グレン・カール
<元CIA工作員の筆者が、かつての敵国ベトナムを訪問して発見した対米関係の発展ぶりと成長エンジンの若い力、そして北方の「あの国」の影>
私たちは、ベトナムの首都ハノイの最も古いカフェでベトナム流のラテアートを施したカフェラテを味わっていた。カフェの唯一の窓からは、優雅な赤い歩道橋が見える。最近、私をベトナムの旅へ招いてくれた話し相手のベトナム人女性は、いま自分たちの国がいかに活気に満ちているかを強調した。
「マルクス主義、共産主義......そうしたものは、現在の私たちとは全く関係がない。いま私たちは......外の世界に目を向けたいと思っている」
この国で激しい戦争が戦われたのは、もはや遠い昔の話。社会主義は、脱植民地化の手だてとしての輝きをすっかり失った。
しかし、アルジェリアでの飛行機事故がなければ、ベトナムとアメリカはこれほど辛い歴史をたどらなかったかもしれない。
1945年3月、フランスの指導者シャルル・ド・ゴールは、最も信頼していたフィリップ・ルクレール将軍をハノイに派遣し、ホー・チ・ミンとの独立要求と戦争の脅しに対する解決策を模索した。46年までに、ルクレールはホーとの和解とインドシナの独立を進めようとしていた。
しかし47年、ルクレールの乗った飛行機はアルジェリアの砂嵐で墜落し、乗員全員が死亡。ルクレールの死後、厳格な植民地主義者で反共産主義者のティエリー・ダルジャンリュー提督がハノイの責任者になった。ダルジャンリューはホーとの協力を断固として拒否した。
そして20年間の戦争が始まり、1947~75年の間に命を落としたベトナム人は300万人以上。途中からフランスに代わってアメリカが戦争の主な当事者になると、多くの米兵がベトナムのジャングルや山岳地帯で死亡した。私のボストンの家の近所に住んでいた1人は顔面を吹き飛ばされ、別の1人はジャングルかトンネルで戦死した。
私は南部の主要都市ホーチミン近郊の地下に張り巡らされた「クチ・トンネル」を訪ね、大人1人が身をかがめてぎりぎり通れる程度の狭い地下道で悪戦苦闘しながら、こうした歴史に思いをはせていた。
「共産主義者たちはとても『ハード』でした」
総距離250キロに及ぶ手掘りのトンネルは、今でこそ観光スポットになっているが、ベトナム戦争当時は南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が米軍などとの戦いの拠点として用い、ゲリラ戦の激戦地になった。これまでに私が訪れた戦跡の中では、第1次大戦の戦場であるフランスのベルダンと並んで最も気がめいる場所だ。
ベトナム人のガイドたちは職務に忠実に、おおむねバランスの取れた説明をしつつ、民主主義、人権、経済的機会、個人の主体性についても語った。「大学生になって初めて選挙に行くと、既に教授が学生全員の票を共産党の候補に投票していました」と、あるガイドは言った。「これがこの国の民主主義の現実です」
「(共産主義者たちは)とても『ハード』でした」。南部でガイドしてくれた人物はそう言うと、言葉を選ぶように一瞬沈黙した。「そう......とても強い姿勢で私たちに接したのです。長い間、私たちにはチャンスがありませんでした」
ベトナムの経済は好調に見えると私が指摘すると、このガイドは言った。「私たちの国では、ほかの途上国やアメリカと違って、物乞いの姿を見ることがありません。働かないベトナム人はいません。必ず道はある。もし職がなければ、自分で仕事をつくればいいのです」
しなやかで柔軟性のある「バンブー外交」
経済の好調ぶりはデータにも表れている。86年に始まった経済自由化政策「ドイモイ(刷新)」の下、今やベトナムはアジアで最も速いペースで中流層と富裕層が増加している国になった。国民1人当たりの所得はこの10年で8倍に増加。かつて戦火を交えたアメリカとの貿易額も、02年の30億ドルから1400億ドルへと飛躍的に増えている。過去5年間で対米輸出は230%増加、輸入は175%増加した。ベトナムの対米輸出の最大の品目は、経済大国となるための「登竜門」と言えるハイエンドの機械と工具だ。1人当たりのGDPは2004年以来、8倍になった。
もちろん、北の隣国である中国の存在感は無視できない。アメリカと中国の両方とうまくやっていくことが不可欠だ。
その点、ベトナムは米中両国と「包括的戦略パートナーシップ」を結ぶなどして、竹(バンブー)のようにしなやかで柔軟性のある「バンブー外交」を実践してきた。米中間の緊張が高まっている状況も自国経済の追い風にしている。18年にアメリカのトランプ政権が対中関税を引き上げて以降、ベトナムの対米輸出は大幅に増加した。
ベトナムの人口の半分は30歳以下だ。地下トンネルと戦争の歴史は遠い過去の記憶になりつつある。これからは、ベトナムの新しい世代の力によって、活力のある経済と自由な社会が築かれていくのだろう。
<元CIA工作員の筆者が、かつての敵国ベトナムを訪問して発見した対米関係の発展ぶりと成長エンジンの若い力、そして北方の「あの国」の影>
私たちは、ベトナムの首都ハノイの最も古いカフェでベトナム流のラテアートを施したカフェラテを味わっていた。カフェの唯一の窓からは、優雅な赤い歩道橋が見える。最近、私をベトナムの旅へ招いてくれた話し相手のベトナム人女性は、いま自分たちの国がいかに活気に満ちているかを強調した。
「マルクス主義、共産主義......そうしたものは、現在の私たちとは全く関係がない。いま私たちは......外の世界に目を向けたいと思っている」
この国で激しい戦争が戦われたのは、もはや遠い昔の話。社会主義は、脱植民地化の手だてとしての輝きをすっかり失った。
しかし、アルジェリアでの飛行機事故がなければ、ベトナムとアメリカはこれほど辛い歴史をたどらなかったかもしれない。
1945年3月、フランスの指導者シャルル・ド・ゴールは、最も信頼していたフィリップ・ルクレール将軍をハノイに派遣し、ホー・チ・ミンとの独立要求と戦争の脅しに対する解決策を模索した。46年までに、ルクレールはホーとの和解とインドシナの独立を進めようとしていた。
しかし47年、ルクレールの乗った飛行機はアルジェリアの砂嵐で墜落し、乗員全員が死亡。ルクレールの死後、厳格な植民地主義者で反共産主義者のティエリー・ダルジャンリュー提督がハノイの責任者になった。ダルジャンリューはホーとの協力を断固として拒否した。
そして20年間の戦争が始まり、1947~75年の間に命を落としたベトナム人は300万人以上。途中からフランスに代わってアメリカが戦争の主な当事者になると、多くの米兵がベトナムのジャングルや山岳地帯で死亡した。私のボストンの家の近所に住んでいた1人は顔面を吹き飛ばされ、別の1人はジャングルかトンネルで戦死した。
私は南部の主要都市ホーチミン近郊の地下に張り巡らされた「クチ・トンネル」を訪ね、大人1人が身をかがめてぎりぎり通れる程度の狭い地下道で悪戦苦闘しながら、こうした歴史に思いをはせていた。
「共産主義者たちはとても『ハード』でした」
総距離250キロに及ぶ手掘りのトンネルは、今でこそ観光スポットになっているが、ベトナム戦争当時は南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)が米軍などとの戦いの拠点として用い、ゲリラ戦の激戦地になった。これまでに私が訪れた戦跡の中では、第1次大戦の戦場であるフランスのベルダンと並んで最も気がめいる場所だ。
ベトナム人のガイドたちは職務に忠実に、おおむねバランスの取れた説明をしつつ、民主主義、人権、経済的機会、個人の主体性についても語った。「大学生になって初めて選挙に行くと、既に教授が学生全員の票を共産党の候補に投票していました」と、あるガイドは言った。「これがこの国の民主主義の現実です」
「(共産主義者たちは)とても『ハード』でした」。南部でガイドしてくれた人物はそう言うと、言葉を選ぶように一瞬沈黙した。「そう......とても強い姿勢で私たちに接したのです。長い間、私たちにはチャンスがありませんでした」
ベトナムの経済は好調に見えると私が指摘すると、このガイドは言った。「私たちの国では、ほかの途上国やアメリカと違って、物乞いの姿を見ることがありません。働かないベトナム人はいません。必ず道はある。もし職がなければ、自分で仕事をつくればいいのです」
しなやかで柔軟性のある「バンブー外交」
経済の好調ぶりはデータにも表れている。86年に始まった経済自由化政策「ドイモイ(刷新)」の下、今やベトナムはアジアで最も速いペースで中流層と富裕層が増加している国になった。国民1人当たりの所得はこの10年で8倍に増加。かつて戦火を交えたアメリカとの貿易額も、02年の30億ドルから1400億ドルへと飛躍的に増えている。過去5年間で対米輸出は230%増加、輸入は175%増加した。ベトナムの対米輸出の最大の品目は、経済大国となるための「登竜門」と言えるハイエンドの機械と工具だ。1人当たりのGDPは2004年以来、8倍になった。
もちろん、北の隣国である中国の存在感は無視できない。アメリカと中国の両方とうまくやっていくことが不可欠だ。
その点、ベトナムは米中両国と「包括的戦略パートナーシップ」を結ぶなどして、竹(バンブー)のようにしなやかで柔軟性のある「バンブー外交」を実践してきた。米中間の緊張が高まっている状況も自国経済の追い風にしている。18年にアメリカのトランプ政権が対中関税を引き上げて以降、ベトナムの対米輸出は大幅に増加した。
ベトナムの人口の半分は30歳以下だ。地下トンネルと戦争の歴史は遠い過去の記憶になりつつある。これからは、ベトナムの新しい世代の力によって、活力のある経済と自由な社会が築かれていくのだろう。