ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<喜多川歌麿、東洲斎写楽ほか、数々の才能を発掘し、世に送り出した江戸のメディア王・蔦屋重三郎。彼の秀でたビジネスの手腕について、大河ドラマ『べらぼう』の版元考証も務める鈴木俊幸氏が語る>
2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、江戸の出版人・蔦屋重三郎の生涯が描かれる。
蔦屋重三郎こと「蔦重」は、吉原に生まれ、多くの文化人たちと交流しながら、さまざまな流行の火付け役となった人物である。蔦重とはいかなる人物だったのか、その経営手腕とはいかなるものだったのか。蔦屋重三郎研究の第一人者である中央大学文学部教授の鈴木俊幸氏に解説いただいた。
本記事は書籍『PenBOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。
◇ ◇ ◇
安定した経済基盤とブランディング戦略
蔦屋重三郎は吉原に生まれ育ったとされますが、そもそも蔦重の両親が何をしていたのかはまったくわかっていません。尾張出身の父・丸山重助が、なぜ江戸に出てきたのかもわかっていませんし、母・津与の素性もよくわかりません。ただ吉原には尾張出身者が多くいたようで、「尾張屋」という屋号の遊女屋や茶屋もありましたから、そういった縁故で、蔦重の父は吉原で働き始めたのかもしれません。また母も吉原の茶屋の娘かなにかだったのだろうと推測されます。蔦重には、吉原で駿河屋という茶屋を営む叔父がいました。おそらく母親のほうの兄弟ではないかと思います。
その後、蔦重は喜多川家の養子となります。同家の家業はよくわかっていませんが、茶屋であったとすれば、吉原に集まる通人たちと接する機会も多かったと考えられます。当時の吉原は文化水準が高く、そのなかで蔦重も揉まれ、教養を身につけていったのでしょう。同姓で10歳くらい年下の喜多川歌麿も、のちに蔦重のところで食客的な扱いを受けながら、作品を制作しています。
この喜多川家の義兄にあたるのかもしれないのですが、蔦屋次郎兵衛という人物が吉原の出入り口である五十間道(ごじっけんみち)で茶屋を開いていました。その店先を借りて、蔦重は貸本屋を始めると、やがて吉原のガイドブックである吉原細見を手がけた鱗形屋の改め・卸しを担当するようになりました。遊女の異動などを調べて情報を提供し、吉原細見に反映する仕事です。その後、蔦重も自ら吉原細見を作るようになります。鱗形屋が偽板事件によって摘発を受けて吉原細見を発行する余裕が無くなり、そこから蔦重版の吉原細見の独占が始まるわけです。
蔦重版の吉原細見は、鱗形屋版よりも判型を少し大きくし、1ページあたりの情報量を増やすことで、ページ数を削減し、紙代を節約しています。鱗形屋版よりも格安で卸せたはずです。こうして、あっという間に蔦重版の天下となりました。吉原細見は年に2回、刊行しますから確実な定期収入となります。同時に、吉原細見に広告を付けたのも旧来の吉原細見にはなかった点です。蔦重は自分の版元から出す出版物が増えていくにつれ、逐次的に広告ページを増やしていきました。有力な広告媒体になったと思います。
蔦重は、黄表紙の出版にも力を入れていきますが、単価も安く、儲けはそこまで多くなかったでしょう。しかし、当時、黄表紙は注目の的となった絵本ですから、それを刊行している版元であることを世間に周知するために、宣伝効果を期待して出し続けたのだと思います。最先端の出版物を取り扱うことで、ブランドイメージが形成されて、取引に有利に働く。そういうブランディング戦略があったのだと思います。
また、吉原の行事に合わせた発行物も刊行しています。蔦重の最初の出版物とされる遊女評判記『一目千本(ひとめせんぼん)』は遊女の名前と流行の挿し花の図を合わせたものです。遊女の名前は網羅的なものではないため、吉原の行事に合わせて、配布用に作った冊子であったのでしょう。遊女や馴染みの客が出資して作られたものだと思われます。あらかじめ資金調達し、それで制作費用を賄っていたわけで、売れようが売れまいが蔦重の損にはならない。彼の堅実なビジネス感覚がうかがええます。『急戯花之名寄(にわかはなのなよせ)』や『青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)』も同様の経緯で成立したと考えられます。
その意味では、経営者としての蔦重は、極めて慎重な商売人でした。リスクを避けて、新しい分野に乗り出す際にもきちんと経営基盤を整えた上で行っています。例えば、江戸浄瑠璃の富本節(とみもとぶし)が流行した際に、すぐにその正本(しょうほん)・稽古本の出版を手がけたり、ほかには幼童向けの手習いに使用された教科書である「往来物」を出版したりするなど、確実に売れ続ける事業を行うことで経営の安定を図っているのです。
時代の流れを読む眼
安定的な経営基盤を築く一方で、黄表紙などの最新の流行物を出し、ブランドイメージを構築していく。そうなると、蔦重の周りにはさまざまな取り巻きができ、才能のある人間が寄り集まってきました。なかでも大田南畝の知遇を得たことは蔦重にとって大きかったことでしょう。大田南畝は、当時流行していた江戸狂歌と戯作の中心人物でした。南畝の求心力とそれを遊ばせる蔦重の手腕とが相まって、大きな文芸サークルのようなものが江戸に生まれるのです。そして、そこに集まる才能溢れる人間たちの作品を出版するというお膳立てをする。彼らの文芸的な遊びの最終地点に出版という仕掛けを用意したのが蔦重だったのです。
1783(天明3)年に蔦重は、日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に新たな店を出しました。江戸の中心地でさらなる流行を発信していったわけですが、松平定信が老中首座となり、寛政の改革が始まると、倹約政策とともに風紀の取り締まりが行われ、状況が一変します。武士たちに学問が奨励されたことで、狂歌や戯作の武士作家たちは、遊びの世界から手を引いていくのです。見せしめのように、蔦重と組んで戯作を書いた山東京伝が手鎖50日に処され、蔦重も身上半減(財産の半分を没収)にさせられました。
そもそも江戸の本は、漢学や医学などの学問や和歌・漢詩などの古典に関わる「書物」と、錦絵や草双紙などの戯作である「草紙(そうし)」に分けられます。蔦重が主に出版してきたものは後者の「草紙」であり、こうした商品を扱う本屋を地本草紙問屋(どいや)といいます。反対に前者の「書物」を扱うのが書物問屋です。寛政の改革によって、学問ブームが到来すると、「書物」の需要が高まり、「草紙」は不況のあおりを食いました。そこで蔦重は書物問屋の株を取得し、「書物」の出版に乗り出すなど、再起を図ります。
蔦重は時代の流れを読み、流行をいち早く察知して自分から仕掛けていく名プロデューサーという一面と、他方では定期刊行物など手堅い事業を堅実に行って、きちんと経営基盤を安定させるという堅実なビジネスパーソンという一面が、うまくバランスが取れた経営者だったと思います。
鈴木俊幸(すずき・としゆき)
1956年、北海道生まれ。中央大学文学部教授。専攻は書籍文化史、近世後期の戯作・狂歌など文芸を主に研究。主な著書に『新版 蔦屋重三郎』『近世読者とそのゆくえ 読書と書籍流通の近世・近代』(いずれも平凡社)、『書籍文化史料論』(勉誠出版)などがある。
『Pen BOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』
ペン編集部[編]
CCCメディアハウス[刊]
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<喜多川歌麿、東洲斎写楽ほか、数々の才能を発掘し、世に送り出した江戸のメディア王・蔦屋重三郎。彼の秀でたビジネスの手腕について、大河ドラマ『べらぼう』の版元考証も務める鈴木俊幸氏が語る>
2025年のNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、江戸の出版人・蔦屋重三郎の生涯が描かれる。
蔦屋重三郎こと「蔦重」は、吉原に生まれ、多くの文化人たちと交流しながら、さまざまな流行の火付け役となった人物である。蔦重とはいかなる人物だったのか、その経営手腕とはいかなるものだったのか。蔦屋重三郎研究の第一人者である中央大学文学部教授の鈴木俊幸氏に解説いただいた。
本記事は書籍『PenBOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。
◇ ◇ ◇
安定した経済基盤とブランディング戦略
蔦屋重三郎は吉原に生まれ育ったとされますが、そもそも蔦重の両親が何をしていたのかはまったくわかっていません。尾張出身の父・丸山重助が、なぜ江戸に出てきたのかもわかっていませんし、母・津与の素性もよくわかりません。ただ吉原には尾張出身者が多くいたようで、「尾張屋」という屋号の遊女屋や茶屋もありましたから、そういった縁故で、蔦重の父は吉原で働き始めたのかもしれません。また母も吉原の茶屋の娘かなにかだったのだろうと推測されます。蔦重には、吉原で駿河屋という茶屋を営む叔父がいました。おそらく母親のほうの兄弟ではないかと思います。
その後、蔦重は喜多川家の養子となります。同家の家業はよくわかっていませんが、茶屋であったとすれば、吉原に集まる通人たちと接する機会も多かったと考えられます。当時の吉原は文化水準が高く、そのなかで蔦重も揉まれ、教養を身につけていったのでしょう。同姓で10歳くらい年下の喜多川歌麿も、のちに蔦重のところで食客的な扱いを受けながら、作品を制作しています。
この喜多川家の義兄にあたるのかもしれないのですが、蔦屋次郎兵衛という人物が吉原の出入り口である五十間道(ごじっけんみち)で茶屋を開いていました。その店先を借りて、蔦重は貸本屋を始めると、やがて吉原のガイドブックである吉原細見を手がけた鱗形屋の改め・卸しを担当するようになりました。遊女の異動などを調べて情報を提供し、吉原細見に反映する仕事です。その後、蔦重も自ら吉原細見を作るようになります。鱗形屋が偽板事件によって摘発を受けて吉原細見を発行する余裕が無くなり、そこから蔦重版の吉原細見の独占が始まるわけです。
蔦重版の吉原細見は、鱗形屋版よりも判型を少し大きくし、1ページあたりの情報量を増やすことで、ページ数を削減し、紙代を節約しています。鱗形屋版よりも格安で卸せたはずです。こうして、あっという間に蔦重版の天下となりました。吉原細見は年に2回、刊行しますから確実な定期収入となります。同時に、吉原細見に広告を付けたのも旧来の吉原細見にはなかった点です。蔦重は自分の版元から出す出版物が増えていくにつれ、逐次的に広告ページを増やしていきました。有力な広告媒体になったと思います。
蔦重は、黄表紙の出版にも力を入れていきますが、単価も安く、儲けはそこまで多くなかったでしょう。しかし、当時、黄表紙は注目の的となった絵本ですから、それを刊行している版元であることを世間に周知するために、宣伝効果を期待して出し続けたのだと思います。最先端の出版物を取り扱うことで、ブランドイメージが形成されて、取引に有利に働く。そういうブランディング戦略があったのだと思います。
また、吉原の行事に合わせた発行物も刊行しています。蔦重の最初の出版物とされる遊女評判記『一目千本(ひとめせんぼん)』は遊女の名前と流行の挿し花の図を合わせたものです。遊女の名前は網羅的なものではないため、吉原の行事に合わせて、配布用に作った冊子であったのでしょう。遊女や馴染みの客が出資して作られたものだと思われます。あらかじめ資金調達し、それで制作費用を賄っていたわけで、売れようが売れまいが蔦重の損にはならない。彼の堅実なビジネス感覚がうかがええます。『急戯花之名寄(にわかはなのなよせ)』や『青楼美人合姿鏡(せいろうびじんあわせすがたかがみ)』も同様の経緯で成立したと考えられます。
その意味では、経営者としての蔦重は、極めて慎重な商売人でした。リスクを避けて、新しい分野に乗り出す際にもきちんと経営基盤を整えた上で行っています。例えば、江戸浄瑠璃の富本節(とみもとぶし)が流行した際に、すぐにその正本(しょうほん)・稽古本の出版を手がけたり、ほかには幼童向けの手習いに使用された教科書である「往来物」を出版したりするなど、確実に売れ続ける事業を行うことで経営の安定を図っているのです。
時代の流れを読む眼
安定的な経営基盤を築く一方で、黄表紙などの最新の流行物を出し、ブランドイメージを構築していく。そうなると、蔦重の周りにはさまざまな取り巻きができ、才能のある人間が寄り集まってきました。なかでも大田南畝の知遇を得たことは蔦重にとって大きかったことでしょう。大田南畝は、当時流行していた江戸狂歌と戯作の中心人物でした。南畝の求心力とそれを遊ばせる蔦重の手腕とが相まって、大きな文芸サークルのようなものが江戸に生まれるのです。そして、そこに集まる才能溢れる人間たちの作品を出版するというお膳立てをする。彼らの文芸的な遊びの最終地点に出版という仕掛けを用意したのが蔦重だったのです。
1783(天明3)年に蔦重は、日本橋通油町(とおりあぶらちょう)に新たな店を出しました。江戸の中心地でさらなる流行を発信していったわけですが、松平定信が老中首座となり、寛政の改革が始まると、倹約政策とともに風紀の取り締まりが行われ、状況が一変します。武士たちに学問が奨励されたことで、狂歌や戯作の武士作家たちは、遊びの世界から手を引いていくのです。見せしめのように、蔦重と組んで戯作を書いた山東京伝が手鎖50日に処され、蔦重も身上半減(財産の半分を没収)にさせられました。
そもそも江戸の本は、漢学や医学などの学問や和歌・漢詩などの古典に関わる「書物」と、錦絵や草双紙などの戯作である「草紙(そうし)」に分けられます。蔦重が主に出版してきたものは後者の「草紙」であり、こうした商品を扱う本屋を地本草紙問屋(どいや)といいます。反対に前者の「書物」を扱うのが書物問屋です。寛政の改革によって、学問ブームが到来すると、「書物」の需要が高まり、「草紙」は不況のあおりを食いました。そこで蔦重は書物問屋の株を取得し、「書物」の出版に乗り出すなど、再起を図ります。
蔦重は時代の流れを読み、流行をいち早く察知して自分から仕掛けていく名プロデューサーという一面と、他方では定期刊行物など手堅い事業を堅実に行って、きちんと経営基盤を安定させるという堅実なビジネスパーソンという一面が、うまくバランスが取れた経営者だったと思います。
鈴木俊幸(すずき・としゆき)
1956年、北海道生まれ。中央大学文学部教授。専攻は書籍文化史、近世後期の戯作・狂歌など文芸を主に研究。主な著書に『新版 蔦屋重三郎』『近世読者とそのゆくえ 読書と書籍流通の近世・近代』(いずれも平凡社)、『書籍文化史料論』(勉誠出版)などがある。
『Pen BOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』
ペン編集部[編]
CCCメディアハウス[刊]
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