コリン・ジョイス
<終末期患者らに安楽死を選ぶ権利を認める法案は、耐え難い苦痛から患者を救う希望になるのか、患者に決断のプレッシャーをかけることにならないのか――>
耐え難い苦痛を抱えた終末期患者の人生を終わらせるために手助けをすべきか否か――これは、重大な問題だ。世界の「議会の母」たるイギリス議会で今、この問題が検討されている。
下院で11月29日、安楽死を選ぶ権利を認める法案が賛成多数で可決された。成立には今後、2回目の採決を経て上院も通過する必要がある。
政治的な問題ではなく道徳的な問題と見なされるため、下院では所属政党の意向に縛られない「自由投票」が行われた。各議員が、有権者の意見を考慮しながら、自身の良心を探らなければならない。
安楽死を選ぶ権利を認めるこの法案をめぐる議論は、賛成にしろ反対にしろ複雑で深遠だ。「誰が」認められるべきかだけでなく「いかにして」施行すべきかも検討する必要がある。
安楽死幇助法案は、これを提出したキム・リードビーター議員が言うように、「人生を終わらせることではなく死を短縮すること」に関する法案だ。
これに対する当初の世論は、おおむね好意的だった。人生の終わりがもはや時間の問題であるという恐怖の状況に置かれた人々が、威厳を保ち快適な方法で苦しみを終わらせる選択を与えられるべきなのは明らかに思われたからだ。
スイス同行だけでも自殺教唆の罪に
愛する人が命を終わらせるのを手助けしたことで罪に問われるという事件はたびたび起こり、一般の人々はこれを思いやりの行為、あるいは絶望の果ての行動だと受け止めるが、法的には犯罪として扱われる。
命を終わらせるために(一定の条件下で安楽死としての自殺幇助が合法化されている)スイスに向かうという不条理な例外はあるが、自分の国ではそれができない。
もちろん、スイスへの安楽死旅行は高額なだけでなく、末期患者が自宅やホスピスを出て長い距離を移動し、配偶者や親族などの付き添いなしに一人で死ななければならないことを意味する。
スイス行きに同行したり、あるいはスイス行きを「実質的に支援」するだけでも自殺教唆とみなされる恐れがあり、イギリスの現行法では重い懲役刑が科される可能性がある。
元ポップスターでロックバンド「ブラー」のドラマーだったデイブ・ロウントゥリーは、この現実を「サイコパス的」と表現した。彼の元妻はスイスのクリニックで安楽死している。ロウントゥリーは、死の計画を打ち明けるだけで愛する人を危険にさらしかねない、と苦しい立場を強いられる末期患者の過酷な孤独を訴えた。
テレビジャーナリストで末期患者でもあるエスター・ランツェンなど、何人かの著名人がこの法律に賛成の声を上げている。当然のことながら、避け難く苦痛が伴う最期に直面した時に、安楽に人生を終える選択肢を持ちたいと切望する人々に対しては、同情以外感じないだろう。
それに対し、危ぶむ側の声はあまり大きくない。理由の1つは、プロライフ(生命尊重)を主導するであろうカトリック教会と英国国教会の道徳的権威が、ここ数十年の虐待スキャンダルで失墜しているからだ。
代わりに、たとえば娘を幼少期に亡くしたゴードン・ブラウン元首相が、必要なのはより良い終末期医療のほうだと主張しているように、プロライフ論をリードする役目は個人に委ねられてきた。
この法案を支持する人々は、決して無理強いなど発生しない世界一厳格な仕組みができていると主張している。にもかかわらず、高齢者や重度障害者に対し、苦しむ家族や逼迫した国民保健サービス(NHS)の「お荷物になる」のをやめるべきではないかと、さりげなく何度もプレッシャーをかけることになるのではないかとの懸念の声もある。
鬱々とした日本映画『PLAN75』は、その行く末を極度のディストピア視点で探求した。この映画では、国家が文字どおり、人が死ぬためにカネを払う。
提起するのは重要な問題だ――高齢者は自分を社会の「コスト」のように感じ、自らを犠牲にするよう仕向けられているのだろうか?
イギリスの高齢者は、築いてきた資産を介護施設で過ごす晩年で使い果たすことも多く、孫たちに何も残してやれないと大っぴらに嘆くこともある。
「死のマニュアル」採用の過去
善意のつもりがいかにひどい誤りになり得るか、イギリスは経験をもとに熟考すべきだろう。
1990年代後半にイギリスでは、終末期患者にきちんと平準化したケアを行うため「リバプール・ケア・パスウェイ」という看取りケアプログラムが策定された。リバプールを皮切りに、2009年から全国のNHS病院で採用。ところが官僚的で柔軟性に欠ける運用だったため、2013年までには下火になった。
終末期患者だけでなく、末期症状とみなされた患者は、食べ物を与えられないなどして死へと追いやられたようだ。患者個々のニーズや状況はほとんど、あるいは全く言及されなかった。
あからさまな悪意こそなかったものの、医療者は「パスウェイ」マニュアルを忠実に守り、「死への道」と見まごうものを作ったのだ。
<終末期患者らに安楽死を選ぶ権利を認める法案は、耐え難い苦痛から患者を救う希望になるのか、患者に決断のプレッシャーをかけることにならないのか――>
耐え難い苦痛を抱えた終末期患者の人生を終わらせるために手助けをすべきか否か――これは、重大な問題だ。世界の「議会の母」たるイギリス議会で今、この問題が検討されている。
下院で11月29日、安楽死を選ぶ権利を認める法案が賛成多数で可決された。成立には今後、2回目の採決を経て上院も通過する必要がある。
政治的な問題ではなく道徳的な問題と見なされるため、下院では所属政党の意向に縛られない「自由投票」が行われた。各議員が、有権者の意見を考慮しながら、自身の良心を探らなければならない。
安楽死を選ぶ権利を認めるこの法案をめぐる議論は、賛成にしろ反対にしろ複雑で深遠だ。「誰が」認められるべきかだけでなく「いかにして」施行すべきかも検討する必要がある。
安楽死幇助法案は、これを提出したキム・リードビーター議員が言うように、「人生を終わらせることではなく死を短縮すること」に関する法案だ。
これに対する当初の世論は、おおむね好意的だった。人生の終わりがもはや時間の問題であるという恐怖の状況に置かれた人々が、威厳を保ち快適な方法で苦しみを終わらせる選択を与えられるべきなのは明らかに思われたからだ。
スイス同行だけでも自殺教唆の罪に
愛する人が命を終わらせるのを手助けしたことで罪に問われるという事件はたびたび起こり、一般の人々はこれを思いやりの行為、あるいは絶望の果ての行動だと受け止めるが、法的には犯罪として扱われる。
命を終わらせるために(一定の条件下で安楽死としての自殺幇助が合法化されている)スイスに向かうという不条理な例外はあるが、自分の国ではそれができない。
もちろん、スイスへの安楽死旅行は高額なだけでなく、末期患者が自宅やホスピスを出て長い距離を移動し、配偶者や親族などの付き添いなしに一人で死ななければならないことを意味する。
スイス行きに同行したり、あるいはスイス行きを「実質的に支援」するだけでも自殺教唆とみなされる恐れがあり、イギリスの現行法では重い懲役刑が科される可能性がある。
元ポップスターでロックバンド「ブラー」のドラマーだったデイブ・ロウントゥリーは、この現実を「サイコパス的」と表現した。彼の元妻はスイスのクリニックで安楽死している。ロウントゥリーは、死の計画を打ち明けるだけで愛する人を危険にさらしかねない、と苦しい立場を強いられる末期患者の過酷な孤独を訴えた。
テレビジャーナリストで末期患者でもあるエスター・ランツェンなど、何人かの著名人がこの法律に賛成の声を上げている。当然のことながら、避け難く苦痛が伴う最期に直面した時に、安楽に人生を終える選択肢を持ちたいと切望する人々に対しては、同情以外感じないだろう。
それに対し、危ぶむ側の声はあまり大きくない。理由の1つは、プロライフ(生命尊重)を主導するであろうカトリック教会と英国国教会の道徳的権威が、ここ数十年の虐待スキャンダルで失墜しているからだ。
代わりに、たとえば娘を幼少期に亡くしたゴードン・ブラウン元首相が、必要なのはより良い終末期医療のほうだと主張しているように、プロライフ論をリードする役目は個人に委ねられてきた。
この法案を支持する人々は、決して無理強いなど発生しない世界一厳格な仕組みができていると主張している。にもかかわらず、高齢者や重度障害者に対し、苦しむ家族や逼迫した国民保健サービス(NHS)の「お荷物になる」のをやめるべきではないかと、さりげなく何度もプレッシャーをかけることになるのではないかとの懸念の声もある。
鬱々とした日本映画『PLAN75』は、その行く末を極度のディストピア視点で探求した。この映画では、国家が文字どおり、人が死ぬためにカネを払う。
提起するのは重要な問題だ――高齢者は自分を社会の「コスト」のように感じ、自らを犠牲にするよう仕向けられているのだろうか?
イギリスの高齢者は、築いてきた資産を介護施設で過ごす晩年で使い果たすことも多く、孫たちに何も残してやれないと大っぴらに嘆くこともある。
「死のマニュアル」採用の過去
善意のつもりがいかにひどい誤りになり得るか、イギリスは経験をもとに熟考すべきだろう。
1990年代後半にイギリスでは、終末期患者にきちんと平準化したケアを行うため「リバプール・ケア・パスウェイ」という看取りケアプログラムが策定された。リバプールを皮切りに、2009年から全国のNHS病院で採用。ところが官僚的で柔軟性に欠ける運用だったため、2013年までには下火になった。
終末期患者だけでなく、末期症状とみなされた患者は、食べ物を与えられないなどして死へと追いやられたようだ。患者個々のニーズや状況はほとんど、あるいは全く言及されなかった。
あからさまな悪意こそなかったものの、医療者は「パスウェイ」マニュアルを忠実に守り、「死への道」と見まごうものを作ったのだ。