印南敦史(作家、書評家)
<事件から58年。2024年9月26日、「袴田事件」の再審判決公判で、袴田巌さんに無罪判決が出た。袴田さんはいかにして「自供」させられたのか、獄中でどのような時間を過ごしたのか。壮絶な一冊>
「被告人は無罪」――。二〇二四年九月二六日、「袴田事件」の再審判決公判で、静岡地裁の國井恒志裁判長は確定死刑囚の袴田巌さんに無罪判決を言い渡した。事件発生から五八年、死刑が確定してから数えても四四年が経過している。途方もない長い歳月を費やして、八八歳の袴田さんは、ようやく青天白日の身となった。(「はじめに」より)
『姉と弟 捏造の闇「袴田事件」の58年』(藤原 聡・著、岩波書店)は、こうした記述から始まる。
一貫して無実を訴え続けてきた袴田巌さんと、弟を助けるために一生の大半を費やしてきた姉のひで子さんを軸としたノンフィクション。「袴田しかいない」と、半ば感情的に捏造を隠そうとする警察の姿勢、そして死刑という判決を下した裁判所の内側など、緻密な取材によって真実が明かされていく。
今さら説明の必要もないだろうが、1966年6月30日に静岡県清水市(現・静岡市清水区)の味噌製造会社専務宅が全焼し、焼け跡から専務、その妻、次女、長男が刃物でめった刺しにされた死体が発見された事件である。警察は当初から、味噌工場の従業員だった元プロボクサーの袴田さんを犯人だと"決めつけた"。
一貫して罪を認めなかった袴田さんは、勾留期間満了直前に自白し、そののち公判において否認した。こうしたケースは少なくないが、詰まるところ、「そうするしかなかった」ということだ。
逮捕当日の取り調べは13時間8分、便器は部屋に持ち込まれた
例えば、静岡県警清水署の捜査本部は、国道を通る車の騒音が絶えず、冷房設備もない蒸し風呂のような六畳間ほどの取調室で袴田さんをとことん追い込む。
逮捕当日の1966年8月18日は、食事時間を除き取り調べは13時間8分に及び、翌日以降も午前8時半ごろから午後11時まで連日12時間を超えたという。しかも、深夜に留置場に戻ってからも疲れを癒すことはできなかったようだ。
「留置場に戻されまして、床につくんですが、かわるがわる酔払いを連れてきまして、隣の部屋に入れまして、それが一晩中騒いでいるんです。どなったり、叩いたり。それが、清水の留置場は地下みたいなところで上までがんがん響いて寝られる状態ではないです」(35ページより)
こうした状況での取り調べが連日続けられる一方、弁護士による接見は全3回、計32分しか認められなかったという。逮捕された容疑者には弁護士など外部の人間と面会できる権利(接見交通権)があるはずなのに、である。袴田さんは孤立無縁の状態で、強大な力を持つ捜査機関と対峙することになっていたのだ。
取り調べは過酷さを増していった。九月四日には、袴田さんが「小便に行きたいです」と訴えても、取調官は「返事をしなさい」と言って取り合わなかった。しばらくして便器を部屋に持ち込み、袴田さんはようやく用を足すことができた。この日の取り調べは、実に十六時間二〇分に及んだ。(37ページより)
「なんだその態度は」...「ここへ名前を書け」
そして勾留期限3日前の9月6日、疲れ切った袴田さんは犯行を「自供」することになる。そのことについて検察官から問われた際、こう説明をしている。長くなるが、重要な箇所なので引用しておこう。
「私が長期的な調べで体も疲れきってほとんど寝られないような状態で、その朝九月六日だと思いますが、いつもと同じように引っ張り出されまして、そしていつにも増してテーブルをぶったたいたり怒鳴ったりで、私は頭が痛くてめまいもするし、とても疲れちゃって『午前中休ませてくれ』と頼んだです。 ところが駄目だと、認めりゃ休ましてやる、こう警察官が言いまして、私が目を開いたら調べ室がぐるぐるまわり出したもんですから、テーブルに手をついて、手をつくだけでも転びそうだったものですから頭を突っ伏していると、テーブルを叩いて『なんだその態度は』とテーブルどんどん叩いて言うので、静かにしてもらいたいから『昼からあんた方の言うように認めるから午前中休ましてくれ』と言ったのが一〇時頃ではないかと思うんですが、そう言ったら一人の刑事があせって表に飛び出して行きました」 それだけ知っていますが、私はしばらく眠ったようになりまして突然『袴田』と叩き起こされました。おぼろげながらひょっと見たら『ここへ名前を書け』そう言うものですから、私もとにかく静かにしてもらいたかったので、頭がズキズキしてたので、名前だけ書いて突っ伏してたら、私の手を持って指印を押してそのまま出ていったです。それが午前一一時ちょっと過ぎ頃じゃないかと私は考えています」(37〜38ページより)
先述のとおり、逮捕されたのは8月18日である。袴田さんは当日から9月6日まで20日間にわたって拷問と呼ぶ以外にない取り調べを受け、疲弊しきった状態で「自白」させられたということだ。
しかも、そういった過度な緊張状態が以後数十年も続いたわけである。そして1968年9月11日に死刑判決が出てからは、長期の拘束と死刑の恐怖から拘禁症状が現れ、言動がおかしくなっていく。
「無罪になってよかった」と終わらせるべき問題ではない
一九八一年一〇月四日、東京拘置所の独居房から袴田さんがひで子さんに宛てた手紙は、「死」「処刑」「悪魔」などの言葉がちりばめられた不気味な内容だった。「私が独居房内を歩くと、その度に蛍光灯がチカチカするように感ずる。電灯が無数の硝子に反射している。そして私をみつめている」「私の居房に住みついている魂は二つであり、影法師の如くありありと見られるときがある。彼らの顔には悪意と善意が表れている」 袴田さんは、隣の独居房にいた死刑囚の刑が執行されたと知り、衝撃を受けた。「次は自分かもしれない......」。迫る死の恐怖にさいなまれ、長期の拘置も影響して、徐々に精神がむしばまれていった。手紙の文面が、その拘禁症状を表している。(104〜105ページより)
また、ご飯を水で洗って食べるなどの奇行もみられたという。2014年に釈放され、ひで子さんと暮らすようになってからは少しずつ元に戻っていったようだが、しばらくは男性に警戒心を抱くなどの傾向があった。58年という歳月の長さを考えれば、それは当然のことではないか。
9月26日に無罪判決が出たあの日のことは、私もよく覚えている。袴田さんに面識はないが、袴田事件について思いを馳せるたび、「もしも自分が同じ立場に立たされたとしたら......」という思いが頭をよぎり、そのたび、「とてもじゃないけど、自分には耐えられないだろうな」と感じていたからである。
だがこれは、「無罪になってよかったね」と終わらせるべき問題では決してない。今この時点でも冤罪と戦っている人はいるのだし、私たちがその立場に立つ可能性も否定できないのだから。
だからこそ、ひとりでも多くの人が本書を手に取ることを切に願う。そもそも、ここでご紹介したことは、さまざまな現実のほんの一部に過ぎないのだ。そう考えるだけでも、この一冊が持つ重さが想像できるだろう。
『姉と弟
捏造の闇「袴田事件」の58年』
藤原 聡 著
岩波書店
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)
[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。他に、ライフハッカー[日本版]、東洋経済オンライン、サライ.jpなどで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。ベストセラーとなった『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)をはじめ、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。最新刊は『現代人のための 読書入門』(光文社新書)。
<事件から58年。2024年9月26日、「袴田事件」の再審判決公判で、袴田巌さんに無罪判決が出た。袴田さんはいかにして「自供」させられたのか、獄中でどのような時間を過ごしたのか。壮絶な一冊>
「被告人は無罪」――。二〇二四年九月二六日、「袴田事件」の再審判決公判で、静岡地裁の國井恒志裁判長は確定死刑囚の袴田巌さんに無罪判決を言い渡した。事件発生から五八年、死刑が確定してから数えても四四年が経過している。途方もない長い歳月を費やして、八八歳の袴田さんは、ようやく青天白日の身となった。(「はじめに」より)
『姉と弟 捏造の闇「袴田事件」の58年』(藤原 聡・著、岩波書店)は、こうした記述から始まる。
一貫して無実を訴え続けてきた袴田巌さんと、弟を助けるために一生の大半を費やしてきた姉のひで子さんを軸としたノンフィクション。「袴田しかいない」と、半ば感情的に捏造を隠そうとする警察の姿勢、そして死刑という判決を下した裁判所の内側など、緻密な取材によって真実が明かされていく。
今さら説明の必要もないだろうが、1966年6月30日に静岡県清水市(現・静岡市清水区)の味噌製造会社専務宅が全焼し、焼け跡から専務、その妻、次女、長男が刃物でめった刺しにされた死体が発見された事件である。警察は当初から、味噌工場の従業員だった元プロボクサーの袴田さんを犯人だと"決めつけた"。
一貫して罪を認めなかった袴田さんは、勾留期間満了直前に自白し、そののち公判において否認した。こうしたケースは少なくないが、詰まるところ、「そうするしかなかった」ということだ。
逮捕当日の取り調べは13時間8分、便器は部屋に持ち込まれた
例えば、静岡県警清水署の捜査本部は、国道を通る車の騒音が絶えず、冷房設備もない蒸し風呂のような六畳間ほどの取調室で袴田さんをとことん追い込む。
逮捕当日の1966年8月18日は、食事時間を除き取り調べは13時間8分に及び、翌日以降も午前8時半ごろから午後11時まで連日12時間を超えたという。しかも、深夜に留置場に戻ってからも疲れを癒すことはできなかったようだ。
「留置場に戻されまして、床につくんですが、かわるがわる酔払いを連れてきまして、隣の部屋に入れまして、それが一晩中騒いでいるんです。どなったり、叩いたり。それが、清水の留置場は地下みたいなところで上までがんがん響いて寝られる状態ではないです」(35ページより)
こうした状況での取り調べが連日続けられる一方、弁護士による接見は全3回、計32分しか認められなかったという。逮捕された容疑者には弁護士など外部の人間と面会できる権利(接見交通権)があるはずなのに、である。袴田さんは孤立無縁の状態で、強大な力を持つ捜査機関と対峙することになっていたのだ。
取り調べは過酷さを増していった。九月四日には、袴田さんが「小便に行きたいです」と訴えても、取調官は「返事をしなさい」と言って取り合わなかった。しばらくして便器を部屋に持ち込み、袴田さんはようやく用を足すことができた。この日の取り調べは、実に十六時間二〇分に及んだ。(37ページより)
「なんだその態度は」...「ここへ名前を書け」
そして勾留期限3日前の9月6日、疲れ切った袴田さんは犯行を「自供」することになる。そのことについて検察官から問われた際、こう説明をしている。長くなるが、重要な箇所なので引用しておこう。
「私が長期的な調べで体も疲れきってほとんど寝られないような状態で、その朝九月六日だと思いますが、いつもと同じように引っ張り出されまして、そしていつにも増してテーブルをぶったたいたり怒鳴ったりで、私は頭が痛くてめまいもするし、とても疲れちゃって『午前中休ませてくれ』と頼んだです。 ところが駄目だと、認めりゃ休ましてやる、こう警察官が言いまして、私が目を開いたら調べ室がぐるぐるまわり出したもんですから、テーブルに手をついて、手をつくだけでも転びそうだったものですから頭を突っ伏していると、テーブルを叩いて『なんだその態度は』とテーブルどんどん叩いて言うので、静かにしてもらいたいから『昼からあんた方の言うように認めるから午前中休ましてくれ』と言ったのが一〇時頃ではないかと思うんですが、そう言ったら一人の刑事があせって表に飛び出して行きました」 それだけ知っていますが、私はしばらく眠ったようになりまして突然『袴田』と叩き起こされました。おぼろげながらひょっと見たら『ここへ名前を書け』そう言うものですから、私もとにかく静かにしてもらいたかったので、頭がズキズキしてたので、名前だけ書いて突っ伏してたら、私の手を持って指印を押してそのまま出ていったです。それが午前一一時ちょっと過ぎ頃じゃないかと私は考えています」(37〜38ページより)
先述のとおり、逮捕されたのは8月18日である。袴田さんは当日から9月6日まで20日間にわたって拷問と呼ぶ以外にない取り調べを受け、疲弊しきった状態で「自白」させられたということだ。
しかも、そういった過度な緊張状態が以後数十年も続いたわけである。そして1968年9月11日に死刑判決が出てからは、長期の拘束と死刑の恐怖から拘禁症状が現れ、言動がおかしくなっていく。
「無罪になってよかった」と終わらせるべき問題ではない
一九八一年一〇月四日、東京拘置所の独居房から袴田さんがひで子さんに宛てた手紙は、「死」「処刑」「悪魔」などの言葉がちりばめられた不気味な内容だった。「私が独居房内を歩くと、その度に蛍光灯がチカチカするように感ずる。電灯が無数の硝子に反射している。そして私をみつめている」「私の居房に住みついている魂は二つであり、影法師の如くありありと見られるときがある。彼らの顔には悪意と善意が表れている」 袴田さんは、隣の独居房にいた死刑囚の刑が執行されたと知り、衝撃を受けた。「次は自分かもしれない......」。迫る死の恐怖にさいなまれ、長期の拘置も影響して、徐々に精神がむしばまれていった。手紙の文面が、その拘禁症状を表している。(104〜105ページより)
また、ご飯を水で洗って食べるなどの奇行もみられたという。2014年に釈放され、ひで子さんと暮らすようになってからは少しずつ元に戻っていったようだが、しばらくは男性に警戒心を抱くなどの傾向があった。58年という歳月の長さを考えれば、それは当然のことではないか。
9月26日に無罪判決が出たあの日のことは、私もよく覚えている。袴田さんに面識はないが、袴田事件について思いを馳せるたび、「もしも自分が同じ立場に立たされたとしたら......」という思いが頭をよぎり、そのたび、「とてもじゃないけど、自分には耐えられないだろうな」と感じていたからである。
だがこれは、「無罪になってよかったね」と終わらせるべき問題では決してない。今この時点でも冤罪と戦っている人はいるのだし、私たちがその立場に立つ可能性も否定できないのだから。
だからこそ、ひとりでも多くの人が本書を手に取ることを切に願う。そもそも、ここでご紹介したことは、さまざまな現実のほんの一部に過ぎないのだ。そう考えるだけでも、この一冊が持つ重さが想像できるだろう。
『姉と弟
捏造の闇「袴田事件」の58年』
藤原 聡 著
岩波書店
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[筆者]
印南敦史
1962年生まれ。東京都出身。作家、書評家。広告代理店勤務時代にライターとして活動開始。他に、ライフハッカー[日本版]、東洋経済オンライン、サライ.jpなどで連載を持つほか、「ダ・ヴィンチ」などにも寄稿。ベストセラーとなった『遅読家のための読書術』(ダイヤモンド社)をはじめ、『読んでも読んでも忘れてしまう人のための読書術』(星海社新書)、『人と会っても疲れない コミュ障のための聴き方・話し方』(日本実業出版社)など著作多数。2020年6月、日本一ネットにより「書評執筆本数日本一」に認定された。最新刊は『現代人のための 読書入門』(光文社新書)。