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原稿料代わりに吉原で豪遊⁉︎ 蔦屋重三郎が巧みに活用した「吉原」のイメージ戦略

ニューズウィーク日本版 2025年1月7日 11時10分

ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<5日に放送が始まったNHK大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。蔦屋重三郎は生まれ育った吉原とどのようにしてビジネスにおけるウィンウィンの関係を築いたのだろうか>

吉原出身の蔦屋重三郎の出版事業は、その生まれた土地と切っても切り離せない。それどころか、蔦重は出版物を通じて、吉原という場所を巧みに演出し、その価値を高めると同時に、その吉原を利用して、新たな出版事業を展開していったと言える。 

江戸文化の中心地と呼ばれた吉原とはどのような場所であったのか。蔦屋重三郎が生まれ育った吉原の実態について、作家・江戸文化研究家の永井義男氏に話を伺った。

本記事は書籍『PenBOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。

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吉原に生まれた蔦屋重三郎

江戸の吉原とは、単なる遊郭ではなく、江戸文化の中心地であり、流行の発信地であったとしばしば言われます。そもそも吉原とは何かと言えば、私は現代で言うところの「企業城下町」であったと考えています。たとえば大きな自動車工場がある町は、その企業を中心として、城下町のように広がっていく。それと同じで、吉原はまさに「遊女城下町」だった。基本的に遊女を中心にして、そのすべてが回っていたのです。

俗に「遊女三千」と言われますが、時代によって増減はあるでしょうが、吉原にはおよそ3000人前後の遊女がいたとされます。また、そこには妓楼(遊女屋)が雇用していた女中や若い者などの奉公人も生活をしていました。加えて、吉原には料理屋や茶屋などもひしめいていましたし、職人や商人も住んでいた。遊女だけでなく、芸者や芸人もいたわけですが、みな遊女に関わる仕事をしていたのです。吉原に住んでいた人たちはみな、直接間接に遊女がいるからこそ仕事が成り立っていました。

公許の遊郭としてスタートした吉原は、1657(明暦3)年に、現在の日本橋人形町から千束(せんぞく)村へと移転して、浅草寺の裏手に広がる田んぼの真ん中に新吉原が作られました。吉原300年の歴史のうち、元吉原での経営はわずか40年ほどのことです。当時の江戸としては、通うには辺鄙な2万坪くらいの土地に、遊女3000人を含むおよそ1万人が住んでいたとされています。

遊女を売りとする妓楼を中心に、それだけの商売が成り立っていたわけですから、まさに「遊女城下町」でしょう。そうした1万人のなかの1人として、蔦屋重三郎は生まれたわけです。

重三郎の父がどんな仕事に就いていたのかはわかりませんが、直接的であれ間接的であれ、遊女に関わる仕事をしていたはずです。妓楼の家に生まれなくとも、最初から身の回りに遊女がいて、遊女に関わる仕事をしている人がいる。そういう世界で生まれ育ったわけですから、蔦重もまた、吉原や遊女のことは、もう知り抜いていたと思います。

やがて、吉原大門のそばに店を出した蔦屋重三郎は、吉原のタウンガイドである「吉原細見」を売り出すことで、安定的に収入を得ながら、戯作(小説)や浮世絵などさまざまな出版事業に乗り出していくわけです。

吉原細見は、各妓楼にどんな遊女が所属しているのか、茶屋や吉原の芸者たちの情報も含めた、吉原の総合ガイドブックのようなもので、基本的には正月と7月の年2回発行されますが、改訂版なども随時、刊行されていました。

吉原細見を片手に吉原に遊びに行く者もいれば、地方から江戸にやってきた人が、江戸土産として郷里に持ち帰るケースも多かったようです。

吉原細見自体は、蔦屋重三郎が参入する以前から売り出されていたものですが、蔦重版は従来のものよりも、非常に見やすくて使いやすいものに工夫されています。以後、蔦重版の吉原細見が定番となって、半ばシェアを独占していく形となりました。

吉原細見は定期刊行物ですから、蔦重にとって安定基盤になります。ある意味では、出版は水物的な部分もある商売です。流行り廃りが激しいからこそ、安定した収入源があれば、その他の新しい出版事業に打って出ることもできるわけです。

その後、蔦重は山東京伝らと組んで、さまざまな戯作を出版しましたが、売れるものもあるけれども、出版部数はそれほど多くなかったでしょう。そこまで儲かる商売ではなかったのではないでしょうか。ですから、半年ごとに新しく刊行して確実に売れる吉原細見は、蔦屋重三郎にとっては大切な財源でした。吉原細見を作っていくには当然、吉原の人たちの協力が不可欠です。吉原出身の蔦重に、吉原の人たちも全面的に協力してくれたのだと思います。

演出された吉原という空間

文化・流行の発信地であった吉原の魅力というのは、半ば作られたイメージだったのだろうと思います。吉原細見だけでなく、吉原を舞台とした戯作や遊女を描いた浮世絵などが作られ、イメージづけがなされました。そこに蔦屋重三郎も大きく関わっていました。 

吉原は基本的には遊郭ですから、当然、性的な行為が目的としてあるわけですけれども、単にそうした行為をするならば、吉原の外の非合法でもっと安い岡場所に行けばいい。それでも高いお金を出して、江戸市中から離れた不便な場所にある吉原に人が集まるというのは、それだけ魅力的なイメージが出版物を通して形作られていたからでしょう。

吉原の客の多くは男性ですが、幕末へと時代が下っていくにつれ、女性連れの客も増えるようになりました。江戸見物の際にまず浅草の観音様に行くのが定番ですが、そこから吉原見物に行くというのも、定番の観光コースになります。男性だけでなく、女性も見学に訪れるような場だったのです。女性の感覚からすれば、ある種のテーマパークに行くようなものだったのかもしれません。浮世絵で見た綺麗な着物や化粧で着飾った遊女たちを、実際に見てみたいと思うわけです。

吉原を巧みに活用した蔦屋重三郎

蔦屋重三郎は戯作者たちにさまざまな戯作を書かせていますが、当時は原稿料や印税などを作者に払う慣習はありませんでした。戯作が流行した当初、作者たちは主に家禄をもらっている武士です。基本的に原稿料がなくとも食べていける一方、教養があり、戯作を書いてみたいという人たちです。ただし、食い扶持はあるとはいえ、吉原で遊べるほどのお金はない。そこで、蔦重が彼らを吉原に連れていって、宴会を催し、いわば接待をする。そのような関係を通じて、原稿の依頼をしていたのだと思います。原稿料は払わないけれども、それなりに作者たちにお金は使っていたのでしょう。蔦重の耕書堂で書けば、たまには吉原で遊ばせてもらえる。それが作者たちの一種の楽しみだったのかもしれません。

そう考えると、吉原のイメージ戦略に寄与するとともに、吉原という場所をうまく利用したのが、蔦重だったと言えます。彼は出版物で吉原の価値を高め、かつ人気スポットとなった吉原のイメージを活用して、新たな出版物を作っていく。持ちつ持たれつの関係、今で言えば、ウィンウィンな関係だったというわけです。

2025年放映のNHK大河ドラマ「べらぼう」では、蔦屋重三郎の生涯が描かれるわけですが、基本的に蔦重は自分のやりたいことを実現した人物だと思います。多くの人を巻き込んで、その才能を開花させてやりながら、自分のやりたいことを実現している。自分だけが儲けるのではなく、互いにウィンウィンの関係を作りながら、やりたいことをやった。自分だけのわがままを押し通すようなタイプではないと思います。

吉原という場所の魅力と価値を高め、一緒に仕事をする人たちを育てていく。基本的には蔦重と関わった人たちはみんな、彼に感謝しているのではないでしょうか。それは、現代のビジネスパーソンにとっても、参考になる生き方なのだと思います。

永井義男(ながい・よしお)

1949年福岡県生まれ。東京外国語大学卒業。『算学奇人伝』で第6回開高健賞を受賞し、本格的な作家活動に入る。主な著書に、『秘剣の名医』シリーズ(コスミック出版)、『江戸の性語事典』『吉原の舞台裏のウラ』(いずれも朝日新聞出版)、『江戸春画考』(文藝春秋)などがある。

『Pen BOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』
 ペン編集部[編]
 CCCメディアハウス[刊]

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