周来友(しゅう・らいゆう)(経営者、ジャーナリスト)
<日本にゆかりのある中国の文豪、魯迅。厳しい日中関係の中、留学120周年を記念する式典が行われたが、魯迅の精神は受け継がれているのか。中国に「良くない」印象を持つ日本人は89%、日本に「良くない」印象を持つ中国人は88%というのが今の現実だ>
孫という名字の中国人の中に、時折「私は孫文の子孫です」と言う人がいる。するとお人よしの日本人は「え、そうなんですか!」と疑いもなく信じてしまう。この手の自己紹介は、プライドが高く、自分を大きく見せたがる中国人ならではといえるだろう。
私はといえば、「もしかして周恩来の子孫ですか?」と聞かれることが多い。名前が1文字しか違わないからだが、そんなときは「関係ありませんよ。800年前なら家族だったでしょうけど」と冗談交じりに返す。それぐらいさかのぼれば、中国の初代首相ともつながっているだろう。
ただ、ひょっとすると、こちらの著名な周さんとは本当につながりがあるかもしれない。
その人の名は周樹人。私と同じ浙江省紹興市出身の魯迅(1881~1936年、写真)のことだ。「阿Q正伝」や「狂人日記」などの名作を残し、日本でも名の知れた文豪である。その魯迅がかつて仙台にある医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学していたことは皆さんもよくご存じだろう。
10月末、魯迅の仙台留学120周年を記念する式典が開かれた
1902年に訪日した魯迅は、東京で日本語を学ぶと、04年に仙台で医学生としての生活をスタートさせた。恩師となる解剖学者、藤野厳九郎と出会ったのもこの場所だ。2人の関係は魯迅の小説「藤野先生」を通じて中国で広く知られ、国境を超えた師弟愛として語り継がれている。
その仙台で2024年10月末、魯迅の仙台留学120周年を記念する式典が開かれた。私も見学させてもらったが、ゲストとして魯迅の孫である周令飛さんらが招かれていた。
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魯迅には仙台留学中、文学を志すようになるきっかけがあった。中国人がロシア軍スパイとして日本軍に処刑されるスライドを見て、そこに映る周りの中国人が何の反応も見せなかったことに衝撃を受けたのだ。医学では国民を覚醒させることはできない、それができるのは文学だ──そう考えるようになり、文学への転向を決意した。
もっとも、転向の理由はもう一つあったらしい。東北大学の研究者によれば、難しい日本語での講義に加え、医学用語のドイツ語が足を引っ張り、授業についていけなくなったのだろうという。
為政者にこびず、相手が誰であっても道義を外れた者は容赦なく批判
中国を代表する文人・思想家はこうして誕生した。その後、魯迅は55歳で没するが、反国民党で立場を同じくしていた毛沢東にも称賛され、死後は民族的英雄として祭り上げられた。
ただ、毛自身も魯迅の本質を理解はしていたようだ。「もし魯迅が今も生きていたら?」と問われた毛はこう答えたという。「黙っているか、牢屋に入って書いているかのどちらかだろう」
魯迅の素晴らしさは、為政者にこびず、相手が誰であっても道義を外れた者は容赦なく批判するその精神性にある。
今回の式典には仙台市長や中国大使館の参事官、日中友好協会の代表らが出席していたが、現在の厳しい日中関係から目を背け、東北4県と中国との友好エピソードばかり披露されていたので、違和感を覚えた。仙台市は魯迅記念公園を造ろうとしたり、パンダの誘致を進めようとしているし、中国側は中国側で大使館を通じて友好団体ばかりを集めたイベントを開いている。そんな心地いいだけの活動をしている場合だろうか。
本当に魯迅の精神を受け継ぐならば、口先だけの日中友好ではなく、両国が是々非々で関係改善に取り組んでいくべきではないか。とりわけ中国は、中国に反感や偏見を持つ人たちに積極的に働きかけ、誤解があると考えるならその誤解を解く努力をしなければならないと思う。
和気藹々(あいあい)ではなく、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の交流による関係改善。それならば魯迅もきっと喜んでくれるはずだ。同じ紹興出身の周さんである私が言うのだから、たぶん間違いない。血縁関係はないけどね。
周 来友
ZHOU LAIYOU
1963年中国浙江省生まれ。87年に来日し、日本で大学院を修了。通訳、翻訳、コーディネーターの派遣会社を経営する傍ら、ジャーナリスト、タレントとしても活動している。
中国の文豪「魯迅(ろじん)」の東北大学への留学120周年を記念する特別展が、仙台市内で開かれている。(ミヤテレNEWS NNN | 2024/10/30)
<日本にゆかりのある中国の文豪、魯迅。厳しい日中関係の中、留学120周年を記念する式典が行われたが、魯迅の精神は受け継がれているのか。中国に「良くない」印象を持つ日本人は89%、日本に「良くない」印象を持つ中国人は88%というのが今の現実だ>
孫という名字の中国人の中に、時折「私は孫文の子孫です」と言う人がいる。するとお人よしの日本人は「え、そうなんですか!」と疑いもなく信じてしまう。この手の自己紹介は、プライドが高く、自分を大きく見せたがる中国人ならではといえるだろう。
私はといえば、「もしかして周恩来の子孫ですか?」と聞かれることが多い。名前が1文字しか違わないからだが、そんなときは「関係ありませんよ。800年前なら家族だったでしょうけど」と冗談交じりに返す。それぐらいさかのぼれば、中国の初代首相ともつながっているだろう。
ただ、ひょっとすると、こちらの著名な周さんとは本当につながりがあるかもしれない。
その人の名は周樹人。私と同じ浙江省紹興市出身の魯迅(1881~1936年、写真)のことだ。「阿Q正伝」や「狂人日記」などの名作を残し、日本でも名の知れた文豪である。その魯迅がかつて仙台にある医学専門学校(現在の東北大学医学部)に留学していたことは皆さんもよくご存じだろう。
10月末、魯迅の仙台留学120周年を記念する式典が開かれた
1902年に訪日した魯迅は、東京で日本語を学ぶと、04年に仙台で医学生としての生活をスタートさせた。恩師となる解剖学者、藤野厳九郎と出会ったのもこの場所だ。2人の関係は魯迅の小説「藤野先生」を通じて中国で広く知られ、国境を超えた師弟愛として語り継がれている。
その仙台で2024年10月末、魯迅の仙台留学120周年を記念する式典が開かれた。私も見学させてもらったが、ゲストとして魯迅の孫である周令飛さんらが招かれていた。
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魯迅には仙台留学中、文学を志すようになるきっかけがあった。中国人がロシア軍スパイとして日本軍に処刑されるスライドを見て、そこに映る周りの中国人が何の反応も見せなかったことに衝撃を受けたのだ。医学では国民を覚醒させることはできない、それができるのは文学だ──そう考えるようになり、文学への転向を決意した。
もっとも、転向の理由はもう一つあったらしい。東北大学の研究者によれば、難しい日本語での講義に加え、医学用語のドイツ語が足を引っ張り、授業についていけなくなったのだろうという。
為政者にこびず、相手が誰であっても道義を外れた者は容赦なく批判
中国を代表する文人・思想家はこうして誕生した。その後、魯迅は55歳で没するが、反国民党で立場を同じくしていた毛沢東にも称賛され、死後は民族的英雄として祭り上げられた。
ただ、毛自身も魯迅の本質を理解はしていたようだ。「もし魯迅が今も生きていたら?」と問われた毛はこう答えたという。「黙っているか、牢屋に入って書いているかのどちらかだろう」
魯迅の素晴らしさは、為政者にこびず、相手が誰であっても道義を外れた者は容赦なく批判するその精神性にある。
今回の式典には仙台市長や中国大使館の参事官、日中友好協会の代表らが出席していたが、現在の厳しい日中関係から目を背け、東北4県と中国との友好エピソードばかり披露されていたので、違和感を覚えた。仙台市は魯迅記念公園を造ろうとしたり、パンダの誘致を進めようとしているし、中国側は中国側で大使館を通じて友好団体ばかりを集めたイベントを開いている。そんな心地いいだけの活動をしている場合だろうか。
本当に魯迅の精神を受け継ぐならば、口先だけの日中友好ではなく、両国が是々非々で関係改善に取り組んでいくべきではないか。とりわけ中国は、中国に反感や偏見を持つ人たちに積極的に働きかけ、誤解があると考えるならその誤解を解く努力をしなければならないと思う。
和気藹々(あいあい)ではなく、侃侃諤諤(かんかんがくがく)の交流による関係改善。それならば魯迅もきっと喜んでくれるはずだ。同じ紹興出身の周さんである私が言うのだから、たぶん間違いない。血縁関係はないけどね。
周 来友
ZHOU LAIYOU
1963年中国浙江省生まれ。87年に来日し、日本で大学院を修了。通訳、翻訳、コーディネーターの派遣会社を経営する傍ら、ジャーナリスト、タレントとしても活動している。
中国の文豪「魯迅(ろじん)」の東北大学への留学120周年を記念する特別展が、仙台市内で開かれている。(ミヤテレNEWS NNN | 2024/10/30)