ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<セカンドキャリアといわれるが、年長者が若いコミュニティーに入っていくには戸惑いもあり...>
地下鉄サリン事件をはじめ、誘拐、殺人、暴力団抗争などを取材し、伝説の事件記者として知られる元朝日新聞警視庁キャップの緒方健二氏は、39年の記者人生を卒業し、私立東筑紫短期大学の保育学科に入学した。
ピアノが弾けない、読み聞かせれば講談調、童謡はムード歌謡に。10代の同級生しかも大半が女性という環境で、63歳の事件記者は学業を修めることができたのか? 年長者としての勇気と心構えさえあれば、加齢による不利は有利にも転換することができる。新聞記者を目指した学生時代より、熱心に学業に励んだという日々を『事件記者、保育士になる』(CCCメディアハウス)にまとめた。
※全3回の第2回(第1回/第2回)
◇ ◇ ◇
保育学科の学生は圧倒的に女性が多い
階段を上りつめ、なんとかオリエンテーション会場にたどり着きました。木の床を踏みしめるとぎしぎしと音がします。使い込まれた木製の机と椅子にも味がある。さて、どこに座るのやら。
入学式でもらった名刺大のカードで確認します。「ご入学おめでとうございます」のメッセージ付きのそれには「クラス 1組」とあります。おう、1年1組か。はるか昔に入学した小学校も1年1組でした。なんであれ「1」はめでたい、清々しい。でも学籍番号は5番、これは氏名の五十音順なのでやむを得ない。
指定の席に着いて教室を見回します。予想通り女性が圧倒的に多い。当方の前後と左も然り。席が右端だったので右は無人です。
男性はいねえか。立ち上がって探します。ひい、ふう、みい......。1組には当方を含めて4人、隣の2組に3人の計7人いました。前年度は学年で1人、なんと7倍です。
4年制大学を卒業して入ったという20歳代半ばの野郎も1人いますが、おしなべて大人しそうな印象です。迷える子羊のごとし。けんかしても勝てそうだ。しませんよ、気合いの問題です。
手取り足取り面倒を見てくれる短期大学の現状
保育学科1年の全容がつかめました。
一、クラス制で1組から4組まである
一、各組に担任教員がつく
一、各組に委員4人を置く
一、出欠・遅刻の連絡は必ず担任に連絡
むむむ。ここは小学校か? 大半の学生は高校を卒業したばかりゆえ、こうした仕組みに違和感は持たないでしょう。クラスなし、日々の出欠管理なし、落第しようが留年しようが行き倒れになろうがすべては自己責任の大学で過ごした身には驚きです。
短大はいまどこも存続が危ぶまれています。18歳人口の減少と4年制大学志向の高まりで、学生数は減少の一途です。学生募集停止や閉鎖する短大が相次いでいます。
文部科学省の学校基本調査によると、2023年度の短大学生数は約8万7千人、ピークは1993年度の約53万人でした。
これに伴い短大の数も減っています。文科省によると1996年度の598校が23年度は300校です。わが東筑紫短大もここ数年定員割れが続いていて、学生確保に躍起です。
こうした状況下で入学した学生です。手取り足取り面倒を見て、途中で辞めることのないよう卒業まで懇切丁寧に支えようとしているのでしょう。クラス制や担任制導入の背景をあれこれ考えていました。
短大は、学校教育法で大学の一類型と位置づけられています。目的は、同法曰く「深く専門の学芸を教授研究し、職業又は実際生活に必要な能力を育成すること」です。
大学とは目的と修業年限にやや違いがあるものの、ここは荒波ざぶざぶの社会に出る前に乗り切る何かを身に付ける場所です。ならば当方が自堕落に過ごした大学の伸び伸び、放任、すべてはおまえが考えて決めよの方が若い衆の自立を促すよなあ、と胸の内で独り言ちていました。
教員の中にも同じように思う人がいるはずだ。いちど話し合ってみよう。いかん。記者時代の悪い癖だ。疑問に思ったことにこだわり、議論をふっかけようとしている。我に返ると、学生生活を送るうえでの大切なあれこれを教員が説明なさっている。集中しなければ。
ついつい何でもメモを取る
オリエンテーションは伝達事項の嵐です。保育学科4クラスの担任教員の紹介に始まり、卒業に必要な取得単位の数、教科書販売の日時や場所、図書館の利用方法、「針供養」や「大学祭」といった行事案内などなど。
さらに授業はひとコマ90分間で年に30回あり、欠席は8回までならOK、定期試験は年に2回で受験時には必ずスーツと校章着用......。
まだまだ続きます。新聞記者時代からずっと愛用している「ヂーエヌ紙製品株式会社」(東京都荒川区)製のノートにこれらを書き留めていたら、あっという間に5ページが埋まりました。
甚だしく強い筆圧の大きな文字を黙って受け止め、インクを吐き出してくれるLAMYのボールペンが頼もしいぜ。周囲を見渡すとメモしている学生はほとんどいません。まあ、配られた学生便覧や説明資料に書かれてありますしね。
見たこと聞いたことを余さず紙に刻み付けないと安心できないのです。抜けきれぬ記者の性ゆえか。百年後、どこかのどなたかが薄汚れたノートをたまさか見つけ「短大学生のなすべきこと」を目にするかも知れません。はい、ジャーナリズムの本旨は記録することにあります。
履修登録、スマホ操作がままならない
「それでは授業の履修登録をします」
教員の呼び掛けで、配布資料の中から登録用紙を探しますが見当たりません。半世紀前の大学入学時には、喫茶店に集まった仲間と「この授業は出欠確認なし」、「試験は資料持ち込み無制限」などと情報交換しながら紙に履修科目を書き込んだものです。
「スマホで入力します」と教員が告げました。まずは履修登録をはじめ休講情報やシラバス検索、成績照会など短大生活に必須のポータルサイト「ユニパ」をインストールしてくれ、と。
しばし待たれよ。
こちとら最近まで「ガラパゴス携帯」と呼ばれる二つ折りの携帯電話を使っていたのです。スマホは入学に合わせて泣く泣く新調しましたが、通話とメールの送受信ができればそれでよし。ポータルだのユニパだのと言われても戸惑うばかりです。
ユニパ? 大学の国際スポーツ大会のことですかのう。
いまや多くの大学、短大が導入している「ユニバーサル・パスポート」の略とは知る由もありません。ユニバーシアードではないんだ。笑えもしない繰り言を吐いてみても事態は好転しません。
助っ人、現る
同級生のみなさんは白魚のごとき指でスマホをさくさくと操作し、登録画面を開いています。上半分が近視、下半分が老眼対応の眼鏡をずり上げ、画面にガンを飛ばしていたら左隣の女子学生がおずおずと声を掛けてくれました。
「あのう、お手伝いしましょうか?」
悪戦苦闘する当方を見ていられなかったのでしょう。ありがたいお申し出に甘えることにしました。
「ここを押さえりゃよろしいのですか」
「いえ、違います。こっちです」
こんなやり取りを繰り返した末、なんとか登録画面に到達しました。「ありがとうございます。おかげで助かりました」と申し上げたら、「よかったです」と天使のような笑顔と涼やかな声でこの学生がおっしゃいます。
菅原文太さん風の短髪に、こらえにこらえた末に敵地へ乗り込むときの高倉健さん風目付きの当方へのお声掛け、さぞや勇気を要したと拝察します。この女子学生はバドミントンの達人で、家でペットのウサギ「ぶぶちゃん」を飼っていることを後に知りました。なるほど肝が据わっていて優しさも備えているわけです。
◇ ◇ ◇
著者本人が朗読してみた!|『事件記者、保育士になる』緒方健二著/YouTube
緒方健二(おがた・けんじ)
1958年大分県生まれ。同志社大学文学部卒業、1982年毎日新聞社入社。1988年朝日新聞社入社。西部本社社会部で福岡県警捜査2課(贈収賄、詐欺)・捜査4課(暴力団)担当、東京本社社会部で警視庁警備・公安(過激派、右翼、外事事件、テロ)担当、捜査1課(殺人、誘拐、ハイジャック、立てこもりなど)担当。捜査1課担当時代に地下鉄サリンなど一連のオウム真理教事件、警察庁長官銃撃事件を取材。国税担当の後、警視庁サブキャップ、キャップ(社会部次長)5年、事件担当デスク、警察・事件担当編集委員10年、前橋総局長、組織暴力専門記者。
2021年朝日新聞社退社。2022年4月短期大学保育学科入学、2024年3月卒業。保育士資格、幼稚園教諭免許、こども音楽療育士資格を取得。得意な手遊び歌は「はじまるよ」、好きな童謡は「蛙の夜まわり」、「あめふりくまのこ」。愛唱する子守歌は「浪曲子守唄」。
朝日カルチャーセンターで事件・犯罪講座の講師を務めながら、取材と執筆、講演活動を続けています。「子どもの最善の利益」実現のために何ができるかを模索中です。
『事件記者、保育士になる』
緒方健二[著]
CCCメディアハウス[刊]
(※画像をクリックするとアマゾンに飛びます)
<セカンドキャリアといわれるが、年長者が若いコミュニティーに入っていくには戸惑いもあり...>
地下鉄サリン事件をはじめ、誘拐、殺人、暴力団抗争などを取材し、伝説の事件記者として知られる元朝日新聞警視庁キャップの緒方健二氏は、39年の記者人生を卒業し、私立東筑紫短期大学の保育学科に入学した。
ピアノが弾けない、読み聞かせれば講談調、童謡はムード歌謡に。10代の同級生しかも大半が女性という環境で、63歳の事件記者は学業を修めることができたのか? 年長者としての勇気と心構えさえあれば、加齢による不利は有利にも転換することができる。新聞記者を目指した学生時代より、熱心に学業に励んだという日々を『事件記者、保育士になる』(CCCメディアハウス)にまとめた。
※全3回の第2回(第1回/第2回)
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保育学科の学生は圧倒的に女性が多い
階段を上りつめ、なんとかオリエンテーション会場にたどり着きました。木の床を踏みしめるとぎしぎしと音がします。使い込まれた木製の机と椅子にも味がある。さて、どこに座るのやら。
入学式でもらった名刺大のカードで確認します。「ご入学おめでとうございます」のメッセージ付きのそれには「クラス 1組」とあります。おう、1年1組か。はるか昔に入学した小学校も1年1組でした。なんであれ「1」はめでたい、清々しい。でも学籍番号は5番、これは氏名の五十音順なのでやむを得ない。
指定の席に着いて教室を見回します。予想通り女性が圧倒的に多い。当方の前後と左も然り。席が右端だったので右は無人です。
男性はいねえか。立ち上がって探します。ひい、ふう、みい......。1組には当方を含めて4人、隣の2組に3人の計7人いました。前年度は学年で1人、なんと7倍です。
4年制大学を卒業して入ったという20歳代半ばの野郎も1人いますが、おしなべて大人しそうな印象です。迷える子羊のごとし。けんかしても勝てそうだ。しませんよ、気合いの問題です。
手取り足取り面倒を見てくれる短期大学の現状
保育学科1年の全容がつかめました。
一、クラス制で1組から4組まである
一、各組に担任教員がつく
一、各組に委員4人を置く
一、出欠・遅刻の連絡は必ず担任に連絡
むむむ。ここは小学校か? 大半の学生は高校を卒業したばかりゆえ、こうした仕組みに違和感は持たないでしょう。クラスなし、日々の出欠管理なし、落第しようが留年しようが行き倒れになろうがすべては自己責任の大学で過ごした身には驚きです。
短大はいまどこも存続が危ぶまれています。18歳人口の減少と4年制大学志向の高まりで、学生数は減少の一途です。学生募集停止や閉鎖する短大が相次いでいます。
文部科学省の学校基本調査によると、2023年度の短大学生数は約8万7千人、ピークは1993年度の約53万人でした。
これに伴い短大の数も減っています。文科省によると1996年度の598校が23年度は300校です。わが東筑紫短大もここ数年定員割れが続いていて、学生確保に躍起です。
こうした状況下で入学した学生です。手取り足取り面倒を見て、途中で辞めることのないよう卒業まで懇切丁寧に支えようとしているのでしょう。クラス制や担任制導入の背景をあれこれ考えていました。
短大は、学校教育法で大学の一類型と位置づけられています。目的は、同法曰く「深く専門の学芸を教授研究し、職業又は実際生活に必要な能力を育成すること」です。
大学とは目的と修業年限にやや違いがあるものの、ここは荒波ざぶざぶの社会に出る前に乗り切る何かを身に付ける場所です。ならば当方が自堕落に過ごした大学の伸び伸び、放任、すべてはおまえが考えて決めよの方が若い衆の自立を促すよなあ、と胸の内で独り言ちていました。
教員の中にも同じように思う人がいるはずだ。いちど話し合ってみよう。いかん。記者時代の悪い癖だ。疑問に思ったことにこだわり、議論をふっかけようとしている。我に返ると、学生生活を送るうえでの大切なあれこれを教員が説明なさっている。集中しなければ。
ついつい何でもメモを取る
オリエンテーションは伝達事項の嵐です。保育学科4クラスの担任教員の紹介に始まり、卒業に必要な取得単位の数、教科書販売の日時や場所、図書館の利用方法、「針供養」や「大学祭」といった行事案内などなど。
さらに授業はひとコマ90分間で年に30回あり、欠席は8回までならOK、定期試験は年に2回で受験時には必ずスーツと校章着用......。
まだまだ続きます。新聞記者時代からずっと愛用している「ヂーエヌ紙製品株式会社」(東京都荒川区)製のノートにこれらを書き留めていたら、あっという間に5ページが埋まりました。
甚だしく強い筆圧の大きな文字を黙って受け止め、インクを吐き出してくれるLAMYのボールペンが頼もしいぜ。周囲を見渡すとメモしている学生はほとんどいません。まあ、配られた学生便覧や説明資料に書かれてありますしね。
見たこと聞いたことを余さず紙に刻み付けないと安心できないのです。抜けきれぬ記者の性ゆえか。百年後、どこかのどなたかが薄汚れたノートをたまさか見つけ「短大学生のなすべきこと」を目にするかも知れません。はい、ジャーナリズムの本旨は記録することにあります。
履修登録、スマホ操作がままならない
「それでは授業の履修登録をします」
教員の呼び掛けで、配布資料の中から登録用紙を探しますが見当たりません。半世紀前の大学入学時には、喫茶店に集まった仲間と「この授業は出欠確認なし」、「試験は資料持ち込み無制限」などと情報交換しながら紙に履修科目を書き込んだものです。
「スマホで入力します」と教員が告げました。まずは履修登録をはじめ休講情報やシラバス検索、成績照会など短大生活に必須のポータルサイト「ユニパ」をインストールしてくれ、と。
しばし待たれよ。
こちとら最近まで「ガラパゴス携帯」と呼ばれる二つ折りの携帯電話を使っていたのです。スマホは入学に合わせて泣く泣く新調しましたが、通話とメールの送受信ができればそれでよし。ポータルだのユニパだのと言われても戸惑うばかりです。
ユニパ? 大学の国際スポーツ大会のことですかのう。
いまや多くの大学、短大が導入している「ユニバーサル・パスポート」の略とは知る由もありません。ユニバーシアードではないんだ。笑えもしない繰り言を吐いてみても事態は好転しません。
助っ人、現る
同級生のみなさんは白魚のごとき指でスマホをさくさくと操作し、登録画面を開いています。上半分が近視、下半分が老眼対応の眼鏡をずり上げ、画面にガンを飛ばしていたら左隣の女子学生がおずおずと声を掛けてくれました。
「あのう、お手伝いしましょうか?」
悪戦苦闘する当方を見ていられなかったのでしょう。ありがたいお申し出に甘えることにしました。
「ここを押さえりゃよろしいのですか」
「いえ、違います。こっちです」
こんなやり取りを繰り返した末、なんとか登録画面に到達しました。「ありがとうございます。おかげで助かりました」と申し上げたら、「よかったです」と天使のような笑顔と涼やかな声でこの学生がおっしゃいます。
菅原文太さん風の短髪に、こらえにこらえた末に敵地へ乗り込むときの高倉健さん風目付きの当方へのお声掛け、さぞや勇気を要したと拝察します。この女子学生はバドミントンの達人で、家でペットのウサギ「ぶぶちゃん」を飼っていることを後に知りました。なるほど肝が据わっていて優しさも備えているわけです。
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著者本人が朗読してみた!|『事件記者、保育士になる』緒方健二著/YouTube
緒方健二(おがた・けんじ)
1958年大分県生まれ。同志社大学文学部卒業、1982年毎日新聞社入社。1988年朝日新聞社入社。西部本社社会部で福岡県警捜査2課(贈収賄、詐欺)・捜査4課(暴力団)担当、東京本社社会部で警視庁警備・公安(過激派、右翼、外事事件、テロ)担当、捜査1課(殺人、誘拐、ハイジャック、立てこもりなど)担当。捜査1課担当時代に地下鉄サリンなど一連のオウム真理教事件、警察庁長官銃撃事件を取材。国税担当の後、警視庁サブキャップ、キャップ(社会部次長)5年、事件担当デスク、警察・事件担当編集委員10年、前橋総局長、組織暴力専門記者。
2021年朝日新聞社退社。2022年4月短期大学保育学科入学、2024年3月卒業。保育士資格、幼稚園教諭免許、こども音楽療育士資格を取得。得意な手遊び歌は「はじまるよ」、好きな童謡は「蛙の夜まわり」、「あめふりくまのこ」。愛唱する子守歌は「浪曲子守唄」。
朝日カルチャーセンターで事件・犯罪講座の講師を務めながら、取材と執筆、講演活動を続けています。「子どもの最善の利益」実現のために何ができるかを模索中です。
『事件記者、保育士になる』
緒方健二[著]
CCCメディアハウス[刊]
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