ホンダ・アキノ(編集者) アステイオン
<「釈迦の推し活」に励む古舘伊知郎氏、AIブッダボットの開発、寺院のYouTube配信...。変わりゆく世界を生きる中で感じた「釈迦の仏教」の可能性とは>
「釈迦の仏教が漢方薬だとしたら、大乗仏教はりんごジュースです」と語るのは40代で「釈迦の仏教」に目覚めた「喋り屋」古舘伊知郎さんである。
その古舘氏と「仏教学の第一人者」佐々木閑氏の共著、という組み合わせにそそられて『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』を読むうちに、仏教の柔軟性と、そこにみる新たな可能性について思い巡らすことになった。
浄土宗や日蓮宗や禅宗など日本人が親しんでいる大乗仏教と、約2500年前にブッダがはじめた初期の仏教、いわゆる原始仏教とは、じつは教えがずいぶん異なる――たとえば修行によって煩悩を除き、悟りをひらいて涅槃に至ることを目指した釈迦の仏教に対して、大乗仏教では一切衆生が生まれながらに仏となれる素質をもっていると説く――のだが、本書では誰もが老・病・死に向き合わねばならない人生の後半に、釈迦の仏教こそが穏やかに生きるヒントをくれる、という主張がさまざまな切り口から語られる。
「釈迦の推し活」を自認する古舘さんは、仏教への深い造詣や飽くなき向学心を巧みな喋りの端々に滲ませる一方で、やっぱり死が怖い、自我や欲が強く煩悩の極みでブレまくっている、仏教を語り過ぎて友人が離れていく......などと嘆きながら、しかし、なぜか切実さは感じられない。
どうも仏教についてあれこれ喋る、いわば「仏教する」ことの醍醐味を満喫しているようでもある。悟りを求めたり、どれが正しいとか間違っているとか決着をつけたりする目的はそこにはなさそうだ。
なにやら二人で仏教するライブの実況中継で、チケット代(本代)に十分見合う刺激に満ちたトークを楽しませてもらった感もある。
こういった対話ならではの妙味は、意図せず仏教のおおらかさを浮き彫りにする。絶対唯一の神をもたない仏教は、キリスト教の聖書やイスラム教のクルアーンなどと違い、経典も数えきれないほどある。
また日本の仏教は、大陸からの受け入れや分派を経て何十もの宗派に分かれており、それだけに解釈やアレンジの余地も大きい。
この点は危険と隣り合わせで要注意ではあるが、これほど間口が広く、寛容な宗教も珍しいのではないか。「釈迦の推し活」という立場を手にしてあんなに熱中して喋ることができる古舘さんは、すでに半ば救われているのではとさえ思えてしまう。
じつは私も釈迦の仏教に惹かれている一人である。かねて興味のあった仏教を意識して学び始めたのが数年前、大きな助けとなったのが佐々木閑氏のYouTubeであった。
佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(1)/Shizuka Sasaki
コロナ禍で大学の授業がオンラインになったのを機に一般にも門戸を開いて始められた講座で、仏教の成り立ちを皮切りに数々のシリーズを経て今なお続いている偉業である。
1回15分ほどの講座が数日ごとに更新されるのが待ち遠しく、ノートをとりながら学ぶうち、古舘さんと同様、釈迦の仏教にもっとも親和性を感じるようになった。
80歳まで生きたブッダという人間の魅力もさることながら、たとえば念仏を唱えれば万人が救われて死ぬときは阿弥陀さまのお迎えで浄土に連れていってもらえる――という話を信じられればよいのだが、それ以上に、ものごとを因果関係でとらえ、精神を集中して自らを観察し、心のありようや持ち方を変えていく訓練によって苦から脱して穏やかな境地に向かうという、ある意味で合理的なブッダの教えがより胸にストンときたからでもある。
原始仏教といえば中村元氏(1912-99)を外すことはできない。インド哲学や東洋思想の大家で、初期仏典をパーリ語など原典から初めて現代語訳したほか、膨大な著作をのこした。
その中に『学問の開拓』という一冊がある。仏教書というより、生い立ちから学問にめざめ、一心に研究に打ち込んでいく過程が綴られた自伝に近い。
「人間は、思想なしには、生きていくことはできない」という氏は、心の不安や煩悶を抱えていたときに、奥深さとともに温かさを感じさせるインドから仏教の哲学思想に魅きつけられたという。
そして最初期の仏教には「人として歩むべき道が釈尊によって単純に、素朴な形で説かれている」と語る。
そのうえで、人間は行為に関しては選択、決定をなす能力があるという視点から未来の問題を考えることが肝要だとし、そこで原則とすべきは「他の人を傷つけない」こと、すなわち「他人の身になって考えることであり、同情であり、共感的であり、愛情であるといえる。仏教ではこれを『慈悲』と呼んでいる」と述べる。
あたかも修行のごとき学問研究の果てに中村氏が辿りついた結論は、立場や考えが異なる人たちへの寛容の精神と慈悲の心であった。
40年近く前に書かれたものだが、2500年の歴史に耐えてきた釈迦の教えを底辺におき、現代の人間や社会のあるべき姿に厳しくも温かいまなざしをそそいだ本書は、これ自体が人生の指針となる経典のようでさえある。
さて現代。デジタルによって幸福になれると思い込んでいた人間が「デジタル社会は自分を縛る枷だと思い至った瞬間から、そこに身を置くことが苦しみとなり、そこからの脱出を願うようになる。それが、輪廻から逃れたいという釈迦の動機と重なります」と佐々木氏はいう。
一方で、ブッダの言葉とAIを組み合わせて現代人の悩みに答えるブッダボットの開発が進んでいる。今や全国の寺院から法話がYouTubeで配信されるようになり、私も「ながら聞き」することが日常となった。
伝え手や手法によって仏教は縦横無尽に表情を変える。受け手側の器も問われてくるだろう。今後デジタル社会が進んで仏教の垣根が低くなるにつれ、「釈迦の仏教」も新たな局面を迎えざるをえない。
ひるがえって、誰しもが歳をとり、老・病・死が我が事としてせまってこざるを得ない人間と同様、多くの環境問題や終わらない戦闘など、近代までは発展をし続けてきたかにみえるこの世界や地球も、どこか「生きる」ことに苦しみ、「老い」や「病」を抱え、「死」(自滅?)に向かっているとすら感じさせる。
人の心のありようで地球がどれだけ平穏を取り戻せるか。武力によらず説得のみによって広まった宗教は仏教だけと中村氏は語る。寛容と慈悲を選択や決定の原則とすれば争いが起こるわけもなく、執着や怒りや恐れなどからくる戦いもなくなる筈だ。
欲望を制御できれば環境破壊に歯止めをかけうるだろう。心が変われば世界が変わる。そこにもまた、釈迦の仏教の可能性は無限に広がっていると思われるのである。
ホンダ・アキノ(Akino Honda)
大阪府生まれ。奈良女子大学文学部史学科卒業後、京都大学大学院で美学美術史を学ぶ。修士課程を修了し京都新聞社に入社。支局記者を経て出版社へ。雑誌やムック、書籍の編集に長年携わったのち2020年フリーとなる。仏教に導かれて、今は日本の飛鳥時代と東アジアの関わりなどについて調べている。著書に『二人の美術記者――井上靖と司馬遼太郎』(平凡社)。最新刊は『夏目漱石 美術を見る眼』(平凡社)。
『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』
古舘伊知郎・佐々木閑[著]
PHP研究所[刊]
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『学問の開拓』
中村元[著]
ハーベスト出版[刊]
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ホンダ・アキノ[著]
平凡社[刊]
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)
<「釈迦の推し活」に励む古舘伊知郎氏、AIブッダボットの開発、寺院のYouTube配信...。変わりゆく世界を生きる中で感じた「釈迦の仏教」の可能性とは>
「釈迦の仏教が漢方薬だとしたら、大乗仏教はりんごジュースです」と語るのは40代で「釈迦の仏教」に目覚めた「喋り屋」古舘伊知郎さんである。
その古舘氏と「仏教学の第一人者」佐々木閑氏の共著、という組み合わせにそそられて『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』を読むうちに、仏教の柔軟性と、そこにみる新たな可能性について思い巡らすことになった。
浄土宗や日蓮宗や禅宗など日本人が親しんでいる大乗仏教と、約2500年前にブッダがはじめた初期の仏教、いわゆる原始仏教とは、じつは教えがずいぶん異なる――たとえば修行によって煩悩を除き、悟りをひらいて涅槃に至ることを目指した釈迦の仏教に対して、大乗仏教では一切衆生が生まれながらに仏となれる素質をもっていると説く――のだが、本書では誰もが老・病・死に向き合わねばならない人生の後半に、釈迦の仏教こそが穏やかに生きるヒントをくれる、という主張がさまざまな切り口から語られる。
「釈迦の推し活」を自認する古舘さんは、仏教への深い造詣や飽くなき向学心を巧みな喋りの端々に滲ませる一方で、やっぱり死が怖い、自我や欲が強く煩悩の極みでブレまくっている、仏教を語り過ぎて友人が離れていく......などと嘆きながら、しかし、なぜか切実さは感じられない。
どうも仏教についてあれこれ喋る、いわば「仏教する」ことの醍醐味を満喫しているようでもある。悟りを求めたり、どれが正しいとか間違っているとか決着をつけたりする目的はそこにはなさそうだ。
なにやら二人で仏教するライブの実況中継で、チケット代(本代)に十分見合う刺激に満ちたトークを楽しませてもらった感もある。
こういった対話ならではの妙味は、意図せず仏教のおおらかさを浮き彫りにする。絶対唯一の神をもたない仏教は、キリスト教の聖書やイスラム教のクルアーンなどと違い、経典も数えきれないほどある。
また日本の仏教は、大陸からの受け入れや分派を経て何十もの宗派に分かれており、それだけに解釈やアレンジの余地も大きい。
この点は危険と隣り合わせで要注意ではあるが、これほど間口が広く、寛容な宗教も珍しいのではないか。「釈迦の推し活」という立場を手にしてあんなに熱中して喋ることができる古舘さんは、すでに半ば救われているのではとさえ思えてしまう。
じつは私も釈迦の仏教に惹かれている一人である。かねて興味のあった仏教を意識して学び始めたのが数年前、大きな助けとなったのが佐々木閑氏のYouTubeであった。
佐々木閑「仏教哲学の世界観」1-(1)/Shizuka Sasaki
コロナ禍で大学の授業がオンラインになったのを機に一般にも門戸を開いて始められた講座で、仏教の成り立ちを皮切りに数々のシリーズを経て今なお続いている偉業である。
1回15分ほどの講座が数日ごとに更新されるのが待ち遠しく、ノートをとりながら学ぶうち、古舘さんと同様、釈迦の仏教にもっとも親和性を感じるようになった。
80歳まで生きたブッダという人間の魅力もさることながら、たとえば念仏を唱えれば万人が救われて死ぬときは阿弥陀さまのお迎えで浄土に連れていってもらえる――という話を信じられればよいのだが、それ以上に、ものごとを因果関係でとらえ、精神を集中して自らを観察し、心のありようや持ち方を変えていく訓練によって苦から脱して穏やかな境地に向かうという、ある意味で合理的なブッダの教えがより胸にストンときたからでもある。
原始仏教といえば中村元氏(1912-99)を外すことはできない。インド哲学や東洋思想の大家で、初期仏典をパーリ語など原典から初めて現代語訳したほか、膨大な著作をのこした。
その中に『学問の開拓』という一冊がある。仏教書というより、生い立ちから学問にめざめ、一心に研究に打ち込んでいく過程が綴られた自伝に近い。
「人間は、思想なしには、生きていくことはできない」という氏は、心の不安や煩悶を抱えていたときに、奥深さとともに温かさを感じさせるインドから仏教の哲学思想に魅きつけられたという。
そして最初期の仏教には「人として歩むべき道が釈尊によって単純に、素朴な形で説かれている」と語る。
そのうえで、人間は行為に関しては選択、決定をなす能力があるという視点から未来の問題を考えることが肝要だとし、そこで原則とすべきは「他の人を傷つけない」こと、すなわち「他人の身になって考えることであり、同情であり、共感的であり、愛情であるといえる。仏教ではこれを『慈悲』と呼んでいる」と述べる。
あたかも修行のごとき学問研究の果てに中村氏が辿りついた結論は、立場や考えが異なる人たちへの寛容の精神と慈悲の心であった。
40年近く前に書かれたものだが、2500年の歴史に耐えてきた釈迦の教えを底辺におき、現代の人間や社会のあるべき姿に厳しくも温かいまなざしをそそいだ本書は、これ自体が人生の指針となる経典のようでさえある。
さて現代。デジタルによって幸福になれると思い込んでいた人間が「デジタル社会は自分を縛る枷だと思い至った瞬間から、そこに身を置くことが苦しみとなり、そこからの脱出を願うようになる。それが、輪廻から逃れたいという釈迦の動機と重なります」と佐々木氏はいう。
一方で、ブッダの言葉とAIを組み合わせて現代人の悩みに答えるブッダボットの開発が進んでいる。今や全国の寺院から法話がYouTubeで配信されるようになり、私も「ながら聞き」することが日常となった。
伝え手や手法によって仏教は縦横無尽に表情を変える。受け手側の器も問われてくるだろう。今後デジタル社会が進んで仏教の垣根が低くなるにつれ、「釈迦の仏教」も新たな局面を迎えざるをえない。
ひるがえって、誰しもが歳をとり、老・病・死が我が事としてせまってこざるを得ない人間と同様、多くの環境問題や終わらない戦闘など、近代までは発展をし続けてきたかにみえるこの世界や地球も、どこか「生きる」ことに苦しみ、「老い」や「病」を抱え、「死」(自滅?)に向かっているとすら感じさせる。
人の心のありようで地球がどれだけ平穏を取り戻せるか。武力によらず説得のみによって広まった宗教は仏教だけと中村氏は語る。寛容と慈悲を選択や決定の原則とすれば争いが起こるわけもなく、執着や怒りや恐れなどからくる戦いもなくなる筈だ。
欲望を制御できれば環境破壊に歯止めをかけうるだろう。心が変われば世界が変わる。そこにもまた、釈迦の仏教の可能性は無限に広がっていると思われるのである。
ホンダ・アキノ(Akino Honda)
大阪府生まれ。奈良女子大学文学部史学科卒業後、京都大学大学院で美学美術史を学ぶ。修士課程を修了し京都新聞社に入社。支局記者を経て出版社へ。雑誌やムック、書籍の編集に長年携わったのち2020年フリーとなる。仏教に導かれて、今は日本の飛鳥時代と東アジアの関わりなどについて調べている。著書に『二人の美術記者――井上靖と司馬遼太郎』(平凡社)。最新刊は『夏目漱石 美術を見る眼』(平凡社)。
『人生後半、そろそろ仏教にふれよう』
古舘伊知郎・佐々木閑[著]
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『学問の開拓』
中村元[著]
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ホンダ・アキノ[著]
平凡社[刊]
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