼が大きい交通事故に遭遇し、車にぶつかられて全身に重傷を負ったことだ。兄貴によれば、治療にかかったお金は1億3000万円。相手の保険会社に負担してもらった。
しかし、問題はお金ではなく、身体への影響だ。30数年経った今でも後遺症が残っている。痛みがたまに出るだけでなく、年に1回その痛みは30分ぐらい続き、意識が突然なくなり頭が真っ白になる時もあるのだという。
2つ目は、親族の事業参加によって損失がもたらされたことだ。兄貴の事業の最盛期に、彼の兄とその息子が入社した。彼らは能力が足りないのに、社長が自分の親族であることで偉そうになった。結局、現場労働者の機嫌を損ねて、取引先の感情を害してしまったことがあった。
3つ目は、工事中の事件や事故が頻繫に発生したという問題だ。兄貴のような請負業者の場合、会社に所属している労働者がいるほか、日雇い労働者を雇うこともよくあるが、彼らを見つける最も簡単な方法はホームレスの中から募集することだという。
これについては、また注意しなければならないことがある。ホームレスの中には悪い人間が混ざっているので、下手をすると何か事件が起こるかもしれない。
兄貴には痛ましい教訓があった。
台東区の北千住、南千住には、今でも多くのホームレスがいる。荒川の千住新橋下の河川敷には、彼らが住みやすい環境が揃っているようだ
雇った日雇い労働者が殺人事件を起こした
ある時、兄貴は山谷からホームレス2人を雇った。山谷は台東区北東部の出稼ぎ労働者の集まる場所であり、以前は犯罪が多い地域でもあった。
結局、仕事をしている間に2人は口論になり、そのうちの1人がナイフでもう1人を刺し殺してしまった。彼は知らせを聞いて現場に駆けつけると、殺人をした男を捉えて警察に通報した。その後、兄貴は殺人容疑者の雇い主として、警察に呼び出され、10日間尋問を受けることになった。
また、別の悩みごともあった。彼が請け負った工事を、別の請負業者に請け負わせたことがある。その業者は規則に違反し、休日にも労働者を働かせ、ある労働者が高所から落ちて死んだ。結局、兄貴は警察に呼ばれ、またも10日間取り調べられ、「注意処分」を受けた。
これらの事件と事故は、会社の業務に影響を与えたに違いない。
要するに、こういったさまざまな原因があり兄貴の事業はだんだん下り坂になっていった。
もちろん、彼の贅沢な生活も何年か経つと終わってしまった。
その後、さらにある突発的な事件が発生し、兄貴の人生はとことん苦難な深淵に落ちていくことになる。
詳しい話は次回に持ち越すことにする。
※ルポ第12話(11月20日公開予定)に続く
(編集協力:中川弘子)
[筆者]
趙海成(チャオ・ハイチェン)
1982年に北京対外貿易学院(現在の対外経済貿易大学)日本語学科を卒業。1985年に来日し、日本大学芸術学部でテレビ理論を専攻。1988年には日本初の在日中国人向け中国語新聞「留学生新聞」の創刊に携わり、初代編集長を10年間務めた。現在はフリーのライター/カメラマンとして活躍している。著書に『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)、『私たちはこうしてゼロから挑戦した──在日中国人14人の成功物語』(アルファベータブックス)などがある。
【動画】樺太から撤退した船がソ連軍から攻撃を受けて沈没
YouTubeチャンネル「シリーズ「樺太を語る」辻力さん(樺太の歴史、後編)」より