ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<いま世界中で複数の肩書きを持つ「スラッシュワーカー」が増えている。若き天才オードリー・タンは提案する。「職業だけでなく生活にもスラッシュを」>
世界的に、複数の肩書きを持つ「スラッシュワーカー」が増えている。
若き天才と呼ばれ、長いキャリアを持つオードリー・タン(唐鳳)も、もちろんその1人――のように思えるが、実は少し違う。オードリーはむしろ「単槓(ダンガン)」だ。
「スラッシュワーカー」なのか「単槓」なのかはともかく、これからの時代に向けたオードリーの提案はこうだ。
「職業だけでなく生活にもスラッシュを入れよう」
本業以外の時間を作ることのメリットやその取り組み方について、最新作『オードリー・タン 私はこう思考する』より、一部を抜粋・再編集して紹介する。(本記事は第3回)。
※第1回:オードリー・タンが語る「独学と孤独」 答案を白紙で提出し、14歳で学校を辞めた天才の思考
※第2回:世界の若者を苦しめる「完璧主義後遺症」...オードリー・タンは「ジグソーパズル」にたどり着いた
◇ ◇ ◇
世界的に増えている「スラッシュワーカー」
2007年、『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムニスト、マーシー・アルボハーの著書『One Person/Multiple Careers : The Original Guide to the Slash Career』(未邦訳)が出版された。
漫画家・ドキュメンタリー監督・経営コンサルタントなど、複数の職業を持つ数百名を取材したものだ。
彼らは一つの職業では満足できず、いくつもの職業を掛け持ちしている。自己紹介をするとき、複数の肩書きや身分、収入源があると示すために、職業をスラッシュで区切って並べることから、「スラッシュワーカー」と呼ばれる。
この言葉は当初、ベンチャー業界や若者の間で流行したのち世界的に広まっていった。よりよい働き方や生き方を模索する多くの若者だけでなく、ベテランの労働者にも影響を与えた。長年、生活を犠牲にして必死で働いてきた彼らが、自分のやりたかったことを思い出し、生活の充実を求めて副業を始めるようになった。
普通の人からすれば、オードリーこそ「スラッシュ族」(中国語で斜槓(シエガン)族)の代表に見えるだろう。
14歳で学校を中退したのち、独学をしながら仕事を始め、一般的な人よりおよそ10年も長いキャリアを持っている。豊富な業務経験からいくつもの肩書きがある。元デジタル担当大臣であり、市民ハッカー。右手でプログラムを書き、左手で詩を書く。世界の七つのNGOにも参加している。
オードリーの名刺に所属する組織を書こうとすれば、肩書きが七つも八つも並ぶことになる。
彼女は14歳のときから、「ネット上では、人はなぜすぐに相手を信頼したり憎んだりするのか」というテーマに深い興味を抱き、研究を続けてきた。しかし、このテーマはあまりに大きく、また参考にできる研究もなかった。そこで、自分でプログラムを書いていくつものコミュニティを立ち上げ、そのなかで人々がどう関わり合うかを観察したり、別の人が作ったコミュニティに参加したりするようになった。多くの国際NGOに参加する理由がそれだ。
オードリーはスラッシュ族なのか
オードリーはいかにも「スラッシュ族」に見えるが、実際には「単槓(ダンガン)」(中国語では体操競技の鉄棒の意)、つまり一つのテーマを徹底的に追及するタイプだ。
14歳から今に至るまで、テーマを変えることなく研究を続けている。名刺に肩書きではなく研究テーマだけを書くなら、そこにスラッシュは入らない。
オードリーが参加する七つのNGOは、オランダ・ニューヨーク・スペインなどを拠点としているため、それぞれの土地に社会的なネットワークを持っている。七つのNGOが理事会を開くのは多くて四半期に一度、あるいは半年に一度くらいだ。オードリーにとっては、時間的な負担は少ない割に大きなメリットがある。
NGOごとに異なる人脈ができ、互いに力を貸し合ったり、知識を共有したりできることだ。「パンデミック後の世界はどう変わるか」といったテーマや、長年研究してきたテーマについて討論すれば、七つの異なる視点からの意見を聞ける。今までとは違う視界が開け、新たな世界に触れることができるのだ。
もはや「スラッシュ族」はごく一般的な働き方になっているが、数年も経てば、職業や肩書きではなく、探求するテーマそのものがアイデンティティになる時代が来ると考えられる。
かつての「一つの会社に勤め上げる」という考えはもはや消えつつあるし、退職金も期待できない。そんな時代だからこそ、会社から与えられた肩書きではなく「自分が何に興味を持ち、何を専門にしているか」によって評価されたいと考える人が増える。
専門分野を追求する人、すなわち「単槓」こそが特別な存在として尊重されるようになるだろう。
一つの分野に専念し、徹底的に掘り下げていける人は決して多くない。数が少なければ、それだけ重視されるはずだ。
本業以外に20パーセントの時間を使う
では、「スラッシュ族」としての能力を磨くにはどうすればいいのか。まずは、とにかく好奇心を持ち続けることだ。好奇心の向く方向と、実際に何を学び、どんな技能を習得するかは直接の関係があるわけではない。何か一つのことに興味を持ったら、その背後には無数の技能と学問が存在する。
好奇心とは、ただ単に疑問の答えを見つけることではない。大事なのは好奇心を失わず、探求し続けることだ。
今の時代は程度の差はあれ、誰もが「スラッシュ族」の一面を持っている。これはテクノロジーの恩恵によるところが大きい。かつてはチャンスや人脈を手に入れるために今の仕事や家庭を犠牲にせざるを得なかったが、現在では多くの人がネット上でチャンスや人脈をつかんでいる。これも「スラッシュ族」が増え続ける一因だ。
オードリーは「職業だけでなく生活にもスラッシュを入れよう」と提案する。今、あなたが専業で働いているとしたら、自分のために20パーセントの時間を確保し、本業以外のコミュニティにその時間を使う。そうすることで少しずつ新たな人脈や専門知識を手に入れることができる。
決して複数の収入源を持つべきだという意味ではない。本業以外に自分を見つめ直したり、興味のあることを楽しんだりする時間を作ろうという話だ。
本業以外の時間を作ることのメリット
自分のための時間を作ることは、現在の仕事にもメリットがある。今の時代、どんな仕事をするにもジャンルを超えた「クロスオーバー思考」が求められるようになっている。スラッシュ生活で得た経験は、本業でも意外な発想や気づきのもとになるかもしれない。
オードリーがスペインのNGOに参加しているのは、EUやOECDとのつながりがあるからだ。台湾はこれらの組織の会員ではないため、「行政院のデジタル発展相」という立場では活動に関わることができない。しかし、NGOのメンバーという立場でなら参加できる。これは最大のメリットだ。
本業の仕事がすっかり嫌になって、ある日突然行方をくらましたり、世界一周の旅に出てしまったりする人がいる。だが、長い間カゴのなかに閉じ込められていて、急に扉が開いたらどうなるか。たいていの人は世界の広さに驚き、どこへ行くべきか見当もつかない。世界一周の旅に出たとしても、帰ってきたあと、次の一歩の踏みだし方がわからない。
こんなとき、本業以外のコミュニティで作り上げた人脈があれば、休職しようと退職して旅に出ようと、自分を受け入れてくれる場所は必ずあると信じられる。行くところがあると思えば、迷って呆然とすることもない。
趣味の追求や人脈の拡大のために20パーセントの時間を確保していれば、仕事を辞めたとき、それが60パーセントに増えたり、次の仕事につながったりすることもありえる。これまでの仕事の価値が損なわれるわけではなく、同じ価値を生むために進む方向が少し変わっただけなのだ。
『オードリー・タン 私はこう思考する』
オードリー・タン [語り]
楊倩蓉[取材・執筆]
藤原由希[翻訳]
かんき出版
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オードリー・タン
元台湾デジタル担当政務委員(閣僚)。台湾初のデジタル大臣、台湾の無任所大使である。1981年、台湾台北市生まれ。幼少時から独学でプログラミングを学習。14歳で中学校を自主退学、プログラマーとしてスタートアップ企業数社を設立。19歳のとき、シリコンバレーでソフトウエア会社を起業する。2005年、プログラミング言語Perl6開発への貢献で世界から注目を浴びる。トランスジェンダーであることを公表。2014年、米アップルでデジタル顧問に就任、Siriなどの人工知能プロジェクトに加わる。その後、ビジネスの世界から引退。蔡英文政権において、35歳の史上最年少で行政院(内閣)に入閣、デジタル政務委員に登用され、部門を超えて行政や政治のデジタル化を主導する役割を担った。2019年、アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』のグローバル思想家100人に選出。台湾の新型コロナウイルス対応では、マスク在庫管理システムを構築、感染拡大防止に大きく寄与した。
<いま世界中で複数の肩書きを持つ「スラッシュワーカー」が増えている。若き天才オードリー・タンは提案する。「職業だけでなく生活にもスラッシュを」>
世界的に、複数の肩書きを持つ「スラッシュワーカー」が増えている。
若き天才と呼ばれ、長いキャリアを持つオードリー・タン(唐鳳)も、もちろんその1人――のように思えるが、実は少し違う。オードリーはむしろ「単槓(ダンガン)」だ。
「スラッシュワーカー」なのか「単槓」なのかはともかく、これからの時代に向けたオードリーの提案はこうだ。
「職業だけでなく生活にもスラッシュを入れよう」
本業以外の時間を作ることのメリットやその取り組み方について、最新作『オードリー・タン 私はこう思考する』より、一部を抜粋・再編集して紹介する。(本記事は第3回)。
※第1回:オードリー・タンが語る「独学と孤独」 答案を白紙で提出し、14歳で学校を辞めた天才の思考
※第2回:世界の若者を苦しめる「完璧主義後遺症」...オードリー・タンは「ジグソーパズル」にたどり着いた
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世界的に増えている「スラッシュワーカー」
2007年、『ニューヨーク・タイムズ』紙のコラムニスト、マーシー・アルボハーの著書『One Person/Multiple Careers : The Original Guide to the Slash Career』(未邦訳)が出版された。
漫画家・ドキュメンタリー監督・経営コンサルタントなど、複数の職業を持つ数百名を取材したものだ。
彼らは一つの職業では満足できず、いくつもの職業を掛け持ちしている。自己紹介をするとき、複数の肩書きや身分、収入源があると示すために、職業をスラッシュで区切って並べることから、「スラッシュワーカー」と呼ばれる。
この言葉は当初、ベンチャー業界や若者の間で流行したのち世界的に広まっていった。よりよい働き方や生き方を模索する多くの若者だけでなく、ベテランの労働者にも影響を与えた。長年、生活を犠牲にして必死で働いてきた彼らが、自分のやりたかったことを思い出し、生活の充実を求めて副業を始めるようになった。
普通の人からすれば、オードリーこそ「スラッシュ族」(中国語で斜槓(シエガン)族)の代表に見えるだろう。
14歳で学校を中退したのち、独学をしながら仕事を始め、一般的な人よりおよそ10年も長いキャリアを持っている。豊富な業務経験からいくつもの肩書きがある。元デジタル担当大臣であり、市民ハッカー。右手でプログラムを書き、左手で詩を書く。世界の七つのNGOにも参加している。
オードリーの名刺に所属する組織を書こうとすれば、肩書きが七つも八つも並ぶことになる。
彼女は14歳のときから、「ネット上では、人はなぜすぐに相手を信頼したり憎んだりするのか」というテーマに深い興味を抱き、研究を続けてきた。しかし、このテーマはあまりに大きく、また参考にできる研究もなかった。そこで、自分でプログラムを書いていくつものコミュニティを立ち上げ、そのなかで人々がどう関わり合うかを観察したり、別の人が作ったコミュニティに参加したりするようになった。多くの国際NGOに参加する理由がそれだ。
オードリーはスラッシュ族なのか
オードリーはいかにも「スラッシュ族」に見えるが、実際には「単槓(ダンガン)」(中国語では体操競技の鉄棒の意)、つまり一つのテーマを徹底的に追及するタイプだ。
14歳から今に至るまで、テーマを変えることなく研究を続けている。名刺に肩書きではなく研究テーマだけを書くなら、そこにスラッシュは入らない。
オードリーが参加する七つのNGOは、オランダ・ニューヨーク・スペインなどを拠点としているため、それぞれの土地に社会的なネットワークを持っている。七つのNGOが理事会を開くのは多くて四半期に一度、あるいは半年に一度くらいだ。オードリーにとっては、時間的な負担は少ない割に大きなメリットがある。
NGOごとに異なる人脈ができ、互いに力を貸し合ったり、知識を共有したりできることだ。「パンデミック後の世界はどう変わるか」といったテーマや、長年研究してきたテーマについて討論すれば、七つの異なる視点からの意見を聞ける。今までとは違う視界が開け、新たな世界に触れることができるのだ。
もはや「スラッシュ族」はごく一般的な働き方になっているが、数年も経てば、職業や肩書きではなく、探求するテーマそのものがアイデンティティになる時代が来ると考えられる。
かつての「一つの会社に勤め上げる」という考えはもはや消えつつあるし、退職金も期待できない。そんな時代だからこそ、会社から与えられた肩書きではなく「自分が何に興味を持ち、何を専門にしているか」によって評価されたいと考える人が増える。
専門分野を追求する人、すなわち「単槓」こそが特別な存在として尊重されるようになるだろう。
一つの分野に専念し、徹底的に掘り下げていける人は決して多くない。数が少なければ、それだけ重視されるはずだ。
本業以外に20パーセントの時間を使う
では、「スラッシュ族」としての能力を磨くにはどうすればいいのか。まずは、とにかく好奇心を持ち続けることだ。好奇心の向く方向と、実際に何を学び、どんな技能を習得するかは直接の関係があるわけではない。何か一つのことに興味を持ったら、その背後には無数の技能と学問が存在する。
好奇心とは、ただ単に疑問の答えを見つけることではない。大事なのは好奇心を失わず、探求し続けることだ。
今の時代は程度の差はあれ、誰もが「スラッシュ族」の一面を持っている。これはテクノロジーの恩恵によるところが大きい。かつてはチャンスや人脈を手に入れるために今の仕事や家庭を犠牲にせざるを得なかったが、現在では多くの人がネット上でチャンスや人脈をつかんでいる。これも「スラッシュ族」が増え続ける一因だ。
オードリーは「職業だけでなく生活にもスラッシュを入れよう」と提案する。今、あなたが専業で働いているとしたら、自分のために20パーセントの時間を確保し、本業以外のコミュニティにその時間を使う。そうすることで少しずつ新たな人脈や専門知識を手に入れることができる。
決して複数の収入源を持つべきだという意味ではない。本業以外に自分を見つめ直したり、興味のあることを楽しんだりする時間を作ろうという話だ。
本業以外の時間を作ることのメリット
自分のための時間を作ることは、現在の仕事にもメリットがある。今の時代、どんな仕事をするにもジャンルを超えた「クロスオーバー思考」が求められるようになっている。スラッシュ生活で得た経験は、本業でも意外な発想や気づきのもとになるかもしれない。
オードリーがスペインのNGOに参加しているのは、EUやOECDとのつながりがあるからだ。台湾はこれらの組織の会員ではないため、「行政院のデジタル発展相」という立場では活動に関わることができない。しかし、NGOのメンバーという立場でなら参加できる。これは最大のメリットだ。
本業の仕事がすっかり嫌になって、ある日突然行方をくらましたり、世界一周の旅に出てしまったりする人がいる。だが、長い間カゴのなかに閉じ込められていて、急に扉が開いたらどうなるか。たいていの人は世界の広さに驚き、どこへ行くべきか見当もつかない。世界一周の旅に出たとしても、帰ってきたあと、次の一歩の踏みだし方がわからない。
こんなとき、本業以外のコミュニティで作り上げた人脈があれば、休職しようと退職して旅に出ようと、自分を受け入れてくれる場所は必ずあると信じられる。行くところがあると思えば、迷って呆然とすることもない。
趣味の追求や人脈の拡大のために20パーセントの時間を確保していれば、仕事を辞めたとき、それが60パーセントに増えたり、次の仕事につながったりすることもありえる。これまでの仕事の価値が損なわれるわけではなく、同じ価値を生むために進む方向が少し変わっただけなのだ。
『オードリー・タン 私はこう思考する』
オードリー・タン [語り]
楊倩蓉[取材・執筆]
藤原由希[翻訳]
かんき出版
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オードリー・タン
元台湾デジタル担当政務委員(閣僚)。台湾初のデジタル大臣、台湾の無任所大使である。1981年、台湾台北市生まれ。幼少時から独学でプログラミングを学習。14歳で中学校を自主退学、プログラマーとしてスタートアップ企業数社を設立。19歳のとき、シリコンバレーでソフトウエア会社を起業する。2005年、プログラミング言語Perl6開発への貢献で世界から注目を浴びる。トランスジェンダーであることを公表。2014年、米アップルでデジタル顧問に就任、Siriなどの人工知能プロジェクトに加わる。その後、ビジネスの世界から引退。蔡英文政権において、35歳の史上最年少で行政院(内閣)に入閣、デジタル政務委員に登用され、部門を超えて行政や政治のデジタル化を主導する役割を担った。2019年、アメリカの外交専門誌『フォーリン・ポリシー』のグローバル思想家100人に選出。台湾の新型コロナウイルス対応では、マスク在庫管理システムを構築、感染拡大防止に大きく寄与した。