文・写真:趙海成
<荒川河川敷のホームレスを取材する在日中国人ジャーナリストの趙海成氏が初めて出会ったホームレスは、「伝説」のように生きる桂さん(仮名)。食事を共にし、親交が深かったが、事態は急変する>
※ルポ第14話:突然姿を消した荒川ホームレスの男性 何が起こったのか、残された「兄弟」は... より続く
2024年6月、足立区にあるコンビニの前で一人のホームレスが突然倒れ、心臓が止まった。
救急車で大きな病院の救急病棟に運ばれ、急性心筋梗塞と診断された。すぐに手術を受けた。呼吸が出来て、心臓も動いていたが、意識は回復しなかった。
脳波検査では、彼の脳はすでに機能しなくなっており、思考、運動、感覚、言語、感情などの機能はすべて失われていることが確認されたという。
しかし脳幹は生きているため、生命を維持し、循環、呼吸、体温などの生理機能を含む役割を果たすことができる。正確に言うと、彼は植物人間になったのだ。
これは私の親しい友人である桂さん(仮名)の話である。
筆者(左)と桂さん
ついこの間までパーティーの約束をして元気だったのに...
その1週間前には、外で羊肉のしゃぶしゃぶパーティーを開こうと約束したばかりだった。そのために私は、友人からもらった専用の炭火大火鍋を、前もって彼のところに届けたのだが......。
今はただ彼の身に起きたことを残念だと思いながら、「人生難測、世事無常」(「人生は予測不可能であり、世間は無常である」という意味の中国語)と嘆くしかない。
桂さんは私が最初に出会った荒川河川敷のホームレスだ。
彼と知り合って間もなく、私はフリージャーナリスト兼カメラマンであること、そして日本のホームレスの生活に興味があり、彼らに関する物語を書き、国内外の多くの読者に紹介したいということを伝えた。
桂さんの信頼を得るために、私は彼に日本で出版された著書『私たちはこうしてゼロから挑戦した』(アルファベータブックス)を贈った。その後、彼はわざわざ私に感想を話してくれた。
そうした信頼関係により、私が取材をするたびに、彼はとても親切にいろいろな質問にひとつひとつ答えてくれた。それだけでなく、私が彼の普段の生活ぶりを写真に撮っても、決して忌み嫌うことはなかった。
私が2年半の間に8万字に及ぶ「荒川河川敷の『原住民』」のルポシリーズを完成させることができたのは、桂さんの絶大な支援のおかげだ。
そこで今回は、桂さんへの感謝の気持ちを込めて、この記事を読者の皆さんにお届けしたい。そして、今も病床に横たわっている桂さんの身に奇跡が起こることを祈る。
これらの写真を見れば分かるように、桂さんのホームレス生活は豊かで充実している
荒川近くで育った。この荒川が自然の偉大さを教えてくれた
桂さんは、この荒川近くで生まれ、小さい頃から荒川の河川敷で遊ぶのが好きだったという。ここの森、湿地、池、草木などはすべて彼の「天然の遊園地」になった。ここではシラサギ、アジサシ、ミサゴ、カモ、ハトなどの美しい鳥がよく見られるだけでなく、カメ、アライグマ、タヌキ、キツネ、ウサギ、タネズミといったかわいい小動物にも時折、出会うことができる。
いずれも桂さんが幼い頃、追いかけて遊んでいた自然界の小さな遊び仲間だった。
小学生時代、桂さんは釣りを覚えた。それから何十年も釣ってきたが、私の見る限り、今では荒川一帯で有名な釣りの達人だ。多くの釣り初心者(中国人もいる)が弟子入りして教えを乞うてきたという。
1958年の狩野川台風で荒川が氾濫したとき、まだ小学生だった彼はちょうど荒川のほとりで釣りをしていて、河川氾濫の恐怖を目の当たりにした。しかし、その経験は少年の桂さんを驚かすどころか、荒川への愛と崇拝の気持ちを高めた。
荒川は彼に自然の威力と魅力を教えてくれた。畏敬とは何か、冒険とは何かを早くに知ることになったのだ。
アルミ缶集めは2日に1回。ホームレス生活を生きる術
桂さんは何度も私に言った。彼自身がホームレスになる道を選んだのは「冒険」であること。「あなたがどの生きる道を選んでも、未来はどうなるか予測できないが、大胆に前進すれば、自分の生活に合ったユートピアを見つけることができる」ということ。
桂さんも当初は、何か困ったことがあってホームレスの隊列に入ることになったのかもしれない。
それでも、この「人間の煉獄」(カトリックの教義で、死者の霊魂が天国に入る前に火によって罪を浄化される場所とされている)に入った後、ここには悲鳴、落胆、貧困ばかりではなく、笑い、希望、豊かさもあることを知った。
それはおそらく桂さんの幼少期からの生活環境と経験に根ざしている。
彼の特性はこの種の自然に近いホームレスの生活には向いているようだし、青年時代にはさまざまなスポーツが好きで、それによって健康な体を手に入れていた。だから劣悪な環境の試練にも耐えられるわけだ。
ホームレスとして10年の時が過ぎた。彼は自分の野外生活を整然としたものにして、さまざまなことに興味を持って毎日を過ごしていた。私から見れば、桂さんはホームレスの中で最も賢く生きている人だと思う。
読者の皆さんは、彼が何を頼りに、そしてどのように生きているかに興味を持っているだろう。ここで、私が知る桂さんの「生きる術」をいくつか紹介しよう。
まずは肝心な生活費の出所だ。桂さんの仕事はシンプルで、アルミ缶を集めて廃品買取所に売ることだ。彼はこれを「缶の仕事」と呼ぶ。
アルミ缶がまだ売れる限り、彼の収入源がなくなることは心配しなくてもいいだろう。
桂さん、この仕事の最大の特徴について、こう話していた。「頭を使わず、人に頼まず、誰にも管理されず、やりたいときにやり、働いた分だけ稼ぐことができ、やらなければ稼ぐことができない」
桂さんは基本的に2日に1回、アルミ缶の収集に行く。通常は午前3時に出発し、6時まで缶を集める。それを家に持ち帰って、朝ご飯を食べる。その後、収集したアルミ缶をすべてぺしゃんこにして(体積を小さくして輸送しやすくする)、自転車で廃品買取所に持っていく。
20キロぐらいの缶を売って、4000〜5000円をもらえる。このお金は2日分の生活費としては十分で、それ以上は稼がないという。
桂さんの家を出て15メートル歩くと釣りにちょうどいい場所がある(上)/桂さんがエビ捕りのための地網を設置しているコンクリートブロック(左下)/桂さんが新鮮なエビの水煮を持ってきて味見させてくれた(右下)
まるで青い別荘...器用な桂さんが作るテント小屋
次に、桂さんの「住宅」について話す。彼は少なくとも大きさの異なるテントの小屋を4つ張っていた。2つは住居用、1つは客間、もう1つは倉庫として使っている。
川の対岸から桂さんのテント群を眺めると、まるで青く連なった別荘のようである。これは彼の手先の器用さのおかげだろう。
桂さんが張ったテント小屋は風にも雨にも強く、丈夫で長持ちしている。仲間うちでは、彼は建築士出身かもしれないとひそかに噂されている。
次に桂さんの食事について。彼は川辺に住んでいて、釣りも得意なので、魚が食べたくなったら、少し歩いた場所にある釣りスポットに行く。一番好きな魚はハゼだという。
エビを食べたければ、十数メートル離れた川辺にあるコンクリートブロックの所まで取りに行くこともできる。彼はそこにエビを捕獲するための網を設置しており、入り込んで出られなくなったエビが調理されるのを待っている。
新鮮なタケノコを食べたくなったら、もっと簡単に手に入れることができる。竹林に潜り込んで何本か切り、皮をむいて煮て、塩を振ると、さっぱりしたおかずになる。
彼のテントの周りには、クルミの木、柿の木、桑の木もある。これらの木の実が成熟したら、摘む必要はなく、地面に落ちているものを拾えばそのまま食べられる。
桂さんは最近、竹林のそばでセロリも見つけたと言っていた。セロリを入れてギョーザを作れば、きっとおいしいに違いない。
もちろん、これらの果実や野菜には旬の季節があり、食べたいときにいつでも食べられるわけではない。ホームレスの生活には冷蔵庫もないので、保存もできない。
川辺で大きなスッポンを捕まえた(左上)/これは桂さんがくれた新鮮なタケノコと桑の実(右上)/川辺の森で採れたクルミ(左下)/柿は皮をむいて干し柿にして食べる(右下)
5月中旬、私が寿司と飲み物を持って桂さんのところに食事をしに行ったとき、私はこう聞かれた。「新鮮なタケノコと桑の実を奥さんと子供に食べさせたいですか?」
私はもちろん「食べさせたい」と答えた。
「待ってください」と言って、スコップを持ち、隣の竹林に潜り込んだ桂さん。あっという間に新鮮なタケノコを8本掘って持ってきた。
その後、彼はテントのそばの桑の木から成熟した桑の実を摘んで、一緒に包んでくれた。収穫時間は20分しかかからなかった。
桂さんはおいしいものがあるときに人と分かち合うのが好きだ。ある時には、彼が川から捕まえたばかりの大きなスッポンを他の釣り仲間に渡している場面を見た。しかもお金を受け取らない。
だが彼らには暗黙の了解がある。この釣り仲間はきっと、家に帰ってスッポンを使ったおいしい料理を作った後、桂さんに一部を分け与えて「返す」のだろう。
高級自転車に乗り、ニュースに詳しいホームレス
桂さんが最も誇りに思っているのは、数十万円するという北欧製のスポーツレース用自転車(上の写真にある)だ。この高級自転車は、買い物に出かけたり、彩湖公園でサイクリングをしたり、友達に会いに行ったりするときにしか使われない。
この自転車はあまりにも桂さんの点数を上げてくれるので、その所有者がホームレスだとは誰も思わないようだ。この自転車を押して可愛い女性に話しかけると、相手は大体笑顔で迎えてくれるのだという。
この豪華な自転車のほかに、アルミ缶を運ぶための普通の自転車もある。
桂さんは国内外の大きなニュースにも関心を持っており、まさに「荒川のほとりにいて、心が全世界につながっている」といえる。
彼と話をしているうちに、世界で最近起きた重要な事件について多く知っていることに気づいた。テレビもなく、新聞も購読せず、パソコンや携帯電話も使わず、どこから情報を得ているのか不思議だと思って彼に聞いた。
桂さんはラジオのニュース番組を毎日聞き続けているほか、仕事や買い物に出かけたときにテレビや新聞を見つけると、立ち止まって見たり読んだりすると教えてくれた。 また、桂さんは人と話すのが好きで、それによっても多くの情報を得ることができている。
桂さんは普段、音楽を聴くのが趣味だ。特にテレサ・テンの歌は、毎日聴いても飽きないくらい大好きで、よく夜中に起きて聴いているという。
テレサ・テンの中国語の代表曲は「何日君再来」(「いつまた会えるのだろうか」という意味)。桂さんはその曲が大好きなので、私はそれを「何日桂兄再回来」(いつ桂兄さんに再会できるのだろうか)という祈りの言葉に換えて、桂さんに伝えたい。
(編集協力:中川弘子)
[筆者]
趙海成(チャオ・ハイチェン)
1982年に北京対外貿易学院(現在の対外経済貿易大学)日本語学科を卒業。1985年に来日し、日本大学芸術学部でテレビ理論を専攻。1988年には日本初の在日中国人向け中国語新聞「留学生新聞」の創刊に携わり、初代編集長を10年間務めた。現在はフリーのライター/カメラマンとして活躍している。著書に『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)、『私たちはこうしてゼロから挑戦した──在日中国人14人の成功物語』(アルファベータブックス)などがある。
<荒川河川敷のホームレスを取材する在日中国人ジャーナリストの趙海成氏が初めて出会ったホームレスは、「伝説」のように生きる桂さん(仮名)。食事を共にし、親交が深かったが、事態は急変する>
※ルポ第14話:突然姿を消した荒川ホームレスの男性 何が起こったのか、残された「兄弟」は... より続く
2024年6月、足立区にあるコンビニの前で一人のホームレスが突然倒れ、心臓が止まった。
救急車で大きな病院の救急病棟に運ばれ、急性心筋梗塞と診断された。すぐに手術を受けた。呼吸が出来て、心臓も動いていたが、意識は回復しなかった。
脳波検査では、彼の脳はすでに機能しなくなっており、思考、運動、感覚、言語、感情などの機能はすべて失われていることが確認されたという。
しかし脳幹は生きているため、生命を維持し、循環、呼吸、体温などの生理機能を含む役割を果たすことができる。正確に言うと、彼は植物人間になったのだ。
これは私の親しい友人である桂さん(仮名)の話である。
筆者(左)と桂さん
ついこの間までパーティーの約束をして元気だったのに...
その1週間前には、外で羊肉のしゃぶしゃぶパーティーを開こうと約束したばかりだった。そのために私は、友人からもらった専用の炭火大火鍋を、前もって彼のところに届けたのだが......。
今はただ彼の身に起きたことを残念だと思いながら、「人生難測、世事無常」(「人生は予測不可能であり、世間は無常である」という意味の中国語)と嘆くしかない。
桂さんは私が最初に出会った荒川河川敷のホームレスだ。
彼と知り合って間もなく、私はフリージャーナリスト兼カメラマンであること、そして日本のホームレスの生活に興味があり、彼らに関する物語を書き、国内外の多くの読者に紹介したいということを伝えた。
桂さんの信頼を得るために、私は彼に日本で出版された著書『私たちはこうしてゼロから挑戦した』(アルファベータブックス)を贈った。その後、彼はわざわざ私に感想を話してくれた。
そうした信頼関係により、私が取材をするたびに、彼はとても親切にいろいろな質問にひとつひとつ答えてくれた。それだけでなく、私が彼の普段の生活ぶりを写真に撮っても、決して忌み嫌うことはなかった。
私が2年半の間に8万字に及ぶ「荒川河川敷の『原住民』」のルポシリーズを完成させることができたのは、桂さんの絶大な支援のおかげだ。
そこで今回は、桂さんへの感謝の気持ちを込めて、この記事を読者の皆さんにお届けしたい。そして、今も病床に横たわっている桂さんの身に奇跡が起こることを祈る。
これらの写真を見れば分かるように、桂さんのホームレス生活は豊かで充実している
荒川近くで育った。この荒川が自然の偉大さを教えてくれた
桂さんは、この荒川近くで生まれ、小さい頃から荒川の河川敷で遊ぶのが好きだったという。ここの森、湿地、池、草木などはすべて彼の「天然の遊園地」になった。ここではシラサギ、アジサシ、ミサゴ、カモ、ハトなどの美しい鳥がよく見られるだけでなく、カメ、アライグマ、タヌキ、キツネ、ウサギ、タネズミといったかわいい小動物にも時折、出会うことができる。
いずれも桂さんが幼い頃、追いかけて遊んでいた自然界の小さな遊び仲間だった。
小学生時代、桂さんは釣りを覚えた。それから何十年も釣ってきたが、私の見る限り、今では荒川一帯で有名な釣りの達人だ。多くの釣り初心者(中国人もいる)が弟子入りして教えを乞うてきたという。
1958年の狩野川台風で荒川が氾濫したとき、まだ小学生だった彼はちょうど荒川のほとりで釣りをしていて、河川氾濫の恐怖を目の当たりにした。しかし、その経験は少年の桂さんを驚かすどころか、荒川への愛と崇拝の気持ちを高めた。
荒川は彼に自然の威力と魅力を教えてくれた。畏敬とは何か、冒険とは何かを早くに知ることになったのだ。
アルミ缶集めは2日に1回。ホームレス生活を生きる術
桂さんは何度も私に言った。彼自身がホームレスになる道を選んだのは「冒険」であること。「あなたがどの生きる道を選んでも、未来はどうなるか予測できないが、大胆に前進すれば、自分の生活に合ったユートピアを見つけることができる」ということ。
桂さんも当初は、何か困ったことがあってホームレスの隊列に入ることになったのかもしれない。
それでも、この「人間の煉獄」(カトリックの教義で、死者の霊魂が天国に入る前に火によって罪を浄化される場所とされている)に入った後、ここには悲鳴、落胆、貧困ばかりではなく、笑い、希望、豊かさもあることを知った。
それはおそらく桂さんの幼少期からの生活環境と経験に根ざしている。
彼の特性はこの種の自然に近いホームレスの生活には向いているようだし、青年時代にはさまざまなスポーツが好きで、それによって健康な体を手に入れていた。だから劣悪な環境の試練にも耐えられるわけだ。
ホームレスとして10年の時が過ぎた。彼は自分の野外生活を整然としたものにして、さまざまなことに興味を持って毎日を過ごしていた。私から見れば、桂さんはホームレスの中で最も賢く生きている人だと思う。
読者の皆さんは、彼が何を頼りに、そしてどのように生きているかに興味を持っているだろう。ここで、私が知る桂さんの「生きる術」をいくつか紹介しよう。
まずは肝心な生活費の出所だ。桂さんの仕事はシンプルで、アルミ缶を集めて廃品買取所に売ることだ。彼はこれを「缶の仕事」と呼ぶ。
アルミ缶がまだ売れる限り、彼の収入源がなくなることは心配しなくてもいいだろう。
桂さん、この仕事の最大の特徴について、こう話していた。「頭を使わず、人に頼まず、誰にも管理されず、やりたいときにやり、働いた分だけ稼ぐことができ、やらなければ稼ぐことができない」
桂さんは基本的に2日に1回、アルミ缶の収集に行く。通常は午前3時に出発し、6時まで缶を集める。それを家に持ち帰って、朝ご飯を食べる。その後、収集したアルミ缶をすべてぺしゃんこにして(体積を小さくして輸送しやすくする)、自転車で廃品買取所に持っていく。
20キロぐらいの缶を売って、4000〜5000円をもらえる。このお金は2日分の生活費としては十分で、それ以上は稼がないという。
桂さんの家を出て15メートル歩くと釣りにちょうどいい場所がある(上)/桂さんがエビ捕りのための地網を設置しているコンクリートブロック(左下)/桂さんが新鮮なエビの水煮を持ってきて味見させてくれた(右下)
まるで青い別荘...器用な桂さんが作るテント小屋
次に、桂さんの「住宅」について話す。彼は少なくとも大きさの異なるテントの小屋を4つ張っていた。2つは住居用、1つは客間、もう1つは倉庫として使っている。
川の対岸から桂さんのテント群を眺めると、まるで青く連なった別荘のようである。これは彼の手先の器用さのおかげだろう。
桂さんが張ったテント小屋は風にも雨にも強く、丈夫で長持ちしている。仲間うちでは、彼は建築士出身かもしれないとひそかに噂されている。
次に桂さんの食事について。彼は川辺に住んでいて、釣りも得意なので、魚が食べたくなったら、少し歩いた場所にある釣りスポットに行く。一番好きな魚はハゼだという。
エビを食べたければ、十数メートル離れた川辺にあるコンクリートブロックの所まで取りに行くこともできる。彼はそこにエビを捕獲するための網を設置しており、入り込んで出られなくなったエビが調理されるのを待っている。
新鮮なタケノコを食べたくなったら、もっと簡単に手に入れることができる。竹林に潜り込んで何本か切り、皮をむいて煮て、塩を振ると、さっぱりしたおかずになる。
彼のテントの周りには、クルミの木、柿の木、桑の木もある。これらの木の実が成熟したら、摘む必要はなく、地面に落ちているものを拾えばそのまま食べられる。
桂さんは最近、竹林のそばでセロリも見つけたと言っていた。セロリを入れてギョーザを作れば、きっとおいしいに違いない。
もちろん、これらの果実や野菜には旬の季節があり、食べたいときにいつでも食べられるわけではない。ホームレスの生活には冷蔵庫もないので、保存もできない。
川辺で大きなスッポンを捕まえた(左上)/これは桂さんがくれた新鮮なタケノコと桑の実(右上)/川辺の森で採れたクルミ(左下)/柿は皮をむいて干し柿にして食べる(右下)
5月中旬、私が寿司と飲み物を持って桂さんのところに食事をしに行ったとき、私はこう聞かれた。「新鮮なタケノコと桑の実を奥さんと子供に食べさせたいですか?」
私はもちろん「食べさせたい」と答えた。
「待ってください」と言って、スコップを持ち、隣の竹林に潜り込んだ桂さん。あっという間に新鮮なタケノコを8本掘って持ってきた。
その後、彼はテントのそばの桑の木から成熟した桑の実を摘んで、一緒に包んでくれた。収穫時間は20分しかかからなかった。
桂さんはおいしいものがあるときに人と分かち合うのが好きだ。ある時には、彼が川から捕まえたばかりの大きなスッポンを他の釣り仲間に渡している場面を見た。しかもお金を受け取らない。
だが彼らには暗黙の了解がある。この釣り仲間はきっと、家に帰ってスッポンを使ったおいしい料理を作った後、桂さんに一部を分け与えて「返す」のだろう。
高級自転車に乗り、ニュースに詳しいホームレス
桂さんが最も誇りに思っているのは、数十万円するという北欧製のスポーツレース用自転車(上の写真にある)だ。この高級自転車は、買い物に出かけたり、彩湖公園でサイクリングをしたり、友達に会いに行ったりするときにしか使われない。
この自転車はあまりにも桂さんの点数を上げてくれるので、その所有者がホームレスだとは誰も思わないようだ。この自転車を押して可愛い女性に話しかけると、相手は大体笑顔で迎えてくれるのだという。
この豪華な自転車のほかに、アルミ缶を運ぶための普通の自転車もある。
桂さんは国内外の大きなニュースにも関心を持っており、まさに「荒川のほとりにいて、心が全世界につながっている」といえる。
彼と話をしているうちに、世界で最近起きた重要な事件について多く知っていることに気づいた。テレビもなく、新聞も購読せず、パソコンや携帯電話も使わず、どこから情報を得ているのか不思議だと思って彼に聞いた。
桂さんはラジオのニュース番組を毎日聞き続けているほか、仕事や買い物に出かけたときにテレビや新聞を見つけると、立ち止まって見たり読んだりすると教えてくれた。 また、桂さんは人と話すのが好きで、それによっても多くの情報を得ることができている。
桂さんは普段、音楽を聴くのが趣味だ。特にテレサ・テンの歌は、毎日聴いても飽きないくらい大好きで、よく夜中に起きて聴いているという。
テレサ・テンの中国語の代表曲は「何日君再来」(「いつまた会えるのだろうか」という意味)。桂さんはその曲が大好きなので、私はそれを「何日桂兄再回来」(いつ桂兄さんに再会できるのだろうか)という祈りの言葉に換えて、桂さんに伝えたい。
(編集協力:中川弘子)
[筆者]
趙海成(チャオ・ハイチェン)
1982年に北京対外貿易学院(現在の対外経済貿易大学)日本語学科を卒業。1985年に来日し、日本大学芸術学部でテレビ理論を専攻。1988年には日本初の在日中国人向け中国語新聞「留学生新聞」の創刊に携わり、初代編集長を10年間務めた。現在はフリーのライター/カメラマンとして活躍している。著書に『在日中国人33人の それでも私たちが日本を好きな理由』(CCCメディアハウス)、『私たちはこうしてゼロから挑戦した──在日中国人14人の成功物語』(アルファベータブックス)などがある。