綿野恵太(文筆家) アステイオン
<ファミレスの配膳ロボットから人気漫画『ちいかわ』まで、デジタル化時代に「社交」を改めて考える。『アステイオン』100号より「物流倉庫のバイトのあとに『柔らかい個人主義の誕生』を読む」を転載>
猫型ロボット。最近、ファミリーレストランで配膳しているあいつのことだ。ディスプレイにはまんまるおめめ。頭を撫でれば、「くすぐったいニャ」とうれしそうに目をつむる。「ご注文ありがとうニャン」とお礼も言う。テーブルのそばを通るだけで子供たちが「かわいい」と喜ぶ。正式名はBellaBotというらしい。
しかし、かわいいからといってだまされてはいけない。冷静に考えれば、工場で製造された料理がロボットで運ばれているのだ。そして、お客さんはタブレットで注文して、自動釣り銭機でお会計を済ませている。こういうふうに書くと、どこか無味乾燥な感じがしてこないか。
むかし山崎正和氏はファミレスについてこう述べていた。「提供される商品の実質は工場生産による冷凍食品であり、顧客が店頭で受けとるのは、食卓の雰囲気と給仕人の演技、いいかえれば、もてなしの「幻想」にほかならない」と(『柔らかい個人主義の誕生』)。
つまり、山崎氏によれば、ファミレスには「冷凍運搬車と冷蔵庫という機械的媒体のイメージ」を失くすために「人間による直接的なもてなしの演技」が必要であった。そして、もてなしの演技を求めてお客さんが集まったわけである。
しかし、いまのファミレスにあるのは、給仕ならぬ給餌である。もてなしの演技はない。その代わりに猫型ロボットの「かわいい」がある。そして、かわいいに簡単にだまされる、ちょろいぼくたちがいる。近頃は工事現場のバリケードさえもかわいいキャラと化している。
山崎正和氏の『柔らかい個人主義の誕生』は1984年に刊行された。創刊時の『アステイオン』でもたびたび言及されている。
国家はかつての存在感を失い、個人は会社や家族といった集団から解放された。このように個人の「個別化」が進んだいっぽうで、ひとびとは趣味や教養を求めて文化サークルや市民講座、ボランティアにつどった。
顔の見える小さな集まりを掛け持ちする個人に必要とされるのは、ひとつの集団に誠実にコミットする強固な自我ではない。さまざまな集団でみずからの役割を自覚的に演じ分ける、柔らかな自我である。
このような山崎氏の主張の背景には、消費社会があった。物質の生産ではなく情報やサービスへ比重をうつした「脱産業化社会」(ダニエル・ベル)。
人間が人間の相手をするサービス業では、社交のための演技が必要となる。たとえ、ファミレスであっても。人間同士のやりとり=社交を楽しむことは、時間や出来事そのものを消費することにほかならない。
時間消費という新しいあり方は、これまで効率よくモノを生産=消費してきた大量生産・大量消費社会を越えるものなのだ。それゆえに、「柔らかい個人主義の誕生」は「文明史的な転換」なのである、と。
しかし、いまやファミレスでは猫型ロボットが働いている。脱・脱産業化社会? 消費だけではなく、生産や流通といった社会のあらゆる領域で人間同士のやりとりが失われている。
その意味で、個人の個別化はかぎりなくすすんだ。けれども、柔らかい個人主義は誕生しなかったと思わざるをえないのだ。
ぼくは物流倉庫でピッキングのバイトをしている。手持ちのハンディで出荷指示書のバーコードを読み込む。「商品A1345 個数3」といった指示が画面に表示されるので、商品を集めてダンボールに詰めていく。
大手の倉庫ではロボットがすでに稼働しているので、近い将来にはなくなる仕事である。とはいえ、田舎の人間を最低賃金900円でこき使ったほうがまだ安くつくみたいだ。
バイトを始めて1週間経って気づいた。会話がないのだ。数十人が同じ倉庫で働いている。けれどもだれもしゃべらない。すべての作業がひとりで自己完結できる。コミュニケーションをとる必要がないのだ。指示はハンディが出してくれるし、ミスすればハンディが警告してくれる。
ぼくにとってこのバイトはとても快適だった。というのも、以前、野菜の出荷場で同じくピッキングの仕事をしていた。
しかし、デジタル化されておらず、教育係のおばあちゃんにやかましく指示されていた。うっかりしているぼくはよく注意されて、いちどドロドロに溶けた三つ葉を出荷して「こんなミスは幼稚園児でもしない!」と怒鳴られたのだった。
コミュニケーションがなければ、セクハラもパワハラも起きない。職場のうざい人間関係から解放される。
もちろん、やりとりが必要な職種もあるが、テクノロジーを介することで、なるべくコミュニケーションを抑制している。常に監視されている。ログが残ると意識すれば、不必要なことはしゃべれない。ハラスメントが厳しくなった現在、人間のコミュニケーションは企業にとってリスクなのだ。
人間同士のやりとりがめんどくさい。なるべくひとりで過ごしたい。ぼくが物流倉庫のバイトにありつけるのも、そんな消費のあり方が増えたからだ。
ネットで商品を注文すれば、翌日には自宅のまえに置かれている。とても快適である。とくに新型コロナ禍では感染リスクを抑えるために対面のコミュニケーションが制限された。そんな風景が当たり前になりつつある。
しかし、ひとりの快適さを得た代わりに失ったものもある。バイト中にときどきおそろしくなるのだ。もし、このダンボール箱の山が崩れて、ぼくが下敷きになっても、だれも気づかないんじゃないかって。
コミュニケーションがなければハラスメントは起きないが、親しくなるきっかけもない。助け合いもできない。「分割して統治せよ」という言葉があったが、労働者が団結するリスクをなくすためにも、コミュニケーションなしがよい。
「〇〇ガチャ」という言葉をよく聞くようになった。たとえば、どの親のもとに生まれるかを景品くじ=ガチャに喩えた「親ガチャ」という言葉がある。人間の一生は運に左右される。
興味深いのは、このような「偶然性」や「確率」という問題は個人の個別化によって登場する、と山崎氏が指摘していることだ(文庫版増補新版『柔らかい個人主義の誕生』解説の福嶋亮大氏がおそらく東浩紀氏の仕事を意識しつつ言及している)。
つまり、人間の不幸も個別化するのだ。集団全体を襲う災難が普遍的な問題として解決されるほど、「あの人は死んだのに、わたしが生き残ったのはなぜか」という偶然性の問題が浮かび上がる。
このような個別化された不幸は、あたかも「悪魔の恣意的な選別」のようにみえて、「運命の不条理さ」を思い知らされる。しかも、「選別的、偶然的に襲来する災禍」は、みずからの不幸を他者と共有できず、「深刻な孤独」へと人を追いやってしまう。
ぼくの考えでは、個別化された不幸が近年のアイデンティティ・ポリティクスの流行と深く関わっている。多くの人はみずからの不幸の偶然性=無意味さに耐えられない。だから、「わたしの不幸ではなく、わたしたちの不幸なのだ」と集団化することで、意味をあたえている。
つまり、わたしの不幸は、わたしが特定のアイデンティティを持つかぎり、宿命的に到来するわたしたちの不幸なのだ、と。
かつて山崎氏はインターネットにおいても「社交」が可能だと指摘した(『社交する人間』)。しかし、いまや、さまざまな「わたしたち」が拒絶し合う場となっている。インターネットは同じ価値観を持つ人ばかりが集まる。お互いにわたしの不幸を慰め合って、わたしたちとして集団化する。
このようにして、こわばった集団主義というべき、アイデンティティ・ポリティクスが流行する。統計的に描かれたわたしたちをわたし自身だと思い込むことによって。ひとつの集団に誠実にコミットするあまり、個人は集団のなかに溶解していく。
しかし、このような集団主義は、個人のさらなる個別化、ひとりで過ごす快適さと矛盾しない。わたしたちのなかで出会うのは、もうひとりのわたしにほかならないからだ。無数のわたししかいない空間は、とても快適だし、深刻な孤独を癒してくれる。
Vershinin89-shutterstock
ところで、猫型ロボットを見ると、ツイッター(現X)で連載中の人気漫画『ちいかわ』を思い出してしまう。猫やウサギのような小さくてかわいいキャラクターが、どうやら文明が滅んだあとの世界で、草むしりをしたり、モンスターを討伐したりして、暮らしている。
擬人化された動物たちは男性や女性といった性を感じさせない。幼い子供のようだが、性的興奮を起こさせないように徹底している。柔らかくて丸いフォルムはだれも傷つけず、暴力性を感じさせない。健気で純粋でか弱いので、ケアしたくなるパターナルな本能をくすぐる。
怒られる要素が見当たらないどころか、表象に敏感で傷つきやすい不幸なわたしたちの理想的な自画像である。たしかに資格検定の試験があったり、ラーメンを食べたりお酒も飲んだりして、まるでわたしたちのようなのだ。
しかし、そんなかわいいキャラが暮らすのはダークな世界だ。鎧をつけた人間に管理され、怪物に襲われたり、石にされたり、なかには怪物そのものと化す仲間もいる。だが、残酷な世界観ははっきりと示されず、ほのめかされるだけ。
そのため、読者は数々の伏線をつなぎ合わせて作品世界の謎を解くことになる。しかし、その考察の手つきはQアノンといった陰謀論者にそっくりとなってしまう。
かわいいが社交に置きかえられた世界。つめたくてさびしい管理社会を隠すためのかわいい化。野宿者を排除するための公園のトゲトゲの突起物が、排除の意思はないと表現するためのアートとなるように。しかし、その残酷さをあばこうとすれば、どこか陰謀論じみてしまう。そんなかわいい世界。
山崎氏が重きを置いた「社交」にアッパーなサロン文化を感じないといえば噓になるが、どうもぼくたちは社交のやり方を忘れつつあるようなのだ。ビジネスの世界から社交が失われたのであれば、別のかたちの社交のあり方を見つけなければならない。そのような交流から知が生まれるのである。
綿野恵太(Keita Watano)
1988年大阪府生まれ。福島県在住。太田出版で編集者として勤務したのちにフリーの文筆業。著書に『「逆張り」の研究』(筑摩書房)、『みんな政治でバカになる』(晶文社)、『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)。共著に『吉本隆明─没後10年、激動の時代に思考し続けるために』(河出書房新社)など。
『アステイオン』100号
特集:「言論のアリーナ」としての試み──創刊100号を迎えて
公益財団法人サントリー文化財団
アステイオン編集委員会 編
CCCメディアハウス
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『柔らかい個人主義の誕生』
山崎正和[著]
中央公論新社[刊]
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『社交する人間』
山崎正和[著]
中央公論新社[刊]
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『ちいかわ なんか小さくてかわいいやつ』第1巻
ナガノ[著]
講談社[刊]
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<ファミレスの配膳ロボットから人気漫画『ちいかわ』まで、デジタル化時代に「社交」を改めて考える。『アステイオン』100号より「物流倉庫のバイトのあとに『柔らかい個人主義の誕生』を読む」を転載>
猫型ロボット。最近、ファミリーレストランで配膳しているあいつのことだ。ディスプレイにはまんまるおめめ。頭を撫でれば、「くすぐったいニャ」とうれしそうに目をつむる。「ご注文ありがとうニャン」とお礼も言う。テーブルのそばを通るだけで子供たちが「かわいい」と喜ぶ。正式名はBellaBotというらしい。
しかし、かわいいからといってだまされてはいけない。冷静に考えれば、工場で製造された料理がロボットで運ばれているのだ。そして、お客さんはタブレットで注文して、自動釣り銭機でお会計を済ませている。こういうふうに書くと、どこか無味乾燥な感じがしてこないか。
むかし山崎正和氏はファミレスについてこう述べていた。「提供される商品の実質は工場生産による冷凍食品であり、顧客が店頭で受けとるのは、食卓の雰囲気と給仕人の演技、いいかえれば、もてなしの「幻想」にほかならない」と(『柔らかい個人主義の誕生』)。
つまり、山崎氏によれば、ファミレスには「冷凍運搬車と冷蔵庫という機械的媒体のイメージ」を失くすために「人間による直接的なもてなしの演技」が必要であった。そして、もてなしの演技を求めてお客さんが集まったわけである。
しかし、いまのファミレスにあるのは、給仕ならぬ給餌である。もてなしの演技はない。その代わりに猫型ロボットの「かわいい」がある。そして、かわいいに簡単にだまされる、ちょろいぼくたちがいる。近頃は工事現場のバリケードさえもかわいいキャラと化している。
山崎正和氏の『柔らかい個人主義の誕生』は1984年に刊行された。創刊時の『アステイオン』でもたびたび言及されている。
国家はかつての存在感を失い、個人は会社や家族といった集団から解放された。このように個人の「個別化」が進んだいっぽうで、ひとびとは趣味や教養を求めて文化サークルや市民講座、ボランティアにつどった。
顔の見える小さな集まりを掛け持ちする個人に必要とされるのは、ひとつの集団に誠実にコミットする強固な自我ではない。さまざまな集団でみずからの役割を自覚的に演じ分ける、柔らかな自我である。
このような山崎氏の主張の背景には、消費社会があった。物質の生産ではなく情報やサービスへ比重をうつした「脱産業化社会」(ダニエル・ベル)。
人間が人間の相手をするサービス業では、社交のための演技が必要となる。たとえ、ファミレスであっても。人間同士のやりとり=社交を楽しむことは、時間や出来事そのものを消費することにほかならない。
時間消費という新しいあり方は、これまで効率よくモノを生産=消費してきた大量生産・大量消費社会を越えるものなのだ。それゆえに、「柔らかい個人主義の誕生」は「文明史的な転換」なのである、と。
しかし、いまやファミレスでは猫型ロボットが働いている。脱・脱産業化社会? 消費だけではなく、生産や流通といった社会のあらゆる領域で人間同士のやりとりが失われている。
その意味で、個人の個別化はかぎりなくすすんだ。けれども、柔らかい個人主義は誕生しなかったと思わざるをえないのだ。
ぼくは物流倉庫でピッキングのバイトをしている。手持ちのハンディで出荷指示書のバーコードを読み込む。「商品A1345 個数3」といった指示が画面に表示されるので、商品を集めてダンボールに詰めていく。
大手の倉庫ではロボットがすでに稼働しているので、近い将来にはなくなる仕事である。とはいえ、田舎の人間を最低賃金900円でこき使ったほうがまだ安くつくみたいだ。
バイトを始めて1週間経って気づいた。会話がないのだ。数十人が同じ倉庫で働いている。けれどもだれもしゃべらない。すべての作業がひとりで自己完結できる。コミュニケーションをとる必要がないのだ。指示はハンディが出してくれるし、ミスすればハンディが警告してくれる。
ぼくにとってこのバイトはとても快適だった。というのも、以前、野菜の出荷場で同じくピッキングの仕事をしていた。
しかし、デジタル化されておらず、教育係のおばあちゃんにやかましく指示されていた。うっかりしているぼくはよく注意されて、いちどドロドロに溶けた三つ葉を出荷して「こんなミスは幼稚園児でもしない!」と怒鳴られたのだった。
コミュニケーションがなければ、セクハラもパワハラも起きない。職場のうざい人間関係から解放される。
もちろん、やりとりが必要な職種もあるが、テクノロジーを介することで、なるべくコミュニケーションを抑制している。常に監視されている。ログが残ると意識すれば、不必要なことはしゃべれない。ハラスメントが厳しくなった現在、人間のコミュニケーションは企業にとってリスクなのだ。
人間同士のやりとりがめんどくさい。なるべくひとりで過ごしたい。ぼくが物流倉庫のバイトにありつけるのも、そんな消費のあり方が増えたからだ。
ネットで商品を注文すれば、翌日には自宅のまえに置かれている。とても快適である。とくに新型コロナ禍では感染リスクを抑えるために対面のコミュニケーションが制限された。そんな風景が当たり前になりつつある。
しかし、ひとりの快適さを得た代わりに失ったものもある。バイト中にときどきおそろしくなるのだ。もし、このダンボール箱の山が崩れて、ぼくが下敷きになっても、だれも気づかないんじゃないかって。
コミュニケーションがなければハラスメントは起きないが、親しくなるきっかけもない。助け合いもできない。「分割して統治せよ」という言葉があったが、労働者が団結するリスクをなくすためにも、コミュニケーションなしがよい。
「〇〇ガチャ」という言葉をよく聞くようになった。たとえば、どの親のもとに生まれるかを景品くじ=ガチャに喩えた「親ガチャ」という言葉がある。人間の一生は運に左右される。
興味深いのは、このような「偶然性」や「確率」という問題は個人の個別化によって登場する、と山崎氏が指摘していることだ(文庫版増補新版『柔らかい個人主義の誕生』解説の福嶋亮大氏がおそらく東浩紀氏の仕事を意識しつつ言及している)。
つまり、人間の不幸も個別化するのだ。集団全体を襲う災難が普遍的な問題として解決されるほど、「あの人は死んだのに、わたしが生き残ったのはなぜか」という偶然性の問題が浮かび上がる。
このような個別化された不幸は、あたかも「悪魔の恣意的な選別」のようにみえて、「運命の不条理さ」を思い知らされる。しかも、「選別的、偶然的に襲来する災禍」は、みずからの不幸を他者と共有できず、「深刻な孤独」へと人を追いやってしまう。
ぼくの考えでは、個別化された不幸が近年のアイデンティティ・ポリティクスの流行と深く関わっている。多くの人はみずからの不幸の偶然性=無意味さに耐えられない。だから、「わたしの不幸ではなく、わたしたちの不幸なのだ」と集団化することで、意味をあたえている。
つまり、わたしの不幸は、わたしが特定のアイデンティティを持つかぎり、宿命的に到来するわたしたちの不幸なのだ、と。
かつて山崎氏はインターネットにおいても「社交」が可能だと指摘した(『社交する人間』)。しかし、いまや、さまざまな「わたしたち」が拒絶し合う場となっている。インターネットは同じ価値観を持つ人ばかりが集まる。お互いにわたしの不幸を慰め合って、わたしたちとして集団化する。
このようにして、こわばった集団主義というべき、アイデンティティ・ポリティクスが流行する。統計的に描かれたわたしたちをわたし自身だと思い込むことによって。ひとつの集団に誠実にコミットするあまり、個人は集団のなかに溶解していく。
しかし、このような集団主義は、個人のさらなる個別化、ひとりで過ごす快適さと矛盾しない。わたしたちのなかで出会うのは、もうひとりのわたしにほかならないからだ。無数のわたししかいない空間は、とても快適だし、深刻な孤独を癒してくれる。
Vershinin89-shutterstock
ところで、猫型ロボットを見ると、ツイッター(現X)で連載中の人気漫画『ちいかわ』を思い出してしまう。猫やウサギのような小さくてかわいいキャラクターが、どうやら文明が滅んだあとの世界で、草むしりをしたり、モンスターを討伐したりして、暮らしている。
擬人化された動物たちは男性や女性といった性を感じさせない。幼い子供のようだが、性的興奮を起こさせないように徹底している。柔らかくて丸いフォルムはだれも傷つけず、暴力性を感じさせない。健気で純粋でか弱いので、ケアしたくなるパターナルな本能をくすぐる。
怒られる要素が見当たらないどころか、表象に敏感で傷つきやすい不幸なわたしたちの理想的な自画像である。たしかに資格検定の試験があったり、ラーメンを食べたりお酒も飲んだりして、まるでわたしたちのようなのだ。
しかし、そんなかわいいキャラが暮らすのはダークな世界だ。鎧をつけた人間に管理され、怪物に襲われたり、石にされたり、なかには怪物そのものと化す仲間もいる。だが、残酷な世界観ははっきりと示されず、ほのめかされるだけ。
そのため、読者は数々の伏線をつなぎ合わせて作品世界の謎を解くことになる。しかし、その考察の手つきはQアノンといった陰謀論者にそっくりとなってしまう。
かわいいが社交に置きかえられた世界。つめたくてさびしい管理社会を隠すためのかわいい化。野宿者を排除するための公園のトゲトゲの突起物が、排除の意思はないと表現するためのアートとなるように。しかし、その残酷さをあばこうとすれば、どこか陰謀論じみてしまう。そんなかわいい世界。
山崎氏が重きを置いた「社交」にアッパーなサロン文化を感じないといえば噓になるが、どうもぼくたちは社交のやり方を忘れつつあるようなのだ。ビジネスの世界から社交が失われたのであれば、別のかたちの社交のあり方を見つけなければならない。そのような交流から知が生まれるのである。
綿野恵太(Keita Watano)
1988年大阪府生まれ。福島県在住。太田出版で編集者として勤務したのちにフリーの文筆業。著書に『「逆張り」の研究』(筑摩書房)、『みんな政治でバカになる』(晶文社)、『「差別はいけない」とみんないうけれど。』(平凡社)。共著に『吉本隆明─没後10年、激動の時代に思考し続けるために』(河出書房新社)など。
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山崎正和[著]
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ナガノ[著]
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