尾崎孝史(映像制作者、写真家)
<「ロシアの調査員は私のIDカードを見てアゾフ大隊の兵士だと確認した」マリウポリのアゾフスターリ製鉄所で徹底抗戦を続けたのち、ロシア軍の捕虜となったウクライナ兵を待っていた過酷な捕虜生活とは──>
2年半にわたりロシア軍の捕虜となっていたが、今年9月に解放されたウクライナのアゾフ兵士の1人、キリル・ザイツェバが語った過酷な捕虜生活と、彼らの帰りを待ち続けた家族たちの様子を3回に分けて紹介する。本記事は第1回。
◇ ◇ ◇
「戻ってこられた!」
青と黄の国旗をまとい歓喜する丸刈りの兵士たち。秋晴れの今年9月14日、バスから降りてきたのはロシア軍に拘束されていたウクライナ兵103人だった。前日の49人と合わせ、2日連続で多くの捕虜を取り戻せたのはアラブ首長国連邦(UAE)の仲介が功を奏したからだという。
それまでロシアとウクライナの間で実施された捕虜交換は55回。合計で3500人以上がウクライナに帰っていた。しかし、マリウポリのアゾフスターリ製鉄所で徹底抗戦を続けたウクライナ国家警備隊、アゾフ大隊の捕虜については遅れていた。
「ウクライナからネオナチを撲滅する」と言って、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が開戦の大義名分にした部隊だったからだ。
今回、そのアゾフ大隊の捕虜が2日間で46人解放されたことに注目が集まった。ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は捕虜解放時の写真と共に、こんなメッセージを発信した。「私たちはアゾフスターリの防衛隊員を解放することができた。ウクライナにとって良いニュースをもたらしてくれた担当チームに感謝している」
帰還したアゾフ兵士の1人、キリル・ザイツェバ(24)はポルタワ州ノビサンジャリにあるウクライナ国家警備隊の病院に運ばれた。息子の帰国を知った母のスベットラナ(56)が、避難先のドニプロペトロウシク州から駆け付けてきた。
ウクライナの定番スイーツ、ブリヌイを差し出すスベットラナ。「うーん、最高!」と言って、頰張るキリル。2年半のブランクを埋めるかのように2人はハグを交わした。
22年5月、親ロシア派メディアの動画に写った捕虜になった時のキリル
「聞いてはいけない質問だ」
筆者がキリルのことを知ったのは開戦の年、彼の妻に出会ったのがきっかけだった。2022年5月3日、ザポリッジャ州にある避難者受け入れ施設に世界中のメディアが集まった。ロシア軍に包囲されたマリウポリから避難できずにいた住民が脱出した、との知らせを受けてのことだ。
炎天下の夕刻、8台ほどのバスがやって来た。一番右のバスから幼い子供を抱いた女性が出てきた。マリウポリで教師をしていたアンナ・ザイツェバ(当時24)と生後6カ月の長男スビャトスラフだった。アンナの母ラリーサは砲撃によるけがで、腕に包帯を巻いていた。家族はたちまちカメラマンに囲まれた。避難者の多くが名前の公表を伏せるなか、家族は実名での取材に応じた。
「2カ月もの間、製鉄所の地下に避難していました。この子と一緒に」と話すアンナは65日間の避難生活で体重が10キロ減っていた。爆撃の振動で脳震盪になったこともあるという。
アンナの夫はどうしているのか、気になって尋ねてみた。すると、隣にいた女性記者が口を挟んだ。「それは聞いてはいけない質問だ」。どうやら彼女の夫はウクライナ軍の兵士で、今もマリウポリで戦っているらしい。そのことが知れわたると、母子は格好の拉致対象者としてロシアのスパイに狙われてしまうという。
何という過酷な運命だろうか。この家族の再会を見届けたい、そんな思いが湧き上がってきた。
ウクライナ西部に避難していたときのアンナと長男スビャットスラフ TAKASHI OZAKI
2週間後の5月16日、マリウポリで抵抗を続けていた部隊がロシア軍に降伏した。親ロシア派のテレビ局が流す映像に製鉄所から出てくるウクライナ兵の列が映った。その中に松葉杖をついている若い兵士がいた。アンナの夫、キリルだった。
「映像を見て夫だとすぐに分かりました。彼の脚には爆弾の破片が残っているので、十分な治療が受けられるか心配です」
キリルの携帯電話はロシア軍に没収され、2人は連絡が取れなくなった。欧米メディアで夫が兵士だと報道されたことで、母子に対する拉致の危険が高まった。空爆の被害がウクライナ全土に広がり、アンナは息子の安全を確保する必要も感じていた。そして7月、国外脱出を決めた。
キリルら投降した兵士が連行されたのは、ロシア軍が支配するドネツク州のオレニフカ村近郊だ。ロシア軍はそれまで使われていなかった120番流刑地を、ウクライナ人の尋問や拘留をする拘置所にしていた。キリルは入所後のことをこう話す。
「取り調べに当たるロシア連邦保安局(FSB)の調査員は私のIDカードを見てアゾフ大隊の兵士だと確認した。われわれ全員が自らの意思で入隊した志願兵ということで、ひどい扱いを受けることになった」
6時起床。ロシア国歌を斉唱して朝食。12時昼食。18時夕食。22時にロシア国歌を斉唱して消灯。トイレは3分以内。許された運動は歩行のみで、211人の捕虜は一人ずつ廊下に出された。残りの時間に行われたのが拷問だった。
※第2回:捕虜の80%が性的虐待の被害に...爪に針を刺し、犬に噛みつかせるロシア軍による「地獄の拷問」 に続く
<「ロシアの調査員は私のIDカードを見てアゾフ大隊の兵士だと確認した」マリウポリのアゾフスターリ製鉄所で徹底抗戦を続けたのち、ロシア軍の捕虜となったウクライナ兵を待っていた過酷な捕虜生活とは──>
2年半にわたりロシア軍の捕虜となっていたが、今年9月に解放されたウクライナのアゾフ兵士の1人、キリル・ザイツェバが語った過酷な捕虜生活と、彼らの帰りを待ち続けた家族たちの様子を3回に分けて紹介する。本記事は第1回。
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「戻ってこられた!」
青と黄の国旗をまとい歓喜する丸刈りの兵士たち。秋晴れの今年9月14日、バスから降りてきたのはロシア軍に拘束されていたウクライナ兵103人だった。前日の49人と合わせ、2日連続で多くの捕虜を取り戻せたのはアラブ首長国連邦(UAE)の仲介が功を奏したからだという。
それまでロシアとウクライナの間で実施された捕虜交換は55回。合計で3500人以上がウクライナに帰っていた。しかし、マリウポリのアゾフスターリ製鉄所で徹底抗戦を続けたウクライナ国家警備隊、アゾフ大隊の捕虜については遅れていた。
「ウクライナからネオナチを撲滅する」と言って、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領が開戦の大義名分にした部隊だったからだ。
今回、そのアゾフ大隊の捕虜が2日間で46人解放されたことに注目が集まった。ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー大統領は捕虜解放時の写真と共に、こんなメッセージを発信した。「私たちはアゾフスターリの防衛隊員を解放することができた。ウクライナにとって良いニュースをもたらしてくれた担当チームに感謝している」
帰還したアゾフ兵士の1人、キリル・ザイツェバ(24)はポルタワ州ノビサンジャリにあるウクライナ国家警備隊の病院に運ばれた。息子の帰国を知った母のスベットラナ(56)が、避難先のドニプロペトロウシク州から駆け付けてきた。
ウクライナの定番スイーツ、ブリヌイを差し出すスベットラナ。「うーん、最高!」と言って、頰張るキリル。2年半のブランクを埋めるかのように2人はハグを交わした。
22年5月、親ロシア派メディアの動画に写った捕虜になった時のキリル
「聞いてはいけない質問だ」
筆者がキリルのことを知ったのは開戦の年、彼の妻に出会ったのがきっかけだった。2022年5月3日、ザポリッジャ州にある避難者受け入れ施設に世界中のメディアが集まった。ロシア軍に包囲されたマリウポリから避難できずにいた住民が脱出した、との知らせを受けてのことだ。
炎天下の夕刻、8台ほどのバスがやって来た。一番右のバスから幼い子供を抱いた女性が出てきた。マリウポリで教師をしていたアンナ・ザイツェバ(当時24)と生後6カ月の長男スビャトスラフだった。アンナの母ラリーサは砲撃によるけがで、腕に包帯を巻いていた。家族はたちまちカメラマンに囲まれた。避難者の多くが名前の公表を伏せるなか、家族は実名での取材に応じた。
「2カ月もの間、製鉄所の地下に避難していました。この子と一緒に」と話すアンナは65日間の避難生活で体重が10キロ減っていた。爆撃の振動で脳震盪になったこともあるという。
アンナの夫はどうしているのか、気になって尋ねてみた。すると、隣にいた女性記者が口を挟んだ。「それは聞いてはいけない質問だ」。どうやら彼女の夫はウクライナ軍の兵士で、今もマリウポリで戦っているらしい。そのことが知れわたると、母子は格好の拉致対象者としてロシアのスパイに狙われてしまうという。
何という過酷な運命だろうか。この家族の再会を見届けたい、そんな思いが湧き上がってきた。
ウクライナ西部に避難していたときのアンナと長男スビャットスラフ TAKASHI OZAKI
2週間後の5月16日、マリウポリで抵抗を続けていた部隊がロシア軍に降伏した。親ロシア派のテレビ局が流す映像に製鉄所から出てくるウクライナ兵の列が映った。その中に松葉杖をついている若い兵士がいた。アンナの夫、キリルだった。
「映像を見て夫だとすぐに分かりました。彼の脚には爆弾の破片が残っているので、十分な治療が受けられるか心配です」
キリルの携帯電話はロシア軍に没収され、2人は連絡が取れなくなった。欧米メディアで夫が兵士だと報道されたことで、母子に対する拉致の危険が高まった。空爆の被害がウクライナ全土に広がり、アンナは息子の安全を確保する必要も感じていた。そして7月、国外脱出を決めた。
キリルら投降した兵士が連行されたのは、ロシア軍が支配するドネツク州のオレニフカ村近郊だ。ロシア軍はそれまで使われていなかった120番流刑地を、ウクライナ人の尋問や拘留をする拘置所にしていた。キリルは入所後のことをこう話す。
「取り調べに当たるロシア連邦保安局(FSB)の調査員は私のIDカードを見てアゾフ大隊の兵士だと確認した。われわれ全員が自らの意思で入隊した志願兵ということで、ひどい扱いを受けることになった」
6時起床。ロシア国歌を斉唱して朝食。12時昼食。18時夕食。22時にロシア国歌を斉唱して消灯。トイレは3分以内。許された運動は歩行のみで、211人の捕虜は一人ずつ廊下に出された。残りの時間に行われたのが拷問だった。
※第2回:捕虜の80%が性的虐待の被害に...爪に針を刺し、犬に噛みつかせるロシア軍による「地獄の拷問」 に続く