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医療保険CEO銃殺事件が映すアメリカの現在

ニューズウィーク日本版 2024年12月11日 14時0分

冷泉彰彦
<保険金支払いを「渋りがち」な大企業トップへの凶行に、ネット上では賛美の声まで上がっている>

今月4日早朝、ニューヨーク市内で医療保険大手ユナイテッドヘルスのブライアン・トンプソンCEOが殺害されました。背後からトンプソン氏を狙撃した犯行の決定的な瞬間が防犯カメラに記録されており、自転車などで市内を移動する容疑者の写真も撮影されていましたが、狙撃犯は相当なプロで長距離バスに乗って州外に逃亡したとされていました。

韓国の戒厳令、シリアのアサド政権崩壊など世界で大きな事件が起きている一方で、アメリカでは連日この事件が報じられていました。それは、狙撃に使われた薬莢に書かれていたあるメッセージが理由です。銃弾には "deny, defend, depose" (否認せよ、弁護せよ、追放せよ)という3語が書かれていたというのです。これは、保険業界が保険金申請を渋る際の内部用語とされる有名なフレーズ "delay, deny, defend"(遅らせよ、否認せよ、弁護せよ)に似ています。

要するに保険加入者からの保険金申請については「まず否認」して相手が引っ込むのを待ち、受理した場合は処理をできるだけ「遅らせ」、とにかく保険会社の利害を守れ、という一種の業界内部のスローガンと言われており、保険業界を批判する際に良く引用されるものです。

多くの人が保険会社には不満を抱いている

業界の中でも医療保険に関しては、加入者である一般の患者は、保険会社による「否認、遅延、自己弁護」的な対応をされたことが多かれ少なかれあるわけです。今回暗殺されたのが外でもない、その医療保険業界でシェア1位(約15%)であるユナイテッドのCEOだということ、その殺害に使われた銃弾の薬莢にこのフレーズに酷似した文言が書かれていたことから、とにかくこの事件は話題性抜群ということになってしまいました。

アメリカ人の多くは、保険会社との交渉でストレスを感じたことがあります。なかでも、殺されたトンプソン氏が率いていたユナイテッドは業界1位ですし、申請を簡単に受理しないことでも有名だったからです。

捜査が難航する気配を見せていた中、事件から5日後の9日になって、防犯カメラの写真で手配中の男が、ペンシルベニア州アルトーナ町というアパラチア山脈の奥で通報により確保されました。マクドナルドの店内で食事をしていた際に、店員が手配書の写真に似ていると通報して逮捕されたのです。容疑者はメリーランド州出身で26歳の男で、3Dプリンターで作った銃と消音器(サイレンサー)、医療保険業界を批判する手書きの宣言文を所持していたそうです。

また、事件の前後に使用した偽の免許証も見つかり、警察は偽造文書所持で逮捕、更に現在は殺人の容疑も加わっています。容疑者は、メリーランド州の裕福な家族の出身で、アイビーリーグに属するペンシルベニア大学(Uペン)を卒業後、ゲーム業界に勤務していたコンピューター技術者でした。

容疑者の所持していた宣言文には、巨大企業への批判、そして医療保険業界への批判が延々と綴られていました。20世紀末に大企業批判などのメッセージを込めて爆弾テロを繰り返した「ユナボマー」の思想にも影響を受けているという説があります。

容疑者は護送される際にメディアを口汚く罵ったり、かなり偏った人物のようです。また、自身の背中の怪我の治療に関して、保険会社とトラブルになったのが凶行への契機となったという説もあります。いずれにしても、思い詰めた若者による全くの一匹狼的な犯行のようです。

そうではあるのですが、事件への反響は大きくなっています。事件発生後は息を潜めて見守っていた感じのある世論ですが、特に若者のネット世論の間には容疑者を賛美するような動きが見られます。殺されたトンプソン氏がトップであったユナイテッドヘルスに関しては別の幹部が「保険金支払いを渋るように」指示しているとされる動画が出回って炎上しています。

また、容疑者を発見して通報したマクドナルド店舗の検索レビューには、嫌がらせの書き込みが後を絶たないようです。この事件を契機に、曲がりなりにも国民皆保険を実現した通称オバマケアが、民間の保険と政府の補助という組み合わせでできていることへの批判が改めて起こっています。これは、民主党左派の主張です。

大統領選に勝利したトランプ次期大統領は、2021年1月6日の議事堂襲撃事件で逮捕された被告たちへの恩赦を明言しています。分断されたアメリカの中で、自分を支持してくれる人間については、暴力も容認する姿勢と言わざるを得ません。その一方で、民主党左派の側にも、保険制度の改革を熱望する余りに、今回のような経済人へのテロを賛美するような風潮があるとしたら、トランプ氏を批判することはできなくなってしまいます。容疑者の動機について、更なる解明が待たれます。

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