ニューズウィーク日本版ウェブ編集部
<江戸の人々を熱狂させた出版メディア。蔦屋重三郎が活躍した時代の出版の仕組み、本の作り方、当時の本のジャンルなど、押さえておきたい基礎知識>
ついに放送が始まった今年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。書物と浮世絵を通して江戸にエンターテインメントを開花させ、時代の空気を作ったメディア王・蔦屋重三郎の活躍をどのように描くのか期待が膨らむ作品だ。
今回はドラマを楽しむにあたり、知っておくと細かな描写がより味わい深くなる、江戸の出版文化についての基礎知識をお届けする。
本記事は書籍『PenBOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。
◇ ◇ ◇
書物問屋と地本問屋
元禄期(1688〜1704)以降、政治・経済の中心は上方から江戸へと次第に移っていきつつあった。文化の面においても、江戸では多色摺りの錦絵や江戸歌舞伎、洒落本や黄表紙などが生まれ、やがて独自の庶民文化を形成していくこととなる。
とりわけ出版に限って言えば、宝暦年間(1751〜64)には、江戸での出版数が上方を上回るほどに需要が増加していたのである。そんな江戸の出版物を世に送り出したのが、蔦屋重三郎のような版元であったが、取り扱う本の種類に応じて、書物問屋(どいや)と地本問屋の違いがあった。
前者はいわゆる「物之本」と称される医学書や儒学書、唐書(中国の書物の訳書)、仏教書、図鑑類などの専門書・学術書を主に扱う。江戸の書物問屋は上方で作られた本を江戸で流通させるための小売問屋として主にスタートしている。
これに対して、後者の地本問屋では、草双紙や絵本、浄瑠璃本や芝居絵、浮世絵の一枚絵などを扱った。上方で作られ江戸で売られた絵本類が「下り絵本」と呼ばれたのに対し、地元で収穫された物である「地物」の意味から、江戸で作られた出版物は「地本」と呼ばれたのである。江戸の書物問屋の多くは、上方からの「下り本」を売り捌くことがメインの事業で、洒落本や黄表紙などをはじめとする江戸の庶民文化色の濃い出版物は、江戸で独自の発展を遂げた地本問屋がリードしていくこととなった。
江戸の本屋・蔦重の先駆者たち
江戸の書物問屋としては、幕府の御用書肆(しょし)となった須原屋茂兵衛(すはらやもへえ)が有名である。宝暦年間(1751〜64)に同店から独立した須原屋市兵衛は、その後、平賀源内や大田南畝らの作品を出版するなど独自の展開を見せた。
人口も増大し、一大経済都市として発展した江戸では、やがて庶民たちの欲望を満たすために多種多様な出版物が、地本問屋を中心に作られることとなった。早くも延宝(えんぽう)年間(1673〜81)には、松会三四郎(まつえさんしろう)が出版業に着手。幕府の御用書肆ながら、浮世絵の祖である菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の絵本類などを刊行し、独自の出版活動を行った江戸の地本問屋の先駆けであった。
その後、江戸の書店の代表格ともなった鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)もまた、錦絵や草双紙、読本(よみほん)や富本正本(とみもとしょうほん)などを取り扱う地本問屋として活躍、幕末まで続く大版元となった。鶴屋と並んで、その後、江戸の地本問屋として影響力を持ったのが鱗形屋孫兵衛や山本九左衛門(やまもときゅうざえもん)らであった。鱗形屋孫兵衛は、寛永期(1624〜44)に始まる鱗形屋三左衛門の後継で、草双紙や評判記、吉原細見などを多種多様な書物を出版した。山本九左衛門もまた鶴屋・鱗形屋に劣らぬ地本問屋で、浮世絵や草双紙の出版を手がけた。
蔦重と関係の深い鱗形屋は、1775(安永4)年に使用人が起こした重板事件で処罰を受け、天明年間には衰退の一途を辿った。当時の版元の間では、個々の書店の利益を守るために、重板(同じものを出版すること)や類版(類似したものを出版すること)はしないことがルールであった。しかし、手代が大坂(現・大阪)の版元の出版物を改題して出版してしまい、鱗形屋が訴えられ罰金刑を受けたのだ。しばらくは通常の出版もままならなくなり、その間隙を縫って、一躍、表舞台に登場したのが、蔦屋重三郎であった。
江戸時代の本の制作工程
当時、大量に生産された出版物は、浮世絵も含めて木版摺が基本である。当時の整版(製版)は、作者の草稿や下絵をもとにして、彫師が一枚板に彫り、印刷するというものだった。板には梓(あずさ)か桜の木が好まれたという。
例えば、絵本制作の工程を簡単に説明すれば、次のようになる。
まず、最初に版元から作者に執筆の依頼が行き、作者は草稿を書き上げる。絵の指定もこのときに行われる。その後、絵師が絵組を作り、筆耕(ひっこう)が本文や詞書を清書する。これが板下(はんした)となる。この段階で、作者が校正したり、書き改めたりもする。訂正を加えた版下を用いて、彫りの作業へと入っていく。版木に版下を裏返しに貼り付け、彫師が彫刻する。これが木版用の版木となる。次の工程が印刷である。墨が滲むの防ぐために、礬水引(どうさびき)と呼ばれる加工を和紙に施す。版木に墨を塗り、和紙をのせて、バレンで擦って印刷する。版木を作る際に彫り損じがある可能性も鑑み、最初は試し刷りをして作者に確認してもらう。校正の結果、部分的な修正が必要な場合には、入木(いれき)(埋木)で修正をし、あらためて印刷を行う。その後、製本すれば、完成となる。できた商品は、本屋の店頭や行商、貸本屋などに運ばれ、販売される。
また、こうした出版物は書物屋仲間内で一定の検閲を受けた上で、制作するのが通例であった。江戸の出版物の取り締まりについては、大岡越前守の立案に端を発し、1721(享保6)年に江戸の書物屋仲間が組織され、翌年には出版のルールを明記した出版条目を発令している。
この過程で、書物屋仲間内で仲間行事を立てて、重板・類版がないかどうか互いの利益を守るために検閲を行うようになった。これを写本改めと呼ぶ。その後、印刷・製本し再び検閲が行われ、こうした行事改(あらため)を通過したものが流通・販売される。
赤本から黄表紙まで、江戸の本模様
江戸時代には洒落本や人情本、滑稽本や読本など、さまざまな種類の本が生み出された。
特に蔦屋重三郎が活躍した安永・天明期に全盛を迎えた黄表紙は、草双紙と呼ばれるジャンルのうちのひとつである。また、草双紙は江戸の地本問屋が積極的に出版し、独自の発展を遂げた人気ジャンルであった。江戸の地本問屋の成長は、草双紙の発展とともにあったといっても過言ではない。もともと草双紙は、「花咲爺さん」や「桃太郎」「文福茶釜」などの童話を絵本化したものや浄瑠璃を素材にしたものが中心で、読者も子供を想定したものであった。丹に色いろの表紙であったため、赤本と呼ばれた。
その後、演劇物や戦記、敵討物を中心的な題材とした草双紙が作られ、表紙が黒色であったことから黒本という。その後、流行した萌黄色の表紙の青本は、より当時の社会風俗を取り込んだ大人向きの絵入り読物となった。その後、鱗形屋孫兵衛の書店から恋川春町『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』が刊行されて以降、黄色の表紙の大人向け草双紙である黄表紙が大流行することとなる。
黄表紙は日光による褪色も早いことから、初めから安価な黄色い表紙を付けるなどの工夫が施されている。値段も1冊10文(約200円前後)と安価で、量販向きの書物であった。
『Pen BOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』
ペン編集部[編]
CCCメディアハウス[刊]
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<江戸の人々を熱狂させた出版メディア。蔦屋重三郎が活躍した時代の出版の仕組み、本の作り方、当時の本のジャンルなど、押さえておきたい基礎知識>
ついに放送が始まった今年の大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』。書物と浮世絵を通して江戸にエンターテインメントを開花させ、時代の空気を作ったメディア王・蔦屋重三郎の活躍をどのように描くのか期待が膨らむ作品だ。
今回はドラマを楽しむにあたり、知っておくと細かな描写がより味わい深くなる、江戸の出版文化についての基礎知識をお届けする。
本記事は書籍『PenBOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』(CCCメディアハウス)から抜粋したものです。
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書物問屋と地本問屋
元禄期(1688〜1704)以降、政治・経済の中心は上方から江戸へと次第に移っていきつつあった。文化の面においても、江戸では多色摺りの錦絵や江戸歌舞伎、洒落本や黄表紙などが生まれ、やがて独自の庶民文化を形成していくこととなる。
とりわけ出版に限って言えば、宝暦年間(1751〜64)には、江戸での出版数が上方を上回るほどに需要が増加していたのである。そんな江戸の出版物を世に送り出したのが、蔦屋重三郎のような版元であったが、取り扱う本の種類に応じて、書物問屋(どいや)と地本問屋の違いがあった。
前者はいわゆる「物之本」と称される医学書や儒学書、唐書(中国の書物の訳書)、仏教書、図鑑類などの専門書・学術書を主に扱う。江戸の書物問屋は上方で作られた本を江戸で流通させるための小売問屋として主にスタートしている。
これに対して、後者の地本問屋では、草双紙や絵本、浄瑠璃本や芝居絵、浮世絵の一枚絵などを扱った。上方で作られ江戸で売られた絵本類が「下り絵本」と呼ばれたのに対し、地元で収穫された物である「地物」の意味から、江戸で作られた出版物は「地本」と呼ばれたのである。江戸の書物問屋の多くは、上方からの「下り本」を売り捌くことがメインの事業で、洒落本や黄表紙などをはじめとする江戸の庶民文化色の濃い出版物は、江戸で独自の発展を遂げた地本問屋がリードしていくこととなった。
江戸の本屋・蔦重の先駆者たち
江戸の書物問屋としては、幕府の御用書肆(しょし)となった須原屋茂兵衛(すはらやもへえ)が有名である。宝暦年間(1751〜64)に同店から独立した須原屋市兵衛は、その後、平賀源内や大田南畝らの作品を出版するなど独自の展開を見せた。
人口も増大し、一大経済都市として発展した江戸では、やがて庶民たちの欲望を満たすために多種多様な出版物が、地本問屋を中心に作られることとなった。早くも延宝(えんぽう)年間(1673〜81)には、松会三四郎(まつえさんしろう)が出版業に着手。幕府の御用書肆ながら、浮世絵の祖である菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の絵本類などを刊行し、独自の出版活動を行った江戸の地本問屋の先駆けであった。
その後、江戸の書店の代表格ともなった鶴屋喜右衛門(つるやきえもん)もまた、錦絵や草双紙、読本(よみほん)や富本正本(とみもとしょうほん)などを取り扱う地本問屋として活躍、幕末まで続く大版元となった。鶴屋と並んで、その後、江戸の地本問屋として影響力を持ったのが鱗形屋孫兵衛や山本九左衛門(やまもときゅうざえもん)らであった。鱗形屋孫兵衛は、寛永期(1624〜44)に始まる鱗形屋三左衛門の後継で、草双紙や評判記、吉原細見などを多種多様な書物を出版した。山本九左衛門もまた鶴屋・鱗形屋に劣らぬ地本問屋で、浮世絵や草双紙の出版を手がけた。
蔦重と関係の深い鱗形屋は、1775(安永4)年に使用人が起こした重板事件で処罰を受け、天明年間には衰退の一途を辿った。当時の版元の間では、個々の書店の利益を守るために、重板(同じものを出版すること)や類版(類似したものを出版すること)はしないことがルールであった。しかし、手代が大坂(現・大阪)の版元の出版物を改題して出版してしまい、鱗形屋が訴えられ罰金刑を受けたのだ。しばらくは通常の出版もままならなくなり、その間隙を縫って、一躍、表舞台に登場したのが、蔦屋重三郎であった。
江戸時代の本の制作工程
当時、大量に生産された出版物は、浮世絵も含めて木版摺が基本である。当時の整版(製版)は、作者の草稿や下絵をもとにして、彫師が一枚板に彫り、印刷するというものだった。板には梓(あずさ)か桜の木が好まれたという。
例えば、絵本制作の工程を簡単に説明すれば、次のようになる。
まず、最初に版元から作者に執筆の依頼が行き、作者は草稿を書き上げる。絵の指定もこのときに行われる。その後、絵師が絵組を作り、筆耕(ひっこう)が本文や詞書を清書する。これが板下(はんした)となる。この段階で、作者が校正したり、書き改めたりもする。訂正を加えた版下を用いて、彫りの作業へと入っていく。版木に版下を裏返しに貼り付け、彫師が彫刻する。これが木版用の版木となる。次の工程が印刷である。墨が滲むの防ぐために、礬水引(どうさびき)と呼ばれる加工を和紙に施す。版木に墨を塗り、和紙をのせて、バレンで擦って印刷する。版木を作る際に彫り損じがある可能性も鑑み、最初は試し刷りをして作者に確認してもらう。校正の結果、部分的な修正が必要な場合には、入木(いれき)(埋木)で修正をし、あらためて印刷を行う。その後、製本すれば、完成となる。できた商品は、本屋の店頭や行商、貸本屋などに運ばれ、販売される。
また、こうした出版物は書物屋仲間内で一定の検閲を受けた上で、制作するのが通例であった。江戸の出版物の取り締まりについては、大岡越前守の立案に端を発し、1721(享保6)年に江戸の書物屋仲間が組織され、翌年には出版のルールを明記した出版条目を発令している。
この過程で、書物屋仲間内で仲間行事を立てて、重板・類版がないかどうか互いの利益を守るために検閲を行うようになった。これを写本改めと呼ぶ。その後、印刷・製本し再び検閲が行われ、こうした行事改(あらため)を通過したものが流通・販売される。
赤本から黄表紙まで、江戸の本模様
江戸時代には洒落本や人情本、滑稽本や読本など、さまざまな種類の本が生み出された。
特に蔦屋重三郎が活躍した安永・天明期に全盛を迎えた黄表紙は、草双紙と呼ばれるジャンルのうちのひとつである。また、草双紙は江戸の地本問屋が積極的に出版し、独自の発展を遂げた人気ジャンルであった。江戸の地本問屋の成長は、草双紙の発展とともにあったといっても過言ではない。もともと草双紙は、「花咲爺さん」や「桃太郎」「文福茶釜」などの童話を絵本化したものや浄瑠璃を素材にしたものが中心で、読者も子供を想定したものであった。丹に色いろの表紙であったため、赤本と呼ばれた。
その後、演劇物や戦記、敵討物を中心的な題材とした草双紙が作られ、表紙が黒色であったことから黒本という。その後、流行した萌黄色の表紙の青本は、より当時の社会風俗を取り込んだ大人向きの絵入り読物となった。その後、鱗形屋孫兵衛の書店から恋川春町『金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)』が刊行されて以降、黄色の表紙の大人向け草双紙である黄表紙が大流行することとなる。
黄表紙は日光による褪色も早いことから、初めから安価な黄色い表紙を付けるなどの工夫が施されている。値段も1冊10文(約200円前後)と安価で、量販向きの書物であった。
『Pen BOOKS 蔦屋重三郎とその時代。』
ペン編集部[編]
CCCメディアハウス[刊]
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